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差別用語を使ったらなぜいけないのか

私は体が不自由な「かたわ」者です。 「かたわ」が差別用語として禁止されて、「身体障害者」と言い換えられ、さらに最近は「身体障がい者」というのが流行しています。 こういう言い換えは意味があるのでしょうか。 私はこのような安直な言い換えを見ると大変不愉快な気分になります。 「かたわ」という言葉を使っても、差別的に言っているかどうかは、その人の顔を見ればわかります。 差別用語の使用禁止は、ますます日本語の品質劣化を招き、差別行為を助長しているように思いますがどうなのでしょうか、皆さまの御意見をお聞かせください。

noname#134290
noname#134290

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  • hakobulu
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回答No.28

#27です。 >盲人のいる家庭で「めくら」という言葉が飛び交います。 >視覚障害者同士は平気で「めくら」を連発しています。 : なるほど。 もしそうだとすれば、私にとっては新鮮な驚きでした。 つまり、お互いの信頼関係さえあれば、言葉そのものに差別意図はないのだから全く問題はない。 こういうことですね。 この言葉に対する私の概念を変える必要があるのかもしれません。 >言い換え語を使って「私差別していません」というのは、ちょっと安直なように思います。 : これは最も本質的なことですね。 たしかにそういった安直さは存在しているでしょう。 大いに留意されるべき問題だと思います。 しかし、逆に差別用語自体を口にしたくないために言い換え語を使う方も多いでしょうね。 【言葉の問題として言うならば】表現の適切さの問題になるのかもしれません。 差別語でもなく言い換え語でもない言葉を発したとしても差別や侮蔑になる場合はあるわけですから、そういった意図の問題のみと絡めて論じてしまうと差別用語を論点として取り上げる意味がなくなるでしょう。 言い換えて良しとする欺瞞性に気づく必要がある、ということと、差別(を明らかに意図した)用語は禁止すべき。 ということは両立できない論理ではないと思います。 水掛け論になりそうですが^^;、これに関連して以下にもう1、2点だけお伺いいたします。 >日本民族の間でおおむね自然に生まれた言葉と考えていいと思います。 「めくら」は自然に生まれた言葉でしょう。 : 自然に生まれた言葉の中に差別用語は存在しない、とおっしゃっているのでしょうか。 そう思われるのであればそれもひとつの見解として受け止めるしかありません。 もし、そうではないということであれば、やはり禁止されるべき差別用語はあると考えるべきと思うのですが、いかがしょうか。 それとも、 >「堂々と『めくら』を使って喋ってみよ、差別しているかどうか俺様が判断してやるわい。」というのが私の本音です。 : とおっしゃているることからすれば、あえて差別用語を使わせて糾弾することによって何らかの進展かある、とお考えになっておられるのでしょうか。 これにてしつこい回答者は引き上げることにいたします。^^ 真摯にお応えをいただきありがとうございました。     

