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可能動詞とラ抜き言葉 総括の総括
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- 可能動詞 と ラ抜き言葉 について
次の1~3の見解に、基本的な間違いはないでしょうか。 あればご指摘くださった上で、無ければそのまま、最後に示してある質問についてご見解をお寄せください。 1. 古くは、可能の用法は、自発・受身・尊敬用法と共に、助動詞の「れる・られる」で表わしていた。 読まれる・休まれる・泳がれる・・・A 見られる・食べられる・来られる・・・B 2. 室町時代頃から「可能動詞」が出現する。 五段活用の動詞を下一段活用の動詞に変化させたもの。(上記 A ) 読まれる→読める 休まれる→休める 泳がれる→泳げる 3. 大正時代から「ら抜き言葉」が出現する。 「見られる」のような上一段活用動詞、「食べられる」のような下一段活用動詞、また「来られる」のようなカ変動詞の「ら」を抜いたもの。(上記 B ) 見られる→見れる 食べられる→食べれる 来られる→来れる 【質問】 可能動詞が五段活用だけに限定されているのはなぜでしょうか。 同じ意味ですが、ラ抜き言葉が可能動詞として早い時期から発達しなかった理由はなんでしょうか。 構造的に大差は無いように思うので、非常に不思議な気がします。
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- 日本語・現代文・国語
- ラ抜き言葉 について
この質問内容は、当初、 「可能動詞 について」 http://okwave.jp/qa/q6537930.html と同じスペースに掲載予定でしたが、字数の関係で、あえて独立させました。 基本的考えは重複を怖れず掲載したつもりですが、上記URLにも目をお通しいただけると幸いです。 http://okwave.jp/qa/q6530613.html 及び、 http://okwave.jp/qa/q6534485.html もご参照いただけれと思います。 可能動詞の成立過程について http://okwave.jp/qa/q6537930.html で述べましたように、 ラ抜き動詞についても、【正当な】成立過程が存在しているように思うので、それを提示し、みなさんのご見解を伺わせていただければ、と思います。 ウィキによると、ラ抜き言葉は、大正時代に出現したようで、 「見られる」のような上一段活用動詞、「食べられる」のような下一段活用動詞、また「来られる」のようなカ変動詞の「ら」を抜いたもの。 という解説が載っています。(ウィキでは肯定しているわけではありません) この「られる」が「れる」に変化した理由として、 「可能動詞 について」http://okwave.jp/qa/q6537930.html で、述べた内容と同様に、「動詞+得る」という意図があったと考えることができると思います。 「得る」に関して、ウィキでは五段活用の可能動詞の出現理由のひとつとしてしか挙げていませんが、これはラ抜き言葉にも適用できるのではないでしょうか、ということです。 五段活用の場合、先の質問でも示しましたが、 読む(YOMU)→読む[を]得る(YOMU-ERU)→読める(YOMERU) という出現過程が推測できるように思います。 [U]は発音上の便宜性で消滅したと考えることに無理はないでしょう。 同様に、あるいは似たように、 見る(MIRU)→見る[を]得る(MIRU-ERU)→見れる(MIRERU) 食べる(TABERU)→食べる[を]得る(TABERU-ERU)→食べれる(TABERERU) のような過程を経て(ラ抜き言葉ではなく)五段活用以外の動詞の可能動詞が出来た、と考えても良いのではないか、という、いわゆるラ抜き言葉擁護論についてお伺いするのが、当質問の骨子であります。 見られる・食べられる、という(正当的というべきなのでしょう)可能動詞の他に、なぜこのようなものが必要であるのか、という点に関して私見を述べます。 まず、(実際に使う人の意図に関わらず) 見れる と 見られる には微妙な意図の差異が存在するのではないか、ということを主張したいと思います。 「得る」が可能の意味であることは当然ですが、「【主体(人とは限りません)】が(何事かを)得る」という用法だと思います。 つまり、可能動詞は(動詞の対象ではなく)主体性重視を意図した表現である、ということの根拠となり得るのではないか、ということです。 「このテレビは、この眼鏡を描けると 3D 画像が見られるよ」 は、 「これは、そういう(3Dの)画像を見ることが可能な対象(=テレビ)」であることに重点を置きたい場合の表現。 「その眼鏡ではなくて、この眼鏡を描けると 3D 画像が見れるよ」 は、 「主体(=あなた)が、見ることが可能」であることに重点を置きたい場合の表現。 