• 締切済み

「うつくしい」って何ですか?

一瞬のきらめきをうつくしいと思います。 いつまでも変わらず在る姿をうつくしいと見つめます。 真冬の透明な川底をうつくしいと覗きます。 春先に雨ごとに濁りを深める川をうつくしいと思います。 周囲と溶け合って共存するものをうつくしいと思います。 圧倒的な存在感で環境を一変してしまうものをうつくしいと見ます。 「ハッとする」ものでしょうか。 でも危険や嫌悪対象にも人はハッとします。 ハッとした後の受容、が必須でしょうか。 同じ物をうつくしいと見る人、醜いと見る人、の違いも出て来ます。 ハッとしたその「心地よさ」が、うつくしいの認識でしょうか。 「よいもの」の総体的表現?が「うつくしい」であるようにも思います。 Wikipediaの「美」も覗いてみましたが、 もう少しわかりやすく、と言うか、全体的な表現は無いものか?と思いました。 私が「うつくしいと思う人の心の動き」を主眼に置いているからかもしれません。 「うつくしい」は様々な感性で語られますが、それらに共通する「心の動き」は何なのでしょうか? 当たり前のように「○○はうつくしい」と書かれ、その「うつくしい」って実は何?と言うあたりは不問の場合が多い気が致します。 人間に必要だから生み出された?発生した?概念であり感覚であると思うのです。 生活の視点で説明するとしたらどうなるのか?をお手伝い頂けないでしょうか? よろしくお願いします。

みんなの回答

回答No.25

美の基準とは  人の顔立ちやスタイルの美しさ、競走馬や犬の美しさ、青く霞んだ山々や南国の澄み切った青い海の美しさ等、様々な対象に美を感じる。しかし、美の基準は一体何であろうか。 犯罪者特有の顔  参考になる事例がある。犯罪者の顔の特徴を導く試みがあった。犯罪者特有の顔を割り出し、その顔を持つ者が、罪を犯す前に矯正し、或は用心をしようと言うのである。そこで、様々な犯罪者の眼・鼻・口の大きさや間隔等、顔の寸法のデータを集積し、その平均値を使って顔を描いて見た。  すると、男女共にすばらしく美しい顔となったのである。つまり、美しい顔とは、全ての寸法が平均値である顔だったのである。しかし、寸法が平均の顔とは、どう言う顔なのであろうか。 美しい顔の基準  眼の大きさや間隔は、最も機能的で環境に適したものが望ましい。鼻や口の大きさもそうである。その最も機能的寸法から、各自少しずつ外れているので、顔に個性が出る。最も機能的な寸法は環境には適するが、それでは各自の見分けが付かなくなる。また、ある程度寸法に幅がある集団の方が、環境変化に適応し易い。  眼が大きい方にずれる人と、小さいほうにずれる人とが出る。従って、平均すると、最も機能的な寸法となる。人は、その環境に最も適した寸法に、美を感じるのである。そして、その最も環境に適した寸法の顔の人と結婚して子孫を残そうとする。よって、その集団は、環境に適した寸法を平均値において維持することが出来る。逆に、環境に適さない寸法の顔の人を好んで、その人と結婚して子孫を残そうとすると、どんどん環境に合わない寸法の顔となってしまい、その集団は弱くなる。 美しいスタイル  体のスタイルも同様である。足の長さ、尻やウエストの引き締まり具合、長く真っ直ぐな指等に、美を感じる。獲物を追いかける為には、速く走れなければならない。足が長くヒップも引き締まっていなければ、速く走ることは出来ない。槍を投げるには、腰を速く回転させなければならない。ウエストが太いと速く回転させることは出来ず、遠くまで槍を投げる事は出来ない。石器や土器等、様々な生活用品を作るのに、指が重要となる。長く真っ直ぐに伸びた、繊細な作業の出来る器用な指に美を感じる。  この様に、最も機能的なサイズの体に美を感じるのである。 美しい動物  競走馬は、速く走る馬を交配して、より速く走る馬を作り出している。より速く走れる機能を持った馬の体に美を感じる。しかし、爬虫類の場合はどうであろうか。機能的な体を持った爬虫類に美を感じるか。蛇やトカゲやワニに美を感じるか。私は醜しか感じない。人が、まだねずみの様な生き物であった時、蛇やトカゲに捕まえられ食べられていた。爬虫類は哺乳類の一番の敵であり、忌み嫌っていた。従って、爬虫類から遠ざかる為に、醜を感じるのである。犬に美を感じるのは、犬は太古から人類の友人であり、犬に近づく為に美を感じるのである。 美しい自然  青く霞んだ山々や、青く澄んだ海に美を感じるのは、その豊かな自然のある場所に止まる為である。砂漠に美を感じ、そこに止まろうとすると、その集団は自滅してしまう可能性がある。豊かな自然のある場所に憧れ、その場所を求める集団の方が、生き延びる可能性が高い。 結論  この様に、人類にとって、望ましい自然・望ましい動物・望ましい人体のサイズに美を感じ、人はそれに引き寄せられるのである。

