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自分の心の嫌なところ

なんというか、人間のこころの貧しいところというか、 少なからず、自分より「下」の人間がいると安心してしまう気持ちってどこかにありませんか?? 自分より「下」がいてほしい…その方が安心する、みたいな気持ちです。 自分が一番下じゃないんだなって確認することで安心するみたいな… そういう気持ちのない人ももちろんいっぱい居るんでしょうが… 当然、人を見下してることになります。。 なんかすごくイヤなんですけど…どう受け入れたらいいんでしょうか?? あるいはどうしたらこういう思考をしなくて済むんでしょうか…

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  • aymhfgy
  • ベストアンサー率43% (1472/3372)
回答No.5

意外に思われると思いますが、質問者さまはとても心の綺麗な方だと感じました。 自分が一番、大切だというのはすべての人の本質です。なので生まれてから一度も人を見下さなかったと言う人はこの世にはいないと思います。ひとことの嘘も言ったことがないというのと同じです。正しい生き方をすれば決してそんなことは考えないというのは少し、違っているように思います。心が汚れているから見下すというのではなく、まあ、大抵は自分を大事にしたいという本能の裏側から出てくる悲しい人の性のようなものだと思います。 どうぞ、質問者さまは誤魔化したりしたりする自己欺瞞には陥らず、このまま、自分の負の感情をきちんと受け止めて頂きたいと思います。 しかし、人の本能の裏側ばかり見て辛い気分になると鬱っぽくなって来ますので、そういう感情は出ても仕方の無いことと何処かで割り切ってください。又、どんな人でも下に見えていてもご自分よりは勝れている面が必ずあると思います。上だと思っても神様は人の中にはいません。恐れなくて良いのですね。 つまり、人への洞察力を育てて基本的にはその人を尊重するように心がけると見下すという行為は幼稚に思えてくるはずです。ご自身が精神的に成長すればだんだん、劣等感の裏返しのような感情からも解放されてくると思います。 年老いて来ると、皆、自分の負の感情は手に負えないものと思い、あるいは慣れてしまってなかなか、自分の醜さとは対面しなくなりやすいです。質問者さまには、いつまでも今のままの瑞々しい気持ちを持ち続けていって頂きたいと感じました。

その他の回答 (8)

noname#144523
noname#144523
回答No.9

もし前向きな気持ちからの補足であれば嬉しいんですが 参考として、その当時の気持ちも含めて端的に伝えますね ◇15才の状況。 当時僕は日本1ダメな人間と本気で思っていた、でも生きると覚悟を決めた 自分より下を見たり、下がいると思っていると自分自身も悪くなる それを思い知った だから新しい認識を自分に植え付けた「自分は一番下だと」 自分を良くする為に素晴らしいと思う人を見たり、近くにいて吸収に努めた この時点から、下と比較したり下を見なくなっていったと思う 実はこの頃、信念の1つに 「自分が逃げたいと思った事があったら、逆に前に向かって進む」 という似たものを実行してもいました これらは良い結果や成果なんかまるで考えもしないでやった事 そして20才の時「でかくなったな」と久し振りに会った友人に言われてから 過去5年を振り返り分かった事がありました 自分より下を見るのは楽だし、誰にでもできる でもその本質は「自分に諦める」という事であり墜落を意味する 前や上に向かって生きるのは辛いしキツい最初は。 でもやがて突き抜けた時お金では手に入らない大きなものを持っている それは、自分は出来るという気持ち、プラス思考、不安を恐れない心など 沢山ある あくまでも端的にしましたが、聞きたい事は入ってましたか? PS:お金や仕事より大切なものを本心から明確に言える人と親しくなって

