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虚数から見ると実数は虚になるのでしょうか

虚数と実数では虚数のほうが初めにあったのではないかと根拠もなく、想像(空想)しています。生物学ではRNAとDNAのような感じです。それとも虚数と実数は同時に存在を始めたのでしょうか。歴史からは実数のほうが先に認知されたとのことですが、虚数の世界から見れば実数の世界は虚の世界というようなことはないのでしょうか。実数がなくても虚数だけでi^2で負数、i^4で正数を表せるのに反し、少なくとも正数では虚数を表現できないとすればやはり虚数のほうが先かとも思うのですが・・・

noname#194289
noname#194289

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  • ベストアンサー
  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.4

話を純虚数に絞ります。 私も似たような空想をしたことがあります。 純虚数と実数とは、まったく対称なのではないかと。 しかし、ちょっと考えたら、そうでないことに気づきました。 実数同士の掛け算、割り算は、やはり実数になるのに対して、 純虚数同士の掛け算、割り算は、純虚数ではなく実数になります。 純虚数の世界だけで、加減乗除の体系を作ることができないわけです。 ですから、 両者は対称ではない、つまりは、 「純虚数から見て実数は純虚数に見える」わけではない、 と考えました。 ついでに一言。 1つの実数ないしは複素数x+iyをX-Y座標系の1点としてプロットしたとしましょう。 この実数ないしは複素数に虚数単位iを掛け算すると、さっきの1点は原点に近づくことも遠ざかることもなく、原点の周りにちょうど90度くるりと回ったところの点になります。 iを掛けるということは、大きさを変えるということではなく、回すということ、なんですね。

noname#194289
質問者

お礼

虚数と回転が関係があるということは聴いていますが講義で聴いていますが、この回転というのは空間的な意味ではないですね。マクスウェル方程式に出てくるrot等とは関係がないのでしょうね。もうすこし勉強させていただきます。どうもありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • age_momo
  • ベストアンサー率52% (327/622)
回答No.3

どちらが先という論議は成立はしないと思いますが、結局、実数は 複素数a+biにおけるb=0の特殊な例であり、複素空間のごく一部ですから 複素数が主であり、実数は従であるという考え方は成立するかもしれません。ただ、 >虚数だけでi^2で負数、i^4で正数を表せる これは違うと思います。元々、iは1を基本として-1を定め、180度回すのを 半分にしたところと決めています。(√-1)だからその回転を2回すると-1、 4回で1になるのはiの4乗で1ができたというより1を出発点として元に戻ったと 考えた方が正しいと思います。(つまりは1が全ての定義の始まり) この議論は人が実数から数を定義したのでそういう体系になっています。 なのでそれに基づいて虚数が数の始まりという主張するのは無理でしょう。 虚数が始まりとするならそこから数体系を組み直してみる試みが必要でしょう。 (意味有るかどうかは分かりませんが) ところで1を出発して直角になるのはiだけではありません。少なくとも空間で 考えると別の虚数単位が考えることが出来ます。さらに別の次元の虚数単位を 考える体系もあります。何次元まででも拡張はできます。こうして考えていくと 実数がどんどん存在が薄くなっていく気がしますが、やはり実数から虚数を 定義している以上、この存在は虚にはできないでしょう。

noname#194289
質問者

お礼

ガウス座標は直交座標と違って縦軸と横軸が対等ではないのですね。軸の役割が異なるように思います。高次元の虚数単位というのは現在の小生の理解力をはるかに超えていますが、勉強させていただきたいと思います。絵いろいろとご教示ありがとうございます。

  • info22
  • ベストアンサー率55% (2225/4034)
回答No.2

実数=正数でありません。実数には負数とゼロがあります。 (-1)^(1/2)=√(-1)=iで実数を使って虚数が表せます。虚数は正確には複素数の一部として扱い、複素数は実数と虚数の和で表されます。複素空間は実数と虚数の和としての複素数で全空間が埋め尽くされます。つまり複素数の作る空間が複素空間です。 複素空間では実数と虚数が1対となって扱われます。 >虚数から見ると実数は虚になるのでしょうか 虚数と実数は密接な双対関係にある数とも言えます。あわせて複素数として統合されます。 オイラーの公式:e^(ix)=cos(x)+i sin(x) や sin(x+iy)=sin(x)cosh(x)+i cos(x)sinh(x)など のように実数と虚数は密接に関係がありますね。 歴史的には実数が先で、虚数が後ですが、複素数としてまとめられ実数と虚数がついとして扱われるようになって、実数と虚数は複素数の一部として包含されることになったわけです。

noname#194289
質問者

お礼

双対という概念で考えるべきことなのですね。ご教示ありがとうございました。

  • y_akkie
  • ベストアンサー率31% (53/169)
回答No.1

>虚数の世界から見れば実数の世界は虚の世界というようなことはないので>しょうか。 虚数とは実部と虚部によって構成されていますよね。 すると、実部も虚部も実数であるので、虚数自体が実数に依存している体系なので、それは想像しがたいですね。よって、実数の存在なしに虚数は存在しない事になるので、虚数の世界から見れば実数とは単なる自身の一部に過過ぎないと思います。例えば、123という数字の1、2、3とか、そういった意味合いに過ぎないのではないでしょうか。 また、ベクトルにおいてもスカラーの存在なしに存在し得ないですよね?

noname#194289
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。勉強させていただきます。

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