回答No.24

No.8です yukkin66さん、久しぶりですね。何か昔、ここの常連だった方のご回答が並んでいますね。 それにしてもyukkin66さんのNo.8のコメントは素晴らしいですね。 “人間は「価値的に生きよう」とする生き物である。その姿勢が、「何でもないもの」から価値を引き出す。それが「美」という価値性を引き出す”(一部編集)。 私は昭和二桁になったばかりの出生。 私達の三世代上の方はゾルレンとザインをマジック・タームにして思索したり、会話していました。 宗教も人生も、哲学も。一体なんだ。 ただあること、眼前の客体存在対象や状況をどう思弁論述しても損なのは人生でも哲学でもない。 やむにやまれぬ、祈り、意図、企図、生きる。 こういう当為と価値追求で世界が現れ、紡ぎ、創造となる。 これが人間たる所以でしょうね。 そして美だの善だの真理だの。それって価値追求の中のことですから、一にして多。 万物、万人の中の我と我が身。我と我が身の中の万物、万人。 そういう多と一との世界における、一なる価値の多なる見えよう。 そういうものと存じます。 ご参考に。

  • 999key
  • ベストアンサー率50% (5/10)
回答No.23

私は、美しさにはまず感動します。人であれ、自然であれ、数式であってさえも。 まさに神の御技と言いますか、美しさには驚嘆と敬虔な思いを持ちます、つまり感動します。

回答No.22

こんにちは、yukkin66 さん。 「ハッ!?」――――――――― (*^^*)>〝〝〝ども。 間があいちゃいました。(^人^)ごめんね。 おっと、ことわりをひとつ。 お手伝いは嫌いではないのですが… ただ、yukkin66さんのお役にたつかはどうか心もとないです。 ほじゃ、いきます! 2.3日まえ、船乗って、高松(香川)へ行ってきました。 神戸から高松まで往復でチケット買えば、料金大人一人3000円かからない。3000円出してお釣りが返ってくる。ただし、乗船時間は片道4時間以上かかる。それと、至る所で人が横たわっている。???ここは避難所???と見まごうことも。そそ、高松に着く前に、小豆島へ寄港するんです、この船は。夏休みともあって、海水浴に出かける親子連れわんさか。そのせいか、夜中の1時発の便に乗るつもりがチケット完売、早朝の5時40発の便に乗船。神戸から一路高松へとむかったんだけど、高松港午前10時着の予定が、着いてみれば午前10時を優に超えてた。遅刻~~~急げ急げとばかりにフェリー乗り場から無料の送迎バスに乗り高松市内まで出る。時間が予定よりも過ぎてたから、バス降りてから目的地までタクシー飛ばす。びゅん~。タクシーに乗り込めば、運転士さんがつきなみな言葉をかけてくる。 「お客さん、どこから来たの?」 「ええ、神戸からです」 「ああ、そう。高松の道は、ほれこの通りきれいでしょう」 「そうですね、一車線でも道幅に余裕ありますね」 「じき着くからね」 「ああ、はい」 「高松は、雨ふらんからね、一級河川干からびてるし、  川もそうないから橋つくらんでええんよ。  そのぶん、道にお金かけれるから、ずぅーとどこまでも道ができるんよ」 「ああ、そうなんですか」 「そやけどね、交通事故の発生率は高いんよ」 「えっ?こんな見通しいいのに?」 「不思議やろ」 「そうですね」 なんない会話を交わして目的地に到着。 【香川の水】 http://www.pref.kagawa.jp/kankyo/mizu/ http://www.pref.kagawa.jp/kankyo/mizu/kgwmizu/kagawa/03.htm

