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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人が 人のあやまちを赦すことができるか?)

人が人のあやまちを赦すことはできるか?

noname#161175の回答

noname#161175
noname#161175
回答No.13

お昼休憩の合間に、慌ただしく議場へと戻って参りました(汗)。 ・・どうやら、議論にかなりの動きがあった模様ですね。 これを受けまして私の側でも、これより投稿を再開させて頂きます。 さて、前回までの議論の流れでは、問題解決の途上における理性と感性の働きが、 「イーブンであるのかどうか」 が、主要な論点となっておりました。 ですが今回、 <ok9608> さんの鋭い御意見を参考にさせて頂きましたところ、私の中でもかなりの程度論点が 先へと進められました。 つまり、ブラジュさんはここまでの議論の流れでは、問題を解決し、人の意識が 自然本性の揺らぎの場へと帰っていくプロセスにおいては、基本的にはそれを全て 「感性が主導する」のであるから・・、 「感性は理性よりも賢い」のであって、それ故に 「理性と感性は、イーブンだとはまだ言えないのではないか」 と御主張なされてきたのだと思います。 しかしながら、昨夜途中参加してこられた <ok9608> さんご指摘のポイント、つまりは・・ 「たとえ感性といえども、問題自体を潔く手放せないケースもあるのではないか?」 を引用させて頂きますならば、予てより私から出させて頂いています推論、 「理性と感性は、イーブンである」 ・・のほうも、成り立たせることが出来るのではないかと存じ上げる次第なのです。 それでは、詳しい説明の方に入らせて頂きます。 前回までの議論ではわたしは、感性が理性に先行して導き出してくる答えには <答えとしての妥当性の問題> があり、よってその論点を詰めていく必要があるのではと主張させて頂きました。 しかしこれは、よくよく考えてみると、ほとんどの部分では論じる必要性の余りない、 または論じようとすること自体が難しすぎる(?)論点であった様に思います。 何故ならば‥ 「赦し赦されの問題を感性の働きによって潔く手放し、意識を自然本性の静かな 揺らぎの場へと回帰させていく途上に於いては、そのための方法論などは、ほとんど 問題にはならないから。 つまり大事なのは、問題を巡ってあれやこれやと精神的な騒動を巻き起こしている 理性や意志が沈静化していくことそれのみなのであり、そのための手段などは、 大体の場合に於いては問われる必要がない」 ・・はずだからです。 なので極端な話、完全な思い込みであったとしても、理性や意志が大人しくなってくれる のであれば、それで良いのだという話でもあった訳なのですね(笑)。 「鰯の頭も信心から」 と言うことわざのように・・です。 ですが今ここに、その 「大体の問題においては方法論などは関係なく潔く手放せるはずの」 感性でさえ、恐らくは理性の助けを借りなければ解決、つまりは <問題を潔く手放す> 事が出来ないような問題が、浮上してきたと言う訳ですよね?。 つまりは、 「感性が、感性の本質を鑑みた場合にどうしても自然とは見過ごせないような被害を 受けた場合、感性はどのように問題を手放しているのか」 ・・と言う問題です。 ・・ではそこでどう考えていくことが出来るのか・・? 私と致しましては、こう仮結論いたしました。 つまり・・、 「感性が、感性の本質を鑑みた場合にどうしても自然とは見過ごせないような被害を 受けた場合には、感性は理性の全面的な援助のもとにこれを解決へと導く。 このような問題が存在する限りにおいて、感性と理性とは互いに <イーブンの関係にある>のではないか」 ・・です。 何かに喩えますならばこれは、オセロゲームに近いのではないでしょうか? つまり、赦し赦されを巡る問題解決の途上に於いては、大体の場合は、 <何物にもこだわらない事によって問題を潔く手放していくことの出来る> ・・感性の、勝ちです。 しかし、現実の事情が極めて特殊なケースにまで及んでしまった場合には、 さしずめ感性と言えども 「ある程度はギブアップせざるを得ない」 ・・よってその時点で、それまで見過ごし勝ちで不敗神話を築き上げてきた感性が、 「初めて、理性の手助けを必要としてしまう」 そして、まさにオセロゲームのように、それまでは黒一色だったものが 「最低でも半分までは、白に変わる」 ・・このような事ではないでしょうか? そしてここから議論は一気に飛躍してしまいますが、 「感性と言えども、理性の手助けを借りねば手放せないような問題、つまりは 特殊ケースも存在してしまっている以上は、その特殊ケースを解決しようとする 途上に於いては、感性と理性が、どちらが優位と言うのではなく <ともに手を携えて> 問題解決に当たる。 ならばその、 <感性と理性とが、ともに手を携えて問題解決にあたっている姿> は、見方を変えればまさに <人が、人を赦しているという現象> であるのだと結論付ける事は、恐らくは出来る。」 ・・のではないでしょうか? ですから、本議論の表題は、 「人が、人を赦す事は出来るのか?」 ・・ですが、この議論の筋に従って話をさせて頂きますならば、 「人が、人を赦す事は出来るのかどうかというよりも、人が、問題の解決を 感性に委ねるだけではなく、理性の助けも得なければ潔く手放せないような問題を 抱えてしまう事も、場合によってはある存在である以上は、 その様な問題を解決していく途上に於いては、人は、人として人を赦しているし、 またそのように赦していかざるを得ないのだ」 ・・となっていくのではないでしょうか? ・・もしも私のこの主張が、哲学カテには素人同然の私による <ただの勇み足> であったらば、どうぞその点はご容赦頂きたいのですが‥(汗)。 しかし現時点での私からの中間結論と致しましては以上のような次第ですので・・。 お読みいただきましたらば、詰め損ねています論点、または議論自体の読み違え等に ついて、ご指摘いただきたいと願います。 御返答、お待ち致しております。

