• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?)

虚数とは想像力の世界なのか?

ok9608の回答

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.28

No..14です。 今の時間しか応答できないもので遅くなりました。ベクトルについてお尋ねなので 若干の解説を。 複素数でもベクトルでも 数学的比喩として借用しているだけで 対応を深く考えても 別途 あらたな探求手段が開発されない限り  あまり深い意味は得られないとおもいます。  二つのベクトルを比べる場合、加算(減算も含まれる)か 掛け算(内積か外積)か考えられます。 交通の場合、二人の間の仕事発生と 私は捉えました。すると 数学的にはベクトル長の掛け算とCOS(θ) (θは交わる角度)の掛け算です。するとθ=0°の時(同方向)、最大仕事になります。仕事量はベクトル長の掛け算になります。θ=180°の場合は 仕事量はマイナスになります。マイナスの理解ですがお互い 同じ方向の意見に従った仕事とは 逆のものです。相手の反意見を取り入れた結果に対応したものとしました。絶対量は ベクトル長の掛け算です。 θ=90°の場合(直交)の場合、ベクトル長には 関係なく 仕事量は0なのです。お互い好き勝手を好きなだけ言ったとしても結果は0仕事なのです。まったく噛み合ってない意見交換です。この場合の直交の意味ですが ベクトルを平面で捉えると90°or 270°しかないのですが 立体(3次元)で考えると 直交を保つ二つの立体的ベクトル(独立ベクトル)が現れます。この例えは 噛み合わない議論は何通りもある ことに対応させたらいいのではないか とおもいました。モヤモヤワールドの問題は そのことを相手に説明しても現実ではないとか単なる想像とか妄想とか と思われ 会話が噛み合ってない ことだと思いました。 また今の場合 ベクトルの成分分析の対応までは ご指摘のように 不必要かもしれません。 自己肯定は入力をうけた内部のベクトル演算のなかに十分なフィードバック機能があると考えればどうでしょうか。ここでは機能の成分分析まではいらないと思います。 二つのベクトルの加算も考えられますが、これは簡単な挨拶程度の応答に対応かと思います。または 加算は むしろ 個人の内部思考に対応するかも知れまいと思いました。交通をどう捉えるでいかようにでもなるのですが、私は二人の仕事と考えました。外積は次元の違うパワーを生む場合で今回は相当しないとおもいました。 複素数にしてもベクトルにして 単なる比喩なので 定性的に感じを理解すればいいと思います。それを深く追求しtも比喩以上のモノは出てこないとおもいます。 以上 大変失礼しました

