• ベストアンサー

一番弓、一番鉄砲?

戦国時代で武士の恩賞に一番槍、2番槍とファーストアタックが対象になりましたね。しかし、武士は弓馬の道と言われるように弓が武士の本分でもありました。平安の矢戦では征矢で誰が誰を射たとわかり、それ以外の矢は流れ矢カウントになったのでしたね。 しかし、集団戦闘が基本になり弓も面制圧になり、火縄銃の保有が世界一までになったとき、恩賞はどうやって決めたのでしょう。 足軽が銃で武将を撃ち殺しても、射手がわかりません。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.1

一番槍の例から。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E7%95%AA%E6%A7%8D 現代の人間からすれば、 出世をエサに敵陣へ突っ込ませてるだけ。 となりますが、 先陣を努める武将は武勇も実力も兼ね備えた本物の武将でしょう。 主君の信望が厚い証拠でもあります。 信長公記(一級文献)でさえ、今川義元討死の事では、 (一番槍の)服部子平太は、義元に掛かり合い、 膝の口を切られ、伏す。 毛利新介、義元を伐り臥(ふ)せ、頸を取る。 とあり、頸を取ったぐらいの働きであったようです。 また、歴史に名を残します。 義元は足利一門でも将軍になれる名家の家柄でしたので、 義元が今後天下を取る(または取れば乱世が収まる)人だと考える大名も多く、 今後を左右する重大な事件でもありました。 飛び道具での恩賞は難しいのではないでしょうか? 但し、現在でも射撃成績の優秀な物は抜擢されます。 少なくとも、 手柄を立てて出世する。 のは、 豊臣秀吉(信長)が天下を統一する頃には 死語に近かったような感じを受けます。

その他の回答 (2)

回答No.3

 恩賞確認作業は、概ね「討死・分捕」を基本としているようです。  前線での負傷は、感状だけで恩賞はなしです。 「討死」は敵を殺害すること・「分捕」は戦闘員捕虜を得ることです。 ちなみに一番槍は恩賞ではなく感状です。 恩賞という考えは、御恩と奉公からすれば、荘園領地の取引で考えるべきで、感状貰っても荘園は増えませんから、恩賞というのはどうかと思います。  ファーストアタックは名誉であって恩賞の評価としてはあまり高くないようです。     様々な文献で、遠距離攻撃に対する報償は確認できません。  その最大の理由は、恩賞請求時に、武功を確認する人がいないからです。確認も困難ですし、部隊として一人だけ恩賞を与えることは、集団戦闘の視点としては不公平です。  (囮役部隊にも恩賞が必要であるという発想もあります) 集団戦闘が多き近代戦でも昇進は武功をあげた一人ではなく、後方担当者にもあることからも理解できると思います。  元寇で有名な竹崎季長の活躍を記した「蒙古襲来絵詞」の記述で鎌倉武士の恩賞システムが分かります。  詳しくは吉川弘文館の日本の中世「モンゴル襲来と幕府」を参考にしてください。  ただ、推測に過ぎませんが、 遠距離部隊も、部隊単位での感状が与えられたとは思います。  感状は感謝状で、名誉ですが、弓矢・鉄砲は百姓稼業ですから、その感状を士族に売っていたように思います。  百姓は名誉よりも現物ですから。逆に名ある武将は名誉も尊重されます。  感状の数が異様に多い戦国武将で金に物を言わせて、感状を買い取ったという話もありますので、可能性は皆無ではないと思います。  戦国時代で危険を犯して首級を取ったのは、恩賞の目的というよりも、武功相互保証人が死んだ時の保障であり、時には首級を売買する目的だったと思っています。  首級の取引なんか日記に書けないのは当然でしょう。    金で武功を買った、というのは笑えない話ですが・・・・・ ちなみに、不運な武将の愚痴で、戦功保証人が12回連続して戦死・寝返りした事例があるようです。(小田氏の家臣ですが)

shizumo
質問者

お礼

恩賞ではなく感状 これは知りませんでした。 また、感状を買い取ったという話も知りませんでした。 部隊単位で感状がもらえたであろう。ということですね。 ありがとうございます

