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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。)

ゴータマ・ブッダは世界一の詐欺師なり

ok9608の回答

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  • ok9608
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回答No.12

No.9です。蛇足です。 妙法蓮華経方便品第二に 悟りについての説明は、 ごく僅かではあるが執着オリジナルティはあるがあとは他のパクリ+堂々巡りであり、ブッダのことば としての価値はかなり低い というbragelonneさんの主張は分かりました。 教義は特に信者にとっては重要なものと思われます。しかしながら 第三者からみると何だこんなもの という場合はしばしば起きると思います。私は妙法蓮華経方便品第二にのめり込むつもりはありませんが 一つの定義になっていると思います。定義は 堂々巡り というのは論理学の始まりとおもいます。この場合オリジナリティがあり教義としては体をなしていると思います。もっと言えば宗教教義のなかに矛盾があったとしても、よくある話ですが、問題ないとおもいます。なにしろ信じればいいわけですから。 bragelonneは 論理矛盾的な一つの問題を指摘されています。執着から離れるという悟りは 積極的に思考行動すれば一つの執着ではないか と。これは 天台宗で扱うブッダはどう答えるのでしょうか。答えはでているはず です。このような問題では答えを出す過程のなかにその宗教の評価があるように思います。天台宗は広く世界の人々に 一隅を照らせ と主張しており、教義と疑問については相当な準備していると思いますが。 以上失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  議論は決して空回りしておらず 今回ひとつの――ひとつのあり得る――結論に到ったかとさえ思います。  それは こうです。一にも二にも――ひとつの解決策もしくは再生法として――  ★ もっと言えば宗教教義のなかに矛盾があったとしても、よくある話ですが、問題ないとおもいます。なにしろ信じればいいわけですから。  ☆ すなわち 《信仰》の問題だと見なす場合であり そういう方策があるというものです。  すでに初めからそのことには 質問者としても触れてまいりました。そしてそのときの条件としては 次のようなことがあると考えます。  ○ (信仰であるための必要条件) ~~~  1. 《人間の達しうる境地》だという場合にも その《さとり》の状態は あくまで経験的にして相対的な内容であること。  2. 言いかえると 過去七仏というような・さとりを完全に得た人びとと そして その途上にある一般の人びとというように そのあいだに乗り越ゆべからざる隔てを置かないこと。  3. つまり 人びとのあいだに 習熟度や達成度として差があると見てもかまいませんが その差異は 決して乗り越えられないものではないこと。つまり あくまで相対的な差であり けっきょくどんぐりの背比べだということ。  4. つまりなぜなら つねに信仰が経験思考に先行すると見るゆえに――それが 信仰説なわけですが―― 目指す《さとり》の完成度には けっきょくこだわらないでよいと考えられること。経験行為でありその状態であるなら それは 信仰に後行しているのだから 完全なる完成ということは考えられない。  5. 言いかえると そのブッダであることの度合いは 誰であっても つねに未完成であるということ。人間は あやまちうる社会的動物である。  6. そしてちなみに その信仰説においては 有る神(ブラフマン=アートマン)であっても 無い神(アン‐アートマン=無我 ないし 空)であっても 構わない。いづれをえらぶということがない。どちらにしても・どういう名称であるにしても 一般に 神=すなわち 非経験の場 を想定しこれを経験思考に先行させている。ことになる。    7. ただし 経験世界における思惟と行動とは もう神の領域から離れるということ。神を持ち出さないこと。(持ち出すのは あくまでおのれの主観の内においてであり それをわづかに信仰の説明のために表現してみるというところまで)。  8. そして神を少なくともその自分たちの組織内においては持ち出すというのは 宗教の場合である。信仰から離れなければ 宗教に入ることは出来ない。つまり 宗教者は 阿呆である。  ~~~~~~~~~  さて この大前提を共有できれば もう話は早いと言いますか ほとんど済んだとさえ考えられます。  実務整理といったようなことが 残るかも知れません。  ★ ・・・妙法蓮華経方便品第二〔に記されたくだりは〕 一つの定義になっていると思います。定義は 堂々巡り というのは論理学の始まりとおもいます。この場合オリジナリティがあり教義としては体をなしていると思います。  ☆ これでよいとしますと 問題は 今度は むしろブディストの側から反論が来るということではないでしょうか?  ○ 《さとり》は あくまで人間の能力と努力によって達成しうる実際の境地であって ゴータマ・ブッダはこれを実現しえた。がしかし ほかの凡人には ほとんど無理な話なのである。  ○ また このさとりの境地は ブッダとなった人間どうしのあいだでしか 理解できない。凡人たちは ただただ ブッダたちの言うことをよく聞いて そのオシエと振る舞いを見倣いなさい。  こういう反論が来る場合です。要するに ゴータマ・ブッダは・かれだけは 特殊なのである。特別なのである。じんるいの歴史上 じつはブッダとしてただひとりなのである。という主義主張からの反論です。  この問題は こう指摘するだけに ここでは(オーケーさんのご回答へのお応えとしては)とどめます。  実際に反論の回答が寄せられたときにまた 考えてまいります。  ★ 天台宗は広く世界の人々に 一隅を照らせ と主張しており、教義と疑問については相当な準備していると思いますが。  ☆ この主題ですが じつはわたしもその思潮に流されていたことに 最近の質疑応答の過程で気づきました。  すなわち 涅槃経の中の《自灯明 法灯明》という主題です。  《一隅を照らせ》というのが 《自灯明》としてのゴータマ・ブッダによる指針を解釈したものですね。  つまり この《自灯明》が 相当のオシエのひとつだと思っていたのですが そうではないとおしえられました。  ゴータマ・ブッダが死んだら どのように生きたらよいか。何を根拠に考え行動すればよいか。という弟子の質問に対して 《自分で考えよ。そのためには すでに説いて来たオシエがある。つまりそれは 法灯明である》と答えただけなのだと。  これは   【Q:やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7552652.html  でのやり取りでおそわりました。  つまり 《自灯明》の《自》とは何かすでにさとりを得た《わたし》のことかと――あるいは そのようにブッダとなりうる《わたし》のことかと――受け取っていたところ そうではなく いま・ここなる存在としての《わたし》でよいという解釈です。つまり いちいち右往左往することなく 自分のあたまで考えよと言っているに過ぎないのだと。  すなわち もし最澄のこの《一隅を照らすべきおのおの――仏性をやどした――〈わたし〉》という説に立つとすれば それは《ひとりみづから満ち足りていて 変わりゆくことのない独立存在》としてのアートマンを認めることになる。無我ないし非我の説(アン‐アートマン)に立つからには ゴータマ・ブディズムにおいては 不本意であり オシエの筋が違うということなのでしょう。  《自灯明》の《自》に 根本的に・それをアートマンと見立てたようにして たよることは出来ないし してはならない。オシエに反すると。  つまりこのことも 《信仰》説は採らないというひとつの宗派なのでしょう。神のごときアートマンを認めるなら 人間の達成しうる境地では《さとり》がなくなってしまう。神との関係においてのみ――そして 誰でも神 ゆるし かつ あたえたまうならば――実現しうる境地だということでは 都合がわるいようなのです。この流派にとっては。  このように 《非経験の場〔として想定する 神 もしくは 無い神)》 そしてこれをわが心に受け容れるとき成る《非思考の庭》 つまりこういった説明で経験科学としても捉え得ると考えるところの《信仰》 この補助線を引くなら 再生は出来るものと質問者は考えます。  それ以外に 再生の方法はないと考えます。  それに似た方法があったら それは ペテン師のやり方だと考えます。  でもそれでよいし それこそが ゴータマ・ブッダの説いたオシエだと言い張る向きは まだまだ少なくないように見受けられます。  これは 哲学の問題であり 日本再生いかんの問題だと思っております。

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  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?