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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:可能動詞とラ抜き言葉 総括の総括)

可能動詞とラ抜き言葉 総括の総括

このQ&Aのポイント
  • 可能動詞とラ抜き言葉についての総括記事が掲載されました。
  • 質問内容に対する貴重なご意見をまとめました。
  • 否定形の方が受け止めやすいという感想を募集しています。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • momordica
  • ベストアンサー率52% (135/259)
回答No.5

こんな資料を見つけましたので、ご紹介しておきます。 国立国語研究所 日本語情報資料館 『方言文法全国地図』 http://www6.ninjal.ac.jp/gaj_map/02/04/ 第173図から第185図辺りが問題の内容ですね。 これを見ますと、私も随分認識を改めねばならないなと感じました。 まず、能力可能と状況可能は何らかの形で区別される地域の方が広いようです。 ほとんど両者に違いが見られないのは、関東・東北南部・北陸・九州南部などだけです。 「れる・られる」が状況可能の方で多く使われるというのは質問者さんの予想通りのようです。 ただ、関東地方だけは、能力可能・状況可能にかかわらず五段動詞では可能動詞、 一段動詞では「られる」のように使い分けられるようです。 ただ、能力可能の方は地方によって表現がバラバラで、質問者さんのおっしゃる ような「れる・られる」対「可能動詞」の対立関係が見られる地域は東北の北部などに 限られるようです。 能力可能の意味で使われる表現としては、  東北地方北部では、肯定文では「読むにいい」など、否定文では「読めね」など  愛知・岐阜から近畿・中国・四国などでは「よう読む」「よう読まん」など  九州北部では「読みきらん」など があるようです。 可能動詞については、九州・南西諸島を除くほぼ全域で使用が見られます。 ただ、能力可能と状況可能で明らかな使い分けが見られるのは東北地方北部だけです。 多くの地域ではどちらでも使い、特に「よう読まん」などほかの能力可能表現が優勢な 地域では、むしろ状況可能での使用が多かったりもします。 また、「ら抜き言葉」の使用範囲もかなり広く、可能動詞の使用範囲とほぼ一致します。 使われ方も可能動詞に準ずるようなので、「ら抜き言葉」が一段活用の可能動詞 として生まれたものであるというのはほぼ間違いないでしょう。 ただし、関東地方の全域と、近畿地方の一部(京阪神)だけは、五段動詞の可能動詞 は使われるものの、一段動詞の「ら抜き言葉」は使われません。 一度なくなってしまった活用の種類による区別があとから復活するとは考えにくいので、 恐らく定説通りこれが可能動詞の元々の使われ方で、「ら抜き言葉」の方はやはり 後から生まれたものなのでしょう。 以上をまとめますと、標準語というものが東京方言を元に作られたので仕方ありませんが、 「五段動詞では可能動詞、一段動詞では『られる』を使う」、「能力可能と状況可能の 区別などはない」、「ら抜き言葉は異端」といった、「正統な」国語のルールだと思って いたものが、実は関東ローカルのどちらかといえば例外的な特殊な形にすぎない ことがわかります。 なお、この地図の調査は30年くらい前に行われたもので、その当時において、 生粋の方言を使うと考えられた高年齢層が対象になっています。 つまり、明治・大正生まれのおじいちゃんたちですね。 ということで、たとえば「ら抜き言葉」は最近になってできた言葉の乱れだという 認識などはどうやら余り正しいとは言えなそうです。 Wikipediaでは大正時代からと記載がありましたが、よく見ると関東での使用の話 なんですね。 