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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:われらが審美眼は 劣化したか)

美の感覚の劣化と現代美術についての評言

このQ&Aのポイント
  • 現代人の美の感覚が劣化しているのではないかという質問について、木村重信の著書から解説します。
  • 木村重信の著書によると、美術はロゴス(思考)に従属せず、イメージから抽象されることで哲学や科学が生まれるとされています。
  • 現代美術では即物的な傾向やシュルレアリスム美術による日常的意識の否定が見られます。作品はオブジェとして完成する一方で、普遍的な人間性の象徴としても存在します。しかし、これらの要素が現代美術にどのように位置付けられるかは明確ではありません。

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noname#135843
noname#135843
回答No.12

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ★ そこで、いっそのこと“平面的(二次元的)”での表現が用いられたものと考えております(遠近法の否定)。  ☆ という変化は 必然性があるようで必ずしもないように思われませんか? 遠近法を否定し去るのではなく 絵画としての遠近法を独自に編み出せばよいのではないかなと。  おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。つまり、とことんまで、平面にこだわり、最終的には、形自体をもゆがめてしまうような形で でございます。 > ☆ というご解釈に異見はないのですが 上のように初めから《即自的かつ対自的にして自己の表現を目指す》と言ってしまっておけば あとでわざわざ《止揚された統合》ですとかその《困難さ》をうんぬんしなくてもよくなるかも知れないと思ったのでした。  木村 重信氏は、原始美術・民族芸術の専門家のようでございます(Wikiにてはじめて知りました)。つまり、氏にとりましては、人としてのみづみづしい躍動感等が存在する作品を肯定的に考えていると察せられます。一方、即時的な“現代アート”には、否定的とも推察できます。このため、「自己の表現を目指す」と主張してもよかったのかもしれませんが(むしろ、こちらの方が完結かつ、訴える力も強いと思われますが)、敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?そして、かような幾分回りくどい表現を用いたものと解しております。  これは、愚見でございますが、つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。そしてさらには、かような芸術論に、権威主義までもがはびこるようになってしまいました。ですが、その難解な作品には、純粋に“美”を感じ取れるものは少なかったように思われます。あくまで、“学術的”には面白いかもしれませんが、ただそれだけのようだったかと思われます。そこで、本題に移らせていただきますが、 > われらが審美眼は 劣化したか?  われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 > ★ 結果:大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました(関心度が高い)。  ☆ このとき 人の顔であるなら いろんなかたちに分かれると思うのです。面長・丸顔 掘りの深い・浅い(平面的) 目が大きい・小さい;丸い・細い 鼻が高い・低い 口が大きい・小さいなどなど。  《魅力的》だというのは これらの区分のそれぞれに諾否を与えて 《面長》の魅力的および《丸顔》の魅力的といったようにそれぞれの区分に必ずひとつ現われたのか? それとも掘りの《深い》は《浅い》よりも魅力的だ(あるいは そのぎゃく)という結果が出たのか? 問いたいと思います。  以下に、実験の(ある程度の)詳細が触れられております。つまり、この実験結果が正しいとしますと、“美の判断基準の大部分が生得的に決まっている”ということが示唆されます。 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/6901/langlois1987.html   最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん ていねいなご説明をありがとうございます。  次のご見解に膝を打ちました。  ★ ~~~~~~~~~~~~   > われらが審美眼は 劣化したか?  われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。なぜなら われわれ一般の鑑賞者は どうもおかしいではないか 美が変わったのかと普通に問うて言いますから。プロがそう言わない・見ないとすれば その隔たりには 重要な問題があるように感じます。  ★ 木村 重信氏は、・・・敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?  ☆ なるほど。この文章じたいとしては どうもそう解するもののように思いました。《いばらの道》を特に言おうとしているようなのだと。  抽象美術について  ★ おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。  ☆ なるほど。それでしたら 納得しました。振り子が反対の極に振れたという問題ではないということですね。  そして次のご指摘が はっきりさせることができればと思っていたことでもあります。  ★ つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。  ☆ 《解説 あるいは 評論》としてそういう分野があってもよいのでしょうし それとして展開されていくのでしょうが 何だかまるで美とその観賞に次元や段階があるかのように言いその高位の次元において専門家たちは独自の城を築こうとしているように映ります。  音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。  ところが 目に見ていることや耳で聞いていることについて批評をするのは問題ないと言わねばならないでしょうが そうではなく作者やその制作事情などを取り上げそれらによって批評することあるいはその批評を批評し合うことというのは 作品鑑賞とは別の分野だと考えます。目や耳であぢわうという鑑賞から離れて いわば周辺のエピソードを集めてその蘊蓄をたのしんでいるというように思えます。  J.ラングロワの実験。これについては まだなお疑問を持ちます。  ▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。  ☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか?  ▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔  ☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。  ▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。  ☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか?   ☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか?  まだ天の邪鬼にとどまりますねぇ。どうでしょう?