bragelonne
質問者

お礼

 ぜふぃるすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  かなりすすんでまいりましたね。  という意味は わたしに思われることとしては   ○ すでに一人ひとりがそれぞれ自分の考えと感性とにおいて確信するところを行為するのみと言わなければならない地点にまでやって来た。    のではないでしょうか? あるいはそして  ○ もはや経験合理性によって判断されるところの妥当性いかんをひととおり整えたあと それでもこの妥当性を超えたところでとさえ見なければならないような各自の確信において――という意味は すでに根拠は それぞれの主観の内にこそあって そこにしかない次元での確信において―― わが意志行為として行動する。  という言わば理性にとっても感性にとっても道の分からない《密林》の中にあって われわれは前へすすむことを求められている。のではないでしょうか?  もしこのようにいまわれわれのいる地点を捉え確認したとすれば どういうことが言えるか?  たとえば 次のような命題ないし判断は おおむね妥当だと思われますが われわれはさらにその先をどう捉えるのか? このことを問われているのではないでしょうか?  ★ ~~~~  「人が、人を赦す事は出来るのかどうかというよりも、人が、問題の解決を  感性に委ねるだけではなく、理性の助けも得なければ潔く手放せないような問題を  抱えてしまう事も、場合によってはある存在である以上は、  その様な問題を解決していく途上に於いては、人は、人として人を赦しているし、  またそのように赦していかざるを得ないのだ」  ・・となっていくのではないでしょうか?  ~~~~  ☆ 言いかえると このような不条理として起きてしまっている問題をかかえて  ★ 人は、人として人を赦しているし、またそのように赦していかざるを得ない  ☆ という答えが 実際にどのように実現してくるのか? これについても きみは道筋を示せ! とわれわれは人びとから迫られているのではないでしょうか?    まさにわたしたちは 密林を切り拓く開拓者であります。  ○ 自分と同じように隣り人を愛せよ。  ○ 敵をも愛せ。味方を愛するのなら 盗賊たちでもおこなっている。  これらの命題の現実性が問われているのだと見ます。    いまこの限りで ぜふぃるすさんのご見解は   ★ 人が、問題の解決を感性に委ねるだけではなく、理性の助けも得なければ潔く手放せないような問題  ☆ という課題に当たることであり。それは  ★ このような問題が存在する限りにおいて、感性と理性とは互いに <イーブンの関係にある>のではないか  ☆ であるというごとく さらには 次のようにまとめられています。  ★ ~~~~   「感性と言えども、理性の手助けを借りねば手放せないような問題、つまりは  特殊ケースも存在してしまっている以上は、その特殊ケースを解決しようとする  途上に於いては、感性と理性が、どちらが優位と言うのではなく  <ともに手を携えて>  問題解決に当たる。  ~~~~~~  ☆ これだと思われます。初めに述べましたように 大方の見方としておおむね妥当なのだとわたしも思います。  そうしますと 問題は もし《一人ひとりの主観の問題を超えてはその妥当性が問われがたい領域においては どう考えどう振る舞うか》 これにあるということではないでしょうか? さらにその先は? という課題だろうと思われます。  言いかえると この地点では 各自がその確信にもとづき自分のその主観内容を おしげもなく・しかも必ずしも普遍的な根拠を見い出せないままにでも 明らかにする。こんな密林の真っただ中にいるのではないでしょうか。  