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戦国時代の戦について教えてください

鉄砲が伝来した以降の野戦(戦国時代)についておしえてください。どのように戦が行われるのでしょうか?まず始めに鉄砲の打ち合い(足軽?)がはじまって、その次にどうなるのでしょうか? しかし鉄砲が使われるようになったのなら、鉄砲だけで戦をすればよく、刀や槍や騎馬戦などは行われる必要がないのでわないでしょうか?

  • 歴史
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回答No.9

長篠の場合も「武田軍が波状型の正面攻撃を嵐で無い日に無意味に繰り返した」から、勝てたのであり。 疑問に思われている様にその後信長自身や彼の部下である秀吉等の武将・家康も同じ事をしたと言う記録は、 ほとんど在りません。(文禄・慶長の役・大阪夏の陣の一部を除く) なぜなら武田軍のような戦国前期の集団戦法は、長篠で決定的に否定されましたが、 逆に同じ方法でわざわざ負ける事をする武将も居無くなりました。 長篠の信長の鉄砲布陣を破ろうと思えば、正面突撃は避け、 馬防柵の左右から密集突撃をかければ簡単に撃破可能です。 つまり、長篠を戦った武将は、馬防柵・空堀等の防御陣地を設けた鉄砲隊相手に正面突撃するのは厳禁である事を学習し、以降はそんな突撃をする者も居無くなったのです。 例えば関ヶ原のような遭遇戦では、事前に充分な防御陣地を築けませんし、 戦術状況、気象状況等は刻々と変化します。 多くの方が解答してられますが、刻々と変化する状況に対応出来る程、当時の銃器は未発達で在ったのです。 つまり当時の銃はある状況下では強力に作用しますが、移動を前提にした野外戦では簡単に懐に入り込まれ、殺されるのを待つばかりの兵器にしか過ぎなかった為、刀槍が主力と成るわけです。 大砲も同様で使用された記録は在りますが、戦争を左右する威力は在りませんでした。 鉄砲等の価格ですが、硝石は国産化に至っておらず輸入に頼っていた為、相場はかなり不安定でした。 鉄砲本体は戦国前期はかなり高価でしたが、織豊期末になると20分の一程度に下落しました。 足軽の場合、薩摩・長宗我部・武田のような半農兵士と、織田に代表される常備兵では全く異なります。 一日幾らで雇用されるので無く、最低限の食料等を給与され、後は働き方次第である場合も多く、 江戸時代の給米制度とは全く異なります。 鉄砲にこだわっておられるようですが、「一番鎗」や「兜首」等、当時の戦場での慣習や戦の作法、軍務評定のパターン等を読書される事をお勧めします。

その他の回答 (10)

  • SCNK
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回答No.11

今の戦争でも同じことですが、火力戦だけで戦闘は終わりません。遠戦兵種の援護のもと近戦兵種の部隊が敵陣を占領するものなのです。 つまり戦国時代であっても同じことで、火力戦のあと、敵陣を占領するためには部隊が敵陣に突撃するわけです。そのとき火器というのは長い槍のようなものですから、近距離の敵に対しては、命中しないかぎり効き目はなく、白兵に頼ることになります。もちろん同士打ちの問題もありますし、当時の火器では発射速度の問題もあり火力だけでは頼りなかったのでしょう。 欧州では銃剣が誕生しましたが、日本では槍兵と銃兵は、幕末まで別でした。銃剣というのは同じ兵員の部隊で全員が両方の兵器を使用できる。言いかえれば火力を増強する手段であったわけです。

  • rczd
  • ベストアンサー率29% (33/113)
回答No.10

ちょっと視点を変えて、鉄砲の具体的な用例を…。 「信長公記」首巻「村木の取出攻めらられしの事」より(新人物往来社版) 「信長堀端に御座候て、鉄炮にて、狭間三ツ御請取りの由仰せられ、鉄炮取りかへ取りかへ放させられ、上総介殿御下知なさるる間、我も我もと攻め上り、塀に取り付き、つき崩しつき崩し…」 今川義元、斉藤道三存命の頃の信長の活躍の場面です。今川方に占拠された村木砦を攻めるにあたり、一番の難所を受け持った信長は、配下に攻めさせる一方で、これらを援護するため、自ら鉄砲をとっかえひっかえ撃ちまくっています。 鉄砲を撃つにも慣れ、熟練が必要と思われますので、打った人が後ろに回り込み玉込めをするより、撃ち手は1人で補助役が玉込めをする方が理に叶っていると思います。

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.8

長篠合戦での三段連射というのは多数の鉄砲を集めた事は事実ですが号令一下一斉射撃したようなものではなく、個別に射撃、後方に下がって準備するという作業の繰り返しで連続射撃を可能にしたのです。 陣の前方には連子川という障害物と木柵があり武田勢の接近を妨げ余裕を持って射撃し、損害を与えました。 武田の突撃隊が大部分倒れた後に全軍が突撃して追撃戦で止めを刺したのです。 他の部将でも籠城戦での防御側は同様の戦法で戦ったのは大阪城での真田幸村が真田丸の防御戦で前田勢をうち破った例があります。 戦死者の武器、鎧などは回収したと思いますが夜間などに戦場稼ぎという夜盗が出没し奪い取ったといいます。 その他は不明です。

