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死ぬことへの恐怖、どうにもならない時があります。

生きている限りいつか死が訪れることは仕方ないことだとはわかっているのですが、 いつか自分がこの世から去り自分自身の記憶もいつかはなくなってしまうと思うと とてつもない恐怖に駆られどうしようもなることがあります。 スピリチュアルな本にはなくなってからも記憶はあり、魂は永遠とありますが、 では、なくなってからもものを考えたりできるのか、自分自身が自分自身であるという 認識はあるのは、それも含めて永遠なのかが分からず、心底やるせなくなることがあります。 同じようなことで悩まれた方、こう考えるようにしているという方、どんなことでもかまいません。 コメントいただけると有難いです。

みんなの回答

noname#156742
noname#156742
回答No.13

死について突き詰めて考えてしまいましたか…辛いですよね…。私も小学校3年の頃に祖母の死に直面し同じ恐怖に襲われ結婚する迄定期的に恐怖に耐えられなくなる発作を起こしてました。何故、結婚する迄かと言うと亡くなった主人が恐怖の発作を起こしている私を見て呆気なく「人は必ず皆死ぬんだから今から困るなっ!死んでから困れっ!自分(私)が死ぬ時は手を握っててやるから。」と言ってもらい落ち着きました。しか~し!その旦那は昨年の5月にガンで一足先になくなっちゃいました。今では小学校2年の息子が「お母さんが死ぬ時はお父さんの代わりに僕が手を握っててあげる!」と言ってくれるので、身障者の母子家庭ですが、精一杯生きて息子を一人前にしたら私はここまで精一杯やった!と満足して死ねるのではないか?と思っています。多分人は自分が死ぬ時にやり残した事を後悔するのが大きな恐怖なんだと思います。主人の最期を見てそう思いました。因みに主人の最期に立ち会えませんでしたが、最期の1秒迄私達母子の為に生きようとしてくれていました。貴方も後悔しない様に人生を生きて下さい。

Bluemoons
質問者

お礼

大変遅まきながらご丁寧なご回答をありがとうございました。本当に素晴らしいご家庭ですね。感動致しました。

回答No.12

『死』というものに対する恐怖心、強迫観念としたものを一度も感じたことがない。とした方はまずおられないと思われます。(強弱の差こそあれ。) そうした『死』に対する思考性の相違としたものもあり、これも千差万別と思われます。 何を言いたいかというと、自分の死に対しての“温度差”というか、それを強く感じる方、そうでない方とで“人によりけり”だとおもわれます。 >>・・・とてつもない恐怖に駆られどうしようもなることがあります。 このお気持ちよく分かります。 私もそうでした。死んだらみんな、あんな冷たく真っ暗なお墓の中に入れられてしまうのかと思うと“どんどん”そうした恐怖心が増幅し抑えることが出来ずに発狂しそうになったり、夜中に『・・・やめてー。』って大声で叫んだりしたことが何度となくありました。 そしてそうした後も消え失せることはなく、今度は自分の気持ちを落ち着かせることに胸が詰まり、口では言い表せないほどの辛い思いをしていました・・・。 少し、落ち着き始めたのは最近になってからです。何によってそうした変化が表れたのかというと、1つは年齢を重ねたこと、物事に対する解釈の有り様、思考性、志向性(これだけでは無いですが。)としたものがあります。 『生きる』ことえの執着心(想い)の強い人はそんな風になりやすい、と聞いています。(もちろん良い意味でです。)なので“生きよう”とするパワーの表れでもあり、真剣に(真面目に)“人生”というものを捉えている証拠でもあるようです。 >>魂は永遠とありますが、 では、なくなってからもものを考えたりできるのか、自分自身が自分自身であるという 認識はあるのは、それも含めて永遠なのかが分からず、心底やるせなくなることがあります。 確かに考えればそうとも言えますよね。しかし、『魂は永遠・・・。』なり、とした事は、信じる。信じない。に分かれるでしょうね。後者の場合はかなり居られると思われます。 ちなみに前者なのですが、人には『念』というものがあります。 その人を想えば通づるものが有ると思っています。(強く想えば余計に。) そして、心がけている事は今やれる事は今やっておく。どんなに小さな事でも構わない、やれる時にやるということです。それは後で後悔しない為でもあり、心の整理が出来るからです。躊躇せずに行動するとも言えます。 こうした心境に至るようになり始めてから以前の様な悪夢は薄らいでいることは確かです・・・。 しかし、生きている以上“不安感”はつきものです。逆に言えば不安感は“生きている証”ともいえますよね。 そうした『死』への謎を感じることは決して異常でも無く、脳神経の乱れでもなんでもないです。 繰り返しになりますが、寧ろそれだけ『人生』に対して、いい加減ではなく、真面目に受け止めて居られると言い切ることができますね。 こうした、現在の状況(状態)は決して好ましくない事(悪いこと)ではないことを認知してくださいね。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.11