noname#134290
質問者

お礼

>言い換えて良しとする欺瞞性に気づく必要がある、ということと、差別(を明らかに意図した)用語は禁止すべき。 ということは両立できない論理ではないと思います。 おっしゃる通りです。 ところが差別を目的として成立した言葉はほとんどない、と考えるのが私の見方です。 >自然に生まれた言葉の中に差別用語は存在しない、とおっしゃっているのでしょうか。 絶対にないという自信はありませんが。 「めくら」は「目の見えない人」を短く表現した名詞だろうと思います。 こういう名詞は日常会話上必要で便利な言葉です。 いちいち「目が見えない人」というのは不便です。 必要に迫られて自然に発生した言葉だと思います。 おちょくったり、蔑んだりする以前に、単に「目が見えない人」を表現するのに必要な言葉だったのです。 回答者様と私の違いは育ってきた環境の違いによるんだろうと思います。 私はめくら、ちんば・・・等が平気で飛び交う環境で育ちました。 読む本もそういう言葉がいっぱい入っていました。 いわゆる差別用語を使って差別する人もいましたし、差別しない人も大勢いました。 後者の方がむしろ多かったように思います。 私にとりましては「めくら」は普通の言葉だったのです。 ところが、ある時期から「差別用語だから使わないようにしよう」ということになって、「めくら」というと糾弾されそうな雲行きになってきました。 実際に「めくら」と発言して、若い人から眉をひそめらrた経験もあります。 眉をひそめた若い人は人権に敏感な実にいい方です。 「めくら」なんて、日常会話ではほとんど聞いたことがなく、多分「めくらは悪い言葉だ、差別用語だ」と教えられ、育ってきたのだろうと思います。 差別用語を聞くと敏感に拒否反応が出るんだろうと思います。 回答者様は若い方だとは思いませんが、多分これに近いような環境でお育ちになったのではないかと思います。 私はこの言葉が成立した時代、すべての人が身障者を差別したとは思いません。 昔と今が違ってきたのは「差別は悪いことだ」と知っている人が多くなったことだけです(実際に差別行為をするかどうかとは別です)。 >あえて差別用語を使わせて糾弾することによって何らかの進展かある、とお考えになっておられるのでしょうか はい。本当の進展がみられるのではないでしょうか。 「めくら」を使ったことを糾弾するのではありません。 その言葉以外の言動でおかしなことがあれば叩くわけです。 「視覚障害者」だけで安心させてあげません^^。 頑固ですみませんね。 多少極端なことを言わないと聞いてくれそうにないので、ちょっと言い過ぎた面があるかもしれません。 御容赦ください。 勉強になりました。ありがとうございました。

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  • hakobulu
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回答No.17

#15です。 >いっそそれらの言葉を使っていただき、それでいて差別にならない言い方をしていただく方がいた方が、かえって差別をなくするのによいかな、と思ったわけです。 無味乾燥の「言い換え語(漢語)」よりも「差別用語」の方がカラフルで生き生きとしているような感じがするものですから(もちろん差別的に使っていないというう場合に限ります)。 : おっしゃることはよくわかるような気がします。 たとえば無邪気な子供が口にする差別用語のほうが、慇懃無礼的な大人の言い換え用語よりも抵抗感なく感じるということなのでしょう。 コミュニケーションにおいては、何を言ったかよりもどのような意図で言ったのかのほうが本質的には重要だと私は考えていますが、それに近いことなのかもしれませんね。 >まあ、不自由ですから「障害者」に間違いはないと思います。 >(め~、ち~など)いっそそれらの言葉を使っていただき、それでいて差別にならない言い方をしていただく方がいた方が、かえって差別をなくするのによいかな、と思ったわけです。 : 「障がい」は「あることをするのに、さまたげとなるものや状況。」 などとなっています。 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E9%9A%9C%E5%AE%B3&stype=1&dtype=0 わたしは思うのですが、「あること」の「ある」とは何か、ということをわかった上で「障がい」という言葉をみなさん口にしているのでしょうかね。 この「あること」の意味を曖昧にしたままなのが現在の人類の状況なのであって、仮にわかっているとして、それはどうなんでしょうか、生命体として高等な位置づけになるのでしょうかね・・・。 さまたげとされていることがさまたげでないならば、差別する側もされる側もとんでもない思い違いをしているのではないのかな・・・。 なまけもの、という名を冠された動物がいますが、彼(彼女)は果たして本当の意味で「なまけもの」なのでしょうか。 そんな気がするわけです。 「健常者?」のたわごとでしょうか。 しかし、何が健常なのか自身でもよくわかっていないという体たらくでして、その面では他の人々も大差ないんじゃないか、という気はしますけどね。 不自由と障がいとは違うとわたしは考えています。      

noname#134290
質問者

お礼

>不自由と障がいとは違うとわたしは考えています。 はい。100%ピッタリ同じではないと、私も思います。 盲目のバイオリニストがいますが、目明きだったらあれほどまでになれたでしょうかね。 楽譜が読めない、指揮者や他の演奏者様子がよくわからないという不自由さがありますが、目が見えないために、最も大事な「音」への感性が磨かれたことが大きいと思います。 そこに至るまでのご本人やご家族の苦労は並大抵ではないとおもいますが。 こんなに極端な例でなくとも、多くの人が障害を克服して立派な生活をしていると思います。 まあしかし、部落や身障者差別をする人は、そんなことで優越感を満足させようとする最低な人間ですね。 大変勉強になりました。 ありがとうございます。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.16