回答No.21

こんにちは、yukkin66 さん。 「ハッ!?」――――――――― (*^^*)>〝〝〝ども。 間があいちゃいました。(^人^)ごめんね。 おっと、ことわりをひとつ。 お手伝いは嫌いではないのですが… ただ、yukkin66さんのお役にたつかはどうか心もとないです。 ほじゃ、いきます! 2.3日まえ、船乗って、高松(香川)へ行ってきました。 神戸から高松まで往復でチケット買えば、料金大人一人3000円かからない。3000円出してお釣りが返ってくる。ただし、乗船時間は片道4時間以上かかる。それと、至る所で人が横たわっている。???ここは避難所???と見まごうことも。そそ、高松に着く前に、小豆島へ寄港するんです、この船は。夏休みともあって、海水浴に出かける親子連れわんさか。そのせいか、夜中の1時発の便に乗るつもりがチケット完売、早朝の5時40発の便に乗船。神戸から一路高松へとむかったんだけど、高松港午前10時着の予定が、着いてみれば午前10時を優に超えてた。遅刻~~~急げ急げとばかりにフェリー乗り場から無料の送迎バスに乗り高松市内まで出る。時間が予定よりも過ぎてたから、バス降りてから目的地までタクシー飛ばす。びゅん~。タクシーに乗り込めば、運転士さんがつきなみな言葉をかけてくる。 「お客さん、どこから来たの?」 「ええ、神戸からです」 「ああ、そう。高松の道は、ほれこの通りきれいでしょう」 「そうですね、一車線でも道幅に余裕ありますね」 「じき着くからね」 「ああ、はい」 「高松は、雨ふらんからね、一級河川干からびてるし、  川もそうないから橋つくらんでええんよ。  そのぶん、道にお金かけれるから、ずぅーとどこまでも道ができるんよ」 「ああ、そうなんですか」 「そやけどね、交通事故の発生率は高いんよ」 「えっ?こんな見通しいいのに?」 「不思議やろ」 「そうですね」 なんない会話を交わして目的地に到着。 【香川の水】 http://www.pref.kagawa.jp/kankyo/mizu/ http://www.pref.kagawa.jp/kankyo/mizu/kgwmizu/kagawa/03.htm

回答No.20

こんばんは、yukkin66さん。 ―――の「豊かさ」を向上させるための具体的な方法について、ってお題を今日中にまとめなあかん 諸般の事情により 【「うつくしい」って何ですか?】 のお題、ちょい時間おいてからなんか考えます。 読み物ひとつ置いてきます。(^人^)かんにん。 【中国古代文化の中の自然観と審美観について】 http://ci.nii.ac.jp/els/110006629159.pdf?id=ART0008642740&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1312808957&cp= http://ci.nii.ac.jp/naid/110006629159

