• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「敵がいる!」←火縄銃ですぐ撃つ?)

敵がいる!? 戦中の火縄銃での戦い方を調査

k16399638の回答

  • k16399638
  • ベストアンサー率33% (342/1035)
回答No.11

9番です。連打失敬。 火縄銃には非常に大きな欠点があります。火縄の火口を維持していると、その焦げる匂いで自軍の位置が露呈することです。 当時は木綿か竹の筋で火縄を作っていました。竹は濡れると乾きにくいのですが、安いという利点があり広く使われていました。木綿常備は雑賀衆のような鉄砲に特化した一部の集団です。 行軍中に火口を維持して、遭遇した敵に咄嗟発砲も考えにくいことです。書いたように火口を維持して行軍することは鉄砲がくることを知らしめて移動しているようなものであり、自軍に対抗手段がない場合、鉄砲の届かない位置に移動するのが普通です。当時は塹壕という概念と、伏せるという概念もないからです。 あと、咄嗟射撃ができない理由があります。火縄銃は火縄の火口を火皿の火薬に接触させ、火皿の火薬が導火し内部の発射薬に点火、発砲となりますが、撃つためには火皿を覆っている火蓋を開けなければなりません。つまり、敵発見、火蓋をあける、照準、トリガー・プル、発射となるわけですが、咄嗟にこれだけやってかつ効果のある射撃、つまり効力射にできるのは、もう雑賀衆しかいないとおもいます。 火縄銃は装填した状態が非常に不安定です。まず、初心者が弾を込めた場合、銃身から転がりこと多々ありです。また、火皿に火薬を盛るのにもコツが必要で、その火皿の火薬が落ちたら発砲できません。それを防ぐための火蓋ですが、落ちそうな火皿の火薬を押さえつけているので、開けるとき、グリッ、という感じです。なので、 火蓋を切れ という指揮官の命令で、普通は大勢でつかうこと奨励の兵器なのです。で、「火蓋を切った」ら、決着つくまで引っ込みがつかないのが、当時の火縄銃つかった戦です。引っ込んだら騎馬か槍を持った敵兵がつっこんでくるからです。 このサイトもわかりやすいです。個人の速射も咄嗟射撃も、できなくはないが、やらない方がいいんです。 http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi01.htm 戦国末期の日本の戦は、参加兵士の鉄砲所持率が異常に高い、世界史のなかでも特殊な状況です。そうなると、どこかでだれかが常に発砲している状況になります。 どれほど日本人が鉄砲になれていたかというと、秀吉の朝鮮出兵で中国(明国)側が鉄砲で大損害を出し、それを教訓に鉄砲を日本から輸入し日本式の訓練をしたほどです(早合の使用など)。 中国の昔話に「日本製の鉄砲をもった若者」という言い回しがこのころから使われ始めます。ちょっと金持ちで新しいもの(流行)にのった若者の代名詞です。 以下脱線 ガッチリ隊列くんで撃つ、とやったのはナポレオン・ボナパルトのころからで、特に兵士が少ないけど工業が発達した英国の陸軍が得意でした。様々な隊列を組むことが訓練の中心で、何歩移動、ということが盛んに言われるようになります。フランス軍は基本的に集中させた砲兵で敵を撃ち(ナポレオンは砲兵出身です)、密集隊形の歩兵が大集団で歩いて敵に向かい、敵がひるんだら騎兵がつっこむ、というのが定番でした。密集隊形の歩兵は寄せ集めの徴兵が中心ですが、陣形の左右を古参兵で固めます。パニックおこしてにげるやつは、古参兵がサーベルで「処理」してかまわない世界でした。太鼓とかたたいて進軍するのは、歩調をあわせるためです。あわせないと隊列がくずれて危険です。 そのようなフランス軍にたいして英国の鉄砲が一番ものをいったのが、1815年6月18日の午後、ワーテルローでのことでした。朝から戦ってどっちもグダグダの18時ごろ、英国側中央の一部がくずれたので、ナポレオンは最精鋭の老親衛隊をその中央に投入します。が、密集隊形で中央へ歩くナポレオン最強の部隊は、周囲の英国近衛師団から一方的に撃たれて崩壊しました。 バッキンガム宮殿の英国近衛兵は黒くて背の高い熊の毛でできた帽子かぶっていますが、その起こりはこのとき撃ちたおした老親衛隊から記念に分捕ってかぶったことからです。このときの鉄砲は火打ち石で火花を飛ばして発砲する方式で、フリント・ロック式といいます。ジッポとか100円ライター思い浮かべていただければいいと思います。 兵士の死傷率が一番高かったのが、このナポレオン時代から南北戦争までで、損耗率は30%を軽くこえていました。塹壕が一般的になるのが南北戦争末期です。南北戦争のときには雷管を使っています。キャップ・アンド・ボール方式といいます。この時代でようやく発射が安定しますが、それつまり弾丸の発射も安定することなので、戦死者は増えるばかりでした。 鎖国していた日本人はこの密集隊形で敵に向かう、を経験しないで、いきなり幕末に新型の銃で戦争をすることになります。しかし、独自に鉄砲兵学を発展させ、また太平とはいえ武士という戦専門職がいたので、西南戦争などでは欧米軍よりはるかにまともに、損害をだしたら移動、そして機動・包囲と行っています。どれほど鉄砲を撃ったかというと、田原坂だけで40万発撃っています。 かち合い玉、という、空中で弾同志がぶつかって固まったものが、今でも出土するといいます。 火縄銃は昭和のはじめまでマタギの人が使っていて、職人もいました。美術品、骨董品として所持する場合、今日では警察の許可が必要です。蔵からでた、なんてときは所管にとどけないと叱られます。 大脱線 味方が渋滞して進軍できないのは非常によろしくないです。先頭だけ戦っていて、後ろが遊兵になることを意味し、それは戦力が前から減っていくことだからです。 ナチス・ドイツの軍隊の最後の大攻勢、ラインの護り作戦、つまり西部戦線でのバルジ大作戦、のとき、攻勢に出たドイツ軍が渋滞ですすまなくなるという事態に陥りました。悪天候のうちに前進することが最大の目的だったのですが、肝心の道路が積雪と計画の不手際で押し合いへし合いに。 戦車と突撃法、ハーフ・トラックがゴールデン・ウィークのように渋滞している笑えない写真があります。その中には、指揮トラックのボンネットに立って背伸びし前をみている将官がいます。 結果をしっている我々にとって、彼の姿は考えさせられるものがあります。