#14 >慈悲? >そんなもの求めていませんが。 名称は何だってかまわないですよ。 あなたが求めているものの名前を当てはめてください。 ただ、100じゃなければ0だ、偽善は認めない、完全無欠の善以外は受け入れない、 というなら健常者Vs障害者の葛藤に終わりはないだろうなと思うだけです。 あなたの生活に大きな支障がないのであれば他人の善性などたいした問題ではなかろうにと思うのです。

noname#134290
質問者

お礼

>あなたが求めているものの名前を当てはめてください。 名前はありません。 >ただ、100じゃなければ0だ、偽善は認めない、完全無欠の善以外は受け入れない、というなら健常者Vs障害者の葛藤に終わりはないだろうなと思うだけです。 別に終わりがなくったっていいじゃないですか。 いい方に近付けて行くということが大事です。 >あなたの生活に大きな支障がないのであれば他人の善性などたいした問題ではなかろうにと思うのです そんなことはありません。 障害者には精神障害もはいります。 精神障害者は身体障害者に比べ、さらに辛いことが多いでしょう。 また、ボーダーラインにある人もいて困っていると思います。 障害者同士が罵りあうこともあります。 障害者手帳を持っている人だけが障害者ではないと思います。 つまり人は健常者と障害者にはっきり分けられるものではありません。 おそらく、多くの人が大なり小なり不自由で困っている個所を持っていると思います。 それらを完全に理解できなくても、相互に理解するようにしていくことが差別をなくする一歩です。 世の中、ゼロか100ではありません。 とにかく差別はゼロに近付けて気持ちのよい社会(精神社会)を築いていきたいものです。 この努力は末永く続けられていくべきものと思います。 まあ、健常者が障害者を差別して自分が気持ちよくなるってことは、自分に自慢するものがなんにもない最低の人間のすることですよ。 回答ご苦労様でした(o^∇^o)。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.15

おっしゃるように、どんな言い換えをしても、内心に差別意識があるうちは差別していることに違いはありません。 この意味で、差別意識が無ければ差別用語というもの自体が存在しないとも言え、それはある意味で正論になると思います。 ところで、差別するときの人間心理に兆しているのは揶揄、あるいは侮蔑ではないかという気がします。 つまり、からかいであり、見下しでありというのが重要な要素になっていることでしょう。 いわゆる差別用語と言われるものは、こういった要素が明確に現れているものが多いのではないでしょうか。 体が不自由という状態を面白おかしく表現することによってその相手を貶め、そのことによって自らの優位性を確認しようという、おそらくは無意識的な、またそれゆえに下等な意図がそこにはあるはずです。 このような不当な意図を【あからさまに】該当者の方が受け取らなくて済むために、言い換えは意味があると私は思います。 気持ちがこもっていなくても顔を合わせれば挨拶をするのが礼儀であるのと似ているでしょう。 心が清ければ外面はどうでも良い、ということにはなかなかなりづらいように思うわけです。 むろん、差別意識自体の有無が最も重要な課題であることは言うまでもありませんが、内面の問題からだけではなく、言葉という形から入るということもあって良いと思います。 >差別用語の使用禁止は、ますます日本語の品質劣化を招き、差別行為を助長しているように思いますがどうなのでしょうか、 : 「日本語の品質劣化を招く」というのは感覚の自由度が狭められるという意味でおっしゃっているのでしょうが、より適切な言葉に言い換えるという自由さもあって良いでしょう。 上でも触れましたが揶揄なり侮蔑なりも人間の自由な感覚と言ってしまえばそれまでです。 しかし、そういった感覚を制御する自由もあって良いのではないか、ということですが、おっしゃるようにそれが欺瞞や偽善の上に成り立つぐらいなら、一層のこと感覚のままのほうが潔くて却って良い、ということになってしまう可能性はあるでしょう。 差別の助長という点に関してですが、言い換えには、感覚的表現から客観的表現への移行、という側面があるように思います。 直截的な差別用語は(生命体としては初歩的機能である)感覚というものに根ざした表現だけに、高等生物としての人間という立場に立って見た場合、客観的言い換え表現よりも論理的には下等なものとして退けやすい要素を含んでいるからかもしれません。 そのため差別を決定的にしてしまう表現であるかのように受け止められ、結果として差別の助長につながるという印象を得るに至っているような気がします。 また、現在使われている言い換え後の用語がそもそも適切なものなのだろうか、という根本的な問題も絡んでいそうです。 表記方法だけの問題ではなく、意味的にということなのですが、たとえば「障がい」という言葉などもどうなのかな、という気もします。 何らかの不自由はあるかもしれませんが、それを「障がい」と認定する権利が果たして他人にあるのだろうか、という観点からですが。 相手の方に失礼というか、何か本質的な誤解をしているような気がするわけです。       