回答No.19

 No.5です。  もう対話は出来ないのかなと思っていました。  三十路に向かわれた方の文章を読むと――半年前の状態とつながっている文面であり内容であるということもあって―― くそぢぢいくんは 応答を返そうという気になります。  アウグスティヌスのいわゆるベタの美をあらわす文章を かかげます。  ○ 【Q:きみはヨブを見たか。】 ~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5684019.html  ▼ (アウグスティヌス:共観福音書説教)~~~~~~~  神はヨブが試されることを悪魔に許した。  ヨブは試された。  悪魔は困惑させられた。  ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。  神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。  ヨブは言っております。    主は与え 主は奪う。 主はみこころの通りになされる。    主の御名はほむべきかな。        (ヨブ記1:21)  と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。  (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さて 文章を読み解く力ですとか。  その前に  ★★(趣旨説明) 生活の視点で説明するとしたらどうなるのか?をお手伝い頂けないでしょうか?  ☆ とあったのですね。それなら やはり《ひらめき》に尽きるようにも思いますが。わたしの例示する文章は そのヒラメキのこちら側のわれわれ人間のことよりも 向こう側のナゾのことについて関心を持っていました。  でも 美というのであれば そういった無根拠のもとにその体験(つまり ヒラメキ)が起こるようにも思われます。  文章を読み解く力ですか。  たぶん 何かを言い得るとすれば 人を読み解くことに努めることかも知れません。  そこに・あるいは文章の背後に その著者がいるのだというかたちです。対面しているかたちであり 対話です。  だとしたら 人格と人格との言わば真剣勝負です。  わたしは 案外むしろおんなの人たちは この人格どうしの・気の置けない〔という言い方で合っているかな〕関係において互いに対話をおこなっていると思っています。  男は おもに当面の仕事のことに耳を貸していると思われ 人間関係というものは 互いのあいだに大体の信頼関係が成っていれば あとは構わないと思っていると思います。その意味で 表層のタテマエで意志疎通をおこなっていても構わず 真剣勝負は ビジネスのほうに置いているかも知れません。  何だか とりとめのないお話になってしまいました。  修復をせずに ひとまづ切り上げます。  いまも質問を挙げて けんかのようなことをやっています。  ひとまづ それでは。

noname#130919
noname#130919
回答No.18

美は面白いですよね。いろいろな様相があります。漢字だと、大きな羊と書けば「美」になります。古代の中国人が大きな羊を美と感じた理由は何なのだろうと思いを巡らせてしまいます(争いなく羊の肉を分けられるから?大きな羊がおいしそうだから?大きいほど財産となるから?)。さて、ご質問ですが、私は美学を研究している端くれですが、ところどころ、鋭いと思いました。 >「よいもの」の総体的表現?が「うつくしい」であるようにも思います。 西洋の美学だと、古くは、美は、善や真という別の価値観に結びつくものでした。美しいものを見て、善や真に到達し、心が洗われることが大切でした。これは美が宗教と結びついていたからです。 真善美の結びつきを具体的にいえば、芸術作品には、自然を模倣しつつも、粗野な点を修正し、本来はその人間や事物に備わっているイデアを掘り起こして、描くことが期待されていたということになります。たとえば美しい人を描くとしてモデルを頼んで、どうも鼻の辺りだけがバランスが取れないとしたら、(鼻には潜在的にモデルが備えているイデアが発露されなかったとみなして)鼻だけ描き変えてしまうというようなことです。また演劇では、残酷な場面は自然の粗暴な側面として、描かないことが望まれました。 自然は美しいものです。しかし生々しいし、粗暴であり、恐ろしいこともあります。納得いかないものを修正し、「よいもの」だけを提示するのが芸術とみなされた時期がありました。この時、真理と善と美は一致していたのです。 しかし人の感情を刺激するという点では、危険や残酷さも有効なのです。ソフォクレスの悲劇に心打たれるのは、より強い刺激をもって、人の感覚に訴えかけてくるからでしょう。オイディプス王は残酷な劇であるだけに、観ている時は衝撃を受けますが、終わった後には心がスッとしたようなカタルシスという効果を生みます(もし経験がなかったら蜷川が演出し、野村萬斎が主演した『オイディプス王』など観てみてください。びっくりします)。 >「ハッとする」ものでしょうか。 >でも危険や嫌悪対象にも人はハッとします。 これは非常に鋭い指摘ですね。こうした美は結局どこに行きつくのでしょう。ボードレールの詩集『悪の華』は、私の専門だけに手前味噌なのですが、この話をする時には避けて通れない好例です。ここでは、美とはむしろ刺激に富んで、未知の世界へと芸術家を誘ってくれるものです。そして、このようにいう時、真善美はもはや一致していません。美は美のためだけにあると言えます。これは「芸術のための芸術」という態度ですが、そうすることで、人や自然をより深く認識するリアリズムへの道が開けるのです。しかし、それを推し進めて行く時、芸術と美は必ずしも一致しなくなります。醜さも含めて、芸術と呼ぶべきものになるのです。だからボードレールは「美とは常に奇矯なものである」とまで言い切り、驚きを美の重要な条件とするのです。 まとめれば美の様相には二つあります。一つには精神的な修養と呼ぶべき美です。もう一つは強い刺激であり、この場合は精神的な修養は問題ではありません。しかし私の思うに、両者には共通した心理作用があります。それは心が洗われる作用であり、カタルシスと呼ばれるものです。カタルシスの語にはちょうどよく、二つの解釈があります。倫理的に感情を純化する作用と、鬱積したものを取り除き純化作用です。この二つの解釈は言葉で表現すると別のものですが、根のところではつながった心理作用だと思えます。二つの解釈がそれぞれ、美を善とみなす態度と、美を刺激とみなす態度に対応しているということは、あらためて言うまでもありません。 「生活の視点で」ということになるかわかりませんが、ご参考までに。

