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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人が 人のあやまちを赦すことができるか?)

人が人のあやまちを赦すことはできるか?

ok9608の回答

  • ok9608
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回答No.12

bragelonneさんの 思考の原則は これ以上は分解できない言葉から 発せられており 心して読まないとこちらの言葉がなくなるのではないか と緊張します。 先に人間をアマテラスとスサノオに分け 説明されていました。これによ る一つの答えがありそうに思いました。が 私の分析力不足でどこまで 整理できたか疑問が多数ありそうです。 参考になるようでしたらして 下さい。 私の理解は(1)アマテラスは理性による判断をするタイプであって、外部 刺激が個人に入力されるとき 感性に直接届く場合であっても 理性に 届く場合であっても 個人から出力する場合は 理性処理回路を経てい る と思います。だから 環境とか状況とかの情報は十分に考慮し 政 治にあっては 公民として振舞えるのです。大きな戦争賛成という間違 いを起こすかもしれませんが 日常の細かいことは 間違いのない判断 をしていく と思うのです。 それに対して (2)スサノオは 感性こそ人間の持ってうまれた最高の宝 と考えているのです。正しい とか間違い とか の判断ではなく 感性 に従っているかどうか が問題なのです。自由人間の振る舞い というと ころでしょうか。多くの人がこのスサノオにあこがれるのは 基本的な人 間DNAによって行動しているということでしょう。例えば 相互扶助DNAは あっても戦争賛成のDNAはないのです。 さてアマテラス、スサノオを今回の「人が 人のあやまちを赦すことができ るか?」に適用してみますと アマテラスは法律、道徳、ある哲学 あるは ある宗教の律 によって ケースごとに判断するでしょう。要はあとあとま で問題は残さないのです。悪人正気説にしても大きな一つのアマテラス 的判断と思います。まあ 生きる上では 一つのアマテラス的選択でしょう。 問題はスサノオです。もちろん 対象とする事柄によります、が ここでは  例えば 自分の子供が理不尽な理由で殺されたとします。この加害者を こどもの親(スサノオ)は、加害者が法によって死刑に処されたとしても どこまでも許さないと考えと思います。なぜか、自分の子孫を残すという動 物としての最重要なDNAに抵触するからです。許す、許さない のスサノオ 感性は 人により 多少は異なるとは思います。 が コソドロから殺人鬼ま で多くのケースがあります が許されない事柄は 大方決まるように思いま す。 しかしながら 一個人のなかにアマテラスとスサノオは同居している場合は 悩むことになります。アかスか割り切れないのです。 殺人鬼についてではありませんが 私も 悩んでいます。 たぶん一生悩み 続けるのではないか と思っています。これが生身の人間ではないでしょう か。 以上 失礼しました.