iwan2no
質問者

お礼

こちらこそたびたび恐縮です、 資料を手に出来ない分、サイトのご紹介までありがたいです。 ますます個人プレーは難しいというか、やるべきではなく、まずほぼ起こりえないという結論に落ち着きそうです。 こちらも脱線なうえに個人的な気持ちですが、 >戦国末期の日本の戦は、参加兵士の鉄砲所持率が異常に高い、世界史のなかでも特殊な状況です。そうなると、どこかでだれかが常に発砲している状況になります。 と仰られているように戦国末期あたりだとあんな戦い方やこんな戦い方をした武士や隊がいたんじゃないかとつい夢みてしまうのですよね; しかし回答者様や他の回答者様から火縄銃の工夫、これまでの戦中のケースや軍事知識などを伺えば伺うほど、夢みていたもの以上に面白く想像できました。(主旨が違う話ですが戦争自体は忌むべきものと考えております、当事の人ってこんな風に工夫したり行動してたんだろうなあ、と考えると面白いという意味です)先人の残した資料は大事ですね・・・ 脱線などと、興味深いお話を伺えて大変感謝です。 味方が渋滞して…というのは幕府側の大名達の軍だったのですが、やはり徳川方の、数も勝負も豊臣方に勝れど情けない戦いぶりだったというエピソードの一つだったことからもよろしくない事態だったと伺い知れます。ドイツさんもやってしまわれたのですね; たびたびのご回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 火縄銃の早合について

    戦国時代の火縄銃で速い装填速度を実現させる為に考案されたという早合に関しての質問です。 同様の物が西洋でも使用されていますが、これに関しては日本の方がが出現が早いという認識を持っています。16世紀末に立花宗茂の隊によって世界で初めて使用されたという認識を持っていますが、これであっているのでしょうか?

  • 戦国時代の火縄銃の威力についての質問

    戦国時代に火縄銃が復旧してから合戦のあり方が革新 されたと聞きますが、実際に火縄銃の威力はどれほどのものだったのでしょうか?鉄の鎧を着た武者に対して 当時の丸い弾でしかも連発が出来ない銃で革新的効果があったと言うのが疑問に思いましたので、どなたかご存知の方がいたら教えてください。

  • 火縄銃が国内の戦で最初に使用されたのはいつ、何の戦いだったのでしょうか

    火縄銃が国内の戦で最初に使用されたのはいつ、何の戦いだったのでしょうか。 また、国産品だったのでしょうか。 火薬はどのようにして調達したのでしょうか。 技術史系のある本では、 「薩摩の島津、豊前の大友、安芸の毛利氏など西国の戦国大名が守護大名を打倒した合戦で初めて鉄砲が使われた。天文年間の終わりごろだろう」と書いてあります。 Netではいろんな情報が飛び交って、どれが正しいのか判断できませんでした。 正確なところは不明のような気がするのですが、詳しい方、教えてください。 よろしくお願いします。

  • 戦国時代の戦について教えてください

    鉄砲が伝来した以降の野戦(戦国時代)についておしえてください。どのように戦が行われるのでしょうか?まず始めに鉄砲の打ち合い(足軽?)がはじまって、その次にどうなるのでしょうか? しかし鉄砲が使われるようになったのなら、鉄砲だけで戦をすればよく、刀や槍や騎馬戦などは行われる必要がないのでわないでしょうか?

