• 締切済み

死ぬことへの恐怖、どうにもならない時があります。

4610-564の回答

  • 4610-564
  • ベストアンサー率29% (238/799)
回答No.9

死んだら存在すら消えてなくなるのに 記憶だけ残ってなんになるんですか? じゃあ貴方は、見ず知らずのゴミ箱に捨てられてる割れたCDやフロッピーディスクを 大金をかけてデータを取り出し見ようとします? しないでしょ?他人様の記憶なんて服についた埃よりも価値も存在理由もないんですよ。 というより脳みそが機能しなくなるなら 記憶も糞もさっぱり消滅します。 魂?貴方はアホの子ですか? そんな物質存在しません。 動いている肉が、機能をなくせば 使えなくなった動かない肉になるだけ 魂なんか存在してたら、生きてる人間よりも多くせまっ苦しい世の中になりますね。 人間死ぬより蟻やら水揚げされる魚のほうが死んでる数のほうが多いですから。 あほらしい娯楽書の内容鵜呑みにする その馬鹿げた幼稚なことから目を覚ましなさい 大人でしょ? 人の死を体験してみたいなら今の貴方のパソコンのHDDをはずしてみてください。 電源を入れても NO SYSTEM とでて先に進みません 心臓を動かす命令をして 呼吸という動作を無意識にでもさせる OS部分 写真などを記録する データ部分 人間で言えば、脳みそにあるもともとの部分が無くなれば、人間もこれと一緒 無であり、ただのプラスチックと金属の塊です。 人間だってそれと一緒 死ねば 使い物にならない食えない肉と骨とたんぱく質の塊になり 生き物でなく物質になるだけです。 ちなみに、他人様は、他の他人様の事なんかなんとも思いません 命の価値は自分だけしか価値が無いので 他人が死のうが痛くもかゆくも無いです。 貴方が目の前で死んでも、悲しいとかそんな干渉すら起きません しいて言えば 邪魔な腐る有機物が落ちてる程度 だって貴方のこと知りもしないし 知る必要も無い価値もありませんから あなたが金でも配ってくれれば まあ 儲けぶちが減ったわと記憶だけします。 死ぬのは生命のゴールです。 自分でここで終わりと決めることは悪いことではありません。 ぜひ遂行するといいですよ そこで終わりになるだけです。 気体も液体も地球に残らす終了です

関連するQ&A

  • 死の恐怖を克服すること

    私、50歳の会社経営者で、既婚者です。 年齢的にも人生の折り返し点を過ぎ、今更ながら、死への恐怖を感じます。 人生のなんたるかも分からない若かりし頃、一度この恐怖に取り付かれ、眠れない日々が続いたこともあります。 自分なりに様様な文献を貪り読んだりし、自分なりの解答を得ようとしました。ある人は、無になる、といい、ある人は、魂は永遠になくならない、という。そして、輪廻転生、つまり、生まれ変わりが続く、という人もいます。 しかし、どうであれ、自分という意識は、この世から消えてしまうということには変わりはないのでは、と思うのです。多くの人の死への恐怖というのは、この自分という意識の消滅、ということへの漠然とした恐れだと思います。肉体が物理的に滅びるということは、誰が見ても明白です。 問題は、自分という意識がどうなるか、ということなのです。 そんなこと、そうなってみないと分からない、ということは、十分承知しています。 みなさんの考えをお教えください。

  • 排尿時の恐怖について(希死念慮との関係)

    排尿時の恐怖について(希死念慮との関係) こんにちは。 ネットで調べても、載っていないので、質問させていただきました。 私は、排尿時に恐怖感があります。 よく言われる排尿恐怖ではないのですが、排尿時に、自分自身が実はここに居なくて、 学校や職場でもらしているのではないかという恐怖があります。 中学校頃から在り、気にならない日もあるのですが、 ここ最近、再び、排尿の度に感じるようになりました。 もう、どうでもいいや、的な気持ちで、いつも用を足しています。 中学校の頃は、一ヶ月に一度程度、雲の上を歩くような感覚に捉われ、 それ以降、あまり、自分自身がこの世に存在しているのかどうか、分からないまま過ごしています。 最近は、雲の上を歩くような感覚はありませんが、虚無感を感じています。 結構多くの人が持っているとは思いますが、希死念慮をずっと持ち続けています。 確かに、死にたいと思わない時もあるのですが、中学から考えてみて、ほぼ半分は、希死念慮に悩まされていました。 どんなに順調でも、偉そうな事をコメントしてても、確実に苦しまずに死ねる方法を探している自分に嫌気がさします。 同様の悩みがある方、もしくは、解決の方法をお教えくださいますようお願いします。