ということが言えるのではないか、ということです。 <結論> ラ抜き言葉とは、五段活用以外の動詞のための可能動詞であり、且つ、「動詞+助動詞-られる」型の可能表現と、その意図を峻別するために必要な動詞と言える。 <補足> ただし、上記の例において入れ替えを行なうと、微妙に不自然な表現になる。 つまり、ラ抜き擁護派・反対派を問わず、申し上げておきたいことは、 シチュエーションによって使い分けられるのが本来の用法であって、すべてラ抜きで事足りるということには決してならない。 たとえば、 「こんな流行遅れの洋服で、みんなの前に出れないわ」 という物言いをする女優が蓮っ葉に見えるとすれば、それは、 「出ることを得ない理由」が、「みんなの前だから」という他者への遠慮、あるいは常識的な慎ましさが基盤にあるのではなく、 「自分の損得のみに神経がいっている」という、その「身勝手さ」が、聞くものをして、無意識に蓮っ葉な印象を引き起こさせるのではないか、と思われます。 火事で逃げ送れた女優が煙渦巻く密室から、 「わたし、ここから出られないわ」と言ったらさぞかし奇異な印象を受けるでしょう。 「わたし、ここから出れないわ」が自然だろうと思います。
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- 日本語・現代文・国語
- 可能動詞 について
一連の質問をさせていただいた総括としての質問です。 多少、新しい見解も提示しております。 http://okwave.jp/qa/q6524818.html の続編と受け止めていただくと良いと思います。 ラ抜き動詞に関しては別掲いたします。 <結論> 可能動詞は主体重視、動詞+助動詞れる・られるは対象重視。 <前提 1> 以下はウィキからの抜粋です。 『「行かれる」のような「~れる・られる」の形は、古語の「~る・らる」の形から変化したものだが、「行ける」のような可能動詞はそれとの関係は不明である。 由来には大きく2説があり、「知るる(知れる)」等からの類推で、従来からあった四段(後に五段)活用動詞に対する下二段(後に下一段)段活用の自発動詞が一般化した(類似の動詞の項を参照)という説[1]と、 「行き得(る)」のような「連用形+得(る)」の表現が変化したという説[2]とがある。』 この後者、「連用形+得(る)」の表現が変化したという説に、かなり共感を覚えます。 <前提 2> 以下は、 http://okwave.jp/qa/q6524818.html に寄せられた#16さんのご回答です。 『そのように感じられるのは、「れる・られる」の可能以外の意味(受身、尊敬、自発)に大きく影響されているからではないでしょうか。 受身、尊敬、自発には、主体の積極的意志が感じられません。 「れる・られる」には4つの意味あると言っても、一つの言葉ですから、「れる・られる」の可能表現でも、可能以外の「受身、尊敬、自発」に引っ張られることがあってもよいと思います。』 これら2点を主な前提にさせていただきつつ、私の感じたことを総括いたします。 率直な(しかし可能なかぎり論理的な)ご感想をお願いできれば幸いです。 1. 可能動詞の誕生は次のような過程を経ていることになると思います。 読む(YOMU)→読む[を]得る(YOMU-ERU)→読める(YOMERU) 休む(YASUMU)→休む[を]得る(YASUMU-ERU)→休める(YASUMERU) 泳ぐ(OYOGU)→泳ぐ[を]得る(OYOGU-ERU)→泳げる(OYOGERU) これが、「動詞+得る」が可能動詞の発生過程と推測します。 [U]は発音上の便宜性で消滅したと考えることに無理はないでしょう。 3. そして、「得る」が可能の意味であることは当然ですが、「【主体(人とは限りません)】が(何事かを)得る」という用法だと思います。 つまり、可能動詞は主体性重視を意図した表現である、ということの根拠となり得るのではないか、ということです。 例を2点挙げます。 a. 「【会社を休むこと】を得ない」という意図ではなく、 「【わたしが休むこと】を得ない」という意図の場合、 『風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休めない』 と表現する所以です。 逆に、 「会社が、休むことを得ないほど繁忙状態にある」という意図を表現したい場合には、 『風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休まれない』 となる。 「会社は、わたしに休まれると困るような状態にある」 という受身の要素、 「私が意図したわけではないが、会社は、わたしに休まれると困るような状態になっている」 という自発の要素、 なども含まれているでしょう。 いずれも、【休むという行為の主体(=わたし)】の存在を薄めるニュアンスが込められていると思います。 b. 