  • Nucleus_
  • ベストアンサー率34% (8/23)
回答No.17

何を醜いと思うか、それは不快に感じるものでしょう。 「美しい」はその反対です。 嫉妬などは自分で不快に感じ、その心は醜いのでしょう。

  • try50
  • ベストアンサー率20% (65/324)
回答No.16

心が躍動している状態、いきいきしている状態になったきっかけの対象を 「うつくしいもの」と言います。私の場合。

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     エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っているなら   ば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあやまちと   して気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すことも   なければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった命題を得る。  この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする。《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによって 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学となる。  あるいは 誰れの思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  果てさて 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。  ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 芸術行為であると考えられようか。果たして いかに?   つまりは この生活日常がわれらが芸術行為であり この芸術が 互いに差し伸べる支援の手であるのか。そこにわれらがきづなはあるであろうか。

  • スポーツジム レッスンでの迷惑行動

    ジム歴10年以上、アラフォー女性です。 エアロやステップなどのスタジオレッスンが好きで、よく参加しています。 動きがイントラさんのようにすごくキレるということはないですが、長く続けているので中級までのエアロであれば早めに動きをキャッチできるレベルです。 レッスン中、私の足元をしつこく見る男性がいます。 言葉では表現しにくいのですが、とにかくずっと凝視している感じで気味が悪いです。 前から気持ち悪いと思っていたのですが、比較的参加者が少なく空いていたとき、あまりにも一点を見すぎたことでどんどん間隔を詰めてきました。 迷惑だという表情で睨みましたが、まったく気づかぬ様子でまた近付いてくるので、給水の時に場所を移動しました。 その後もその人の場所を確認し、できるだけ視界に入らない場所に行くようにしています。 が、「なぜ場所を変えた?見えないじゃないか」と言わんばかりに睨んできます。 ある時は離れた場所を取ったにも関わらず、その人が私の近くに移動してきたので、もうその日はムリだとあきらめ参加せずに帰りました。 私はその人に移動してくれと強要することもなく、自ら移動して動きやすい環境を求めただけで、悪いことをしているわけではないですし、なぜこんな嫌がらせを受けなければならないのだろうと本当に気分が悪いです。 この人は今までで一番迷惑だと感じていますが、同じように足元をずっと見ている人は性別問わず他にもいました。 悪気はないのでしょうが、特に相手が異性である場合、失礼な行動だとは思わないのでしょうか。 動きを確認したいだけだということはわかっていますが、見られている私からしてみればこれは明らかなセクハラです。 私自身も慣れない頃は上手な人を見ていました。今でも間違えたときに足を合わせるために周囲の人を見ることはあります。 でもレッスン中ひと時も目を離さないということはないですし、そこまでしないと動けないのであれば、それは参加すべきではないレベルのレッスンで、もう少し簡単なものから練習をし・・・という風に努力しました。 動けない人が難しいレッスンでフラフラしていることもありますが、レベルの合わないレッスンに参加するのは危険ですし、ある意味マナー違反ではないかと個人的には思います。 ここまで足が動かないのに、参加して楽しいのだろうかという疑問もあります。 ちなみにこの男性は人の足を見つつも動けていません。 もちろん、まったくこちらを見るなと言うつもりもありません。程度を超えているのです。 自分より上手ではない人が動きを確認するためだけに足元を見ていることを、気味が悪いとかセクハラだとか言う私は心が狭いでしょうか? また、スタジオレッスンで配慮に欠ける異性の行動で迷惑だと感じたことがある方はいらっしゃいますか? ご意見お待ちしております。

