• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:過去と今とを繋げないように。。。。)

過去と今とを繋げないように

Tomcat_Wildcatの回答

回答No.2

おはようございます。 拝読致しました。 確かに事実として起こってしまったこと。そして、質問者様にとって、あまりにも苦しい時期だったと拝察しました。 読んでいて、僕はただただ頷くばかりでした。 一瞬話が間接的になりますが、僕の卒業した高校の野球部とサッカー部が、両極端でした。どちらも、県ではベスト16は堅い、かなりの強豪。 でも、野球部はおっしゃるような陰湿さが蔓延していました。一方で、サッカー部は、陽気な集団でした。歴史も強さも同じくらいなのに、何故?と考えた時、違いは顧問でした。野球部の顧問は、もともとちょっとした権威でした。サッカー部の顧問は権威ではなかったけど、同校を強くする事で権威になった人でした。生徒との関わりも、野球部の顧問は絶対の存在で、対等はなく、同じ目線の気持ちの疎通はなく、サッカー部の顧問は、サッカーには厳しいけど、対等で同じ目線の気持ちの疎通を持てる人でした。特に、高校生は多感ですから、その辺は敏感で、そういう裏側の文化を作ってしまいます。学校という特殊な環境とも言えるかも。 質問者様もおっしゃる通り、ついてなかったんだと思います。違う学校の同じ部なら、全くちがったかも知れません。 事実は事実としてあるます。そして、それはあくまでも1つの出来事です。 無理にならない程度から、少しづつスポーツをやってみていいと思いますよ。 もう、学校でもなく、学生でもない環境です。

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    21歳です。 中学時代にいじめをしてきた人間の記憶が原因で、日々生きるのが辛く無駄に過ごし、そして時々死を考える事もあります。 その人間は、当時入っていた部活で酷く陰湿ないじめをしてきた2人の人間で、彼らは私の事を非常に嫌っていました。 私が何かに挑戦しようとする度酷く陰湿な行為をして、仲間を集めて私の可能性等を全て潰そうとしてきたり、「お前には無理」「お前なんかがするな」等の罵倒を延々してきてました。 もちろん始めの間はこんな奴らに負けてたまるかという気持ちでやっていたのですが、何度も練習の成果を出そうとする度にひどく陰湿な行為をされ、何一つとして結果を出すことが出来きない日々を過ごした結果(2年半それを続けられました)、私は性格まで変わり消極的で周りの目を気にする人間になってしまいました。 それ以来、もう何年も経つのですが私は何かに挑戦する度当時のその人間の事が脳裏に浮かび、「あいつらがいたらまた何か言ってくるのかな・・・」「あいつらがいたらまた馬鹿にするのかな」という考えが浮かんできます。今私は色々やりたいことがあるのですが、そんな時でもやはり、あいつらがいたらまた邪魔をして私に成長させないようにするのだろうか?と考えてしまいます。(もちろん周りにそいつらはいません。もう当時の様に関わる事等ないでしょう) すると思考が停止して、そいつらが実際に私がしている事を馬鹿にして笑っている姿ばかりが脳内に描かれてしまい、結局やりたい事が出来ずに終わってしまうのです。その当時の人間がもう常に頭の中にいる状態です。普通ならそんな前の人間など忘れるものですが、度々思い出してしまったせいか未だにその記憶が呼び起こされます。 「またどこか街であったら笑うのだろうか?」 「奴らがいたらまた私を潰すのだろうか?」 「奴らがいたらまた私を陰湿ないじめで苦しめるのか?」 こんな事を考えては時間を無駄にしています。 その人間達の記憶がなければ本来は今ものすごく充実した生活を出来ているのです。 しかし、実際は何年も前の人間に苦しめられています。 カウンセリングにも行きましたが、解決には至りませんでした。 私はどうすればいいでしょうか? もう目の前のやりたい事が、その様な妄想で出来ない毎日をこれからも過ごさなければならないのであれば、死んだ方がよっぽど良いです。 具体的で建設的な回答をお待ちしております。