関東は「ら抜き言葉」の普及が遅れいている地域のようなので、ここでの話をもとに 「ら抜き言葉」の発生時期を語るのは明らかに無理がありますね。 なお、その後、方言の消失・標準語化が急速に進行しているので、昭和・平成生まれの 世代で調査をするとまるで違う結果にはなるでしょう。 本来、能力可能・状況可能の区別があった地域でも、あまりその差を意識しない人 も増えていそうに思いますし、逆に関東などでもら抜き言葉の使用は増えているでしょう。 私自身が住んでいるのはもともと能力可能・状況可能の使い分けがほとんどない 地域だったようで、そのせいか今までそのような違いがあることを想像したこともなく、 標準語のルールに疑問も持っていなかったのですが、日本は結構広かったようです。 いい勉強をさせてもらいました。ありがとうございます。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >まず、能力可能と状況可能は何らかの形で区別される地域の方が広いようです。 : 「読める」と「読まれる」を対照してみましたが、そういう感じは受けますね。 思っていたより範囲が広いという印象です。 >可能動詞については、九州・南西諸島を除くほぼ全域で使用が見られます。 ただ、能力可能と状況可能で明らかな使い分けが見られるのは東北地方北部だけです。 多くの地域ではどちらでも使い、特に「よう読まん」などほかの能力可能表現が優勢な 地域では、むしろ状況可能での使用が多かったりもします。 : そうですね。 たしかに、かく言う私自身も、実際問題として厳密に区別した表現をしているかといえばそうでもありません。 「眠れぬ夜のために」などという表現を平気で使います。ただ、 「眠られぬ夜のために」のほうが明らかに自然だという感覚に気づくことも確かだ、ということなんです。 このような言葉を発する人、あるいは、このようなタイトルの本の執筆者の意図は、、 「人々が」あるいは「私が」→「眠るという状況をなかなか得られない場合は」という感覚よりも、 「眠るという状況がなかなか得られないような、そんな夜の場合は」という感覚に遙かに近いはずだと思われるわけです。 人間が眠られないという不可能性よりも、 そんな不可能性を秘めた夜というものに焦点を当てて発せられる言葉のはずで、そういった心理と言葉の関係性というのはなかなか面白いと感じます。 >「五段動詞では可能動詞、一段動詞では『られる』を使う」、「能力可能と状況可能の 区別などはない」、「ら抜き言葉は異端」といった、「正統な」国語のルールだと思って いたものが、実は関東ローカルのどちらかといえば例外的な特殊な形にすぎない ことがわかります。 : 深いご見解と拝聴いたしました。 ただ、おそらく「方言」は「地方言」の略でしょうから、(地方ではあり得ない)東京を初めとする関東近辺以外の言葉を方言と言うのも一理はあるのかもしれません。^^ >つまり、明治・大正生まれのおじいちゃんたちですね。 ということで、たとえば「ら抜き言葉」は最近になってできた言葉の乱れだという 認識などはどうやら余り正しいとは言えなそうです。 Wikipediaでは大正時代からと記載がありましたが、よく見ると関東での使用の話 なんですね。 関東は「ら抜き言葉」の普及が遅れいている地域のようなので、ここでの話をもとに 「ら抜き言葉」の発生時期を語るのは明らかに無理がありますね。 : たしかに、明治生まれのおじいちゃんは、ラ抜き言葉を誰から教わったのか、ということになりますよね。 その意味では同様の印象を持ちます。 たびたび貴重な資料をご提示いただき、また、数々の適確なる御見解を賜りありがとうございました。 さらには、今回の資料の検証にも、ひとかたならぬお時間と労力を費やされたことでしょう。 その分析内容も大変参考になりました。 重ね重ね厚くお礼申し上げます。 ところで、今回ご提示いただいた資料も、あつかましく拙ブログにパクらせていただきたいと思います。 「検索権」などは発生しませんよね。^^; 色々とありがとうございました。   