貴方は今何歳でしょうか? 若いうちは死ぬ事に恐怖するのは当たり前の事です。人はそれによって死なない方策を考えるからです。 恐怖を恐怖とだけしか考えられないのは、貴方がまだ人生経験が少ないか、死なないための方法を考えずにいるからです。 それが生物の正しい反応ですから、死を恐怖するのは悪い事じゃありません。 優秀なスタントマンは異常に臆病だといいます。逆に下手糞なスタントマンは度胸だけしかないんです。だから優秀なスタントマンは常に基礎練習を怠らず用意周到に行なうので怪我程度で済みます。しかし度胸だけのスタントマンはつまらぬ事で大怪我をしたり死んだりするのです。 死を恐怖する事は生きる力だと思っておいて下さい。 そして死の恐怖が襲ったら、それを具体的にどう回避すればいいのかを真剣に考えましょう。 歳を散る自然に死を迎える準備に入ると、自然と死に対する恐怖心はなくなってきます。 但し、いつまでも未練や欲に捕らわれていると、何歳になっても死の恐怖が付きまとうのです。 それでも、人はいずれ痴呆と言う形で死の恐怖を消していきます。 そうならないために人生をしっかりと、一歩ずつ踏み出していく事が大切なのです。 実際私は死の寸前まで行きました。これは自説ではなく、医者がそういったのです。 しかしそのときにでも死の恐怖はありませんでした。むしろ今の方が、今春の震災直後の方が恐怖を感じたくらいです。 遣り残したなという感覚はあっても、しょうがないねと思うだけでした。 それより何より、自分の心臓が止まる瞬間は一生に一度しか見れないんです。 その興味だけが私をモニターに集中させ、その結果死ななくて済んだのです。 無事に手術が成功したときの私の思いは「残念」の一言でした。 私は魂を信じています。父が果たしえなかった、この世に向かってのメッセージを私は死んだ後に出したい。 今はその一心でしかありません。 「死んだら何も無くなるんだ」と言いますが、それを証明した人なんて居ないんですよ。 だから死後を信じる事も信じないことも同じ仮説でしかないんです。

  • toga12
  • ベストアンサー率6% (6/90)
回答No.10

あなただけが死ぬわけではありません。いつか誰もが経験することです。 とはいうものの・・・余命数ヶ月と宣告されたら、怖いですよね。。 先送りにしていた、やるべきこととか。。 こういったものを、日々潰していけば少しは紛れるのかもしれませんね う~~ん。。自分の死より、怖いものがないってのは~ それはそれで、幸せなのではないかって思うんです

  • 4610-564
  • ベストアンサー率29% (238/799)
回答No.9

死んだら存在すら消えてなくなるのに 記憶だけ残ってなんになるんですか? じゃあ貴方は、見ず知らずのゴミ箱に捨てられてる割れたCDやフロッピーディスクを 大金をかけてデータを取り出し見ようとします? しないでしょ?他人様の記憶なんて服についた埃よりも価値も存在理由もないんですよ。 というより脳みそが機能しなくなるなら 記憶も糞もさっぱり消滅します。 魂?貴方はアホの子ですか? そんな物質存在しません。 動いている肉が、機能をなくせば 使えなくなった動かない肉になるだけ 魂なんか存在してたら、生きてる人間よりも多くせまっ苦しい世の中になりますね。 人間死ぬより蟻やら水揚げされる魚のほうが死んでる数のほうが多いですから。 あほらしい娯楽書の内容鵜呑みにする その馬鹿げた幼稚なことから目を覚ましなさい 大人でしょ? 人の死を体験してみたいなら今の貴方のパソコンのHDDをはずしてみてください。 電源を入れても NO SYSTEM とでて先に進みません 心臓を動かす命令をして 呼吸という動作を無意識にでもさせる OS部分 写真などを記録する データ部分 人間で言えば、脳みそにあるもともとの部分が無くなれば、人間もこれと一緒 無であり、ただのプラスチックと金属の塊です。 人間だってそれと一緒 死ねば 使い物にならない食えない肉と骨とたんぱく質の塊になり 生き物でなく物質になるだけです。 ちなみに、他人様は、他の他人様の事なんかなんとも思いません 命の価値は自分だけしか価値が無いので 他人が死のうが痛くもかゆくも無いです。 貴方が目の前で死んでも、悲しいとかそんな干渉すら起きません しいて言えば 邪魔な腐る有機物が落ちてる程度 だって貴方のこと知りもしないし 知る必要も無い価値もありませんから あなたが金でも配ってくれれば まあ 儲けぶちが減ったわと記憶だけします。 死ぬのは生命のゴールです。 自分でここで終わりと決めることは悪いことではありません。 ぜひ遂行するといいですよ そこで終わりになるだけです。 気体も液体も地球に残らす終了です