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    だいぶ昔の話になるのですが、中学時代部活内でミスをした結果陰湿なイジメや罵倒を散々されてとても辛い思いをした事があります。 部活内の人間の質もかなり悪かった記憶があるのですが、それ以来挑戦してミスをしてしまうかもしれないならもう挑戦自体するのをやめよう。と思う様になってしまいました。 もちろん理由はミスをした結果陰湿なイジメや罵倒をされるのを恐れた為です。 しかしそれ以来6年程が経つのですが、このままのスタンスで行けば自分は何一つ挑戦出来ず、やりたい事を出来ずに人生を終わらしてしまうのではないかという不安が最近強くなって来ました。 なので自分なりにこの様な結論を出しました。 「これからは周りに何人もの人と一緒に何か物事をする会社やスポーツ等の環境において、考えた結果いけると思ったらどんどんと挑戦し自分の可能性を広げていこう。もしミスをしても、何故ミスをしたのかをよく考え次ぎまた挑戦する時に同じ過ちを犯さないようにすればいい。当時は異常なまでに陰湿な行為をしてくる輩がいたがそれはそれ。精神年齢が低かった輩が沢山いた環境にいてしまった自分の選択のミスが招いた事で、当時の事をトラウマとして心に留めておくのは止めよう。常に挑戦しようという心構えで前向きに生きて行こう」 というものです。 この意見に対しての皆様の意見をお聞きしたいと思い今回質問させて頂きました。 回答お待ちしております。

