• ベストアンサー

休まれない と 休めない の使い分け

次のように考えたのですが、ちょっと確信が持てません。 みなさんのご見解をお伺いできれば、と思います。 1.風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休まれない。 【会社というものを】休むことができない。 というニュアンス。 2.風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休めない。 【私は】休むことができない。 というニュアンス。 「休む」の、 1.対象に重点をおいた表現か 2.主体に重点をおいた表現か によって使い分けている。 3. むろん、必ずしも厳密に区別されているわけではないかもしれません。 〇この海は汚れているので泳げない。 〇この海は汚れているので泳がれない。 などは、どちらも可能でしょう。 ただ、この場合でも、 前者は、「海が汚れているという理由で、【私たちは】泳げない」という主体重視のニュアンスで、 後者は、「この海は汚れているので、泳ぐことが【不可能な海】だ」という対象重視のニュアンス。 という感じがします。 そして、 「怖い」という主体重視の意図が明確な場合は、 〇私は海が怖くて泳げない。 ×私は海が怖くて泳がれない。 のようになるのではないか、というわけです。    どう思われますか。   

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • xianching
  • ベストアンサー率16% (18/110)
回答No.16

私は質問者様のように明確に区分していませんが、 質問者様がそのように感じられるのは、「れる・られる」の可能以外の意味(受身、尊敬、自発)に大きく影響されているからではないでしょうか。 受身、尊敬、自発には、主体の積極的意志が感じられません。 「れる・られる」には4つの意味あると言っても、一つの言葉ですから、「れる・られる」の可能表現でも、可能以外の「受身、尊敬、自発」に引っ張られることがあってもよいと思います。 それが普通かもしれません。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >受身、尊敬、自発には、主体の積極的意志が感じられません。 : なるほど・・・。 いいところを突いていただきましたね。 「主体性の稀薄性」に関する根拠をお示しいただいたということになるのでしょう。 そもそも自発の用法が最初だったという話もあるようで、おっしゃるような意図が無意識的に引き継がれている可能性はあるのかもしれません。  

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その他の回答 (15)

noname#157574
noname#157574
回答No.5

 どちらも休むことができない(可能)の意味を持っています。 【備考】大阪などでは,単に休まないことを「休めへん」,能力がなくて休まないことを「休まれへん」と区別します(京都などではそれぞれ「休まへん」,「休めへん」)。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 > どちらも休むことができない(可能)の意味を持っています。 : わかりました。 参考にさせていただきます。 >【備考】大阪などでは,単に休まないことを「休めへん」,能力がなくて休まないことを「休まれへん」と区別します(京都などではそれぞれ「休まへん」,「休めへん」)。 : 大阪弁の「休めへん」には、意志用法と可能用法の2種類があるように思います。 イントネーションで区別する形ですね。          意志    可能(主体重視)    可能(対象重視) 標準語ーーー休まないーーー休めないーーーーー休まれない 大阪弁ーーー休めへんーーー休めへんーーーーー休まれへん 京都弁ーーー休まへんーーー休めへんーーーーー休まれへん

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noname#126865
noname#126865
回答No.4

そもそも現代国語(標準語) に可能形として「休まれる」「泳がれる」「行かれる」という形は存在しないと思います。 これらはいずれも「受身」になります。 日本語の受身には直接受身と間接受身があって、これらはいずれも後者に属するものと思われます。 因みに英語には間接受身は存在しません。 直接受身とは、「押される」「叩かれる」「触られる」「遊ばれる」「見られる」のように直接自分に動作や行為が加わるものですが、 間接受身は、「(雨に) 降られる」「(先に) 行かれる」「(あいつにうまいことして) やられる」のように、自然現象や、相手の行為が直接自分に及ぶものではないが、そのことによって自分が何らかの被害や迷惑を蒙ったと感じる時に使われます。 「休む」「泳ぐ」「行く」はいずれも五段活用の動詞で可能形は「休める」「泳げる」「行ける」です。 「休まる」という言葉があるので混乱するかもしれませんが、「休む」は主に人間(動物や擬人的に機械なども) が自分の意志で「休む」のに対して、「休まる」は「気が休まる(安まる) 」のように無生物主語が自然に「休まる」ので「休まれる」という可能形は普通は使わないでしょう。 「休まれる」という形を使うとしたら、間接受身で次のようなものではないでしょうか。 「あいつに休まれたおかげでこっちは大忙しだよ」 hakobuluさんが提示したURLの文章も「子供は行けない」が正しい日本語だと思いますがいかがですか?