  • おかしな表現があったと思われたんです。

    再度、『国語』カテゴリに質問があります。 実は、「操られた」「暴かれた」感じについて家族の人に言ったら家族の人は以下のことをおっしゃっていたんです。   ●「操られてない」「暴かれてない」「気のせい」「錯覚」 あと声に出さないで質問をすると音声ではないが、答えが返ってきたり、言い聞かせられる感じがあったことも家族の人に言ったら家族の人は以下のことをおっしゃっていたんです。   ●自分で自分に答えている。誰にでもある。 それでブログに書いていた内容が間違えていたと考えられたので、自分なりに正しい意図を書いておきます。 (1)○○がきっかけで××の動作ができなかった a: >怖い夢で叫んだときは親が自分の部屋に来て僕の足を叩いたり、頭を叩いたりして「うるさい!」と言ってきたんです。 怖い夢で叫んだ後、起き上がってトイレに行こうとしたり、動いたりしようとすると、その行動や動作を止められたような感覚が伝わってきたんです。 その感覚は親がそうしてきたように感じ、25日未明に雷が鳴っていたときは起き上がることもできませんでした。 : A【怖い夢で叫んだ後、家族の人が自分の部屋に来て僕を起こした。】B【僕を起こして部屋から去った】後、A~Bの流れのことが起きたのがきっかけで、起き上がってトイレに行こうとしたり、動いたりしようとする動作ができなかった b: >2011年6月21日、かなり久しぶりにおばあさんが家に来ました。 (略) 21日の11時頃から体の動きとか止められる感じとか、ごはんを食べたりしたり、起き上がったり動いたりするとその行動や動作を止められる感覚があったんです。そのせいで動作がしばしば止まることがあったんです。 自分の思うように したいように行動ができず、動作を止められたり、それを数時間ほどさせられた後、ごはんを食べるようにさせられたり、体を動くようにさせられたり その行動を止められたりするような感じだったんです。 : 2011年6月21日、かなり久しぶりにおばあさんが家に来たが、その日の11時頃からそれがきっかけでごはんを食べたり起き上がったり動いたりしたが、それらの行動や動作ができなかったり、全身が固まってしまったことがあった。 【1     】が、それらの動作ができなかった感じがあった。 c: >2011年6月23日喫茶店でごはんを食べたりお茶を飲もうとするとその動作を操られたような信号が伝わってきて、それは喫茶店の近くを走る車の音の中から伝わってきた感じがしました。 操られたというのは、動作を止められた感じがしたり、数分か止められた後、ごはんを食べたりお茶を飲むようにさせられた(数分間止められた後にごはんを食べたりさせられても一時的に止められる感覚があった)んです。 要するに自分のしたいように思うように行動できなく、何者かに操られた感じがしました。 : 2011年6月23日、喫茶店でごはんを食べたりお茶を飲もうとすると、【C:喫茶店の近くを車が走っていて、その音が聞こえたことがあった。】Cの出来事があったことがきっかけで、動作ができなかったり、動作ができなかった数分後、【2     】が、それらの動作ができなかった感じがあった。 要するに自分のしたいように思うように行動できなく、【3     】。 d: >耳鳴りや幻聴でイライラしてたことについてですが、耳鳴りや幻聴だけではなくて、嫌な感覚や信号などもありました。 嫌な感覚や信号というのは、自分が文章を読むとき、文章を目でたどっていく動きを耳鳴りの音や幻聴などが止めてくる感覚があって非常に辛かったり、体や口の動きを止められる感覚も辛かったりしたんです。 : 耳鳴りや幻聴でイライラしていただけでなく、耳鳴りや幻聴などがきっかけで自分が文章を読む時、文章を目でたどっていくことに制限が入り、一点を見ていて非常に辛かった。