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  • 過去の経験をいつまでも引きずりたくない。

    【失敗を恐れず挑戦し、とにかく初めの一歩を踏み出して転びながらでも学んでいく為に・・・】 23歳です。 僕は中学時代、バスケ部で陰湿ないじめに遭いました。 僕は初心者でバスケを始めたのですが、1ヶ月が経つ頃から僕とは別の小学校から来たバスケ経験者の同級生数名に陰湿なイジメをされ始めたんです。 いじめの理由は恐らく「なんとなく嫌だ、むかつく」こんな理由だったと思います。 僕は大学まで出ましたが、大学卒業するまでその中学の部活以来、バイト等も含めいじめの行為に遭ったことがありません。 今思い返しても、当時いじめを受けたのは、 いじめをして来た人間の性格が腐っていたからだと断言できます。 部活では、 ・バスケなので体と体がぶつかるのは仕方ないのに当たると「キモイ」「死ね」等の暴言を吐かれる ・シュートを打つと「お前が打つな」と言って、尋常じゃなくキレられる ・「下手クソはシュート打つな」といった様な罵倒をされる ・僕が出したパスをもの凄く嫌そうに取る ・ミスしたら必要以上に責めて来る ・ミスしたら馬鹿にして攻撃して来る こういったことをされました。 大人でも始めたての仕事で、罵倒やいじめを繰り返されたらさすがに心を痛めます。 そんなことを、まだ13歳14歳の思春期にされたら、ダメージは相当。 明らかにシュートチャンスでシュート打てる状態でも、外したら何を言われるか分からないし、決めても嫌な顔をされる。 自分でカットインしてシュートに持って行きたいけど、もし外れたら何言われるか分からない、酷い罵倒をされるかもしれない。 こんなことを延々と繰り返された僕は、 徐々に挑戦というものをしなくなって行きました。 まだ数ヶ月の初心者。 どれだけ意識していてもミスはあります。 でも、ミスすると罵倒される状態だったらもう怖くて挑戦できないですよね。 「思い切って挑戦する」→「失敗するかもしれない」→「失敗したらそこから何かを学んで次に繋げる」 このプロセスが、何かを上達させるには不可欠です。 しかし、僕はこの第一段階である「挑戦する」っていう行動を取れなかったんです。 もうボールを持ったらパスをして、自分では攻めない。 こういう状況に追いやられていました。 そして他にも、 「下手クソはシュート打つな」 「下手クソは○○するな」 こういった発言をされていたと述べましたが、僕は下手だから練習しようとしたんです。 下手だからシュート打って練習しますし、 下手だからドリブルとか果敢に責めたりして、上達しようとしていたんです。 でも「下手だからするな」と言われたら、一生上手くなることができません。 家でいくら1人で練習しようが、実際の練習で上述したようないじめの行為をされていたらその成果を発揮できません。 「下手だから○○するな」と言われない為には、上手くなってから始めないといけなくなります。 しかし上手くなるには、実際に部活で皆と一緒に練習しないといけない。 でもその練習にちゃんと参加できないようにさせられていたので、もう上手くなりようがない。 こんな負のサイクルに追いやられていました。 中学の部活でこの様な経験をした僕は、2つの"誤った"理論を頭に刷り込まれてしまいました。 1つめが、「思い切って何かに挑戦すると、いじめみたいな酷い目に遭う」 2つめが、「何を始めるにも"完璧になってから"始めないと、酷い目に遭う」 この2つの理論です。 何かに挑戦すると、勿論"失敗"するという可能性が出てくる。  それは誰しもそうだと思います。 普通にスポーツでもそうですし、 仕事でもそう。 趣味でもそう。 何でもそうです。 何かに挑戦するということは、成功することも勿論ありますが、失敗もつきまといます。 しかし、失敗をするともの凄く酷い目に遭わされるという状況だったら、さすがにもう行動ができない。 僕は当時そういう状態を2年以上も経験したので、 それが"真理"であるという勘違いをしてしまってるんです。 もしそれが真理なら、みんな誰も何も始めようとしないですよね。 2つめに関しても同じ。 「できるようになってからはじめる」じゃ、いつまでたっても何も始められません。 スポーツでも、仕事でも、語学でも、 「ちゃんとリフティングができるようになってから始める」 「ちゃんと仕事の内容を完璧に覚えてから始める」 「熟語を全て頭の中に叩き込んでから、英語を喋る」 こんなことやっていたら、いつまでたってもやるべきことができませんよね。 何でも「やりながら」できるようにしていくのが普通な訳です。 完璧になってから始めよう!だと、そのやりたいことを始められる日は来ないです。 よって、上の2つの理論は間違っているんです。 成功者の方達もそうですし、色んな本やメディアでも 「失敗を恐れず、挑戦する事が大事」 「初めの一歩を踏み出そう。転びながら学ぶんだ」 このような事が言われていることからも、 僕の2つの理論は誤っていると断言できます。 よって僕は、この2つの理論は、 「いじめを受けていたという、ある種の"特殊"な環境にいたからこそ生まれた誤った理屈である」 ということを認識しないといけない。。。 ここで皆さんに質問です。 こんな経験をした僕が、一体どうすれば2つの理論が誤っていると「実感を伴った形で」認識することが出来るでしょうか? 多くの回答、お待ちしております。

  • 間違い、失敗はいいことですよね?