「海が汚れているために泳ぐことを得ない」という意図ではなく、 「わたしが泳ぐことを得ない」という意図が強い場合、 『わたしは泳ぐのが大好きだが、この海は汚れているので泳げない』 と表現するでしょう。 ただし、「私という主体」ではなく「海が汚れているために」泳げない、という意図でも、 「この海は汚れているので泳げない」と表現することは、往々にしてあるでしょう。 その場合は、 「この海は汚れているので(私たちは / 人々は)泳げない」という主体の転換がなされているにすぎません。 逆に、私という主体に強い関連性が乏しい場合、 つまり、「海が汚れているために泳ぐことを得ない」という意図を表現したい場合は、 「この海は汚れているので泳がれない」となる。 タンカー事故などによる油の大量流出で、観光地である【海自体の明らかな汚染】を嘆く人は、 「この海は汚されて、泳げない海になってしまった」ではなく、 「この海は汚されて、泳がれない海になってしまった」と表現する割合が高くなるように思われます。
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- 可能動詞 と ラ抜き言葉
ウイキを見ていてちょっと感じたことです。 抜粋を交えつつ質問します。 ・可能動詞(かのうどうし)とは、現代日本語(共通語)において五段活用の動詞を下一段活用の動詞に変化させたもので、可能(行為をすることができること)の意味を表現する。 「書く」に対する「書ける」、「打つ」に対する「打てる」の類をいう。 ・かつては可能動詞を使わず、動詞の可能を表すには助動詞「る・らる」(現代の「れる・られる」)を用いていた。 ようで、 可変動詞というのは室町時代頃から出てきたものらしいですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%83%BD%E5%8B%95%E8%A9%9E 次に、「ら抜き言葉」についての記述を掲載します。 ・ら抜き言葉 [編集]「見る」のような上一段活用動詞、「食べる」のような下一段活用動詞、また「来る」のようなカ変動詞の 可能表現としてそれぞれ「見れる」「食べれる」「来れる」とするものは、「ら」を含んでいないということから「ら抜き言葉」と呼ばれる。 「ら抜き言葉」の使用は関東地方においては大正期から始まったが、この傾向は国家の教育方針のもとで抑制されてきた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%82%8C#.E3.82.89.E6.8A.9C.E3.81.8D.E8.A8.80.E8.91.89 ここで質問なのですが、 可変動詞(室町)が抑制されず、ラ抜き言葉(大正)が抑制されるのは、つまり、歴史が新しいから、という以外に何か国語的な理由があるのでしょうか。 文法方面はからっきしだめなので、なるべく分かりやすくご回答いただけると助かります。
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- 可能動詞とラ抜き言葉の関連性について
5段活用の「書ける」「読める」は可能動詞と呼ばれる可能専用表現ですが、上一段・下一段で「着れる」「食べれる」と言うと、ラ抜き言葉と言われ否定される場合が多いようです。 しかし、5段動詞だけに可能専用表現が許されているのはおかしいと思います。 また、可能動詞は正確には能力可能動詞と状況可能動詞に区別して使うのが妥当ではないでしょうか。 「彼は目が良いので遠くの字も読める」「彼は胃が丈夫なので、いくらでも食べれる」は能力可能動詞。 「読める(YOMERU)」を能力可能動詞とする理由は、読み得る(YOMI+ERU)から変化したものという捉え方です。 「この拡大鏡を使うと小さな字も読まれる」「今日は体調が良いので、いくらでも食べられる」は状況可能動詞。 「読まれる」を状況可能動詞とする理由ですが、「れる」は、元来、自発用法から発しているはずなので、何らかの状況が前提となって自然に可能になる、といった意味に捉える、というわけです。 このようにシチュエーションに応じて使い分けるのが良いと思います。 ただし、これらの状況可能動詞の場合、「拡大鏡を使う」「今日は体調が良い」といった状況に重点を置いた場合の話です。 『「拡大鏡を使う」「今日は体調が良い」という状況に触発されて高まった能力』に重点を置いて話す場合は、「この拡大鏡を使うと小さな字も読める」「今日は体調が良いので、いくらでも食べれる」と表現すべきでしょう。 シチュエーションに応じず、無差別に能力可能動詞と状況可能動詞を使ってしまうために不自然になる場合が出現し、ラ抜き言葉といったいわれのない非難を受けることになるのではないか、という気がします。 要するに、ラ抜き言葉は正しく使えば決して間違いではない、とわたしは思うのですが、みなさんはどう思われますか。
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- 休まれない と 休めない の使い分け