noname#246942
noname#246942
回答No.8

少し観点を変えて見ましょう。 あなたは、死後、自分自身の記憶が無くなってしまうかも知れないと言う恐怖に苛まされているようですが、逆にお尋ねしたいのは、なぜ、記憶を失う事が怖いのでしょうか? あなたには、産まれてすぐの赤ん坊だった頃の記憶がありますか? また、それを怖いと思った事がありましたか? 自分も若い頃は、死が怖いと思った事があります。 どんな感じで死ぬのか?その時は苦しいのか、痛いのか? もう少し年を取ると、今度は自分がこの世からいなくなる、消えると言う恐怖に変わりました。 そして今は、少しずつ死と言うものを受け入れれるようになったと思います。 でも本心は、自分の死よりも、自分の周りの人間に対する死の方が怖いです。 死後も、記憶があると言う事は、自我があり、意識があるという事です。 もし本当に、それが永遠にあるのだとすれば、自分の死後、残された者達の悲しむ様子を見なくてはいけません。 そして、少しずつ忘れられていく様子も。 我儘ですよね。 悲しむ姿を見たくないと思えば、今度は忘れて欲しくないと思ってしまう(笑 だから、自分は、死んでからの記憶など無い方が良いです。 やるせないと思うのは、自分に対してでしょうか?それとも周りに対してでしょうか? 自分自身の魂なんぞは、今自分が生きている時にさえ感じた事もないのだから、きっと死んでからも感じる事はないのだろうと思います。 それを「感じるように思う」のは、きっと残された人間だけなのかも知れない、そう思います。 果たしてそれは、意味の無い事なのでしょうか? 魂自体が永遠に残るのではなく、それを自分無き後も想い伝えてくれる人間がいてこそ、初めて永遠になるのではないかと思います。 偉そうな事を言いましたが、別にスピリチュアル的なものも、幽霊的なものの存在を否定している訳ではありません。 なんだかんだと言っても、今まで自分自身が積み上げてきたものが死によって終わると考えれば、やはり悲しいものがありますけどね。

  • ROKABAURA
  • ベストアンサー率35% (513/1452)
回答No.7

死の恐怖は知ることが出来ないところが一番の原因。 本当は自分の細胞でさえ厳密に言えばしょっちゅう死んでいる。 他の細胞が補うから維持できてるけど それが間に合わなくなっていくのが老化であり死。 虫なんかバンバン死んでるし 目に見えない小さい微生物なんか あなたが一歩足を前に出すだけでその下でつぶれて死んでいる。 なんとありふれた そして不思議なものだろう。 釈迦は生きてる世界を苦界とよんだ。 何が正しいか分からなくて 欲や誤解に振り回されて やるべき事を出来ず 自分も周りも苦しめるから。 生きる苦しみ 死ぬ苦しみ 実は同じ物だ。 「存在」は決して偶然在るわけではない。 今ここに在るあなたはそう在るべくして在る者だ。 宇宙が何度時を戻しても必ずそこにあなたはそうして在る。 例え空気の一分子であろうとも。 突然なくなったりはしない。 あなたが死んだらその体は空気に四散し あるいは地に帰る。 だがそれはあなたという存在が変化しただけだ。 意識が脳の上の物とすればそれはもうないが 存在とは別に歩いて話している物ばかりではない。 生きている間しか出来ないことをやればいい。 死んだ後出来ることがあればそれをやればいい。 ただいつ如何なる時もすべきことをやることを心がけることだ。

  • akibonx
  • ベストアンサー率18% (31/168)
回答No.6

私は、全身麻酔の手術を二回受けましたが、二回とも夢も何も見ませんでした。家族からは七時間以上掛かったと聞かされましたが、自分の記憶では、麻酔が効いてから手術が終わり起こされるまでのわずか数秒間です。このことで思ったことは、死と言うものは無になることであって、死後の世界など無いという事です。

  • gadovoa
  • ベストアンサー率28% (835/2910)
回答No.5

人は皆死ぬ。 それだけでいいと思います。 そして変に功名心を持って 自分の名を残したいなどと考えないことです。 自分の名を残したいなどは卑しいことだと思います。 毎日数万人がこの世で生まれ死んでいきます。 みんな静かに生まれ、 そして名も残さず死んでいく。 だから後悔しないように一生懸命今この時間を生きればいいと思います。 いつ死んでもいいように恋人には愛していると伝え、 やりたいことをやれば 後悔しないと思います。

noname#141201
noname#141201
回答No.4

誰しも多少は持つ不安でしょうが、現実として危機感を覚えるような事態になっていなければ改めて思うことは私はありません。 やはり現状の満足感がどうであるか、あたなの年代も関係しているのではないでしょうか。 私はそこそこ満足してると言うにはまだ早い年代ではありますが、色々経験したので最悪の覚悟は何度かしたことがあります。 唯一、子供や家族がどうなるかが心残りです。 私は学術的な観点で仏教をかじったり、興味本位でスピリチュアルな本を読んだこともありますが、客観的にみて、これらだけで解消しようと言うには無理があると感じました。 が、克服と言うには大げさですが、意外なところで大幅に緩和されることを見つけました。 秋山さんの「千の風になって」?の歌を聞いた時です。 死んでもあらゆる場面で残した家族を見守れるなら…と思うと大幅に緩和されました。 仏教的な解釈やスピリチュアルよりストレートで、余程効果あると感じました。 これはあくまでも私の立場での話ですから、ご自身に不満足があったりすれば、解消にはならないかも知れません。 その場合は、スピリチュアルよりも、現実世界で目先のやりたいことや自分の役目をコツコツとこなしてるうちに、徐々に解消されゆくものだと私は思いました。

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