zcbmnvx
質問者

お礼

ありがとうございました。なんか忘れていたものを思い出した気がします。 勉強になりました。意識してみます。

noname#144523
noname#144523
回答No.8

イヤなら変えましょうよ! 僕は15才の時に強い嫌悪感から思考を変え、自分より上の人としか 比較しなくなり、その結果凄く成長できた。 同様に自分を醜いと感じる部分を変えていくほど、自分を大好きになれた ただ変えるためには強い意思がいる。 その意思はマイナス体験などがあるから持てるもの だからもしその意思があり気持ちが本物なら、僕の方法を教えますよ

zcbmnvx
質問者

補足

上の人と比較ですか…とても興味深いです。 少しだけでも良いのでお聞かせ願いたいです。

  • forever520
  • ベストアンサー率46% (743/1588)
回答No.7

30代既婚者男です。 そうした醜い思いを持っているのが自分だと許して あげることです。 人は全て、良心的な思いだけを持ち合わせているのでは ないのです。 相反して、そうした陰の部分も持っているものです。 そうした、陰陽全てをそれで良しと受け容れることで 苦しみは消えます。 私達は、幼い頃から、陽の部分が素晴らしいと育てられて きました。 その為に、陰の部分を見ないように、出さないように隠して 生きてきたのです。 だから陰陽のバランスが崩れて、苦しむこととなります。 陰陽同じようにどちらも愛するのです。 醜い思いを持ってもいいのです。それが悪いことでは ありません。 人を見下すあなたも、あなたなのです。 私達は、全ての感情を味わう為に産まれてきました。 怒り・嫉妬・悲しみ・寂しさ・妬み・恨みなど、どれも 楽しむことが大切なのです。 そうした体験をしていくことで、これまで気付かなかった 事に気付いていくのです。 そして本当の優しさ、愛を経験するのです。 どんなあなたでもいいのです。あなたがあなたらしく 生きられるのであれば。 でもこれは、自分勝手にわがまに人を傷つけてもいいと いうこととは違います。 自分らしく生きるとは、自分に正直に生きること、 そして全てに責任を持つということです。 偽りの自分を演じるのではなく、本来の自分をそのまま 受け容れるのです。

zcbmnvx
質問者

お礼

すごく勉強になりました。 たしかに陰の部分には目を向けず、陽の部分ばかり見るよう教えられてきた気がします。そのことに気づくことができました。ありがとうございます。

noname#132068
noname#132068
回答No.6

人と比べるからですよ 人には上も下もない 何が上で何が下なんでしょう 誰が判断するのでしょう 自分でやれることをやっていけばいい 逆にあなたが自分より下と見た人がいたら 軽く手を指し伸ばせたら 人間的に成長かな

  • erumera
  • ベストアンサー率29% (112/379)
回答No.4

ありますね、そういう「気持ち」。 すっげぇ嫌、不快ですけど湧いてきますよね。 でもですね、やっぱり蔑んで然りな人間はいるんですよ。別に凶悪な殺人者とかじゃなくても。 貴方が「こいつ・・・下・・・」って感じる奴は実際「下」なんです。もう、どうしようもない「現実」なんです。 別にファシストではないですけれど、やはり淘汰されるべき奴はいるんですよ、山ほど。 一瞬でも思ったことはありませんか? 「こいつら皆殺しにしてやりたい」って。 それは生物として自然な感覚だと思います。 「自分が最強であり最高である」という願望がなければ生き延びられないんじゃないでしょうか? だから、そういう思考を否定する必要は無いと考えます。 私も出来るだけ貴方に否定されないように頑張ろうと思います。