hakobulu
質問者

補足

お礼欄の記述内容に訂正があります。 ×人間が眠られないという不可能性よりも、 〇人間が眠れないという不可能性よりも、 「使い分け」と言っても、このていたらくです。 ただ、修正する気になるほどには気になる、ということですね。   

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その他の回答 (7)

回答No.8

御待たせを致しましたが、漸く謎が解けました。 遺憾乍ら、矢張り文法的な誤謬の結果に留まっております。 そこで、象徴的な例文を紹介します。 『この中身は食べられません。』 此の文章は吸湿材の袋によく記載されておりますが、 果たして此の文章を品詞分解し得るのでしょうか? 先ず分かります通りに、 此の文章では、「この中身は」という文節が主語になっていますので、 「食べる」という他動詞的行為の動作主に「この中身」がなれない以上、 『此の文章の助動詞「られる」の意味は「受け身」になっている』 と(文法的には)考えざるを得ないでしょう。 でも、奇しくも此の文章を拵えた方々の意図を鑑みますと、 禁止事項の記載の為に用いられておりますので、 此処の「られる」なる助動詞には、「可能」の意味が期待されている様ですね。 つまり、此の場合にも、 『「受け身・可能・自発・尊敬」の内から複数の意味が与えられてはいけない』 という大前提が、勝手に無視されているのです。 勿論乍ら、此の考え方は、 前々回に入力しました動詞(「売れる」・「切れる」・「裂ける」等)にも当て嵌まり得ます。 従いまして、こういう問題の解決の為には、「目的語の有無」への注目が重要なのでしょう。 ---------------------------------------------------------------------- 因みに、これ等の内容にも著作権が伴ないます。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >『この中身は食べられません。』 >先ず分かります通りに、 此の文章では、「この中身は」という文節が主語になっていますので、 「食べる」という他動詞的行為の動作主に「この中身」がなれない以上、 『此の文章の助動詞「られる」の意味は「受け身」になっている』 と(文法的には)考えざるを得ないでしょう。 : そうですかね・・・。 『【あなたがたは】この中身は食べられません。』 という意味で、単なる『主語の省略』だと思っていたのですが、難しいものですね。 私も確信は持てません。 なんども補足質問してはご迷惑でしょうから、ちょっと質問を立ててみます。 気が向かれましたらご参加いただくと面白いでしょう。   

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回答No.7

著作権はOKWave様側に御座いますから、引用にも熟慮が必要なのでしょうね。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 何をおっしゃっているのかさっぱり不明なのですが・・・。 肝心の質問には一切お答えになっていないということは、回答放棄と考えて良いでしょうか。 いつまでも締め切らないでおくわけにもいかず、そのへんをお知らせいただけると助かります。  

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回答No.6

御待たせを致しました。 と申しましても、未だ途中段階に留まっておりますが… 但し現時点で判明している内容が御座いますので、それを申し上げます。 それの1つ目は、主語の齟齬です。 例えば、確かに「休む」の可能動詞は「休める」なのですが、 同じ「休める」なる動詞を可能動詞にせず、 他の用途でその単語を使っている事例もが存在していますね。 つまり、『体を「休める」』という表現でも明らかにされている通りに、 可能の意味を盛り込ませていない「同音異義語」もが存在している訳です。 更に、他にも次の様な用例が御座いますね。 『今後にも、昨年のベストセラ-本がよく「売れる」だろう。』 『もっと良く「切れる」刃物が欲しくなった。』 『此のチーズは綺麗に「裂ける」。』 等です。 そして、2つ目の問題点は、「迷惑の受け身」の存在です。 例えば、『雨が「降る」』という文章は、目的語を備えておりませんが、 「迷惑の受け身(「自発」と見做す説もが有ります。)」への変形が可能ですね。 つまり、『雨に「降られる」』という表現の使用が、文法的にも許されています。 でも、たとえ是が『五段活用動詞「降る」の未然形』と『助動詞「れる」』との接続からなっているとは申しましても、『雨が「降れる」』という「圧縮表現」の使用を見たり聞いたりなさったことが、過去に御座いましたか? 少なくとも、文法的には、「降れる」という表現の使用が認められておりません。 (因みに、誤った漢字変換は一般的によく有り得ますので、 此の枠でも「降れる」という漢字変換は可能になっております。) 従いまして、恐らく此処での総括は勿体無いでしょう。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >つまり、『体を「休める」』という表現でも明らかにされている通りに、 可能の意味を盛り込ませていない「同音異義語」もが存在している訳です。 更に、他にも次の様な用例が御座いますね。 : 同音異義語ですか。 たしかに[ERU][RERU]の語尾を持つ語は多数ありますね。 単に別の単語と捉えていましたが、発生過程を考えてみるのも面白いかもしれません。 さらなる解説をしていただけるとのことで楽しみにしております。 私のような文法素人にとっては、可能動詞と(可能の意味としての)ラ抜き言葉について考えることぐらいで、精一杯という感じでしょうか。 いずれにしても、「総括」というには、やや気が早いというか、おこがましい表現だったかもしれません。 「素人なりの総括」とでも改名したほうが良いかもしれませんね。^^;