  • 死の恐怖について

    「自分が死ぬ」 ことの恐怖を覚える人は多いと思います。 ・「自分の死」の何をおそれますか? ・一般的には何を持って「死の恐怖」と言われていると思いますか?  心理学的にいわれていることもお願いします。(専門の方がいらした ら)                  私が感じる恐怖は、肉体的な痛みや苦痛です。 ですので一番おそれる死に方は、火に巻かれた末とか、拷問の末とか、長い苦痛を伴う闘病の末などです。私にとって「死の恐怖」とは「痛い死に方」のことです。 この世に自分がいなくなることには恐怖は感じません。 できれば、立つ鳥水を濁さずが望ましいですが、死んじゃえば関係ないか・・・とも思います。 わざわざ「死」を扱って、話す方や本を書かれる方などは「人は自己の消滅」に恐れを抱く・・・ことを一般論のように語られている方が多い気がします。ホントにそうなのでしょうか?一般論なのですか? その辺の豪快なおばちゃんたちは「死んだらな~んにもないんだから楽しく生きればいい」「子供の世話になっては死にたくないね~」こっちの方が一般的だと思うのですが。 やり残したことへの未練ならばわかります。でも手を付けているところまでです。今の企画書、とかあさって孫が生まれるから見たい、とか。 ご意見お願いしますm(__)m

  • 死について真剣に考える恐怖心

    このカテゴリでいいのか分かりませんが、 一人でいたり、夜中にふと死について考え出すと 怖くて一週間も、長いともっと頭から離れなくなります。とてつもない恐怖心が生まれます。 死ぬとどうなってしまうのだろうか、時間は確実に 過ぎていって死に近づいている。今すぐでなくても、 いつか死ぬ日が絶対に来てしまう。その日が今から 怖くてたまらない。今まで生きてきた時間をあと何度か 繰り返したら、もう死が目前になってしまう、など。 自分の意識がなくなってしまう、考えることもできない そんな状態を想像すると本当に怖いです。 思い出さないようにしても、ふと頭によぎるんです。 どうしたらいいでしょうか?? どんな考え方をしたら少しは楽になるでしょうか?

  • 「スピリチュアル」は一種の宗教なのでしょうか。

    生まれる前に、自分という姿形、性、素質などを選んで、足りないところを補う修行をするために生まれてきた、という本をこれまでよく読んできました。たしかにそう考えるとより良く生きられる気はします。 たとえば、自分は「なにをやっても不器用な人間」だとします。でも、生来「頑張り屋」だとしたら、努力を学ぶために生まれてきたと言えそうです。出来が悪いのは、「努力という美徳」を学ぶ為に自分で選んだ特徴だとスピリチュアルでは考えられそうです。 でも、ふと思うのですが、こんなに上手いことあの世で計画などするものなのでしょうか。私は魂の存在は信じているのですが、すべての魂がこの世から飛び立って、どこかでこの世の反省をし、次世の計画を練るなんて、なにか腑に落ちません。なにか不自然な感じがするのです。 魂ってそんなに計画的なものなんでしょうか?もっと自然に近いものだと思うのですが。 それに、やはり科学などではどうにも真実だと立証できないことを説くのは宗教ではないか、スピリチュアルを信じるということは、宗教を信じるのと同じことではないかという気がしています。 「スピリチュアル」について、肯定的でも否定的でも、私のように懐疑的でも何でも良いので、みなさんのご意見を聞かせていただければ幸いです。

  • 死の恐怖の克服は

    私は20代ですが、身近な者が急死して以来、「自分もいつか死ぬんだ、それも突然かも知れない・・・」という恐怖が大きくなってきて困っています。 基本的には、健康な人間であれば、誰しも死ぬのは嫌だと思いますが・・・。 その身近な者の死後しばらくは精神科にかかっていました。通常の生活に戻るにつれ、忙しくてそんなことを考えていられなくなったのですが、根本的な恐怖はもちろん解決せず、ふとした時に恐怖に駆られます。 私は、死というのを、生まれる前の状態に戻る事と思っており、この認識をかえるのはかなり難しいと思います。その上で、自分という意識が消え去る(永遠に続くのもまた怖いですが)、宇宙もいつか消滅するなどと考えてすごく恐ろしくなってしまうのです。 これは、年齢を重ねて「生きている内やることはやったぞ」という充実感を得たり、「生きるってそんな良いものじゃないな」というような目にあったりして、自然になくなって行く恐怖なんでしょうか。 満足して亡くなった方のお話など聞けば落ち着くんでしょうか?