noname#134290
質問者

お礼

>つまり、からかいであり、見下しでありというのが重要な要素になっていることでしょう ・・・おっしゃる通りです。 >いわゆる差別用語と言われるものは、こういった要素が明確に現れているものが多いのではないでしょうか。 ・・・そこが難しいところです。私はそれらの言葉に拒否反応は出ません。 私はやまとことばが好きですし、それらの言葉を使って差別された経験が少ないからかも知れませんが。 >何らかの不自由はあるかもしれませんが、それを「障がい」と認定する権利が果たして他人にあるのだろうか、という観点・・・ ・・・まあ、不自由ですから「障害者」に間違いはないと思います。 ただ、現状はそのような「言い換え語」が安直に使われ、何か免罪符のような役割を果たしているような気がするんですね。 「めくら」とか「ちんば」とか言わなきゃいいんだろうということです。 いっそそれらの言葉を使っていただき、それでいて差別にならない言い方をしていただく方がいた方が、かえって差別をなくするのによいかな、と思ったわけです。 無味乾燥の「言い換え語(漢語)」よりも「差別用語」の方がカラフルで生き生きとしているような感じがするものですから(もちろん差別的に使っていないというう場合に限ります)。 ありがとうございました。勉強になりました。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.14

それが偽善であってもかまわないのではないですか。 完全なる慈悲を求めても無理でしょう。 あなたがこの社会で生きていけるならそれでいいのではないかと思います。

noname#134290
質問者

お礼

慈悲? そんなもの求めていませんが。 あなたはそういう眼で障害者を見ているのですか?

noname#194996
noname#194996
回答No.13

NO,11です。補足要請をいただきましたので >反捕鯨グループの主張に似て”差別行為だ”と主張するごく一部の人間たちの意識を更に先鋭化させ、図に載せることになっているとは思います。 モンスター・ボランテア と言う言葉がよく適っています。グリーンピースは余計でしたが、言葉狩り人種たちの過激な一方的主張に一般社会がなんとなく押されてそれを追認しているという現状が、彼らの行動をさらに助長して状況が悪化しているという質問者様の印象に私も同意するという意味です。 前回いい足りませんでしたが、この問題の根本的な困難さは、言葉、あるいは名詞というものそのものが、基本的にあるものを他のものから区別して際立たせるものなので、その行為に価値的判断が伴うのはある意味避けられないとも言えるわけですね(昔中華の尊大な学者が日本国を含む近隣の民族国に卑しい言葉をつけて呼んだように)。 そういった歴史的な大過去のことにこだわっているのは、日本国名を倭から大和へと読み替えた先祖の行為から始まっているわけですが、言霊という不思議なイデオロギーに左右されなければ、名前は名前に過ぎないので、こんなことは無意味だという論理があることも確かです。そういったどうしようもない価値判断も含めて、当面する行為に悪意ある差別意識がこめられていない限り、それらを受け入れようと仰る 質問者様のおおらかな精神に私も大いに賛同するものです。

