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悪という概念の役割について

江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

みんなの回答

回答No.5

人の生きる上での本質的価値は、自己の精神的充足にプラスかマイナスかであり、善悪や名誉、お金といった他律的価値は、社会性の発達において、自己中心性を矯正するために二次的に派生したものに過ぎない。 深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても本質として悪(非認識=非充足)に属する、いわゆる必要悪である。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 出来ればもう少し平素の言葉でお願いします。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

>他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しい : という点には同意しますが、 >すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが : は飛躍で、悪が無いのなら善も無いと捉えるのが自然でしょう。 >肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうる : のは確かにそうでしょうが、危険な代物となった時点でそれは善とは別物です。 善とは【善いと思われること】にすぎないので、危険な代物となるのは、それを悪と呼ぶかどうかは別問題ですが、「善いと思われたが予測が外れてそうではなかった」ということになります。 結局、我々人間の能力自体に帰すべき問題であって善の概念とは分けて考える必要があるでしょう。    >『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 : 暴走してしまったものはすでに善とは呼べないでしょう。 独善とは善と勘違いすることです。 おそらく善とも悪とも不分明なもののほうが現実には多いのでしょう。   

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >悪が無いのなら善も無いと捉えるのが自然でしょう。 以前に絶対善という質問を立てたとおり、善はある種の法則であって善単独で存在しうると私は思っているのです。 もっといえばあの世を含め、この世界にはレベルの差はありますが善しかないといっても過言ではないと思っています。 絶対的な善悪が無いということはすべては独善という善といえないでしょうか。

noname#145142
noname#145142
回答No.3

 善と悪というのは相対的で間逆の位置か関係にある訳で善を示すとその逆に悪を想定せざる終えないわけですよ。 意味わかります?  例えば お年寄りに席を譲る=善 とすると相反的に 席を譲って欲しそうなお年寄りが目の前に居ても席を譲らない=悪 となるわけですよ。極論ですよ。そういう意味で善の位置により悪の位置が決まるわけで善の裏にいつも悪が付きまとうのであたかもリミッターのようにshiftさんは捉えたのかもしれませんがそうではないような気がします。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 道徳的善悪は絶対のものではないので、善の反対を悪とすることには無理があるように思うのです。 なぜ、席を譲るのが善で、譲らないのが悪なのかを考えると必ずしも悪は善の反対物ではないと思えるのです。