次のように考えたのですが、ちょっと確信が持てません。 みなさんのご見解をお伺いできれば、と思います。 1.風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休まれない。 【会社というものを】休むことができない。 というニュアンス。 2.風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休めない。 【私は】休むことができない。 というニュアンス。 「休む」の、 1.対象に重点をおいた表現か 2.主体に重点をおいた表現か によって使い分けている。 3. むろん、必ずしも厳密に区別されているわけではないかもしれません。 〇この海は汚れているので泳げない。 〇この海は汚れているので泳がれない。 などは、どちらも可能でしょう。 ただ、この場合でも、 前者は、「海が汚れているという理由で、【私たちは】泳げない」という主体重視のニュアンスで、 後者は、「この海は汚れているので、泳ぐことが【不可能な海】だ」という対象重視のニュアンス。 という感じがします。 そして、 「怖い」という主体重視の意図が明確な場合は、 〇私は海が怖くて泳げない。 ×私は海が怖くて泳がれない。 のようになるのではないか、というわけです。 どう思われますか。
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正月に、母の実家に行って祖母と会話をしていたら「飲まれない」や「行かれない」という言葉を使っていました。ということは「行けない」や「飲めない」という言葉は、ら抜き言葉ということですか?自分は一応、ら抜き言葉を使わないと決め手いるので少し気になっています。教えてください。
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1.そのたびに 特許「に」関係する専門用語とかを覚えなきゃいけないんだろ。 ここの「に」の用法はどんな用法ですか。 私の判断で【目的】という使い方です。 正しいですか。 2.うちもこの間アメリカの企業からクレームをつけられてね、理論武装のための資料作り「に」徹夜だよ。いま、裁判で争ってる最中だ。 ここの「に」の用法はどんな用法ですか。 3.助詞『に』を勉強する時に、 「対象に対する主体の状態」という説明がありますので、 具体的な例がありますか。 質問が多くて、すみませんでした。よろしくお願いします。
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- 価値の哲学 ふたたび空気について
お世話になります。 過去の私の質問へのご回答をあれこれ調べても、袋小路のようで、我ながら進歩が有りません。 もう一度、空気の価値について質問させていただきます。 ここでは、空気を取り上げますが、いわば、生命としての人間にとって、自然全体つまり不可欠な対象の「代表」といった意味合いで使用します。 1)ある人は言います、価値とは、主体にとっての欲求対象の、妨害による距離の程度に由来する、主体にも客体にも属さない「第3の何か」である。 2)他の人はこう言います、価値は主体の欲求をみたす、客体の性能と、つまり、価値は客体の側にある。 3)私は言ってしまった、価値は主観の内にある感情と。 4)カントは、存在は事物の性質ではないと強調した。 空気の価値について考えると、1)に基づけば、空気に価値は有りません。2)では、どちらも可能のようです、空気を欲求するかどうかが問題になりそうですが、4)とは矛盾します。3)感情的に空気を欲求することはなさそうです、首を締められた時は本能的な反応で、価値は無くしたときに強く現れる良い例ですが、空気に価値があるかどうか考える場合、当てになりません。 4)難解ですね、これはきっとそうなのでしょう。 それこそ、訳の解らぬ「難解」な質問ですが、「空気の価値」から出発して、価値を、主体・客体・第3の何か、のいずれか、ご意見いただけませんでしょうか? とくに、「第3の何か」については、「何か」についてのヒントでも有れば助かります。 此処での価値は、経済的価値とか社会的価値とか形容詞のついたものではなく、単なる「価値」で、社会科学・自然科学の区別もしておりません。 我儘な質問で申し訳ありませんが、不出来な部分は補足で対応させていただきます。
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焼く+締める=焼き締める 抱く+締める=抱きしめる ぶつ+負かす=ぶち負かす みたいに、 ●もともとは別々の意味をもつ動詞が2つ以上入っている ●結果、一語になったその語自体に、特有の意味がある という動詞があったら教えてください。 例が思い浮かびませんが、3つとかで一語になっている言葉などがあるならば、それもぜひ知りたいです。 よろしくお願いします!