bragelonne
質問者

お礼

 おうけい9608さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。お株をうばわれてしまいそうですね。  ★ ~~~  多くの人がこのスサノオにあこがれるのは 基本的な人間 DNA に  よって行動しているということでしょう。例えば 相互扶助 DNA は  あっても戦争賛成の DNA はないのです。  ~~~~~  ☆ ここなどは 強烈ですね。  《自然本性》の中核としてのような――そして中軸は意志ですから 中軸たる意志の中核としてのような――原・志向性というようなチカラでありそのハタラキでしょうか。これを DNA として認識なさった。  これは 赤子が母親になついてすこやかであるように ヒトにとって《聖なる甘え》の状態にあって またそこでヒラメキを得ることをとおして 実際に発現すると見ていました。すなわち  ☆☆(No.11お礼欄) ~~~  (こ) この自然本性なるわれが われであるとき――わたしがわたしであるとき―― わたしは 能力によって《人のあやまちを裁かないし 赦すことも赦さないことも成さない》。  (さ) それは 《聖なる甘え》においてあるいは《何ものかナゾのむしろ無根拠に対してわれわれが持つきよらかなおそれ》において その限りでわたしは満ち足りているからである。  (し) そうしてこの(こ)および(さ)の命題は むしろヒラメキとして持たれたものである。ということは さらに妥当性が問い求められる。  ~~~~~~~~  そうして次にわたしの《アマテラス‐スサノヲ 連関》なる理論を提出します。  ★ ~~~  しかしながら 一個人のなかにアマテラスとスサノオは同居している場合は  悩むことになります。アかスか割り切れないのです。  ~~~~~  ☆ つまり じつはもともと自然本性として《同居》しています。   ○ スサノヲ( S )  ‐ アマテラス( A )   ______________________   ・ 身体・・・・・・精神(記憶・知解・意志)   ・ 感性・・・・・・広義の理性   ・ 人間語・・・・・普遍語(科学語および人格語)    (あやまちうる)・・(普遍性ないし無謬性が付与される)   ・ 市民・・・・・・公民   ______________________  つまり ひとりのヒトが すでに《スサノヲ‐アマテラス》連関体であると捉えます。  そうして どちらかに重心があるとすれば スサノヲ類型とアマテラス類型とに分かれます。それぞれの分析をしてもらっていますし そのように対比されると思います。  その分析につけ添えるとすれば それぞれの類型には 難がある。難もある。という点です。  早い話が スサノヲ類型は その感性(直感および直観)をつうじてみづからの意志を形作りさらに固めていくとき それを普遍語としての A 語によってきちんと合理的に説明することがなおざりになり勝ちである。意思表示もその説明も しっかりとおこなうことが求められる。  アマテラス類型は 感性をとうとび頼ることをもしてよいにかかわらず すべて普遍語をとおして知解し一定の結論としての判断をみちびく。ややもすると あたまで立つという逆立ちの姿を呈することとなる。さらには 権威づけられることも起こる。そうなると 《神聖にして侵すべからず》とまでは行かないとしても あやまちを犯さないという神話が出来てしまう。アマテラス公務員は 無謬性を有するとあたかも信じられていた。  じっさい まちがってもあやまらなかった。間違いは 秘書がやったことにされる。  さて  ★ ~~~  さてアマテラス、スサノオを今回の「人が 人のあやまちを赦すことができ  るか?」に適用してみますと アマテラスは法律、道徳、ある哲学 あるいは  ある宗教の律 によって ケースごとに判断するでしょう。要はあとあとま  で問題は残さないのです。・・・  ~~~~~  ☆ つまりは すべて合理的に整合性をもってことを認識し判断し その妥当性において処理しようとする。《あやまち》のあらゆる可能性をしらべ それらをきちんとその性質や内容に応じて分類し 処分を合理的に決める。  《赦す》かどうかは 自力救済をすでに断念して法にゆだねているとすれば そのかたちにおいて 赦しているとなりましょうか。  さて   ★ ~~~  問題はスサノオです。もちろん 対象とする事柄によります、が ここでは   例えば 自分の子供が理不尽な理由で殺されたとします。この加害者を  こどもの親(スサノオ)は、加害者が法によって死刑に処されたとしても  どこまでも許さないと考えと思います。なぜか、自分の子孫を残すという動  物としての最重要な DNA に抵触するからです。  ~~~~   ☆ さぁ どうなりましょうか。  スサノヲ類型の人は いわゆる不条理な出来事について どう判断するか? でしょうか。しかもこの不条理は ここで  ★ 自分の子孫を残すという動物としての最重要な DNA に抵触する  ☆ というスサノヲ類型の存在理由そのものが 侵されてしまった場合を言うのだと。つまりさらには  ★ ~~~  許す、許さない のスサノオ感性は 人により 多少は異なるとは思  います。 が コソドロから殺人鬼まで多くのケースがあります が  許されない事柄は 大方決まるように思います。  ~~~~~~  ☆ というふうに 《赦されない・赦さない・赦せない》場合は 出て来るであろうということのようです。  ここでアマテラス類型なら 法的処置にゆだね その限りで赦したことになる。  ということは スサノヲ類型単独の場合とそして  ★ ~~~  しかしながら 一個人のなかにアマテラスとスサノオは同居している場合は  悩むことになります。アかスか割り切れないのです。  ~~~~~  ☆ というように ひとりの人が《 A-S 》連関体であるなら どうするか? このような事例においても《赦されない・赦さない・赦せない》場合をどうするかを 問題点とするようなのです。  ★ ~~~  殺人鬼についてではありませんが 私も 悩んでいます。 たぶん一生悩み  続けるのではないか と思っています。これが生身の人間ではないでしょう  か。  ~~~~~  ☆ と。    これはですね。わたしが考えるに きわめてずるい答えがあります。  ひとつに 《赦されない・赦さない・赦せない》場合 これについては 《あやまちは 人のつね》というスサノヲ人間語に則ることになると思います。お互いさまという捉え方です。その加害者の身になるという道です。そういう DNA もあってはたらくと思います。(時間がかかるかも知れませんが 有効にはたらくと見ます)。  けれども  ★ 《自分の子孫を残すという動物としての最重要な DNA に抵触する》ものとして《自分の子供が理不尽な理由で殺された》  ☆ 場合をどう見るか?  もし感性・直感によるとすれば そのころされた子どもが 報復はだめ と言うでしょうね。存在ないし生命は とうとい。と言うでしょうね。つまりその言葉を親は聞くでしょう。DNA の命令は 存在の存続を凌駕しない。  そうして 親も赦す・赦さないをどうするかを考え決めるようになるでしょうね。たぶん。  お粗末でした。  

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