• 締切済み

悪という概念の役割について

江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

みんなの回答

noname#145142
noname#145142
回答No.16

>オウム真理教の独善をほっておくわけにはいかないでしょう。> これは独善における悪の暴走なのではないでしょうか?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 絶対善における独善の暴走じゃないでしょうか。 他者はそれを見て「これは悪だ」と評価します。 そして彼らを刑務所に入れて暴走を阻止するわけです。 暴走するのは常に善ではないでしょうか。 当人は悪い事をしている自覚がないのですから。 「悪」と評価するのは大抵他者です。 ポアという救いを彼らは大まじめにやっていたのですから まさに地獄への道は善意で舗装されているんですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#145142
noname#145142
回答No.15

補足ありがとうございます。1~11のことはまったくその通りで私自身の述べてることと殆ど一緒です。 その辺のことを納得なされたのは良いと思うのですが一つ疑問が残りました。 >その絶対善に基づく独善的行為にブレーキをかけるために相対的悪が必要となるわけです。> 1・なぜその独善的行為にブレーキをかける必要があるのか? 2・なぜ独善的行為のブレーキになるのか? この辺が私にはよくわからないです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 1・なぜその独善的行為にブレーキをかける必要があるのか? 現世において私たちは他者(関係)を必要としているからでしょう。 関係を破壊されることは死活問題です。 オウム真理教の独善をほっておくわけにはいかないでしょう。 彼らを悪として刑務所に入れる必要があるわけですね。 天上人にとっては他者を考慮した善を手に入れるためでしょう。 2・なぜ独善的行為のブレーキになるのか? 最善を選択するのが定めですから、他者を考慮した方が最善であることを知ることにより独善が修正されるのではないでしょうか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.14

おはようございます、shift-2007さん。 ●私が殿になった暁には… 「カカーッ!サッサともってきやがれ」なーんて、言ってみたい? 滅相もござりませぬ。そんなこと、口が裂けても言えませぬ。 あらおそろしや、おそろしや、カミさんに手をあわせ柏手打ってパンパンパン サワラヌカミニタタリナシ シフちゃんの悲哀 お察し申し上げます。 「ママとお母さんと、時々、オカン」- Webマガジン幻冬舎 http://webmagazine.gentosha.co.jp/mama/vol181_mama.html 「四畳半神話大系 -第8話読書サークル-」 http://www.wat.tv/video/san-mata-08-2uv3l_2exzf_.html

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私が殿になった暁にはまず最初に『大奥』を作るので、 特定のカカァはいりません。 むふふ

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.13

#4です。 >絶対的な善悪が無いということはすべては独善という善といえないでしょうか。 : なるほど、理屈としてそれは一理あります。 たしかに独善なき善はあり得ません。 ただ、独善は善の一部分ではありますが、善=独善とは言えないでしょう。 そのすり合わせに四苦八苦しているのが実情ですが、一刀両断の解決を焦ると解を誤るような気がします。 たとえば、自然をはじめ人間以外の存在に善悪は存在しません。 これを善と名づけようとすると無理が生じるでしょう。 なぜなら、善という概念自体が悪を前提としていなければ生まれてこないものだからです。 単に自然、摂理といったような括りではまずいでしょうか。 善悪の定義は一旦置いておきますが、いずれにしても、善でも悪でもないもの という立場での真理というものは存在しているように思います。 >『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 : まず善ありき、が大前提になっているわけですね。 しかし、リミッターとしてであっても悪という概念の存在を前提とするのであれば、やはり対立概念としてふたつは同列に存在すると考えるしかないでしょう。 この場合、リミッターという解釈には無理が生じてくると思います。 >他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 : 善との拮抗によって無意味化されただけかもしれませんよ。 ところで、仮にですが、この 『「悪という概念」は事実上無意味に等しい』 という命題が、現実社会においても有意に働くとすればどういった点でしょうか。 提示している結論は、このことを補強するためのものかな、という気もするので。 違っていればスルーしていただいて構いません。   