    同じミスを7回も8回もしてたら駄目かもしれないですが、自分を成長させる為にはミスや失敗は不可欠ですよね? その間違い等を通して、自分の悪い点を見直しそれを改善する為の努力をすればそれでいいですよね? 世の中には様々な偉人がいて私たちは彼らの成功例を知っていますが、絶対にその成功を掴む為に何百という失敗をしているはず。 数多くのベストセラーを出している予備校講師の人が、新人の講師にどうやってベストセラーを出せるのか聞かれた時、彼は、 「ベストセラーが出るまで書き続けなさい」 と言ったそうです。 つまりは売れずに周りの期待等を裏切っても、諦めずに書き続けなさい、という事です。 以上の様に、やはり間違いは絶対に自分を成長させる為には必要な物です。 3、4回間違えてうまく出来ない人を罵倒し、「出来ない人」等のレッテルを張るのはどうかと思います。 皆様もそう思いませんか? 私は中学に入った時団体の球技系の部活に入りましたが、そこで陰湿な虐めをされました。 何年も経験があるなら言われても仕方ないですが、初心者でまだまだ全然思うようにプレー出来ないにも関わらず、ミスをすると 「キショイ」 「下手くそ」 「ダルい」 「パス悪い」    等の罵倒を延々とされました。 確かにチームプレーなので、ほぼ練習は誰かとします。なので自分がミスすると相手に迷惑がかかるのはわかるのですが、 その様な罵倒はするべきものでは無いと思います。 なんとか迷惑をかけないように家で練習したのですが、それでも初心者なので毎日劇的に上手くなるということはなく、 ミスしながらじゃないと上手くなれませんでした。 しかし、ミスする度に上記で挙げた様な罵倒。 結果私は人の顔色や目を気にする性格になってしまい、周りに迷惑をかけたらどうしようとしか考える事が出来なくなってしまいました。 しかし、絶対にそのような虐めをしていた人間達も、始めたばかりの頃は出来なかったはず。ミスを沢山したはず。 そんな時に彼らが私にした様な事をされていたとしたら、彼らは実力をのばす事が出来たでしょうか? 例えばプロ野球でいえば、有名な選手にイチローがいます。 彼は今でこそプロなので何度も空振り等をしたら周りから何かを言われるかもしれませんが、絶対に野球を始めた頃や、 高校時代もミスを沢山したはず。 しかし当時私がされたようないじめ、罵倒をミスする度に言われていたとしたら、彼は果たして上手くなれたでしょうか? もちろん身体能力はずば抜けて高かったでしょうが、心がおそらく潰れていたのではないかと思います。 私が当時初心者でミスした時、そんな「いじめ」「罵倒」という卑劣な行為をして突き離すのではなく、 なぜミスをするのか、どのタイミングでパスを出せばいいのか等をその人達が教えてくれていたとしたら、 心を病まずにすんだのではないかと思います。 (もちろん自分自身でどうすれば上手くなれるか研究はしていました) 今は色々な本を読んだり、「達人」と呼ばれている人の話をきいて、 「間違うことはいい事だ。間違うという事は間違いじゃない。 当時私がされた事は明らかに間違っていた。 なのでもうトラウマみたいになっていた、間違った時に周りから何かされたりしないか等の事は考えず、間違いを恐れずどんどん挑戦していこう」 と思えるようになりました。 前置きが長くなり申し訳ありません。 皆様は、あなたの周りの人たちが「間違ったり、失敗したりする事」をどう捉えますか? 相手の非を突き罵倒し、虐め等をする為の道具として使いますか? それともなぜ間違ったのかを説明し、成長させるためのプラスの材料として使いますか? 回答お待ちしております。

  • 積極的になる事は駄目な事なのでしょうか?

