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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。)

ゴータマ・ブッダは世界一の詐欺師なり

bokeyuの回答

  • bokeyu
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回答No.2

人間に化ける詐欺師より余程ましでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ぼけゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ただ 今回のご回答は なかなか判じがたいですね。  ★ 人間に化ける  ☆ というのは 人間が人間に化けたとしてもそれはおかしいですから たとえば神が肉となりキリスト・イエスとなったというその物語のことを言っておられますか?  そうだとして そのキリスト・イエスが――それは まづは物語として成り立っていると言わねばならないと考えていますが――   ★ 詐欺師  ☆ であるというのは どういうことでしょう?     その後の宗教化したその教会や広く文明としての思想や行動が ペテン師であるというご見解でしょうか?  そのおしえとまったく反対のことをおこなっているではないかと。  この議論は ひとまづひかえます。  でも もしこのキリスト・イエスの宗教化した教義などにおけるキリスト・イエス像のほうが ゴータマ・ブッダよりも 《詐欺師》の度合いにおいて ひどすぎる。ということでしたら 次のように受け取ってよろしいでしょうか?  つまりだとすると ひとまづ ゴータマ・ブッダは やはり――それほどひどくはないが それでも――ペテン師だったとお認めになった。こういうご回答であることになりますが それでよろしいでしょうか?

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  • ブディズムの再生はあるか。

     ブディズムの再生はあるか。  ( a ) 《信仰》という一人ひとりの動態においてしかないのではないか?  ( b ) 《神を信じない》つまり《無い神を信じる》つまり一般に《信じないと信じる》という類型の信仰を持つと確認することから 再出発することではないか?  ( c ) なぜなら マハーワイローチャナ(大日如来)やアミターユス(阿弥陀如来)とそれぞれ名づけられた《神とその信仰》が やはり類型的に 上の無神論なる信仰と同等にあり得ていると考えられるから。    *  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|      *  ( e ) 《神》とは何か? また《信じる》とは どういう経験行為か? を問うことにもなるかと思いますが。  ( f ) ブディズムは もし死んだのなら 葬送の儀礼をしておくとよいと考えられますか?

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     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。  この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ    ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ    う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐    れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ    ケ)だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • ブッダは 神ですか

     絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

  • 《われはブッダなり》と宣言する人は

     どのくらいいらっしゃるでしょうか。  人数が知りたいのではなく どのようにその状態を捉えておられるのかをおしえてください。たとえば 実際であるかどうかを措くのですが ブッダは次のように語ったとされています。この境地について そういう内容なら おれは すでに達した / わたしは たしかに すでにこれを経験しているなどなど 感ずるところ・思うところを述べて お聞かせください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために 余は巧妙な手段を語る。 そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく この世に教えを弘めるのだ。 その場合 余は霊妙は力によって みづからの姿を現わし そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。 人々は理性が転倒して愚かであり 余がそこに立っているにもかかわらず 余を見ることはない。 (《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五   〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  また わたし自身は 経験済みだと臆面もなく言うのですが それは 大馬鹿者になるでしょうか。つまりむしろ このように語る人間(ブッダ)がいたと言って伝えながら その人を崇めるとすれば そのほうが 間抜けであることを免れないのではないでしょうか。《人を崇める》のであればです。つまり ブッディスム批判としての質問にもなるのですが いかがお考えになるでしょう。

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?