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 この質問、結構宗教的なんですよ。 >たとえば、自然をはじめ人間以外の存在に善悪は存在しません。 これを善と名づけようとすると無理が生じるでしょう。 いえいえ、それは道徳的善悪であって絶対善は動植物にも当てはまりますよ。 進化とは最善の選択の結果ではないでしょうか。 天上人と同じように動植物は他者との関係が希薄なんですよ。 だから道徳的善悪は必要ないのです(彼らは知恵の実を食べていませんから独善的であってもそれほど他者に影響を与えないのでしょう) >単に自然、摂理といったような括りではまずいでしょうか。 そういう側面はもちろんあるんですが、最善を必ず選択するなんて神の意図を感じませんか。 >まず善ありき、が大前提になっているわけですね。 そうです、ある意味この世界が存在する理由です。 罪をゆするということが可能なのは罪(悪)が独善という善だからではないでしょうか。 サタンの罪(絶対悪)を許す必要はないですが、人のそれは許すことが必要なのだと思います。 なぜなら本人は絶対善に基づいて行動しているのですから。 >やはり対立概念としてふたつは同列に存在すると考えるしかないでしょう。 もちろんそうですが、単独で存在しうるのは道徳善ではなく、絶対善です。 なぜなら、絶対悪がこの世界には見つからないからです。 >『「悪という概念」は事実上無意味に等しい』という命題が、現実社会においても有意に働くとすればどういった点でしょうか。 相対の地獄である現世では現実的には無いでしょう。 でも輪廻転生する理由の一つにはなるんでしょうね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#145142
noname#145142
回答No.12

>気持ちはわかるのですが、絶対善が根っこだとするならその果実には悪は含まれないはずです。>  おそらく善を侵害するという意味で悪というのがある意味ありえる訳ですよ。なので善を元に善が生まれたなら、その相反的位置に置いて悪と定義することになるのではないでしょうか?つまり幾ら悪意を持たずとも位置だけは生まれるという意味です。 >善からは善しか生まれないと思います。>  そんなことはないです。ご自身の仰る絶対善というのは本能的感情的なのを善と言っているわけです。そうすると本能や感情というのは生きたいとか苦しみたくないとかいうのがある筈です。そうするとそれを不当に侵害されるというのは何とも言えない悔しさが沸いてきます。そうするとそういう行為を取ること事態悪と認識できるのが人間というものです。その上でそれが分かっていながら悪意を働かせるという行為はおそらく本能や不の感情を消す快感を満たす為に罪(良心的な意味で)のない人を利用して苦しみを与えるということになるだろうと思うわけです。そうするとご自身の仰る絶対善から派生した行為が悪となりえるわけで、それをご自身は正当化して善と言いたいだけなのではないかと私は思いますがどうでしょうか?  >犬をいくら掛け合わせても猫は生まれないはずなのです>  そうするとオウム真理教でサリンをまいた人もそれを命令した麻原も善人ということを恐らくご自身は仰りたいのでしょうが、前述通りやられた側や親族などは明らかに悪に見える訳でそれを認識できるのも人間なわけで、そうするとサリン事件を悪いことと認識できる餓鬼がカッコイイと思って殺人を犯したとしましょう。餓鬼だから良いというものではなく悪い事と認識できていながら行った行為はやはり悪意ではないのでしょうか?  そうすると悪い事と認識できる生命体の中では絶対善が2次的刺激によって悪意に発展させる可能性があるのだろうと思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 少し袋小路に入ってしまったので今一度整理したいと思います。 1.最善を選択しようとする性質、これを絶対善と勝手に命名(ここが始まり)。 2.全ての人はこの法則から逃れることはできない。 3.あらゆる人の行動は本人の自覚の有無にかかわらずこの法則が作用している。 4.しかし、絶対善の法則にだけに従うだけなら独善的になる。 5.我々は他者との関係なしには生きることはできない。 6.そこで、絶対善に基づく行為に対して評価する必要が出てきた。 7.それが道徳的善悪(相対的善悪)。 8.絶対善に基づく行為が他者との関係に置いて相対的にどの程度問題となりうるかの評価システムそれが道徳的善悪。 9.しかし道徳的善悪の行為も全ては絶対善の法則が元となっている。 10.人のものを盗むのは絶対善に根差した行為ではあるが、道徳的善悪から評価するなら悪と評価される。 11.これによって、盗みという絶対善に基づく独善行為を抑制することができる。 >犬をいくら掛け合わせても猫は生まれないはずなので ここでいう犬とは絶対善の子供です。猫とは絶対悪の子供です。 道徳的善(相対善)、道徳的悪(相対悪)ではないのです。 >不当に侵害されるというのは何とも言えない悔しさが沸いてきます。 そうです。その絶対善に基づく独善的行為にブレーキをかけるために相対的悪が必要となるわけです。 >餓鬼だから良いというものではなく悪い事と認識できていながら行った行為はやはり悪意ではないのでしょうか? そうです、相対的善悪に照らし合わせてみれば悪(相対悪)です。 >その相反的位置に置いて悪と定義することになるのではないでしょうか? もちろんそうです。道徳的善(相対善)には、道徳的悪(相対悪)がセットされています。 しかし本流である絶対善には絶対悪は必要ではありません。 事実、この世界には絶対悪が存在しません。 そういう意味で、絶対善は単独で存在しうると思えるのです。 単独で存在しうるのは相対善ではなく、絶対善です。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#194996
noname#194996
回答No.10

