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江戸時代、藩、必要武士数

馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています 侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています 慶安2年の軍役規定によれば、1万石の大名は馬上(侍)10騎・徒歩侍16名・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等が209名の計235名とされています侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています というのを見たのですが、武士以外の人も合わせて1万石ごとに兵が200人以上いればいいってことですか?

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  • jkpawapuro
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回答No.2

コピペがたくさんダブってますが・・・ えーとこれは江戸幕府が軍事動員をかけたときに各藩に命じる軍役ですので、もし戦争を命じられた場合これだけの兵を派遣しないといけないという意味です。 ですのでこれは派遣しなくてはいけない遠征兵力であり、常にこれだけの兵力を出すためには当然病人等出兵に耐えない者は除外しないといけないですし、留守を守る兵力も必要ですので、藩に属する兵士はもっと必要です。 あとこれは幕府に命じられている兵力ですが、現実には騎馬武者が10騎居れば各自に下男・小者・家人などと呼ばれる従者がつきますのでもう少し人数が増えます。 余談ですがこれが10万石になると備(そなえ)という一つの部隊を構成できるようになり、戦場で独立した部隊となります。それ以下の大名は複数の家をまとめ一つの部隊を構成することになりますので、他の大名の指揮下に入ることになります。

その他の回答 (1)

  • ithi
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回答No.1

sokoo0823さん、こんばんは。 一万石ということは大名ですから、江戸表と領地の二つの拠点を持たないといけません。当然人員もその通りかかってきます。この点は8000石くらいの旗本なら、領地にいる人をできるだけ減らすことで裕福に暮らせるけど、大名になると参勤交代をしなければならないため、必要人員がかかります。 ちなみに 2万石で馬上(侍)20騎・徒歩侍・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等の計415名 3万石で馬上(侍)35騎・徒歩侍・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等の計601名 4万石で馬上(侍)45騎・徒歩侍・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等の計770名 5万石で馬上(侍)70騎・徒歩侍・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等の計1005名 ですが、やはり3万石くらいになると、群役既定の人員を財政的に抱えてはいられないようです。

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