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.7

鉄砲>槍>白兵戦。 他の用途は側背からの射撃。くらいですかね。 鉄砲戦術は雑賀集や伊賀集のような鉄砲傭兵隊になればつかえたんですが、何分、火薬のコストがかかったので特定の地域しか鉄砲部隊は作れなかったらしいです。 秀吉天下の頃には、秘密裏に自前で硝石量産に成功していた地域があります。しかし、量産といっても小隊くらいの生産で、大局を動かすほどの生産には程遠く、輸入の方が安くて質が良かったらしいです。 あと関ヶ原から大阪の陣にかけて、和紙を利用した薬莢が開発されていますが、湿気に弱かったのと、乱世終結の為、開発は禁制になったそうです。 和紙の薬莢は確かに連射スピードはアップしましたが…手作りなので数が少なすぎたのと、不良品が多く、弾切れの後は従来の方法に戻さないとならないという、兵士にとっては面倒だったようですね。

tetuya778
質問者

お礼

皆様回答ありがとうございます。 鉄砲は前哨戦用とかかれていましたが、信長の長篠の戦のように、一人目が撃ったら二人目がでてきて撃ちさらに二人目が終わったら三人目が出てきて撃つ三段構えの鉄砲のつかわれかたは信長以外の武将達も使ったのでしょうか? もし使ったとすれば、槍や刀などの白兵戦にはならなかったのではないでしょうか? また、その当時の鉄砲、弾、火薬の価値を個別にお教えください当時の足軽の月給?なども参考に教えてください。 戦場で、死んだ敵や味方の、武器や、防具はどうしたのでしょうか?みんな拾ってもって帰ったのですか?

回答No.6

当時の火縄銃は黒色火薬で前込め式、弾丸も丸型、薬莢やトグルも考案されていませんでした。 結果的に火器の精度と威力が未発達で不十分でしたから、 威力が有るが緒戦の為に使用すると言う目的に限定されました。 残りは攻城戦、海戦等の移動が限定された戦争で効果を発揮します。 秀吉の大陸出兵でも日本軍の銃器はかなりの威力を発揮しました。 敵にかなりの痛撃を与え緒戦の快進撃を支えたの重要な要素に 当時世界一の精度を誇った日本製の鉄砲と鉄砲戦術だとさえされています。 只、移動して接近してくる標的に対しては単発である事と射程が短かった事、 精度が低かった事で「マス」を単位とする戦争の道具としては不向きでした。 つまり野戦では使いにくかったわけです。 また、嵐等の気象条件では火縄が消えてしまうこと(火薬・火縄の防水に限界が在った)、 火種の維持が困難な事(自動発火装置はまだ考案されていない)等、かなりの制約が有り、 実戦では幕末になりヨーロッパの最新式の銃器が輸入されるまで 様々な面で問題が在りました。 また、戦国期の「首を取る」と言う発想からも 相手を殺傷すると言う事より、相手を白兵戦で倒して肉体の一部を奪うと言う発想が 戦争における一般兵の目的でしたから 鉄砲の戦場での地位の低さと相まって実効力・社会性の面で受け入れられないものが 在ったようです。 信長以降の関ヶ原当時でさえ、 緒戦の激突後は鎗合わせで始まり白兵戦が中心の戦いとなっています。 野戦の順序では 鉄砲・弓・いしつぶて、での前哨戦 鎗を用いた軍団の衝突と相手の陣型の崩しあい。 騎兵(厳密な騎兵は明治以降から成立)の突入か、 歩兵による刀鎗による相手陣内への突入。 相手の首を取る為の脇差しの使用等の白兵戦。 戦略的には相手の陣型が崩れると 追撃戦が行われますが、これも刀鎗を中心とした戦いでした。 結論としては「火縄銃」は未発達の発展途上の武器であり 極めて強い威力を持ってはいたが、 江戸幕府成立までの戦争では 限定され条件でしか その威力を発揮出来るレベルにしか過ぎない武器であった。 ということになるでしょうか・・・。

