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休まれない と 休めない の使い分け

xianchingの回答

  • xianching
  • ベストアンサー率16% (18/110)
回答No.15

最初に「方言だから」と門前払いのような口調で回答ありました。 その後も何回となく同様の主張をしながら、最後に軟化されても困るのですが、この問題は可能動詞の単純明快さと「れるられる助動詞用法」の古さや複雑さの差だと思います。 質問者様はかなり細かく区分しているようです。 私はそれほどの差があるように思えません。 >〇私は海が怖くて泳げない。 >×私は海が怖くて泳がれない。 この場合は質問者様の○(チェック)の通りですが、「私は海が怖くて泳がれん(ぬ)。」にすると○のように思います。 つまり言い方少し古風にすれば格好付くのよ。 こんなところも参考にしてまた御研究されてください。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >この問題は可能動詞の単純明快さと「れるられる助動詞用法」の古さや複雑さの差だと思います。 : みなさんのご見解を集約すると、そうなりそうですね。 >この場合は質問者様の○(チェック)の通りですが、「私は海が怖くて泳がれん(ぬ)。」にすると○のように思います。 : なるほど、新鮮な視点ですね。 ただ、この場合も、「海というものが怖いという理由で」に重点を置いた表現になると思います。 構文としては、 ・私は→泳がれん(ぬ)。 ・海が怖くて泳がれん(ぬ)。 のようになっていて、「泳がれん(ぬ)」 は、2箇所を受けていますが、あくまで後者を強調した表現になっているのではないか、ということです。 つまり、「私に泳ぐ能力がない」という意図ではない、という点が大きな、しかも決定的な違いと私は考えます。 色々と参考になりました。      

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