  • kanakyu-
  • ベストアンサー率30% (1916/6194)
回答No.3

うんうん、お気持ちすごくわかります。経験から。 わたしの経験からすると、自分が本当は劣等感にしばられていたときこそ、どこかで優越感に救いを求めていました。 で、周りの人も、やっぱりそうなんです。 肩書きにこだわったり、外見にこだわったりして、とにかく上に抜きん出ようとする人の話をよく聞くと、 どうも劣等感がうずまいているようでした。 とくに根拠のない劣等感を抱えて生きている人はいっぱいいますから、劣等感は結構ポピュラーな問題です。 根本的な解決は、ご自身の劣等感が癒されることです。 別の言い方をすれば、あなたの価値は人より劣ってなどいない、 あなたはじゅうぶんに価値がありすばらしい、と自分が心から認めることです。 本当にすばらしい人は、自分をすばらしく見せる必要がなくなります。なので謙虚なのです。 これまでの人生、人に見下されてきたとか、理不尽な経験をしたかもしれません。 でもそういうのは、あなたの価値とは全く関係のないものです。うそっぱちです。 あなたは、あなたであることで価値がある、特別である必要もなければ、競争する必要もないんです。 劣等感の穴埋め=優越感に逃げる、というのは、本当にありがちなパターンです。 結局、優越感なんて、本当の幸せをもたらしてはくれないですけどね。 不幸を麻痺させることしか出来ないです。 自分は人より優れているんだから価値はあるんだ、と自分に言い訳し続けているだけです。 そんなものいつでもなくなるし、優れている=価値がある、という考えそのものが競争ベースです。 競争ベースだと平和はありません。勝者も敗者も本当に幸せにはなれません。 おっしゃるように、嫌な気分ですよね・・苦いですよね、勝利が。 正直、誰かが下になる思いをして苦しむことを思うと、心から喜べるようなしろものでもないです。 勝利を勝ち取ることで、自分は幸せな「はず」と、自分をだまそうとしている人たちがたくさんいます。 けれど、そういう人たちは幸せではありません。幸せな人は幸せを感じるだけで、幸せな理由を自分に言い聞かせる必要がありません。 幸せは、なるものではなく、気づくものです。 幸せを感じられる人間が、いちばん早く幸せになれます。 競争で勝つのも負けるのも疲れたなら、競争に参加することをやめて、協力して平和を築く生き方に変えるとよいと思います。 競争から降りるとき、競争を頑張っている人とは距離を置く勇気も必要になります。 周囲の人の影響は大きいからです。 逆に、平和な人と仲良くすると、自分も平和な考え方になりやすいです。

  • marbleshit
  • ベストアンサー率49% (5033/10253)
回答No.2

お釈迦様(釈尊)は人間には抜き差しならぬ一本の矢が突き刺さっている。 と人間の本質を言い当てました。 その矢の意味を「差異へのこだわり」と解釈した日本の仏法哲学者も居ります。 要するにこの世が人間がそのような差別意識を持たざるを得ない、劣悪な社会環境であることは、 釈尊の時代から何一つ変わってはいないということでしょう。 人を見下して安心すると言うのは、劣等感の裏返しです。 つまり不幸な人間ほどイジメや悪事を働くのと同じです。 充実感に満ちた幸福な人間は、人を見下げたりしません。 むしろ同情し助け敬うことでしょう。 質問者さんも、他人と自分を比較するのではなく、 自分らしく充実した人生を歩み、夢の実現に邁進して行けば、 そんな心の闇とは決別出来る筈です。 自分の欠点に気付いた人は必ずそれを乗り越える事ができます。 若い身空で大事な問題に着眼されたあなたへ敬意を表します。 実り多い素晴らしい人生を共々歩んでまいりましょうね。

noname#130417
noname#130417
回答No.1

一つのことだけで上下を比べるから考えが偏るのであって、得意なことと苦手なことを細かく区切って比べれば、自分だって誰かから見たら、上・下の位置に居ることに変わりないので、広い意味でお互い様ということで、自分の心が嫌だとは思わなくても良いのでは無いでしょうか。 誰からも好かれたいということが、理想であっても現実では無理なことのように、上の立場に居る人の存在も下の位置に居る人の存在も無いという公平な世界も理想だと思うのです。 自分も誰かの心に安心を与えている存在かも知れないと思えば、心で悪いなと思っても誰かとの位置関係を比較して、安心することも悪いことじゃないと思います。 それを口や態度で示すのは礼儀が無いと思うので、心の中だけでは良いと思います。

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