hakobulu
質問者

補足

折角ですので、 >『今後にも、昨年のベストセラ-本がよく「売れる」だろう。』 『もっと良く「切れる」刃物が欲しくなった。』 『此のチーズは綺麗に「裂ける」。』 : という例について、ちょっと勝手な推測をしてみました。 イントネーションじだいで可能と捉えることもできますが、 これら3例は、自発(すくなくとも可能以外)の例として挙げられたのですよね? A.対象重視の可能用法の場合、 売る→売られる という基本形がまずあると思います。 動詞+助動詞れる・られる型ですね。 B.主体重視の可能用法の場合、 売る→売り得る→売れる という過程を経たと考えることができるでしょう。 いわゆる可能動詞。 さて、提示していただいた「売れる」は A から派生したものではないでしょうか。 売る→売られる→売られ得る(URARE ERU)→売れる(URERU)です。 Aの基本形「売られる」は「自発・受身・尊敬・可能」全てを含んだ用法と捉えて良いでしょう。 で、ここから自発をさらに強調したい意図で「自発+得る」という転化が為されたように思います。 ここでも鍵になるのは、「得る」という語と、その意味だろうという気がするわけです。 [RA] と [RE]という「R音」の重複が忌避され、[A音]よりも重複している[E音]が選択されると同時に、その一方が脱落した、という解釈です。 発音の便宜性という観点から見て、そう無理な解釈でもないでしょう。 このように、おなじ「売れる」でも、可能と自発は伯父・甥のような関係にある。 と考えてみたら面白いと思いました。 隔世遺伝で瓜二つ、といったような具合で、見慣れないと(シチュエーションを無視すると)戸惑うわけですが、そうでなければ見分けがつくだろう、といった感じでしょうか。 この点に関しても、ご教授いただけるものと楽しみにしております。 他のみなさんのご見解も伺ってみたい気がしますね。

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回答No.4

殊更に誤用の由来を考える機会は余り御座いませんので、 久し振りに思索の機会を賜り、有り難く思います。 今回にも何故か主観的な意見を募っていらっしゃる、という印象が感じられますが、 其の認識は間違っていますか? 余りにも微妙な誤解に留まっておりますから、 雄弁な回答を御用意出来るか否かは分かりませんが、 もう少しの猶予を頂きたいです。 因みに、最終の締め括りになさると非常に勿体無い見落としが、 残っております。 そもそも印象の食い違いの由来は、 『自動詞』と『他動詞』との誤用にこそ有りそうですよ。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 疑問にお答えするお時間がとれないのではないか、と思っていましたが、そうでもなさそうですね。 ある程度は気長にお待ちしますので、ぜひご教授たまわりますようお願い申し上げます。 >今回にも何故か主観的な意見を募っていらっしゃる、という印象が感じられますが、 其の認識は間違っていますか? : はい。 むしろ、覆せるだけの論理的根拠ある御見解をお待ちしております。 現段階での見解をご覧いただければご理解いただけるでしょう。   

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  • cxe28284
  • ベストアンサー率21% (932/4337)
回答No.3