bragelonne
質問者

お礼

 おうけい9608さん お早うございます。貴重なお時間を割いてご説明をいただきまことにありがとうございます。  ベクトルの掛け算になりますと ポカンと口を開けざるを得ないていたらくです。  まづ話の大前提として この問い求めに関するかぎりで  ★ 複素数にしてもベクトルにして 単なる比喩なので 定性的に感じを理解すればいいと思います。それを深く追求しても比喩以上のモノは出てこないとおもいます。  ☆ ということであろうと確認します。  ここで比喩には 次の二点を借用しています。  (あ) 実数部と虚数部との区分を保とうとしていること。  すなわち何々であるかという問いに対して 《然り 何々である》または 《否 何々でない》のいづれかで答えるという応答を実数部とし そしてそのようなかたちの答えを表わさないですべてを迂回させようとする内容によって応答するかたち これを虚数部と呼ぶ。これら両者から成る広く自己表現のあり方を 交通論において捉えようとしている。  (い) 応答としての虚数部は それがその人の主観の内で 想像力をたくましくして描いた観念の世界として持たれているあいだは 問題はない。  それが ひとつに実際の応答にあたって実数部を凌駕して押さえ込み ひとつにおのれの虚数部だけで自立しうると夢見た果てに ひとつに交通の主体である《わたし》もその虚数ワールドを自己と見なすとき そのようにして成った独立虚数部を肯定したとするならそのときには あたかも虚数の自乗が現出するかのように 《わたし》はマイナス一〔掛ける k 倍〕となって自己表現するかたちになる。  (う)〔=(あ)のむすびの部分〕 人間は その自己表現のかたちにおいて この実数部と虚数部とを足し合わせた複素数のような姿を一般には取ると考えられる。  〔空観において一切が空だと観るとき この複素数存在とその自己表現がなくなるということではない。虚数部もそして実数部もすべて 存在関係および行為関係の錯綜する連鎖から成ると見ると言っている。縁起共生だと言う。その現象そのことは それとして現実に起きていると見ている。そして中で特に実数部は 必須である。  なぜなら たとえばこのような空観を伝えるにも 中核となる実数部は欠かせないからである。不立文字は それが分かってからの話である〕。  さて 交通論の中身ですが  ★ 仕事量  ☆ この観点からもしくはその局面について 分析されたのですね。互いのベクトルが直交するなら 成果は ゼロであると。かみ合わない。いかにベクトル長の中身に捨てるにはしのびない味わいがあっても 互いの交わりとしては ゼロとなると。  そうしますと まさに交わる角度が問題になると言っていいでしょうか。  ということは――というふうにガデンインスイに走りますが―― この角度 θ は けっきょく直角の関係になるときなのだそうですが じつは 応答において然りか否かを明示する実数部の消えてしまったゆえにあたかも〔おうけい9608さんの造語なさった〕《垂直壁》として屹立する虚数部だけの自己表現 これなのだと帰結することになると言えませんか?  あるいはモヤモヤ・ワールドなのですから けっきょくその答え(または答え方)が のっぺらぼうになってしまっているのだと。顔がない。実数部を時には補助の役目でありながら活かすことさえあると思われるところの表情がない。  あるいは仮りにその虚数部はむしろ衒学という言葉もあるように 観念の帝国であるという様相を呈しているそういうエンパイアーであるかとも見られます。いわゆる観念体系(イデオロギー)も この例に入りましょうか。  あるいは 神は宇宙の法則だぁとしきりに唱えているその呪文とさらには念力のサンクチュアリーも まさに虚数部の唯我独尊であるかと見られます。  もしこの仮説に立ってその方程式を用いるなら もし実際において相手が虚数部のみによって応答して来たなら その旨を――実態としても明らかにしてやりつつ――伝えたなら あとは 放っておくことができるというものです。省エネ対話法の出来上がりです。   1. 人間存在は 自己表現である。   2. その文体として 動態である。   3. この文体は 複素数のすがたを取る。   4. 実数部と虚数部とから成る。   5. 実数部とは 互いにその自己表現の内容を批判しあう行為である。   6. 虚数部とは 互いの批判(つまり同感をふくむ)を成さない場合の自己表現だ。   7. 虚数部による単独分立は 自己放棄である。自己表現の放棄である。   8. それはわづかに 《いま・そこにいる》というわたしの現存在性によってのみ 現実にとどまっている。   9. 虚数部による単独運転は 交通違反である。互いのベクトルは直交し 協働の成果はゼロとなる。   10. 虚数部人間は 放っておくより仕方がない。人間以前の状態にある人間である。  ★ 自己肯定は入力をうけた内部のベクトル演算のなかに十分なフィードバック機能があると考えればどうでしょうか。  ☆ これは 自己同一性の保持として(つまりわたしがわたしであろうとする文体の中核作用として) 基本であろうと思われます。思われますが他方では その意志決定ないし意思表示のあり方として 虚数部に片寄ったりしたら 交通に差し障りが出て来る。こういうふうに両側面を見なければならないのではないでしょうか。  大枠の《自己肯定》のはたらき――《自己組織化》のようなものでしょうか?――と そのときにも《わたし》の自由意志によるへそ曲がりが割って入ることがありうるという実際問題とだと思われます。  ★ ~~~~~~~~~  二つのベクトルの加算も考えられますが、これは簡単な挨拶程度の応答に対応かと思います。または 加算は むしろ 個人の内部思考に対応するかも知れまいと思いました。  交通をどう捉えるでいかようにでもなるのですが、私は二人の仕事と考えました。  外積は次元の違うパワーを生む場合で今回は相当しないとおもいました。  ~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。《加算》の場合には 入力した材料(つまり 相手の発言内容)について吟味も加工もしないということでしょうか。つまりあるいは そういう内部思考をもしほどこすとした場合には それでもそのあとの出力において あたかも相手に対してその相手の反応がどうであれもうそのまま通じて行くものと思い込んでいる場合でしょうか?  とは言うものの この《内積》についてもわたしは あやふやなままものを言っています。《外積》については 何やらわが身は宇宙遊泳に入ってしまうかというお話のようです。  質問者のそういう状態について申し訳なく思い おわびします。そこのところをなおていねいに説明したいただき感謝申し上げます。ありがとうございます。  たぶん まとめのお言葉をいただけるのではないかと横着にも思っております。

関連するQ&A

  • 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか

     1. まづ タトエと推測とによって成り立たせようとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったか紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構を生きるということかも知れない。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. という憶測としての発見を得ました。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. 余計でした。つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  余分と思っていないからなのですが 述べました。ご教示ください。