noname#113260
noname#113260
回答No.5

鉄砲を戦の主力とするためには、ある程度数を揃えないとお話になりません。 #4の方が説明されてるように、発射して次の弾を撃つまでに時間がかかるので、10丁程度では撃った直後に切り込まれればそれまでですし、相手も矢や礫を撃ってきますから、数百丁を並べて次々に撃たなければなりません。 鉄砲は本体、弾、火薬がセットになっており、どれが欠けても用にたちません。 本体は、鍛冶屋がいれば何とかなります。 難しいのは尾栓の工夫だけで、これが分かれば日本の鍛冶屋はなかなかの技術がありますから、量産も可能です。 弾も鉛を鋳型に入れれば量産ができる。 問題は火薬で、黒色火薬は硝石、木炭、硫黄を調合して作ります。 硫黄は日本は火山国ですから問題なし、木炭も入手は容易、問題は硝石で、こればかりは輸入するしかなく、そうなると堺などの海外貿易の拠点から買わざる得ません。 つまり鉄砲を大量に保有できる大名はかなり限定され、甲斐の武田家なども鉄砲の価値はかなり早い時期に分かっていたようですが、大量に保有するには至らず、合図や奇襲で驚かすような使い方しか考えられなかったようです。 他の問題はそれ程重要ではなく、例えば雨天での使用も火口に火皿覆いを付けて水の浸入を防ぐと共に、漆を塗った雨火縄を使うので、雨でも使えます。 命中精度も近代戦でも狙撃銃以外はアバウトでよく、敵がいるところに打ち込めば、誰かに当るだろうという程度で十分です。 ただ火薬の確保はいかんともしがたく、堺を征した信長のみ数千丁の鉄砲を使えたと考えます。

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.4

当時の火縄銃は連射が困難でした。 発砲の準備の手順はつぎのとうりでした。 1.銃口から索杖という棒をつっこみ筒内の残火を掃除する。 (次ぎに入れる火薬に火が着かないように) 2.索杖を引き出し薬包(一発分の火薬を入れた袋)の端を口で噛み破り火薬を銃口から流し込む。 3.再び索杖を入れて火薬を押し固める。 4.弾丸を銃口から落とし込む。 5.索杖で弾丸をおしこみ底に固定する。 6.索杖を引き出し銃を構える。 7.火皿の蓋を開き火皿に導火薬を入れ照準を合わせて引き金を引き発射する。 これだけの操作を熟練した兵士でもかなりの時間を要するのです。 2.~5.の操作を一度にする事も行いましたがそれでも大変です。 有効な射程距離も100メートルそこそこでしたからまず1発撃つのがヤットで次発の準備はは後方に下がって行う事が多かったのです。 また雨の日は使えません。 火薬も行軍中に湿って不発になることも多かったのです。 鉄砲は威力は優れていますが信頼性と連射性に欠けていたのです。 しかも当時の軍制では武器、装備は知行に応じて鉄砲何丁と定められて各隊長に直属しており部隊毎に分散していたのです。 これを全て統合して野戦で鉄砲隊として使用する試みは織田信長が初めてと言われます。 従ってまだ野戦では主力兵器とはいえない補助兵器の段階でした。  野戦の主力は槍組、連射が出来る弓組、刀でした。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.3

リンク先の本が、そのテーマを詳細に検証した本です。 この本の結論を一言で言うと「刀や槍や騎馬戦」は最初から重要ではなく、鉄砲伝来以前は弓矢、以後は鉄砲が主要な武器であったということになります。 ですので、「鉄砲が使われるようになったのなら、鉄砲だけで戦をすればよく」というのは、良い所を突いている意見です。

参考URL:
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30731545
  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.2

当時の火縄銃は、連射ができず、火縄銃だけでは、戦えませんでした。 射程も100メートル有るか無いかで、一発撃つと、次の玉を打つ前に突撃を受け、部隊が壊滅してしまいました。 そのため、鉄砲部隊を守る槍隊がどうしても必要でした。 さらに、敵に突撃するときには、鉄砲ではダメで、槍隊が、どうとても必要でした。 西洋でも、鉄砲隊と槍隊をどのように組み合わせるかが戦いの勝負を決めました。 日本では、江戸時代戦いが有りませんでしたから、鉄砲と槍の組み合わせた陣形の進歩は有りませんでしたが、西洋では、スペインのテルシオ陣形が一時無敵を誇り、 オランダは、テルシオを改良したマウリッツ陣形で、スペインからの独立をはたします。 さらに銃の進歩にともない、グスタフ・アドルフ型になります。 槍部隊が消滅するのは、バヨネット(銃剣)が発明されてからです。 バヨネットの発明により、銃そのものが槍の役目をするようになり、全ての兵を銃兵にすることができるようになりました。 日本では、関が原の戦い時においても、槍が主兵器で、鉄砲の比率は、3割程度でした。 長篠の戦いにおいても、鉄砲3000丁と言われますが、全兵力の1割程度が鉄砲隊に割り当てられていたにすぎません。 基本的に、当時の鉄砲は、防御兵器で、攻め込むのには使えませんから、敵が攻めてきたら、陣地の中から鉄砲を撃って、敵を撃退するのが主な役目でした。 そのため、槍隊と同時進撃できる飛び道具として、弓隊も必要で、全兵力の1割程度が、弓隊でした。 これらの兵力配分は、各大名が、どのような戦闘方針で臨むのかにより異なり、攻撃重視であれば槍隊を、防御重視であれば鉄砲隊を増やしました。

  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.1

鉄砲は射程距離が短い上、連射できない。白兵戦になると使えない等、欠点も多くあります。 その欠点を克服したのが、織田信長の長篠合戦と言われています。 が、鉄砲を主として戦争が行われるようになったのは、戊辰戦争時に、後ろごめの雷管で発射する鉄砲を輸入した官軍からです。

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