その他、体や口が固まったりしたことがあった。 e: >2011年6月12日、昼ご飯を12時頃食べましたが、精神的な辛いこと(視線がぶつかるとかだったと思う)があって10分くらいベッドに横になったら全身の動きを麻痺されたような 止められたような感覚に襲われたんです。耳鳴りがそうやってしてきたんです。 それは自分では不動の金縛り術の体験だと思ったんです。 不動の金縛り術のような体になった状態から起き上がろうとしたり、動いたり、心の中で外に言うようにはき出すと耳鳴りの声が大きく聞こえるようになって、それがあきれたような感情の声になっていったんです。 : 2011年6月12日、昼ご飯を12時頃食べたが、精神的な辛いことがあって10分くらいベッドに横になったが、耳鳴りがきっかけで全身の動きが固まってしまった。 それは自分では不動の金縛り術の体験だと思った。 全身の動きが固まってしまった状態から起き上がろうとしたり、動いたり、心の中で発語したりすると、耳鳴りの音声が大きく聞こえるようになって、それがあきれたような感情の声になって聞こえた。 (2)○○がきっかけで頭が回らなかったり、▽▽が思い出せなかったりした >実は2011年6月12日でもそれ以前でも 窓を開けて風通しを良くしたら何者かに頭の回りを悪くさせられたり、止められたような感覚があったんです。 自分は家の外からそのような感覚が伝わってきたと思ったり感じたりしたんです。 頭の回りを悪くさせられる(頭がぼっとする、ぼんやりする感じがあった)信号は寝起きからすぐでも30分後でも2時間後に窓を開けたりしても伝わってきたんです。 それが理由で、自分の部屋でパソコンをやる時とかに窓を開けないで暑いのを我慢してたこともあったりしたんです。 : 実は2011年6月12日でもそれ以前でも、【D:窓を開けて風通しを良くした】が、Dがきっかけで頭が回らなかったりしたことがあった。 頭が回らなかったりした感覚は寝起きからすぐでも30分後でも2時間後でもDがきっかけであった。 それが理由で、自分の部屋でパソコンをやる時とかに窓を開けないで暑いのを我慢していたこともあったりした。 (3) ★人に怒られたことがきっかけで自分の内的イメージ(風景・人の顔・文字などを見てそれがカメラのように見えるもの)や情報が露見したと感じたことがあった。 ★【F:喫茶店で働いている時に操られたと感じたこと】があった。 それが、喫茶店から帰ってきた直後からしばらくの間にも、何らかが理由でFのような感覚が露見した感じがして、Fのような感覚がしばらくの間、蘇ることがあった。 (4) ★自分が声に出さないで例えば「1週間が目安です」「調べない」「どこにも行かない」「ヤンタローがつづる日記」と言ったが、「おい」という幻聴の声がきっかけで「目安じゃない」「調べる」「どこにも行く」「ヤンタローがつづらない日記」と言うふうに変換があった(=心の中で発語した感じ) (5) 例えば心の中で「○○の夏は猛暑か冷夏か」と質問をしたことに対する回答が音声ではないが返ってくる感じや自分の心の中に言い聞かせられる感じがあった。 (6) 今年の1月に、何らかによって操りの言葉「全部言う」「つける」が発せられたことがあった。それは、全部言ったり、心の中で言ったことが外部に嫌なものとして出てしまうのを可能にされた感じだと感じたりした。 ここで質問があります。 Q1.(1)~(4)の表現でおかしい(=不自然な)表現があったら訂正して書いてください。 Q2.【1     】【2     】【3     】はどのような表現が入りますか?わかるなら、書いてください。 Q3.(5)(6)の表現を言い換えて表現して下さい。 言い換えて回答者なりに表現して下さると自分は嬉しく感じると思います。 それと回答者の思うことなども書いてくださると嬉しいです。 長文になりましたが、質問に再度答えてくださると嬉しいです。