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.2

あくまで例ですが、 服部小平太のその後。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%B8%80%E5%BF%A0 毛利新介のその後。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%89%AF%E5%8B%9D

shizumo
質問者

お礼

ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 弓と矢

    いつもお世話になっています。 1・刀や槍は名刀や名槍となって名前のついているものもありますが、弓についてはどうなのでしょうか?例えば弓の名手が使っていたものとかに名前がついてはいなかったのでしょうか? 2・矢の種類で鏑矢というものがありますが、戦国期になっても使われていたのでしょうか?放つと音が鳴るとも言われていますが何のために?またあの独特の形はどうしてそうなったのでしょうか?

  • 江戸時代、藩、必要武士数

    馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています 侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています 慶安2年の軍役規定によれば、1万石の大名は馬上(侍)10騎・徒歩侍16名・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等が209名の計235名とされています侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています というのを見たのですが、武士以外の人も合わせて1万石ごとに兵が200人以上いればいいってことですか?

  • 鉄砲と騎馬は相性が悪い?

    このカテゴリのいくつかの質問を拝見させていただきましたが 馬は臆病な動物で、すぐそばで発砲音など大きな音を立てると驚いて混乱して収拾がつかなくなるから鉄砲は無理だという意見を多数見たのですが 戦場ではほら貝や鏑矢など戦闘開始の合図の音、大砲(大筒)や足軽の鉄砲の発砲音などさまざまな爆音などが鳴り響きますけど それでも驚かないで、馬の耳元の火縄銃の音には驚くのですか?

  • 戦国時代の部隊編成

    現在海外にて居住しております。 先日ちょっとした話題より友人(異国人)と戦国武将の部隊編成の話へと発展しました。 自分でも持っている本などをあさって調べてみましたが、はっきりとした回答を探す事が出来ませんでした。 海外の方に回答するのでなるべく正式な回答を求めております。 ちなみに1万石で騎馬武者が≒22~23騎、戦闘員総人数≒380人、非戦闘員人数≒120人程度と記載されていました。 騎馬隊、槍隊、槍もち、弓鉄砲足軽、歩行侍、中間小者、持小旗、組頭等、複雑すぎて理解し辛いので戦闘員、非戦闘員ともに簡単に説明していただけると大変助かります。 鉄砲隊の編成拡大により基準がずれてしまうと思いますが、どちらの編成でも結構です。 皆様、宜しくお願い申し上げます。

  • 薙刀と槍では相当違うのでしょうか

     平安時代は薙刀が主体で、中世に槍が出現すると薙刀はほとんど使われなくなったっと言われます、 確かに、平清盛を見ていると、槍はありません。一方で戦国時代のシーンだと薙刀は、女性が訓練するのに使われているぐらいで、戦闘には全然使われません。  槍は刺すのが主体、集団戦法に良いので戦国時代は主力になったと言われますが、日本号も槍で、集団戦法もとらない勇士の武士も、槍を使って薙刀は使わない気がします。赤穂浪士の討ち入りでは、槍を持って行く人間はいますが、薙刀を持っていく義士はいません。  個人で戦う場合でも、やっぱり槍のほうが薙刀より実戦的なものでしょうか?  

  • 戦国の百兵戦闘について

    鈴木正哉さんの書いた「鉄砲隊と騎馬部隊」という本をよく読みました さんの論旨を見れば、戦国時代の死傷者というのはほどんど(60~80%ほど)鉄砲あるいは弓矢より出た、と思いそうです その根拠として「軍忠状」をあげています。なるほど、当時の死傷者の調子とは、鉄砲と弓矢と代表された「遠射」による被害がもっとも多いそうです。さんはこれを統計として見せます でも、1984年、「武器の進化(The Evolution of the weapons and warefare)」という本を書いたTrevor Duppyさんによると、各々の武器でできた「致命傷指数」の程度は下にあります 刀あるいは槍ー23% 火縄銃(arquebus)ー10%(日本のことにもっと近かったです) 火縄銃(musket)ー19% もちろん、この資料は西洋の場合でしょう。でも、常識的に思うとも、乱射のうちに一つ、二つの弾丸と矢のすれる場合(遠射戦)がある一人の敵兵を狙って攻撃する場合(百兵戦)に比べれば、どちらの戦闘方式がもっと威力的なのかは明らかに触れてあります。 即ち、鈴木さんはその統計を根拠によって、「戦国には鉄砲と弓矢が戦いの主軸だった」と論じていますが、「質実的な戦闘力被害」の方だけ見ると、むしろ確かな殺傷のできた「百兵戦も大切な戦力だった」と取り上げることも可能ではありませんか