noname#143977
noname#143977
回答No.2

シフトさん今晩は仁科(反ニューワールドオーダー)です。宿題忘れました。頭の中がオキュパイで 悪は新世界秩序のために1%支配層がこしらえる幻で 俗化した比喩で天上界と人界を富裕層と貧乏層におきぱえ(ニューワールドオーダー反対) 天上人である富裕層は資産規模が兆単位のお金持ちで、地上にいる貧乏層はそれ以外の99%で(ニューワールドオーダー反対) 金持ちケンカせずといいます。彼ら彼女ら1%層には善悪の対立もなく、しかも悪魔崇拝ですから善悪に関して葛藤もなさそうで(ニューワールドオーダー反対) 私は貧乏ですがケンカしません彼女もなく(ニューワールドオーダーイズマイン)新世界秩序は私のものだ 白人は世界や自然や他民族を攻撃、征服、憎悪、支配してきたルサンチマンもりもりだそうで、自然をだいぶ理解し征服できたあともその征服欲を同種であるはずのヒトに向けつづけ(オキュパイや反NWOにも同胞憎悪という同じ穴のむじなのにおい) 感情を持たない富裕層が、感情を持つ貧乏人たちを支配・攻撃・征服・安心・安住すべく、貧乏人とくゆうの慎ましやかな善悪感情なるものを利用し、メディアによっても不安感や対立感情を増幅させ戦争おこしコントロールし金儲けし口減らしをしたりするそうです。パワフル。白人や富裕層の人々にとって世界とコミュニケーションをとる方法がそういうやり方しかないようで たぶん哀しくて最悪なのは富裕層なのに、うかうか対立させられる貧乏人たちはばかなのでまんまと隣人どうしお互いを悪と見なしあいます そういうところにけちな悪や善悪の役割りがあり、富裕層は自らについて善悪を判断する能力(感情、倫理)を著しく貧しくしか持たないくせに、だからなぜか冷淡にも悔しくてか善悪を判断できる貧乏人(貧乏でも善悪判断に欠く人もいますが)の善悪感情を悪用し、情報やパワーやマネーやシステムでかれらを征服しつづけるべく丹念に離反の策をろうするわけで シフトさんが善悪対立の彼岸にある『あの世や天上界の有無は気にしないでください』というようなことを書くみたいに、二分した勢力が互いに視野狭窄すれば、上位のものへのまなざしや批判がなくなり、金持ちは人々の隣へ薄い幻の小悪を用意することで、自らという確信犯的な濃い幻の巨悪を隠すわけです 不如意を生きる人の心すなわち違和感や不満や思い残しの総体としての意識は、人生における真犯人を探し、見つけたと思うとルサンチマンは喜びます。何が悪であり、何が望ましい善や美や光かがわかると、くすぶっていた力や鬱積が出ていく方向性を見出してしまいます。人は絶えず敵を探し求め、反ニューワールドオーダーもどうなのだろう夢のような視野狭窄まるで手の届かない広すぎる現実、最近ずっとテレビみてない、職場でのけちな能力上の階梯感覚への鬱陶しさはNWOとは無関係ながら 自然な対立感覚に加えシステムや情報操作や捏造報道による更なる意図的な現実認識や対立のなかでも貧乏人たちは富裕層という黒幕を忘れさせられ、真珠湾攻撃、911、リビア、あと何、これから? 長い目なんか冷ややかで、歴史やらせですとか、だらだらだらだら、歴史、歴史、マインドコントロールによる敵対感情の強化、貧乏人どうしでの卑近な敵味方の二分化、離反をこしらえることにより1%富裕層は99%の目耳から自らの存在を隠しながら人々から富と命と時間と仲間意識とを奪い取ってきたそうで、それでも仲間意識や同胞意識は吸収できず、なぜならそれをかれら自身が壊しているから、何が楽しいんだか むなしいそうした感情のない1%富裕層という巨悪の役割はなんなのかと思うと、人類自身にとってのアポトーシスという善で、人たえれば他の生き物のびのびしそうでも核汚染したらあほなのに核自殺は迷惑ながら、ヒトという弱く冷たく傲慢な種にピリオドを打つことで、あまり打たれたくありませんが雨のなかスクーター壊れたので傘さして歩いて買い物に行きますこれから なんで江原本なんか読んでんですか

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 貴方はlittlekissさん以来の逸材だ。 貧乏層のカルマを知ったなら、金は無いが我々は金持層の仲間入りではなかろうか。 ぼろは着てても心は錦かしら。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.1

1,善悪という概念は、人間が理論的に創り出した ものではないでしょう。 人間社会において、秩序は最も基本にあるものです。 その秩序を守るために、善悪という概念を 持ってきたのだと考えます。 つまり。 経験上、抑止したい考えや行動を「悪」と名付け、 奨励促進したいものを「善」と名付けたのです。 善悪は経験則から導かれたものだから、 これは何で悪いのか、という質問に、理論的に 答えることが困難になるのです。 このように、善悪という概念は、社会の存在を前提と しますから、他人との関係で問題になる概念だと思われます。 対象が人間以外の動物や物質の場合でも、結局は 人間関係に行き着くものだと思います。 その意味で、質問者さんに賛同します。 2,悪が無ければ、善もないでしょう。 男がいなければ、女もいない理屈です。 この意味で、善の暴走を阻止するために悪が ある、てのは当たっていると思います。 反対に、これは当然ですが、悪を抑制する 為に善があるのでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 自分でも今一つはっきりしない部分があるのですが、 >2,悪が無ければ、善もないでしょう。 ここなんですが、善だけが単独で存在しうるのではないかと思うのです。 説明がうまくできないのですが、虫、植物、動物にも善性を感じる時があるからです。 もちろん、人間のそれとはだいぶ違うのですが。

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