質問者様にはとてもついていけませんが納得するまで追及されると言うのは、 男性の特質でしょうか。 うちの夫もいつもただ本を読むのでは無くてノートに書きうつしながら 読んでいます。弟は仏教の開祖に凝って本を出すし、かないません。 女性の特質は同時にいろいろできると言うことらしいですが、 私は絵をかきながら乾く間にパソコンしたり、全く自分でも気が多いです。 ところで関西弁では語尾にへんをつける不可能表現が日常的に使われます。 「やすまれへん」「泳がれへん」「見られへん」「たべられへん」(ら抜きは使いません) これらは状況が不可能と言う意味と自分の能力が不可能な時と両方使えるのもあるし、 違和感のあるのもあります。いつも的外れで申し訳ございません。 雪裡の梅花 一枝綻ぶ 頃になりました。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >納得するまで追及されると言うのは、 男性の特質でしょうか。 : おそらくそういうわけでもないように思われます。 単に、私がしつこいだけでしょう。 >「やすまれへん」「泳がれへん」「見られへん」「たべられへん」(ら抜きは使いません) これらは状況が不可能と言う意味と自分の能力が不可能な時と両方使えるのもあるし、 違和感のあるのもあります。 : 大変貴重なお話をありがとうございます。 そして、使いどころによっては不自然さを覚えることもある、ということですね。 「食べれへん」は聞いたことがありませんが、「見れへん」はたまに聞いたような気もしますね。 >雪裡の梅花 一枝綻ぶ 頃になりました。 : 素敵な表現ですね。 絵を描かれるという趣味をお持ちなんですね。 これからは一層画材の増える、良い季節になっていくのでしょう。   

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  • xianching
  • ベストアンサー率16% (18/110)
回答No.2

終わりの方だけの感想です。 >「休まれる」よりも「休まれない」 五段可能動詞とは言わないと思います。 可能動詞は「休める」 「休まれる」は助動詞用法で可能だけの意味ではないから。 さて、私は「休む」の可能不可能表現には「休める」「休めない」の可能動詞を使います。 「休まれる休まれない」は使いません。 理由は「休まる」「休まらない」と混同しやすいから。 >「見れる」よりも「見れない」「食べれる」よりも「食べれない」 これはそんな気がします。 理由は不可能だった怒りの気持ちのストレートな表現が可能動詞の使用になった(ラ抜きですが)。 「見られない」「食べられない」の方が上品かと思いますが(^^)。

hakobulu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「休まれる」よりも「休まれない」 五段可能動詞とは言わないと思います。 : そうですね。ここでこの表現はいけませんね。 五段動詞の可能態、とでもいう意図でしたが、うかつでした。 いずれにしても、「日陰者表現」の活躍場面に一定の法則があるかも、という意図がお伝えできていれば、と思います。 >「休まれる休まれない」は使いません。 理由は「休まる」「休まらない」と混同しやすいから。 : その感覚はわかります。 わたしの場合も、 「明日、どうしても休めないの?」 と言うシチュエーションが多いような気がしますが、 たとえば、単なる明日ではなく、とても大事な明日という日、という意図を強調したい感覚が無意識に存在しているときは、 「明日、どうしても休まれない(日な)の?」とおそらく言うと思います。 厳密な区別はしているわけではないのですが、 まあ、しかし、この感覚が方言と呼ばれても仕方ない一面を表わしているのかもしれません。 >理由は不可能だった怒りの気持ちのストレートな表現が可能動詞の使用になった(ラ抜きですが)。 : なるほど。 ストレートな怒りの必要がないのに「見れる」と表現すると、その(可能の)必然性が薄くなるために不自然に受け止められる確率が高くなるのではないか、ということですね。 面白いと思います。 >「見られない」「食べられない」の方が上品かと思いますが(^^)。 : これは、同意できます。 「見れる」の場合は、上品ぶっている余裕がないほど、主体(自分)を重視する必要に迫られているわけでしょうから、その自我突出感とでもいったようなものによって、自ずと上品さが脱落してしまう傾向が強まるのでしょう。   

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回答No.1

自分の主張への賛成票が望まれていますよね。

hakobulu
質問者

お礼

いや、そうでもないですよ。 いたって節操のないほうでして、腑に落ちさえすればすぐに寝返ります。 多少大げさに言えば、真理にいかに近づけるか、ということが最も重要です。 納得いくご見解があれば大いに取り入れる姿勢は堅持していますよ。 ただし、論理的に展開していただくことが最低限の条件でしょうね、お互いにですが。 お時間のあるときにでもちょっとお試しになってみてください。 その内容次第では、案外素直な面もあるのです。 ご回答ありがとうございました。