  • 戦国時代の武士は欠けたり凹んだりした刀(太刀)をどのように手入れしていたのか。

    戦国時代は、戦が多く刀(太刀)を使うことも多かったと思います。 そこで、戦国時代の武士は欠けたり凹んだりした刀をどのように手入れしていたのでしょうか? 研いでしまえば、刃がすり減ってしまってだんだん使えなくなってしまうだろうし、1回の戦で相手の武士に刀をぶつける回数は数えきれるものではないと思うので必ず痛むと思います。 そこでどのように欠けたり凹んだりいた刀を手入れしていたのかを教えていただきたいです。よろしくお願いします。

  • 戦国の百兵戦闘について

    鈴木正哉さんの書いた「鉄砲隊と騎馬部隊」という本をよく読みました さんの論旨を見れば、戦国時代の死傷者というのはほどんど(60~80%ほど)鉄砲あるいは弓矢より出た、と思いそうです その根拠として「軍忠状」をあげています。なるほど、当時の死傷者の調子とは、鉄砲と弓矢と代表された「遠射」による被害がもっとも多いそうです。さんはこれを統計として見せます でも、1984年、「武器の進化(The Evolution of the weapons and warefare)」という本を書いたTrevor Duppyさんによると、各々の武器でできた「致命傷指数」の程度は下にあります 刀あるいは槍ー23% 火縄銃(arquebus)ー10%(日本のことにもっと近かったです) 火縄銃(musket)ー19% もちろん、この資料は西洋の場合でしょう。でも、常識的に思うとも、乱射のうちに一つ、二つの弾丸と矢のすれる場合(遠射戦)がある一人の敵兵を狙って攻撃する場合(百兵戦)に比べれば、どちらの戦闘方式がもっと威力的なのかは明らかに触れてあります。 即ち、鈴木さんはその統計を根拠によって、「戦国には鉄砲と弓矢が戦いの主軸だった」と論じていますが、「質実的な戦闘力被害」の方だけ見ると、むしろ確かな殺傷のできた「百兵戦も大切な戦力だった」と取り上げることも可能ではありませんか

  • 先日見た、薄桜鬼というアニメで、

    先日見た、薄桜鬼というアニメで、 敵軍が銃や大砲で攻めて来たために主人公側が大敗したのですが、 その際、主人公側の人間が「もう刀や槍では勝てない」という ようなことを言っていました。 幕末(新撰組)の話なのですが、いくら何でもそんなことは 戦国時代の末期には証明されていましたし、何より刀が 飛び道具に勝てないのは子供でも判る話で、かなり違和感のある セリフに感じました。 これは、剣に命をかけた人間の無念さを表現したかったのか、 それとももっと別の意図があったのでしょうか?

  • 幕末の剣術

    幕末には様々な剣術や剣客が登場しますよね。 しかし、実戦では刀はあまり役に立たず、槍や薙刀のほうが強いと聞きます。 事実、戦国時代では刀よりも槍や弓が多用されましたよね。 戦国時代と幕末では戦い方も文化も全然違うでしょうが、刀というのはどんな時代であっても基本的に戦いにくく(しかも初心者には扱いにくい)、槍のほうが使いやすいし殺傷力も高いと思うのです。 なぜこんなに不便な剣術が幕末で流行したのでしょうか?

  • 一番弓、一番鉄砲?

    戦国時代で武士の恩賞に一番槍、2番槍とファーストアタックが対象になりましたね。しかし、武士は弓馬の道と言われるように弓が武士の本分でもありました。平安の矢戦では征矢で誰が誰を射たとわかり、それ以外の矢は流れ矢カウントになったのでしたね。 しかし、集団戦闘が基本になり弓も面制圧になり、火縄銃の保有が世界一までになったとき、恩賞はどうやって決めたのでしょう。 足軽が銃で武将を撃ち殺しても、射手がわかりません。

  • 認知症の武士

    戦国時代や江戸時代、90歳位の武士で認知症になっていたら、刀や槍を振り回して危険でした。どういう対応をしてましたか?