noname#134290
質問者

お礼

たびたびありがとうございます。 よく理解できました。

  • JoyWorld
  • ベストアンサー率13% (6/45)
回答No.12

自分たちの「良心」(カッコつきであることに注意)を充足させることが目的で、実際に差別用語の対象者の気持ちを無視していることが多いという意見を、実際にその対象者(複数)から何度か聞きました。 ほんと、偽善はいやですね。

noname#134290
質問者

お礼

そうなんですね。 モンスターボランティアというのがあるらしいのです。 質問者様の文章を借りて、モンスターボランティアを定義すると、そっくり当てはまりました。 「モンスターボランティア」:自分たちの「良心」(カッコつきであることに注意)を充足させることが目的で、実際に困窮している対象者の気持ちを無視していることが多いという。

noname#194996
noname#194996
回答No.11

>こういう言い換えは意味があるのでしょうか。 私は、ある程度は意味があると考えています。 たとえば、中華人民共和国(隣の巨大な国です)は正式に日本に対して「シナ」と自国を呼ぶのはやめて欲しい、といったと聞いています。 私は「支那」という言葉は差別用語だとは思っていませんが、中国人(の一部)は日本人からそう自国が呼ばれることにある種の不快感を持つといわれます。その事実を他人(特に日本人)が(そんなことはないよ、などと)否定する権利はありません。むしろそうかもしれないな、と私も思います。 一般的に、言葉というのは長い間流通していることで歴史的、社会的な意味合いを身につけます。両国間の一時期の不幸な過去が関係して「貴方はシナ人ですね」と中国人が日本人から言われたとき、中国人の記憶が何らかの痛みを感じるようになっているということでしょう。彼らにはそれが差別語になるのです。 悲しいことですが、それは日本人の過去の事跡にかかわるということで責任でもあるので、あるシチュエーションでは「支那」または「シナ人」と言う言葉は使えないと言うことを否定できないのです。 質問者様が提示された「かたわ」と言う言葉も、そういった意味で、過去の心無い人間たちに乱用されたことが原因して負の意味合いを含むに至ったということです。「ライ病、レプラ」と言う言葉もしかり。そういった言葉を耳にすることで、過去の被差別状況がまざまざと目に浮かび、心が傷つけられるひとたちが世には存在するということです。少数であれそういった状況を多数派である人間たちも心にとどめ、できる限りそういった言葉は使わないでおこう、という倫理問題、モラルに属することだと私は考えています。 ですから、文学活動などでどうしてもそういった言葉をつかわなければならない場合は使っても許されるはずだ、と私は思います。ですから >差別用語の使用禁止は、ますます日本語の品質劣化を招き 私もこういった主張、問題はおおげさでなく、ある、と思います。今の差別用語の使用禁止 という状況は明らかにやりすぎだと思います。でも >差別行為を助長しているように思いますがどうなのでしょうか 私はそうは思いません。ただ半捕鯨グループの主張に似て”差別行為だ”と主張するごく一部の人間たちの意識を更に先鋭化させ、図に載せることになっているとは思います。そういう意味では、放送コードなどをもっとゆるくするべきだというのに賛成です。

noname#134290
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 最後の「反捕鯨グループ・・・・」以下のところの意味がよくわかりません。