  • 足軽について

    応仁の乱のことを調べていて、「足軽」のことが気になりました。それで、とりあえずWIKで検索してみたのですが、いくつか疑問点があります。ご回答は全部でなくても構いません。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD (平安・鎌倉・室町時代) 1 「伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め」とあるのですが、この変化の要因は何でしょうか??? 2 「また、足軽を雇ったのは大名といった武家に限らず、東寺など寺社勢力も自衛のために足軽を雇った。」とあるのですが、普段、雇われていないときは、どんな身分で何をしていたのでしょうか??? (戦国時代) 3 「戦国時代を迎え集団戦が本格化・大規模化していくと、」とあるのですが、この要因として「鉄砲の伝来」が影響していると考えてよいでしょうか???影響しているとしても、どのように影響したのか分かりません。他の要因は何でしょうか???農業生産高なんかも関係するのでしょうか??? 4 「兵卒の身分は依然として武士と農民の間に位置して低かったが、」とあるのですが、戦国時代には、殿様の録をはみ、殿様専属の戦闘員として戦に参加した「武士としての足軽」と、普段は農業を営み、副業として戦に参加した「農民としての足軽」の2種類の足軽がいたと理解してよいのでしょうか??? 5 「戦国期の足軽は非常に重装備であり、大型の手盾をもたないことを除けば重装歩兵とも比較できる装備を整えていた」とあるのですが、戦では、足軽といっても、お金がかかる時代になったということでしょうか???足軽が戦に出るにあたって、どれくらいの自己資金が必要だったのでしょうか??? 6 「足軽は正式に登録された下級武士であり、雑兵は戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵のことである。」とあるのですが、戦のない時の雑兵というのは、どんな身分で、どんな生活をしていたのでしょうか??? 7 「戦国期における足軽による分捕り行為については、海外の資料にも残り、ルイス・フロイスの『日本覚書』1585年6月に「我らにおいては、土地や都市や村落、およびその富を奪う為に戦いが行われる。日本での戦はほとんどいつも小麦や米や大麦を奪う為のものである」と記述され、西洋との行動の違いについて比較している。」とあるのですが、「西洋との行動の違い」ってなんでしょうか???

  • 昔は位の高い人ほど「お歯黒」?

    戦国時代以前、位の高かった人は 「お歯黒」だったのでしょうか? ●大河ドラマ「平清盛」で藤原家の公卿方は、 歯を黒くしていました。平安時代、位の高い公卿方は 「お歯黒」だったのでしょうか? ●戦国時代、敵の首を取った際、位の高い武士ほど 「お歯黒」なので、恩賞をもらうため、敵の首の歯を 黒く塗り、位の高い武士の首を上げた様に見せかける、 という事があったと、テレビで見た事を覚えています。 戦国時代、位の高い武士ほど「お歯黒」だったのでしょうか? 「お歯黒」が位の高い印だとした場合、 なぜ歯が黒くなってしまうのでしょうか? 以上、宜しくお願い申し上げます。

  • 古代の戦闘について

    戦国時代では槍、鉄砲、弓が主武器でしたが、鎌倉時代や平安時代はどういう戦い方をしていたのでしょうか? 元が侵攻してきた時、日本側は名乗りをあげて一騎打ちを挑んだりしたため一方的に損害を出したなどと言われてますが。

  • 今の時代において、軍師っているんですか?

    三国志なんかが有名ですが 戦争の時には、軍師が作戦を考え それで有名な人っているじゃないですか? 今も槍だの弓だのという武器は使いませんが 銃や戦闘機なんかでは戦争する訳ですから 昔みたいに、軍師というか 素晴らしい作戦や戦法で有名な人っているんですか?