  • 哲学と死の恐怖の克服について

    私は小さなころから死が怖いです。 死について考えると、世界が何の根拠もないものに思えて、 日常生活というのは全て無意味な勘違いで、私にわかることなんて世界にひとつもなく 私に与えられる意味や価値なんてなにもなく、ただいつか消えてしまうのだと思うと恐ろしくてなりません。 そのような思いがあり、哲学は何かその恐怖を克服するヒントになるのではないかと考えて 大学では哲学をしようかと思ったのですが、一回生次の授業で教授が何をいってるのか全くわからず (ギリシャの人達は魂をどうの、というような話をしていたとおぼろげに覚えています) 諦めてしまいました。 しかし、このまま生きていって「社会人としての充実した生活」のようなものを送っても その先に死の恐怖の克服がある気が全くせず、やはり自分は何かをしなければならないとおもい、 再び哲学に関心をもっています。 そこで質問なのですが、 (1)哲学と死の恐怖はどのような関係にあるのでしょうか。 大学での授業はギリシャからはじまったのですが、ギリシャ人の思考は私が死の恐怖を克服するために役にたつのでしょうか。どのように役にたつのでしょうか。 もしそれが死の恐怖の克服に役に立つのであれば、今度はちゃんと取り組んでみたいと思います。 はじめから死の恐怖を克服するという目的をもって取り組むことは真実を探求する学問とは相いれないような気もして それなら潔く哲学ではなく宗教に取り組んだ方がいい気もしています。 (2)死の恐怖を克服した哲学者はいますか 若い時は死の恐怖で発狂しそうになったけれども晩年は安らかに死んだ そういう哲学者としてはどんな人がいますか。 (3)今死の恐怖と取り組んでいる人としてはどんな人がいますか 中島義道という人や森岡正博という人の本にははっきりと、自分は死が怖くてその克服のために哲学をしていると書いてあったように思います 他に、そういうことを言っている哲学者はいますか。 (4)最後に、こういう私にお勧めの書籍などあれば教えていただければと思います。 よろしくお願いいたします。

  • 死の恐怖って?

    みなさんは「死ぬのが怖い」「死にたくない」と思う方が多いと思います。私もそう思います。 でも、なかには「死にたい」「楽になる」と言う方もいます。友人に聞いても、「そんなこと考えたこともない」と言われます。人の「死」に対する考えが違いすぎて、死ぬのが怖いのは私だけなんじゃないかとか考えてしまいます。私は死ぬことで自分が消えてしまうこと、自分のこの気持ちや魂が消えることが怖いのです。でも忘れられるのが怖いという方もいます。 みなさんが言っている「死ぬのが怖い」の「怖い」ってなんですか?

  • 死に対する恐怖

    20代半ば辺りから死に対する恐怖がすごいあります。ニュースやネット記事で 闘病のことを読んだりすると すごく怖くて心臓がバクバクします。 祖母や祖父や親戚も亡くなっていき その時の闘病生活を思いだすと 怖くなります。自分の大好きな両親も   いつかそうなる。まだ先かもしれないし 近いかもしれない。苦しむ姿を見たくない 見るのが怖いです。そして永遠に会えなくなるという現実が怖くてたまりません その次は自分。それも考えるダケで怖くて 涙出てきます。 両親や大切な人が苦しむ姿や 亡くなったら会えなくなるという現実 、皆さんも考えると怖くなったりしますか? 考えてもどうにもならないけどこわくて どうしたらいいか…

  • 死の恐怖症

    今までも全然感じていなかった訳ではありませんが、何故か気になったので、このサイトで「死」を検索し、 でてきたQ&Aを見ていたら怖くなり、「死にたくない」と強く思うようになってしまいました。 普通に仕事したり、遊んだりしてる間にも1時間、1分、1秒とどんどん時が過ぎ、歳を取り、 父や自分が死に近づいているかと思うととても怖くなり、時間が経つのが怖く感じます。 (母は既に亡くなっており、身内の死を経験しているのも、より恐怖を感じている一因ではないかと自分でも思います) どういう風に考えていけば良いのでしょうか。 メールカウンセリングを受けようかなとも考えていますが、受けた方が良いでしょうか。 死の恐怖症という言葉もネットでカウンセリングについて調べていて分かりました。 調べなければ良かったのですが、そう言っても仕方ないですね…。

専門家に質問してみよう