回答No.10

言葉というのは記号に過ぎない。 「ビッ○」であれ「メク○」であれ、単なる音の並びだ。 それが差別用語であるというのは、その言葉が差別して いるのではなく、人の心の方に差別意識があるから、その 言葉が差別的なニュアンスを帯びてくるのだ。 ひるがえって、家庭内で「ビッ○」と言っても平気なのは、 家族の思いやりが前提となっているからだ。 大家族制+地域コミュニティの濃厚であった昔は、そうした 障害者は、コミュニティ全体で面倒みていたのが、近代化 (貨幣経済、資本主義、効率主義etc.)において、“お荷物” という認識が生じるにつれ、急にそれらの言葉が差別性を 帯びてきたので、あわてて「身障者」だの「XXの不自由な人」 と言い始めたのだ。 それは、伝統文化の守られた社会では、伝送継承の担い手 として尊敬される「老人」が、近代化=技術革新の中では、 “時代遅れ”のニュアンスを帯びた差別用語となり、「高齢者」 と言い換えたが、それも差別性を帯びてきたので、「シニア」、 「シルバー」と、次々に言い変えたのと同じ。 心に差別意識がある限り、どんなに言葉を変えても、その言葉に 新たに差別性が付加されるだけの話で、根本的解決とはならない。 人は、金儲けしようとしたり、出世を望んだり、自己顕示したりする、 そうした資本主義や権威主義、個人主義を選択する事が、実は 潜在的に身障者や高齢者をさげすむ事になると薄々感じていて、 だからこそ、資本主義・個人主義の発達したアメリカでは、あれ ほど近代化しながら、慈善を強要する宗教に固執しているのだ。 自らの中に抱えた矛盾を処理するために、自ら差別意識を付与 した言葉を拒絶し、変え続けているのだ。 では、その言葉を改める事は無意味かというと、少なくとも 姿勢を見せる意味はある。 そのように『この言葉は差別性を帯びてきたから変えよう』とし ている時に、あえて以前の言葉を使う人は、『私は差別意識を 持っていると思われてもいい』という意思表示している事になる。

noname#134290
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ご回答の8割方はおおせの通りと存じます。 もちろん差別用語禁止の効果はあります。 >あえて以前の言葉を使う人は、『私は差別意識を 持っていると思われてもいい』という意思表示している事になる。 難しいところですね。 一部の人権論者がキャンキャン騒ぎたてるかも知れません。 しかし、私は本当の人権を分かっている人が、度胸を持って差別用語を使っていただいて、世の中の人権意識を向上させてほしいと願っています。

回答No.9

 解答No.7さんの意見に接し、考えました。  質問者さんは、今の社会に受け入れられた環境に身を置いているから、こうした言葉への疑問がわいてきたのではないかと。  今、差別用語とされている言葉が、普通に使われていた時代の人たちは、社会が受け入れているとは言えない状況だったと思います。  この状況を現在のように改善するための、意識の改革の一環として“差別用語”なるものを特定し障害者に精神的負担を与えないように配慮したのだと思います。  たぶん、質問者さんは過保護にされている事への不満から、こうした疑問を持ったのかと思います。  でも、この気持ちは必要。  そのくらいの気力がなければ精神さえも自立できてない、と言っておきます。    

noname#134290
質問者

お礼

>質問者さんは、今の社会に受け入れられた環境に身を置いているから、こうした言葉への疑問がわいてきたのではないかと。 そういうことはないと思います。 「今の社会に受け入れられた」・・・一言でそういうくくり方はできません。あるときは受け入れられ、あるときは拒否されです。 これは戦前の不具者もかわりません。 >今、差別用語とされている言葉が、普通に使われていた時代の人たちは、社会が受け入れているとは言えない状況だったと思います。 それほど極端に決めつけることはできません。 戦前は人権について暗黒の社会ではありません。 心ある人は差別的言動をたしなめていました。 >この状況を現在のように改善するための、意識の改革の一環として“差別用語”なるものを特定し障害者に精神的負担を与えないように配慮したのだと思います。 それが安直だと言っているのです。 差別用語の使用をやめたら差別が消えてなくなるものではありません。 かえって差別を助長している側面があります。 >たぶん、質問者さんは過保護にされている事への不満から、こうした疑問を持ったのかと思います。 違います。 現状の身障者は過保護にされてるとお思いですか。 今の現状は、あなたのような「かくれ加差別者」増やしているところに問題があるわけです。 >でも、この気持ちは必要。  そのくらいの気力がなければ精神さえも自立できてない、と言っておきます。 加差別者の本性が出てきました。 回答ご苦労様でした(o^∇^o)。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.8