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    ウイキを見ていてちょっと感じたことです。 抜粋を交えつつ質問します。 ・可能動詞(かのうどうし)とは、現代日本語(共通語)において五段活用の動詞を下一段活用の動詞に変化させたもので、可能(行為をすることができること)の意味を表現する。 「書く」に対する「書ける」、「打つ」に対する「打てる」の類をいう。 ・かつては可能動詞を使わず、動詞の可能を表すには助動詞「る・らる」(現代の「れる・られる」)を用いていた。 ようで、 可変動詞というのは室町時代頃から出てきたものらしいですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%83%BD%E5%8B%95%E8%A9%9E 次に、「ら抜き言葉」についての記述を掲載します。 ・ら抜き言葉 [編集]「見る」のような上一段活用動詞、「食べる」のような下一段活用動詞、また「来る」のようなカ変動詞の 可能表現としてそれぞれ「見れる」「食べれる」「来れる」とするものは、「ら」を含んでいないということから「ら抜き言葉」と呼ばれる。 「ら抜き言葉」の使用は関東地方においては大正期から始まったが、この傾向は国家の教育方針のもとで抑制されてきた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%82%8C#.E3.82.89.E6.8A.9C.E3.81.8D.E8.A8.80.E8.91.89 ここで質問なのですが、 可変動詞(室町)が抑制されず、ラ抜き言葉(大正)が抑制されるのは、つまり、歴史が新しいから、という以外に何か国語的な理由があるのでしょうか。 文法方面はからっきしだめなので、なるべく分かりやすくご回答いただけると助かります。

  • 可能動詞とラ抜き言葉の関連性について

    5段活用の「書ける」「読める」は可能動詞と呼ばれる可能専用表現ですが、上一段・下一段で「着れる」「食べれる」と言うと、ラ抜き言葉と言われ否定される場合が多いようです。 しかし、5段動詞だけに可能専用表現が許されているのはおかしいと思います。 また、可能動詞は正確には能力可能動詞と状況可能動詞に区別して使うのが妥当ではないでしょうか。 「彼は目が良いので遠くの字も読める」「彼は胃が丈夫なので、いくらでも食べれる」は能力可能動詞。 「読める(YOMERU)」を能力可能動詞とする理由は、読み得る(YOMI+ERU)から変化したものという捉え方です。 「この拡大鏡を使うと小さな字も読まれる」「今日は体調が良いので、いくらでも食べられる」は状況可能動詞。 「読まれる」を状況可能動詞とする理由ですが、「れる」は、元来、自発用法から発しているはずなので、何らかの状況が前提となって自然に可能になる、といった意味に捉える、というわけです。 このようにシチュエーションに応じて使い分けるのが良いと思います。 ただし、これらの状況可能動詞の場合、「拡大鏡を使う」「今日は体調が良い」といった状況に重点を置いた場合の話です。 『「拡大鏡を使う」「今日は体調が良い」という状況に触発されて高まった能力』に重点を置いて話す場合は、「この拡大鏡を使うと小さな字も読める」「今日は体調が良いので、いくらでも食べれる」と表現すべきでしょう。 シチュエーションに応じず、無差別に能力可能動詞と状況可能動詞を使ってしまうために不自然になる場合が出現し、ラ抜き言葉といったいわれのない非難を受けることになるのではないか、という気がします。 要するに、ラ抜き言葉は正しく使えば決して間違いではない、とわたしは思うのですが、みなさんはどう思われますか。   

  • 休まれない と 休めない の使い分け

    次のように考えたのですが、ちょっと確信が持てません。 みなさんのご見解をお伺いできれば、と思います。 1.風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休まれない。 【会社というものを】休むことができない。 というニュアンス。 2.風邪を引いたが、繁忙期なので会社を休めない。 【私は】休むことができない。 というニュアンス。 「休む」の、 1.対象に重点をおいた表現か 2.主体に重点をおいた表現か によって使い分けている。 3. むろん、必ずしも厳密に区別されているわけではないかもしれません。 〇この海は汚れているので泳げない。 〇この海は汚れているので泳がれない。 などは、どちらも可能でしょう。 ただ、この場合でも、 前者は、「海が汚れているという理由で、【私たちは】泳げない」という主体重視のニュアンスで、 後者は、「この海は汚れているので、泳ぐことが【不可能な海】だ」という対象重視のニュアンス。 という感じがします。 そして、 「怖い」という主体重視の意図が明確な場合は、 〇私は海が怖くて泳げない。 ×私は海が怖くて泳がれない。 のようになるのではないか、というわけです。    どう思われますか。   

