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「障がい者」と「幸せ」
こんばんは。 社会において「個人モデル」という見方があります。 これは障害というのは個人の問題であり 障害者は、極力、健常者に近づくべく努めるべき という考え方です。 しかしこれは「健常者」を中心においており 間違った見方であると思っています。 このほかにも社会モデル、文化モデルなど様々な見方がありますが、 私たちの「障害」に対する見方、扱い方?は どういったものが正しいのでしょうか? またあなたは「障がい者」にとっての幸せとは どのようなものであると思いますか?
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- rowena119
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私は障害者の友達もおり、以前は障害者のみの工場しかし、運営に関わったりしてました。障害者でも、健康な部分を生かして社会貢献すれば良いと考えてました。障害者同士が結婚するときの、周りの障害者の嫉妬・ねたみは健常者の比ではない。心も健常でない人が多いのに、がっかりした思い出が有ります。以来、少々偏見を持つようにもなっています。正直に言って。
まず、「個人モデル」については、その理解は正しいのでしょうか? 単純に、健常者に近づくべきではなくって、人口的に「多数派では 無い」から気づきにくいところが原因だと思います。 これからは高齢者が増えますので、身体の弱い方でもある程度生活の しやすいサービスやインフラは増えてくるかと思います。 本来は、そう言った方々のインフラを整備すべきでしょうが、個々の 機能差が違いますので、費用との兼ね合いで難しいのでしょう。 例えば、仮に100万人単位で点字タイルが要望されていて、消費税 投入ができ、点字の敷設に雇用が見込まれるならドンドン普及できる というのが今のしくみだと思います。 (そう言った費用対効果でいえば、他国語対応の方が先かも) 次に、障がいへの見方ですが、特徴であり、現象でしかないと思い ます。例えば、脳梗塞で言語障害が出る場合は、脳血管に梗塞が できたという現象です。不便でしょうがないとは思いますが、 幸福論とは別だとおもいます。 最後ですが。 幸せというものが、言葉だけの概念なので意味がないと思います。 あえてブッダの言葉を借りれば、欲が苦であり、生きていること 自身が苦であります。そこから、何かに熱中したり、人のために 頑張ったりして苦から目がそらせている状態、誤解が幸福である。 と考えれば、我々自身が幸福といえるのでしょうか? ということになるかとおもいます。 ただ、コンピュータやネットの進化でだいぶマシになってきました。 インフラ整備にはお金がかかりますが、技術革新はあらゆるコストを さげます。 障がいを持つ方にとっては、これからどんどんよくなっていくのでは ないでしょうか?