私には視覚障害者の娘がいることもあって、多くの盲人、その関係者の友人・知人がいます。 で、結論から先に申し上げますと、障害者・保護者の間では、「めくら」とか「目が見えないクセに」という表現は、たとえば親が子を叱る場合や関係者同士の会話の中では、平気で使われることもありますが、健常者から無神経に言われたときには、不愉快に思う人が多いのも確かだと思います。 ところで、われわれが言葉で何かを表現しようとするときには、たとえ当人は無意識にせよ、何らかの意味での優劣的な価値判断をしてしまうことはしばしばあるのではないでしょうか。 そして、言葉が言葉である限り、一方で時代性、社会性、規範性、制度性等を帯びると同時に、他方で一人一人の固有の体験に裏付けられた一回性、独自性、身体性、感覚性等を帯びているという、言葉の両面性について知らないフリはできないと思います。 しかも、言葉がこうした両面性を備えているからこそ、一方で人類は言葉によって膨大な人間社会を作り出し、アカの他人同士で活き活きとしたコミュニケーションができるようになったと同時に、この言葉によって、人間だけが自分自身の、掛け替えのない、固有の内面世界やアイデンティティを持つようになったのではないでしょうか。 言葉が以上のような基本性格を内在させている限り、言葉を使う側の意図とは無関係に、もっぱら受け止める側の内的事情によって、愛情や思いやりを感じることもあれば、逆に敵意や悪意を感じることもあるのは不可避だと言わざるを得ないと思います。 >こういう言い換えは意味があるのでしょうか。 日本語の語彙が倭語・漢語(古代外来語)・カタカナ語(近代外来語)から構成されている以上、原則として、「めくら」⇒「盲人」⇒「視覚障害者」⇒「シカクショウガイシャ」の順に、この言葉を受け取る側が、良くも悪くも、より写実性・即物性・具象性を感じにくくなるのではないでしょうか。 >「かたわ」という言葉を使っても、差別的に言っているかどうかは、その人の顔を見ればわかります。 あるいは、言葉を発する側と受け取る側との人間関係がどうであるかも大きく影響すると思います。 ということで、結論としては、ある任意の言葉を取り上げ、「これは差別語か否か?」と議論してもあまり意味がないどころか、不毛な水掛け論を繰り返すことにしかならないと思います。 それよりは、差別語や差別意識が生み出される社会的システムなり、人間心理なり、言葉のメカニズムなりの方に目を向けた方がより賢明ではないかと思われてなりません。

noname#134290
質問者

お礼

すばらしいご回答です。 よくわかりました。 安直な偽善は排除しなければいけません。 ここまで、8人のご回答をいただきました。 差別臭芬々たる回答もあります。 自分より下に人を置きたいという気持ちの人・・・なかなかなくなりませんねぇ。

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    カテゴリーが違いましたら申し訳ありません。 差別や用語について勉強しています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1470484 こちらで質問させて頂いた続きになりますがもう少し具体的にお聞きします。 (この質問は削除されるかもしれません。) 「チョン」という言葉について、具体的な人物と関連付けていないものの 明らかに人物や国に対して度々使用される方がいてとても不愉快で許せません。 差別は当然許せません。が、批判はあっても仕方ないと思います。 でも、他に言葉があると思うのです。 質問です。 ・上記の場合での使用は差別で間違いないですか? ・私は削除されて当然だと思っていたのですが削除されない理由はどこにあると思われますか? ・韓国の方や北朝鮮の方がサイト側や発言した方を訴えることができるケースでしょうか? 該当する質問・回答を御覧になったと過程して質問しています。 個人が特定されてしまう内容の回答はされないようお願いします。