  • ラ抜き言葉について

    正月に、母の実家に行って祖母と会話をしていたら「飲まれない」や「行かれない」という言葉を使っていました。ということは「行けない」や「飲めない」という言葉は、ら抜き言葉ということですか?自分は一応、ら抜き言葉を使わないと決め手いるので少し気になっています。教えてください。

  • 助詞『に』について「対象に対する主体の状態」の質問

    1.そのたびに 特許「に」関係する専門用語とかを覚えなきゃいけないんだろ。 ここの「に」の用法はどんな用法ですか。 私の判断で【目的】という使い方です。 正しいですか。 2.うちもこの間アメリカの企業からクレームをつけられてね、理論武装のための資料作り「に」徹夜だよ。いま、裁判で争ってる最中だ。 ここの「に」の用法はどんな用法ですか。 3.助詞『に』を勉強する時に、 「対象に対する主体の状態」という説明がありますので、 具体的な例がありますか。 質問が多くて、すみませんでした。よろしくお願いします。

  • 価値の哲学 ふたたび空気について

    お世話になります。 過去の私の質問へのご回答をあれこれ調べても、袋小路のようで、我ながら進歩が有りません。 もう一度、空気の価値について質問させていただきます。 ここでは、空気を取り上げますが、いわば、生命としての人間にとって、自然全体つまり不可欠な対象の「代表」といった意味合いで使用します。 1)ある人は言います、価値とは、主体にとっての欲求対象の、妨害による距離の程度に由来する、主体にも客体にも属さない「第3の何か」である。 2)他の人はこう言います、価値は主体の欲求をみたす、客体の性能と、つまり、価値は客体の側にある。 3)私は言ってしまった、価値は主観の内にある感情と。 4)カントは、存在は事物の性質ではないと強調した。 空気の価値について考えると、1)に基づけば、空気に価値は有りません。2)では、どちらも可能のようです、空気を欲求するかどうかが問題になりそうですが、4)とは矛盾します。3)感情的に空気を欲求することはなさそうです、首を締められた時は本能的な反応で、価値は無くしたときに強く現れる良い例ですが、空気に価値があるかどうか考える場合、当てになりません。 4)難解ですね、これはきっとそうなのでしょう。 それこそ、訳の解らぬ「難解」な質問ですが、「空気の価値」から出発して、価値を、主体・客体・第3の何か、のいずれか、ご意見いただけませんでしょうか? とくに、「第3の何か」については、「何か」についてのヒントでも有れば助かります。 此処での価値は、経済的価値とか社会的価値とか形容詞のついたものではなく、単なる「価値」で、社会科学・自然科学の区別もしておりません。 我儘な質問で申し訳ありませんが、不出来な部分は補足で対応させていただきます。

  • 「抱き締める」みたいに、動詞+動詞で出来ている言葉を教えて下さい

    焼く+締める=焼き締める 抱く+締める=抱きしめる ぶつ+負かす=ぶち負かす みたいに、 ●もともとは別々の意味をもつ動詞が2つ以上入っている ●結果、一語になったその語自体に、特有の意味がある という動詞があったら教えてください。 例が思い浮かびませんが、3つとかで一語になっている言葉などがあるならば、それもぜひ知りたいです。 よろしくお願いします!

このQ&Aのポイント
  • 新型コロナウイルスの感染が減少傾向だったが、最近全国的に増えてきている。マスコミによると第七波が来たとも言われているが、本当に第七波が来たのか。
  • 最近、新型コロナウイルスの感染が全国的に増えているが、まだ第七波と言っていいのかは分からない。マスコミの報道によると第七波が来たとも言われているが、確かな情報がない。
  • 第七波の到来が懸念されている新型コロナウイルスの感染が全国的に増えているが、正確な状況は把握されていない。マスコミの報道によれば第七波が来た可能性があるが、まだ詳細は明らかになっていない。
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