再三読ませていただき、納得させていただきまhした。 おおむね腑に落ちました。 細かい点引っかかる点もありますが、私は賛成させていただきます。 問題は >『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 この結論ですね。 絶対善というものを想定することはとりもなおさず「善の暴走」を是認するということであり、独善、つまりひとりよがりということなのでしょう。ぼうそうがせんずり(ますたーべーしょん)にとどまる限り社会的には無害といえますが、その暴走が周囲に迷惑を及ぼす程になるならば、やはり目には目、警察組織、あるいは自衛隊などの暴力機関を用いる必要な事態にいたるだろうことは自明だと思います。そういうことですね。 ちなみに、シフト2007様は天上人にあこがれておいでなのでしょうか。

shift-2007
質問者

お礼

何度も読んでいただいたようでありがとうございます。 天上人にあこがれてはいません。 今この世界を理解するためのヒントがほしいだけです。 ご回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.9

こんばんは、shift-2007さん。 ●そうだよ僕は江原さんまでテリトリーなのさ。 ↑ テリトリーってね、ねこじゃあるまいし、そこから出れねえのかよー ったく、世話の焼ける ブツブツ ちょっとは、動けっつーんだ! は、はーん、おまえは殿か? 箸をもてーーー、ってか? 自分でとって来ーーーい! たってるものは親でもつかえ、ってか? 立ってるって? 薹がかい? ダ・レのーーー!! ったく、くえねえやつだぜー わるいやっちゃー しゃーないなー ほいよ。お届けものだぜー 「中世の東海道をゆく-京から鎌倉へ、旅路の風景-」榎原雅治 著/中公新書 http://www.chuko.co.jp/shinsho/2008/04/101944.html 弘安三年(一二八〇)十一月、ひとりの貴族が馬に乗り、わずかな随伴者とともに東海道を京から鎌倉へと向かっていた――。中世の旅路は潮の干満など自然条件に大きく左右され、また、木曾三川の流路や遠州平野に広がる湖沼など東海道沿道の景色も現在とかなり異なっていた。本書は鎌倉時代の紀行文を題材に、最新の発掘調査の成果などを取り入れ、中世の旅人の眼に映った景色やそこに住む人々の営みを再現するものである。 【QNo. 4511673この世界に信じるに値するものは何か】 http://okwave.jp/qa/q4511673.html

shift-2007
質問者

お礼

きゃはははは、削除されてやんの 私が殿になった暁にはこのサイトを配下に置き君の回答には花柄の枠をつけてあげよう。 悪は幻じゃないよ。 ご回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#145142
noname#145142
回答No.8

>道徳的善悪は絶対のものではないので、善の反対を悪とすることには無理があるように思うのです。>  絶対善の反対という意味でしょうか? 確かに以前のshiftさんの絶対善の意味では悪は存在しませんが根っ子以外の「悪意」とかそのような次元では有り得るのではないでしょうか?自分のカタルシスの発散のためにニヤリと笑い悪意を持って無関係な人を貶めるという場合根っ子のカタルシスの発散は自分にとって良い事を行う事ですが悪意を持つという行為自体はやはり悪といえないでしょうか?  そういう意味での善としては相反的に悪の位置が出てくる訳です。ただ表裏一体ではないというところはあります。つまり善の裏側に悪が付きまとうという訳ではないという事です。 >なぜ、席を譲るのが善で、譲らないのが悪なのかを考えると必ずしも悪は善の反対物ではないと思えるのです。>  以前の絶対善という意味ではそうですがやはり2次的な悪意や善意という意味では相反的な位置関係がありえると思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >自分のカタルシスの発散のためにニヤリと笑い悪意を持って無関係な人を貶めるという場合根っ子のカタルシスの発散は自分にとって良い事を行う事ですが悪意を持つという行為自体はやはり悪といえないでしょうか? 気持ちはわかるのですが、絶対善が根っこだとするならその果実には悪は含まれないはずです。 善からは善しか生まれないと思います。 犬をいくら掛け合わせても猫は生まれないはずなのです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.7

