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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人が 人のあやまちを赦すことができるか?)

人が人のあやまちを赦すことはできるか?

noname#161175の回答

noname#161175
noname#161175
回答No.10

・・なるほどでした。 私の見解及びブラジュさんの御主張との間で噛みあっていなかった 部分につきましては、ブラジュさんご指摘の内容で <ほぼ完璧> だと思います。 私としましても、正直言いまして昨日の時点では、論点の整理の方がやや <八方塞がり> の状況でしたので、細かくご指摘いただきまして大変助かりました(笑)。 さてそれでは詰まる所、ブラジュさん御主張の中身の真意とは・・ 「自然本性の絶対性に身を委ね、意志の力に頼らないようにすると言うこととは、 一見消極的な装いを持ちながらも、実は極めて積極的な物事の解決方法なのである。」 ・・と、その様に集約されるかと思います。 さらに、この内容を別の言い方で補完させて頂きますとすれば・・ 「赦し許されの問題を、意志の力によって理性の枠内へと引き付け、取り組むことで、 <能動的に解決する> のではなく、そうではなくて 自然本性の絶対性に回帰することによって問題それ自体を潔く手放し、 <受動的に解決する> と言う生き方も、人間に許された問題解決の為の方向性の一つなのだ。」 ・・と、恐らくはそう表現出来るでしょう。 と言う事はつまり、これはやはり前回の私とブラジュさんとの議論と同じ形態の・・ <物事にかかわっていく立場は人それぞれ> 式の結論へと近づいて来たという訳ですね。 まさにデジャヴ・・です(笑)。 しかしながら、今回の議論における私の感想といたしましては、 <お互い相容れずとも認め合う> と言う地点へと落着を致しました前回の結論とは違い、 「自然本性の絶対性にただただ回帰し、問題自体をどこまでも潔く、もしくは <気持ち良く手放す> と言う、その様な物事の在り様も、 それはそれとして学び、自己の糧として吸収していく必要が大きいのかもしれない。」 ・・と、そう強く思い始めているのです・・。 と言いますのも、実は私、このサイトの他の場で取り組ませて頂いております <自称本業> である恋愛人生相談の方でもそうなのですが・・、 詰まる所は 「行くべきか、行かざるべきか」 で悩んでいらっしゃるような質問者さんを見つけてしまいますと・・ もちろん原則論としての、 「自分のことを決めるのは自分自身でしかなく、また問題を解決したいならば、 右か左かを選んで、徹底的にやるしかない。」 と言う内容を、最初にお伝えさせて置いては頂くのですが・・ 話が煮詰まって来てしまいますとどうしても、場合によってはいけない事かもとは思いつつも、 自分自身気が付いてみますと 「行け、行け!」 と、そのようにアドバイスを出してしまいます傾向が 非常に強いようなのでして・・(汗)。 「ああそれで合点がゆきました」 と、ブラジュさん風にそう言わせて(笑)頂きますならば、 最近の私が、<本業>での営業成績が今一つ振るわなかったのには・・、 「自然本性の絶対性を少しばかり軽んじている自分」 がいたからなのかもしれないと、妙に納得してしまっております次第なのです(笑)。 ですので、今回の議論は、ネット回答者 <zephyrs> としての経験値と言う話にとどまらず、恐らくはその彼を、ホストとして管理しております <現実上の私> にとりましても、大変有益な内容を潤沢に含む物で有ったのだなと感心をしております。 もちろん、 「高度な人間性を獲得していくうえでの感性の持つ役割とその実践」 の細部につきましては、まだまだそうすぐには呑み込みきれませんが・・ 私自身、今後可能な限りじっくりと取り組ませて頂きたいと思っておりますので。 ご教授頂きまして、どうも有難うございました。 ・・さてこれでもう、議論全体の八合目ぐらいまでは到達できましたでしょうか。 そして最後に残るのは、 「イエスのような偉人の行為をどのように見るべきか」 の問いですが、この論点についてもブラジュさんとしてはやはり・・ 「自然本性の絶対性へと、ただただ回帰せよ」 の御主張なのだと、そうお見受けいたしました。 しかしこの点だけは、私は少しくばかり譲れないのですね・・。 と言いますのも、私と致しましてはやはり、 「何かと闘って、そしてそれに打ち克って行く」 と言う <ストーリー> が、好きなのでしょうね(笑)。 もちろんブラジュさん御主張の 「自然本性の絶対性への回帰」 につきましても、それはそれで、人が高度な人間性の完成へと向かおうとする <一つの闘争> ではあるのですが・・ やはり私には、何処かに <目に見える敵> がいて欲しいという気持ちが、色濃く存在しているようです・・(笑)。 ですのでこれはやはり、人それぞれなのだと言う結論になってしまいそうですね。 生まれつきの性分は、争えません・・・(笑)。 ・・私から現時点でさせて頂けます返答としましてはこの様な次第ですので、これにて再び、 ボールをそちらに打ち返させて頂きます・・。 御返答、お待ち致しております。