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.82

あら、ましゅまろさんにわたくしが? 「肥やしにならないものを汲み取りません」 て、笑うところですよ? 肥溜めをご存じないなんてことはないでしょうね。 あはっ。 こういうことがわからないのは、寂しい人生ですよ。

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.81

サイコロさんどうも。でも疲れるだけかもしれませんよ。何が疑問点なのかわたしにはわからないですね。ブラジュロンヌさんの思考回路を代弁できる人がブラジュロンヌさんには必要でしょう。わたしはなんだか算数の初歩のつまづきのある子供の数式を見ているような気分になってしまう。 ブラジュロンヌさん、例の「第三者から上記(じゃれついている)を言われるなり目を三角にして吊り上げ」るのはその直前の投稿者である、変名のowls-jp君。彼はあなたにじゃれているのではないといってわたしにずっと怒っているんですよ。本気なんですって。ナナたらこさんは言われたことにずっと無関心でしてね。慎重な姿勢ですね。  「自分の重要性をみとめてもらいたい」ということにかけては、持論を熱心に展開する市井学者であろうと、じゃれていると言われて恨む噛みつきっ子だろうと、同じなのだから、owls-jp君は何故じゃれていると言われたことを恨めしく思うのかを自覚してみたまえ、という意味ですね。 でもそしたらね、本気で殺人をするのだってじゃれていると言われかねない、と言いだしました。 この本末転倒ね。そうじゃないでしょう。本気で殺人をするのだって、自分の重要性をみとめてもらいたいということになりかねない、というなら間違っていないけれども、そうすると、じゃれていると言われて恨む人と、持論を普及運動する人に加えて、本気で殺人をする人が、重要性をみとめてもらいたい群に一つ増えるだけですね。 で、これらがインターネットの文字列で、人格否定を互いにしあうということ、これは、似た者同士の群におけるカタルシスをかけた交歓なのです。 ところでサイコロさん、わたしが固有名詞をほとんど書き出さないのは、QAサイトで学生さんの論文の餌になどなりたくないケチンボだからです。ご推察済みのように、餌にふさわしい「優等生が書く答え」を書いているのですが、机上の勉強で掻き集められることを書いているわけではなく、とくに美術で言えば、主要な作品群と主要な展覧会は自分の足と目で追い、主要な研究者や批評家の書く物を読み、一定のフィールドでの討論会や講演会の常連みたいになって、自分で感性と知識を蓄える努力をしないようなPC閲覧者などに、レポートや論文の下書きを作ってやりたくないのです。どのみち、展覧会を好んで、現代美術に関心のあるような方ならば、どんな作家の話をしているのかは容易に想像できることですし、カタログや講演によく触れている方ならば、自然に身につく歴史観に照らし合わせていただけることであり、オーソドックスな研究書や批評というのはそんなに数多いものではありませんからすぐに手が届くでしょう。 もちろん論文などでこんな根性を起こしてはいけません。だってどこかの別のすぐれた論文の註釈に書かれるための信用取引みたいな仕事ですから。