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お礼
ご回答ありがとうございます。 >まず、能力可能と状況可能は何らかの形で区別される地域の方が広いようです。 : 「読める」と「読まれる」を対照してみましたが、そういう感じは受けますね。 思っていたより範囲が広いという印象です。 >可能動詞については、九州・南西諸島を除くほぼ全域で使用が見られます。 ただ、能力可能と状況可能で明らかな使い分けが見られるのは東北地方北部だけです。 多くの地域ではどちらでも使い、特に「よう読まん」などほかの能力可能表現が優勢な 地域では、むしろ状況可能での使用が多かったりもします。 : そうですね。 たしかに、かく言う私自身も、実際問題として厳密に区別した表現をしているかといえばそうでもありません。 「眠れぬ夜のために」などという表現を平気で使います。ただ、 「眠られぬ夜のために」のほうが明らかに自然だという感覚に気づくことも確かだ、ということなんです。 このような言葉を発する人、あるいは、このようなタイトルの本の執筆者の意図は、、 「人々が」あるいは「私が」→「眠るという状況をなかなか得られない場合は」という感覚よりも、 「眠るという状況がなかなか得られないような、そんな夜の場合は」という感覚に遙かに近いはずだと思われるわけです。 人間が眠られないという不可能性よりも、 そんな不可能性を秘めた夜というものに焦点を当てて発せられる言葉のはずで、そういった心理と言葉の関係性というのはなかなか面白いと感じます。 >「五段動詞では可能動詞、一段動詞では『られる』を使う」、「能力可能と状況可能の 区別などはない」、「ら抜き言葉は異端」といった、「正統な」国語のルールだと思って いたものが、実は関東ローカルのどちらかといえば例外的な特殊な形にすぎない ことがわかります。 : 深いご見解と拝聴いたしました。 ただ、おそらく「方言」は「地方言」の略でしょうから、(地方ではあり得ない)東京を初めとする関東近辺以外の言葉を方言と言うのも一理はあるのかもしれません。^^ >つまり、明治・大正生まれのおじいちゃんたちですね。 ということで、たとえば「ら抜き言葉」は最近になってできた言葉の乱れだという 認識などはどうやら余り正しいとは言えなそうです。 Wikipediaでは大正時代からと記載がありましたが、よく見ると関東での使用の話 なんですね。 関東は「ら抜き言葉」の普及が遅れいている地域のようなので、ここでの話をもとに 「ら抜き言葉」の発生時期を語るのは明らかに無理がありますね。 : たしかに、明治生まれのおじいちゃんは、ラ抜き言葉を誰から教わったのか、ということになりますよね。 その意味では同様の印象を持ちます。 たびたび貴重な資料をご提示いただき、また、数々の適確なる御見解を賜りありがとうございました。 さらには、今回の資料の検証にも、ひとかたならぬお時間と労力を費やされたことでしょう。 その分析内容も大変参考になりました。 重ね重ね厚くお礼申し上げます。 ところで、今回ご提示いただいた資料も、あつかましく拙ブログにパクらせていただきたいと思います。 「検索権」などは発生しませんよね。^^; 色々とありがとうございました。
補足
お礼欄の記述内容に訂正があります。 ×人間が眠られないという不可能性よりも、 〇人間が眠れないという不可能性よりも、 「使い分け」と言っても、このていたらくです。 ただ、修正する気になるほどには気になる、ということですね。