  • 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか(つづき)

     1. まづ タトエと推測とによって話を運ぼうとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては〔その人にとっては〕不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心があるいは敵対心にまで広がっているかも分かりません。  8-1. ということは 現代韓国人の――特には日本人に対する――心的現象を分析しようとしているわけです。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる( 1^n = 1 )。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったかおのれ自身をめぐるあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明もが できない。できなくなる。  15-1. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをのみ叫び続ける。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。《ウリナラ・ファンタジー》。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロになり 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  18-1.ひとつの解説をすでに得ています。  ◇ ~~~~~~~~~~~~  一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。   1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程   i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. というふうに推し測った仮説です。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  23. これは 人間にとって不幸である。千年一日のごとき生活幻想がつづく。そういう部分がどこかで根を張っている。言いかえると ゴータマ・ブッダの《大芝居:大化城》なる桃源郷に避けどころを見出そうとする心の動きである。  24. つまり――減らず口をたたき続けますが―― わが日本人にあっては 外に仮想敵をつくり敵対心を発散させることによって 日頃のうっぷんの捌(は)け口とするシワザは おこなわないようではある。  25. ひとはすべからく現実に向き合わざるべからず。過去は捨てよう。  26. なおこの設問は 《存在とは何か?》なる問いに答えようとする問い求めです。《現実存在 つまり 要らぬ過去(脱線)を捨て余計な想像世界(本質論)を脱ぎ捨てて現実に向き合う存在⇒つまり 実存》 これが 《わたし》であり《存在》だという仮説です。

  • 虚数から見ると実数は虚になるのでしょうか

    虚数と実数では虚数のほうが初めにあったのではないかと根拠もなく、想像(空想)しています。生物学ではRNAとDNAのような感じです。それとも虚数と実数は同時に存在を始めたのでしょうか。歴史からは実数のほうが先に認知されたとのことですが、虚数の世界から見れば実数の世界は虚の世界というようなことはないのでしょうか。実数がなくても虚数だけでi^2で負数、i^4で正数を表せるのに反し、少なくとも正数では虚数を表現できないとすればやはり虚数のほうが先かとも思うのですが・・・

  • 2乗して-1になる数以外の虚数はあるか

    虚数は英語だとimaginary number(想像上の数)だそうですが、 「2乗して-1になる数をiとして、a+bi(a,bは実数)で表される複素数」 以外の想像上の数として数学界で認識されているものはあるのでしょうか? 例えば、N ÷ 0 = 1 を満たすNとか、N!(階乗) = 3 を満たすNとか、現実にはありえない数はあるのではないかと思いますが(数学的に意味があるかはさておき)、虚数が√-1をもとにした数だけなのか気になりました。

  • 偶数と奇数の関係と実数と虚数の関係とどこか似ていますか

    偶数に1を足すと奇数になるというような日常的な経験で両者の間の関係を理解していますが、数学的にはもっと深遠なことがあるのではないかと想像します。実数と虚数はたすと複素数になりますが掛け算ではお互いが一つになるようです。群というものと関係があることかと想像しますが、数学的センスの香りだけでもかがせていただければ幸いと思います。