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >そもそも現代国語(標準語) に可能形として「休まれる」「泳がれる」「行かれる」という形は存在しないと思います。 これらはいずれも「受身」になります。 : http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E3%82%8C%E3%82%8B&stype=1&dtype=0 の2は、誤った見解にもとづいた解釈である、というわけですね。 参考にさせていただきます。 直接受身と間接受身のご説明も参考になります。 文法にはとんと疎いもので・・・。 >(#1で)提示したURLの文章も「子供は行けない」が正しい日本語だと思いますがいかがですか? : 「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」 という例文のことですね。 おっしゃるように、 「わかりやすい道だから子供でも行けるだろう」 という文にすることもできるでしょう。 これは、「子供でも行くという行為が可能だ」というニュアンスがあると思うんですよ。 「行く」という行為の主体である「子供」(の可能性)に着目した主体重視の表現、というわけです。 しかし、 「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」 という例文は、 「子供でも行くことが可能な、そんな状態の道だ」ということに重点を置いた表現だと思います。 こちらは、「行く」という行為の対象である「道」(の可能性)に着目した対象重視の表現。 もう少し他の例を挙げてみましょう。 許容範囲という見方も可能でしょうが、主体重視か対象重視か、という話者の意図を尊重するためには、厳密な区別が必要と考えるわけです。 〇あの道は暗いから子供一人では怖がって行けないだろう。 ×あの道は暗いから子供一人では怖がって行かれないだろう。 ×そのルートは、地雷が埋まっていて、子供一人では無事に目的地まで行けない道だ。 〇そのルートは、地雷が埋まっていて、子供一人では無事に目的地まで行かれない道だ。   

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  • cxe28284
  • ベストアンサー率21% (932/4337)
回答No.3

休むの可能動詞を 「休める」と考えれば「休めない」でよいと思います。 只元々「休める」と言う動詞があり、やすらかにする。おだやかみする。という意味 で使われ、体を休める、手を休めるなど何かやっている事を中断する意味でも使われ 混同してしまいますが現在では可能動詞の使い方の方が主になっいるとおもいます。。 「会社を休みにくい」と言うこともできます。 

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 たしかに人口に膾炙しているのは「休めない」のほうだろうと思います。 しかし、これは、質問文にも記しましたように、用法の守備範囲が広い、ということと、主体の不可能性として表現するシチュエーションのほうが多いから、という理由にすぎないように思われます。 実際問題として、 「この海は汚れているので、泳ぐことが【不可能な海】だ」 という気持ちを表明したい場合、 「この海は汚れているので泳がれない」 と言うほうが、 「この海は汚れているので泳げない」 よりも正確に話者のニュアンスを伝えることができるような気がするんですが、いかがでしょうか。 後者は、自分が泳ぎたくない、という意図を持っている場合の発言内容であって、 前者は、海がこのように汚染されているために、泳げる状態の海ではない、ということを言いたい場合の発言になるのではないか。 また、そのような使い分けは(無意識的にせよ)為されているのではないか、ということです。 >「会社を休みにくい」と言うこともできます。  : 温和なご性格の cxe28284 さんらしい視点ですね。^^ 大変参考になりました。   

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  • xianching
  • ベストアンサー率16% (18/110)
回答No.2

「可能動詞(休める、泳げる)」と「動詞+助動詞(れる、られる)(休まれる、泳がれる)」の差です。 どちらの言い方もあるよ。 現在は可能動詞が全盛で意味がはっきりしている。 助動詞「れる、られる」は、昔の言い方で、受身尊敬などの言い方もあるので、はっきりしないわかりにくいところがある。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、ですね。 >助動詞「れる、られる」は、昔の言い方で、受身尊敬などの言い方もあるので、はっきりしないわかりにくいところがある。 : だから、「休めない」のほうが好ましい、ということですね。 ただ、意味の差異も生じると思うのですが、その点に関してはいかがでしょうか。 追加質問で恐縮です。   

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  • ucok
  • ベストアンサー率37% (4288/11421)
回答No.1

「休まれない」「泳がれない」は標準語ではありません。どこの地方の方言かを補足していただければ、その方言に詳しいかたが用法を解説してくださるかもしれません。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そう思われてもしかたないほど、そういったシチュエーションが実際的には少ない、ということはあるのかもしれませんね。 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E3%82%8C%E3%82%8B&stype=1&dtype=0の 2 可能の意を表す。…することができる。「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」 という解説もありますので、方言ということでは、おそらくないのだろうと思われます。      

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このQ&Aのポイント
  • Windows10のノートパソコンでエレコムのキーボードを使用している際、文字入力が高速に切り替わる現象が発生し、正しい文字が入力できない問題が発生しています。
  • この問題はキーボードを他のノートパソコンに接続した場合でも同様の現象が起き、さらにタッチパッドが動作不能になるなどの複合的な問題も発生します。
  • この問題の原因はキーボード本体の故障や環境設定の問題かどうかを判断できないため、同様の経験をされた方からのアドバイスを求めています。
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