bragelonne
質問者

お礼

 ぜふぃるすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  さっそく問い求めに入りますが 規定された内容でいいと思います。ただし 用語と言いますか 表現が分かりづらくはないかと思うのですが?  ★ ~~~  「自然本性の絶対性に身を委ね、意志の力に頼らないようにすると言うこととは、  一見消極的な装いを持ちながらも、実は極めて積極的な物事の解決方法なのである。」  ・・と、その様に集約されるかと思います。  ~~~~~  ☆ そうですね。《絶対性》って分かりにくくないですか? 言い換えてみます。  ○ ~~~  自然本性が与えられそなわっているという・人間にとっての絶対的な与件(存在の条件) この条件における存在に立って むしろすでにナゾの何ものか(神)に心をゆだね 聖なる甘えを寄せる。  そこから 意志をもはたらかせるのであるが まづはそのときには 世界あるいはモノゴトが見えている。見えて来ている。これにもとづき 意志によって自己表現して行く。解決へとすすめる。  ~~~~~  ☆ 神を持ち出さないとすれば あなたの定義のほうが分かりやすいかも知れません。  ○ 余分な努力をまづは控えるというところ   ○ あるいは それゆえにこそそのあと積極的な解決に踏み出すといったところ  などです。  ★ ~~~~~  「赦し赦されの問題を、意志の力によって理性の枠内へと引き付け、取り組むことで、  <能動的に解決する>  のではなく、そうではなくて  自然本性の絶対性に回帰することによって問題それ自体を潔く手放し、  <受動的に解決する>  と言う生き方も、人間に許された問題解決の為の方向性の一つなのだ。」  ~~~~~~     ☆ このほうが うんと分かりやすいですね。考え直してみると。  つまり こだわったのは ただ一点:  ○ 《自然本性の絶対性》と言うと その生まれつきの本性そのものが 絶対的なチカラの場であるように聞こえるかと思ったから。  です。《ゆらぎつつも やわらぎを得ている状態》とでも言うのでしょうか? 赤子が母親に身をゆだねている状態でしょうか。しかも すでにものごころがついたあととしては 母親を超えて ナゾの何ものかへの《聖なる甘え》といった状態になりましょうか?    こうして 次の主題に入って行けましょうか。  ★ ~~~~  「イエスのような偉人の行為をどのように見るべきか」  の問いですが、この論点についてもブラジュさんとしてはやはり・・  「自然本性の絶対性へと、ただただ回帰せよ」  の御主張なのだと、そうお見受けいたしました。  しかしこの点だけは、私は少しくばかり譲れないのですね・・。  ~~~~~~  ☆ このまま さらに次へ続きます。    ★ ~~~~  と言いますのも、私と致しましてはやはり、  「何かと闘って、そしてそれに打ち克って行く」  と言う  <ストーリー>  が、好きなのでしょうね(笑)。  もちろんブラジュさん御主張の  「自然本性の絶対性への回帰」  につきましても、それはそれで、人が高度な人間性の完成へと向かおうとする  <一つの闘争>  ではあるのですが・・  やはり私には、何処かに  <目に見える敵>  がいて欲しいという気持ちが、色濃く存在しているようです・・(笑)。  ~~~~~~  ☆ たしかに 世間で身に着けた或る種の仕方で余分な人格要素 これを削ぎ落とす自己還帰(または 自己到来)は その往路復路ともに《たたかい》をともないます。そしてこれをしかも 《何もしないたたかい》と名づけています。もし  ★ 目に見える敵  ☆ がいたとしたら その敵のほうで 踊り出し 踊り出て来る。これを待つというかたちの《何もしないたたかい》です。  あと 一点 つけ添えます。  感性のほうが 理性よりも 偉いという仮説です。  まづ情況の設定は ぜふぃるすさんの向こうを張って もしわたしが 人妻に恋してしまったとした場合です。  悩みます。あれこれ考えたりします。その感情は なかなか 言うことを聞かないようです。  けれども じつは そのように理性が考えるその前に あるいは悩みを持つその前に じつはすでに感性は よせ やめとけと言っているはずなのです。これは 見過ごし勝ちです。  そのあと じつにあれこれといろんな場合を哲学者となったかのごとく考えつつ理性は 首をつっこんで来ます。ああでもない こうでもないと 熱情を持て余している感性にアドバイスをあたえようとします。  最終的には 意志が判断し えいやっとでも決めるかと思うのですが 熱い感情のどこか奥に感性としてある気持ちもしくは心がすでに答えを出していたのではないか?    もっと言えば 駄々をこねるのは たしかに熱情なのですが それに乗っかってそれをあおる場合があるのも理性ではないか? これこれこうすれば 諦めなくても大丈夫だろうといった案まで出して来る。これを最初の感性は 笑って見ている。のではないか?  中軸は 意志でしょうけれど。  また荒削りです。たぶんそのようにして一歩一歩あゆむのでないかと 言い訳して このままご返答とします。

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