    スポーツや仕事でもそうですが、何かを積極的にやろうとすることはつまり「挑戦する事」ですよね? スポーツなら皆のチームメイトがいる中シュートを打ったり、仕事なら新しい事に挑戦したり。しかし「挑戦する」という事は同時に「ミスが起きる」かもしれないという事です。 それは絶対に避けられない事で、ミスが起こる事を前提として挑戦します。 スポーツなら打てば外れる事はいくらでもあるし、仕事でも上手く行かなかったという事はざらにあります。そんな時に、じゃぁそのミスした事をもの凄く咎めて、その人を罵倒し陰湿なイジメまでして苦しめたりしますか?しかも長期間に渡って。  そんな事をしたら、元々積極的に何事も挑戦しようとしていた人もだんだんと気が病んで消極的になるかもしれません。 「try and error」のerrorの部分を異常なまでに非難すればスポーツでも仕事でも絶対に積極的になれないと思うのです。 もちろん、ただ何も考えずに自分の為だけにやりたい放題やってはいけません。 自分が「ここだ」と思ったとき。直感で、ないしは色々思考を練らし後に「いける」と思ったときに挑戦します。 そうして起こったミスを咎めていては誰一人、日本全国誰一人として何にも挑戦出来ないとおもうのですが、皆様もそう思いませんか? 英語でもよく「間違う事を恐れずにどんどんチャレンジすべき」といいます。 そこで間違った時にいちいち異常なまでに非難していては誰も喋れなくなります。 スポーツでも同じ事だと思うのです。 そう私が思うのも、私は昔初心者で団体スポーツを始めた時にミスを異常なまでに責められ、陰湿なイジメを何度もされたからです。 初めのうちは練習したものを実践してやろうと積極性に満ちていたのですが、ミスしたときの異常なまでの非難、そしてそれによるイジメ等を長期間に渡って繰り返されとうとう私の性格は何事にも挑戦出来ない消極的な人間、人の目を気にする人間になってしまいました。 普通のプレー中シュートを外したりした時異常に謝ったりしていました。陰湿な嫌がらせをされない為にです。 そんな消極的で人の目を気にする人間になってもう6年ほど経つのですが、ずっと心の中でそのトラウマと葛藤していました。 このままでいいんだろうかと考えた末、当時私がされた事は間違ってるじゃないかという結論が出て、昔出来たように何事も積極的に失敗を恐れず挑戦していきたいと思うようになってきました。 そこで皆様に質問です。 皆様の積極的になる事に関する私の考えに対する意見をお聞きしたいのと、もう「当時」のような幼稚ないじめ、悪口は無いのだから、私はこれから失敗を恐れずどんどんと挑戦していってもいいですよね? 回答お待ちしております。

  • スポーツとはこういうものですよね。。。

    昔中学時代団体のスポーツをしていたのですが、スポーツマンシップに反するような行為をされた結果それ以来「スポーツ」というもの自体にずっと抵抗がありました。ニュースでよくスポーツの話等を見ても「この人が私が受けたいじめ行為を受けていたら絶対この場にはいないだろう」という事をよく考える事があり、スポーツに関するものを気持ちよく見る事が出来ないでいました。 そのスポーツマンシップに反するような行為というのは、ミスをすると必要以上な罵倒、陰湿ないじめをしたりして、こちら側がいくら頑張る気持ちを持って行っても気持ちが萎縮してしまうような事で、もう周りからのイジメを恐れて何にもプレーが出来ない状態までに追いやられてしまいました。 私は辞めなかったのですが、辞めた人も沢山いました。 ずっと一生この気持ちでいくのはさすがに嫌だと思いまた当時やっていたスポーツを最近やってみたのですが、もちろん当時のようなスポーツマンシップ反するような行為をしてくる人等なく、いじめ等も無く、「思うがままにプレーし、チームと協力し合って勝つ事だけ」を考えながら楽しむ事が出来ました。 当時の様に「このプレーをしたら罵倒やいじめをしてこないかな。。。」等の余計な不安や心配を考えずにする事ができたのですが、そんな時記憶というのは辛いもので、「当時の奴らがもし私が今このスポーツをしている所を見たら笑うのだろうか。。。イジメの行為をまたしてきたのだろうか。。。」と、今いない奴の事を考えてしまう事が何度もありました。 楽しい気持ちを壊すような事なんか考えたくない。。。そう思っているのですが、スポーツをするとこんな事を考えてしまう様です。 解決法として、「そんな馬鹿な事しか出来なかった奴を基準に考えるな。そんな「イジメ」等の行為をされないかどうかを考える必要がないスポーツが普通であり「前提」でもあるから、もう当時の馬鹿共なんて一切考えなくていい」と思うようにしていこうと思うのですが、この考えでいいでしょうか? スポーツとはそんな低レベルな事をする人間の行為を基準にされるものではないですよね? 馬鹿みたいな質問だと思われるかもしれませんが、切に回答お待ちしております。