  • 虚数時間とか虚数質量という言葉をよく聞きますが

    啓蒙書などで相対性理論を勉強している者なので、とんでもない馬鹿な質問かもしれませんが。 よく、「虚数質量等を認めれば、タキオンは相対性理論で理論的にはあり得る。ただし、存在は確認されておらず、因果律を破るので、通常、タキオンは認められていない」と書かれていることが多いですね。しかし、それは本当なのでしょうか?(存在したとしても不安定、などとかも聞いたことがありますが、もっと初等的な問題として。) ローレンツ変換の式というのは、あくまでも、物理量が実数であって、平方根の中が負でない実数であることを前提としてますよね。従って、超光速が出てきて平方根の中が負の数の場合に、この式が形式的にそのまま当てはめられる理論的保障はあるのでしょうか? 光速度不変の原理は、慣性系で原点から光の球面波が発せられたとき、この球面波がc^2t^2=x^2+y^2+z^2 を満たす(原点を共有する慣性系で同じ形)と言うところから出発していますね。これはピタゴラスの定理から来てます。しかし、虚数質量とか虚数時間などを考えるとなると、「もしかしたら物理量は複素数かもしれない」という「仮の相対論」(物理量が実数のときは通常の相対論に一致する)を考える必要はないでしょうか?(光速度は実数だとしても) ピタゴラスの定理の複素数版は基本的にエルミート内積を使うので、「~」を共役複素数を表すとして、光速度不変の式は(t,x,y,zが実数とは限らないとして) c^2tt~=xx~+yy~+zz~ にならない保証はあるのでしょうか? 特殊相対論では(面倒なのでc=1の単位系を使うとして)、ds^2=dt^2-dx^2-dy^2-dz^2 が不変量とされてますが、もしかしたら、複素数まで認める場合は不変量はエルミート積の考え方で ds(ds)~=dt(dt)~-dx(dx)~-dy(dy)~-dz(dz)~ (別の書き方をすれば、|ds|^2=|dt|^2-|x|^2-|y|^2ー|z|^2)かもしれないという不安があるので、本当に単なる2乗で大丈夫なのか?がお聞きしたいのです。 というのは、量子力学では本質的に複素数を使うと聞いたからです(私は「『ブラベクトル』『ケットベクトル』って何???」というレベルなjのですが、とにかく、内積にはエルミート積を使ってますよね?)。状況によっては、量子力学と相対論を両方使わなければいけないことがあるはずですが、もしここで、虚数時間や虚数質量を使おうとした場合の虚数単位iの意味が相対論と量子論で別かもしれない不安がありまして・・・ええと、よく分からないが、量子論では、実数のかわりに自己共役作用素になるらしい、ということは、純虚数は反共役作用素になるのか? もっとも、自分でこのやり方で相対性理論を見ると、不変量が |ds|^2=|dt|^2-|x|^2-|y|^2ー|z|^2 に変わってしまうことになるので、若干意味が変わってしまうのがやばいとは気づいてます。 時間軸を虚数時間を使って cti 軸とするテクニックも使えなくなるわ、アインシュタインの略記法の意味も変わってしまうわ(↑を上付き添え字、↓を下付き添え字として、v↑μが反変ベクトル、w↓μが共変ベクトルのとき、v↑μw↓μ=∑[μ=0・・・4](v↑μ)~(w↓μ)となりそう)、などなど意味がどんどん変わってしまいます。計量ってのもよくわからないけれど(そもそもテンソルも分かってない)、意味が変わりそうです。 (ds)^2<0 となるdsは虚数を使えば存在し得ますが、|ds|^2<0 となるdsは複素数内でも存在しない。 従って、タキオンは因果律を持ち出さなくとも存在しない、めでたしめでたし・・・にはならないですね。 理論を変更するには多大な労力が必要ですが、苦労しても「今までできてたことができなくなった」というデメリットばかりなので、自分でも「これは駄目だわ」とは思うのですが。 それでも、理論的に、虚数時間などを使う場合に、ローレンツ変換のあの式がそのまま形式的に使えるかどうかの理論的根拠はあるのかどうか?が気になるので、あえて質問させていただきました。