  • canのニュアンスをつかんで読む 12/17

    質問があります。 海外のミュージシャンのインタビューなんかをよく読んだりしています。 どのミュージシャンもよく、canを使います。 ~出来る、という意味ではなく、~という可能性がある、とか~だろう、みたいな意味だと思うのですが・・・。 例えば、It can be a good performance.と It is a good performance.では、後者のほうが確信度が強いというか、「~なんだよ。」と はっきりくっきりと主張していると解釈しています。 それに対しcanは、mightほど弱くはないが、「~なんだよ。」というがっちりとした主張とまではいきません。 こういった前提で読んでいるので、なんというかどうも読みながらしっくりこないというか、引っかかってしまうと言うか。canを使ってぼかす必要がないのに、と思ってしまう時もあります。 canを使う人の心の中にはどういった動きがあるのでしょうか・・・。漠然とした質問ですが、 単に、can=確信ではない。という解釈は危険でしょうか? もっと突っ込んで質問すると、いざ日本語にする時に、わざわざご丁寧にcanの強さを表現しなくても良いのかと。 It can be a good performance.でも、「よいパフォーマンスになり得るよ」ではなく、 「良いパフォーマンスだよ」と言い切る形でもそれは決して間違いではないのでしょうか?

  • どうすれば人を素直に愛せるのでしょうか?

    “どうすれば人を素直に愛せるのでしょうか?” 愛したつもりが相手を傷つけてしまった. 愛したいのにどうすればその愛を上手く表現できるか,伝えられるか分からない. 愛そうと思っても愛すべき対象が見つからない. 愛することのできる自分に変わるまでの道のりが怖い. 愛して裏切られたくない. 愛することが失敗して嫌われたくない. 愛されてこなかったから愛し方が分からない. 愛が自分の中に無い. などなど…. 素直に愛することを拒ばむ要素を抱いた経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう. どうすれば人を素直に愛せるようになれるのでしょうか? 難しい質問ですがどうか教えてください. そしてこちらの質問が同じような悩みを持つ人の助けになれれば幸いです. 皆様からの沢山のご回答お待ちしております. ◆“愛するということ”が何かということは皆さんの想像にお任せします.今のところ私の考えでは“無私で相手を幸せへ導くこと”となってます.簡単に言うと相手を幸せにすることです.このとき“無私”にはこれにより相手のことをまるで自分のことのように感じることが出来るという意味が含まれていて,また無私でなくては人は人を本当に愛することができないと考えてます.(この無私を無条件,無償という言葉に替えてもしっくりくるかと思います) ●この質問と類似なものは調べた限りですと,以前にhttp://oshiete1.goo.ne.jp/qa901385.html・http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2337703.html・http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1789003.htmlというものがありましたが,今回はより広範囲の意見を求めたくこちらに新たに質問致しました. [キーワード]愛 素直 愛情 心 愛せない 愛し方 愛し下手 愛され下手 愛したい 愛されたい LOVE 神 自由 人付き合い 人間関係 コミュニケーション 抑圧 自意識過剰 本当の私 神経症 抑うつ うつ病 鬱 欝 メンヘル 自己表現 他者受容 愛情不足 認める 認められる 受け入れる 受け入れられる 喜び 優しさ 平和 孤独 感謝 知恵 智恵 憎しみ 憎悪 恐れ 怒り 疑い 嫉妬 恋 愛しい 恋愛 悩み エロス アガペー アダルトチルドレン AC FREE HUGS 感動 笑顔 涙 嬉しさ 踏ん切り 思いやり 要求 幸 不幸 不満 満足 不良 非行 ひきこもり 自信