こんばんは、shift-2007さん。 江原ときますか? エバラときたら、やっぱ、「焼き肉のたれ」ですかね? <ちがうか? http://www.ebarafoods.com/recipe/index.php 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 ↑ そう書いてあったのか? ふーん。最後までよりよい方向って? 死――――――――――――――生 さて、どっち? ⇔ 守護霊ってんだから、守るんだよな、死の淵から 自らのいたらなさを誰よりもよく知っているのが自分自身なんだよな たとえば、、嘘ついてその場をどんなにうまくやり過ごそうが 嘘ついたことを一番よく知っているのは自分自身なんだな 他人にどうこう言われる以前に 自らのいたらなさに耳塞いぎ目つぶってるのも自分自身なんだな だから、いたらなさを叱ることは時に人を死の淵へ追いやる場合もある 死んでものごと解決するわけじゃなし そんなとき守護霊っつーうヤツが現れるんじやないかな? そっと、頬にkissをする。 「大丈夫」/ Hilcrhyme http://www.youtube.com/watch?v=phKkZNVcBDU 【電子親和力】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E8%A6%AA%E5%92%8C%E5%8A%9B 【物性なんでもQ&A】 http://homepage2.nifty.com/bussei_katsuaki/nandemoQ&A.html 【イオン】 http://www.tennoji-h.oku.ed.jp/tennoji/oka/2005/05ko1-05.html shift-2007ちゃん、おいらしばらく潜るから。がんばれ~♪ 「四畳半神話大系」森見 登美彦 著 角川文庫 http://yojouhan.noitamina.tv/story.html 「夜は短し歩けよ乙女」森見 登美彦 著 角川文庫 http://www.kadokawa.co.jp/sp/200611-07/

shift-2007
質問者

お礼

噂をすれば、 そうだよ僕は江原さんまでテリトリーなのさ。 面白そうな本を紹介してくれるね。 冬は本を読むにはいい季節だよね。 潜る・・・さては冬眠だな ご回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • _AXIS_
  • ベストアンサー率11% (2/17)
回答No.6

善が生じれば悪が生じます。どちらかしかない、というのはありえません。 言っても解りませんかね。 その考え方だと躁状態になって片方に寄ったがゆえに

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 アイコンかっこいいですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 悪という概念の役割について

    江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 いじめを肯定する意図はありません。 ただ、悪とは何かについて考えた結果です 皆さんはどう考えますか。

  • 悪と言う概念の役割について

    江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 シニアの諸兄はどう感じますか。

  • 悪という概念の役割について、

    江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

  • 悪という概念の役割について

    悪という概念の役割について 江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 神とは「悪」なのか?

    私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…

  • 悪は 存在しない

     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • 『選民思想』とは善なのですか?それとも悪なのですか?

    只今、選民思想について調べていたのですが、 調べているうちに選民思想が善なのか悪なのか分からなくなってきたので、質問します。 まず『善』の方ですと、ユダヤ人関連がそれにあたります。 『ユダヤ教においては、選民であるという考え方は、ユダヤ人が神と契約を結ぶために選ばれた人々である』という、迫害され続けてきたユダヤ人に対する『救い』の言葉として、選民思想という単語が存在しているようです。 そして『悪』の方ですと、テイルズオブデスティニーのミクトランがそれに該当します。 『極端な選民思想の持ち主。 天上王を名乗って徹底した恐怖政治で天上全体を支配していた。 地上の民に全く価値を認めておらず、選ばれた民である自分たち天上人が穢れている地上とその民を完全に支配(或いは抹殺)するべきであると考えている』 このように、天上人の為なら地上の民など皆殺しにしてもいいと公言しております。 どちらも『選民思想』という単語を使っているにも関わらず、こうも意味が違います。 因みに私は『選民思想』という単語は後者のミクトランのような人物の事を指す単語―――要約すると、神とかに選ばれた民以外は死のうが苦しもうが構わないという思想―――とばかり思っていたので、前者のユダヤ人に対しての使われ方には驚きました。 果たして、選民思想は善なのでしょうか?悪なのでしょうか?