能書きは措くとして たとえばわたしの主観は 次のご見解について 別の見方を述べたいと言って聞きません。  ★ ~~~  しかし、現実の事情が極めて特殊なケースにまで及んでしまった場合には、  さしずめ感性と言えども  「ある程度はギブアップせざるを得ない」  ~~~~~~  ☆ すなわち 密林の中での次なる一歩は どうかと尋ねられたとき わが感性は 次のように答えます。  ○ じつは 初めからギヴアップしているのだ。感性もそして理性も 初めからギヴアップしていて むしろそこを出発点としてあゆみ始めているのだ。  と威張って言います。言わばすでに《もののあはれを知った》ところから踏み出していると言いたいようです。理性も感性も エポケーしてしまったところが 出発地点なのだと。《聖なる甘え》 文字通りにこれなのだと。――たぶん これについての根拠はないですよね。  次のようにもその密林での位置やたどって来た道そしてたどるであろう道について ご見解が明らかにされています。  ★ ~~~  「赦し赦されの問題を感性の働きによって潔く手放し、意識を自然本性の静かな  揺らぎの場へと回帰させていく〔* つまりこれが《エポケー》だと思います〕  途上に於いては、そのための方法論などは、ほとんど問題にはならないから。  〔* つまりはすでにその初めに 《もののあはれを知る》という原体験を経て   来ている〕。  つまり大事なのは、問題を巡ってあれやこれやと精神的な騒動を巻き起こしている  理性や意志が沈静化していくことそれのみなのであり、そのための手段などは、  大体の場合に於いては問われる必要がない」  ~~~~~~  ☆ 前半が むしろわが感性が威張り散らしてうったえるところの直観と同じような趣きであるかと思われます。後半については 細かい点について無粋な物言いを添えます。  ○ 自然本性としての《精神》にユラギはあっても 《騒動》はなく それは起こるとすれば 大海としての精神の表面で風が吹き嵐を起こすという《心理》の動きのみである。動揺や騒動は みな心理作用である。  ○ 《理性や意志》も この自然本性としての精神のことだとすれば もともと《沈静している》と思われる。  ○ しかも わが自由意志はそのヘソを曲げるというユラギを持つ。その結果 じつは 心理的な惑いも迷いをも起こすが それだけではなく 精神そのもののほろびへともみちびかれ得る。  ○ わが精神のほろびを予感したわたしは ひとえに《聖なる甘え》にわが心が憩うことをのぞみ 言わばそれとしての DNA のハタラキの復活をいのる。  ○ 自由意志のへそ曲がりとしてのユラギにおいても たゆたえども沈まずというやすらかさを得ているならば そこには ほろびについてのおそれは ない。  ○ ほろびについて おそれがないそのわが心は しかしながら 聖なる甘えにおいてそのわが甘え方が 間違っているのではないかというおそれを持つ。これは ほろびへのおそれではなく この上なくきよらかなおそれである。  ○ 無根拠というナゾの何ものかに対するきよらかなおそれは それを持つことは 《愛》と呼ばれる。  ○ 愛は 心理的な惑いに伴われるほろびに対するおそれを閉め出す。けれども 愛のないところには きよらかなおそれは ない。    ○ 愛のあるところにおいて わが心は 満ち足りている。《人のあやまちを赦すことも赦さないこともしない》という能力がさづけられている。その能力によって 《人を裁くことをしない》生活をおこなう。    乱気流の中に入ったままであるのか ただエアポケットに入っただけなのか。  さらに問い求めがすすむことを 哲学として展望したいと思います。

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