  • 《息をするようにウソをつく》人間の起こり

     ――または 《虚数人間》の成り立ちについて――  ――または ねむりねこ=ぶらじゅろんぬの定理――  現代韓国人がいかに気がちがっているか。これを明らかにする理論的な試みです。ご検討・ご検証をよろしくどうぞ。  1. 次の道筋をとおって 虚像人間ができあがる。  (α) ひとは自然本性にもとづき 意志を中軸として生きている。  (β) 意志としての心がひねくれると へそが曲がる。  (γ) へそ曲がりでよいと確認しひねくれ続けると 心が裏返される。  (δ) ひとの心はリバーシブルとは言えないはずだが 裏返った心でおこなった意志行為も あたかもふつうの意志行為と変わりないように見える。  (ε) すなわち 《虚数人間》の誕生である。  2. 以上をタトエにおいて 座標で捉えてみる。   前提として:    x 軸: 意志のありか(意志としての思い)    y 軸: 意志の行為(思いの自己表現)    z 軸: 虚数軸。たくましき想像の世界。   (α‐1) はじめに x = 1,y = 0, z = 0 なる地点にわが意志はある。   (β‐1) ヘソを曲げると x = 0, y = 0, z = i なる地点に舞い上がる。       意志を失くしてしまい( x = 0 ) 想像力のみの世界に入る( z = i )。   (γ‐1) これが確定すると 意志のありかとして x 軸に降りて来る。       すなわち x = -1, y = 0, z = 0 なる地点に移った。       想像の世界を去ったが 意志のありかは 想像世界をよしとしているから マイナス( x = -1 )となっている。   (δ‐1) この( -1, 0, 0 )なる意志のありかから自己表現として意志行為をおこなう( y = 1 )と たとえば ( -1, 1, 0 )なる地点で発動されることになる。      すなわち 意志行為( y 軸)のみを取れば ふつうの意志のありか( 1, 0, 0 )からの発動・つまり( 1, 1, 0 )と較べても y 軸が プラスの 1 であることに変わりない。   (ε‐1) ゆえに 虚数人間が 見た目ではほとんどふつうの現実を生きていることとなる。《ほとんど》に力点を置く。      違いは いわゆる動機の問題となる。それは 内面における良心の問題であるゆえ 外から他人がとやかく言うことはかなわない。  3. さらに細かい説明として。まづ 人間の・特に意志のあり方としてこれを 広く捉えて複素数( a + bi )で表わすこととする。  (α)から(ε)までの四つないし五つの段階に応じて 次のごとくである。   (α‐1)の《 x = 1,y = 0, z = 0 なる地点》というのは      a = 1, b = 0 でまだ意志を発動していない段階を言っている。     意志の思いのみがある( a = 1 ⇒ x = 1 )。へそを曲げてもいない( b = 0 )。   (β‐1)の《ヘソを曲げると x = 0, y = 0, z = i なる地点に舞い上がる》というのは 意志のありかが定まらなくなった状態である( a = 0 ⇒ x = 0 )。その代わりに 想像力としてのあたかも代理意志なる b が 1 として登場する。    すなわち:      a = 0 〔⇒ x = 0 〕,  b = 1   (γ‐1)の《 x = -1, y = 0, z = 0 なる地点に移った》というのは (β‐1)の z = i にさらに 同じくへその曲がりとしての i が掛け合わされることによって 虚数部分の b i が 1 x i x i = -1 となることを表わす。     この -1 は とにもかくにも 実数となったわけである。よって ほんとうは x 軸上の地点ではないはずであろうが 結果として x = -1 なる地点にあると捉えられることになる。     これは 人間の心はひろく 現実は 寛容であることを物語るか。    《結果として》というのは (δ‐1)で見たように 意志の思いが発動されて意志行為となったときには その y 軸としては プラスになり ふつうの意志行為と変わりないかたちになることを言っている。   (ε‐1)としてわれわれは 虚数人間をひろく深い心においてつまり自然本性の共生するチカラに限りない伸び代(潜在性)を遠く見据えてまた恃んで 市民権を互いにあたえ 迎え入れている。   (嫌ったりからかったりするのは 表現の自由にもとづく。また負の向きのヱクトルも ひろく愛である)。

  • 虚数を含む物理学の公式を数学で理解すると

    偶々ながめていた物理学の参考書のなかに「この公式で実際測定できるのは実数の部分で虚数の部分は測定されない・・・」と書いてありましたがこれは数学的にはどういうことを意味しているのでしょうか。虚数を含む公式は量子力学などにも沢山出てきますが、等号で結ばれている両項のなかで実際認識できるのは一部であるということと、認識できない部分を理解してしまう数学的な力との関係がとても魅惑的な感じがするのですが・・・この現象は数学を使わないと表現しにくいというようなことが専門家によってよく書かれていることとも関係があるのだろうと想像しています。

  • 複素平面 と 実数X-Y軸が混乱して困っています

    複素数にお詳しい方、どうぞ宜しくお願いします。数学の知識は高校生レベルです。 複素平面が、いわゆる実数のX-Y軸と区別できるのはなぜですか? 実数X軸と「直交」する形で虚数軸が存在していて、複素数の値は「複素平面上」に点として表現される・・・と習いました。だけど、この複素数の仕組みを理解しようとすると、X軸-Y軸が直交する普通の実数座標平面と複素平面が、同じものであるという理解になってしまう気がします。つまり、実数Y軸=虚数軸という論理になってしまうのではないでしょうか?間違いなく誤解していることは”自信”があるのですが、イメージで捉えると、どのように解釈になるのでしょうか?

  • 『数』 ~概念の拡張~

    複素数を扱う際に、複素平面という2次元のフィールドがありますよね。人類が実数しか知らなかった時代は、『数』は、数直線上の1次元にしかなかった。虚数と実数の織り成す2次元の『数』の世界、これは人類に多大な恩恵を与えた。ここで思ったんですが、『数』の概念をさらに拡張して、3次元の複素空間(?)とでもいうべき新たなフィールドって現代数学で研究されてないのでしょうか?四元数とかベクトルとは、ちょっと違う概念なんですけど・・・ x軸(実数)、y軸(虚数)、ここまでは複素平面、z軸(新しい『数』の拡張概念)この3つでできる数空間みたいなものです