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noname#130919
noname#130919
回答No.80

私の知らぬ確執が、いろいろあるのですね。とはいえ、おっしゃるリンクに飛んでみましたし、天皇に関する貴方の過去の質問欄は全部追ってみましたが、楽しそうに話しているではありませんか。件の「常識のない高齢者……」のNo30ですが、これは貴方を誹謗していると私には思えません。が、貴方にしてみれば、そこに書き込んでいる時点で敵対しているのかもしれません。 しかし、どうなんでしょうね。じゃれているのは、私も含め、皆、同じようなものでしょう。「じゃれている」かどうかといわれると、貴方がaとcの矛盾だとか食いついていると、第三者として私もわからなくなってきますよ。 ac矛盾ですが、むしろab矛盾のようですね。とはいえ、貴方の反論を検討しました。保留付きで、aが譲歩だという読みはありうると認めていますね。私が字面を追う限り、何の変哲もない、普通の譲歩です。貴方の議論とは一線引いたのでしょう。しかし、それなら、なぜ彼女は質問欄に参入してきたかと居直っていますが、参りましたね。 貴方の項目に応答すると、 ・あ:明らかに違うので、述べないでもいい。 ・い:普通の譲歩の表現に見える。 ・う:それを言ったら何事も終わりだと思う(「わざわざしゃしゃり出てくる謂われはない」)。 うに関しては、私もそうなんでしょうね。貴方が私を捕まえて、質問を浴びせかけたという側面があったという印象を私はもっているけれど、ただ、最初から相違点が明らかだったのは私のことですし、だから貴方の欄には例の事件があるまで、投稿しませんでした。 ただし、これを言い出したら、貴方の質問欄には同じ意見をもった人以外投稿してはならないということにもなるでしょうね。しかし設問には、違う意見の者がいたら「問い求めたい」と書いてるのだから、次回からはともかく、今回は謙虚になった方がいいのではないですか。少なくてもこの質問欄で、雨合羽さんは真面目に議論したように私には思います。一般論ですが、中身のある議論をしようと思うと、かなり体力を消耗します。彼女は持論を惜しみなく展開した以上、貴方を話相手として認めているのだと思いました。それではいけないのですか。 それから私から振った1から3の言い換えですが、今回の私は批判しているつもりはないのです。1と2は基本的には私の書いたものをパラフレーズして同意していると思えました。3については、他の要素も強調なさっていますね。私は残念ながら、貴方のレトリックの微細な表現がつかみきれないところがあります。「ゾンビ」「幽霊」とは何なのだろうと、よくわかりません(AとBの関係はCとDの関係と同じ、という説明の仕方ですが、CとDの関係が説明ではなく比喩なので、意味が了解できないのです)。こういうところが論理ではなく、イメージの喚起という曖昧なものなので、説得はされませんでした。 最後の私への評言ですが、私の前の言葉をもじったのですね。こういうところで仕返しをなさるわけですね。お気を悪くさせてしまったのは、すみません。ただし私からは敢えて真面目に、次のようにお答えしましょう。貴方がちゃんと雨合羽さんと議論し、彼女が嫌な思いをしたのを償えるようなやりとりができるなら、貴方が正しいかもしれません、と。貴方はそんなバカなというかもしれませんね。どうも記述内容を見ると、貴方は議論を物別れに終わらせる気らしいと読めます。しかし結局、議論を「正しく」穏当に導けた人が、よりバランスが取れているといえるでしょう。違いますか?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。論拠がよわい。わたしをやり込めるためにあまを利用していると見たくなるほどですね。  まあご投稿に感謝して もう少しきちんと話をし終えましょうか。  ★ 貴方がちゃんと雨合羽さんと議論し、彼女が嫌な思いをしたのを償えるようなやりとりができるなら、貴方が正しいかもしれません、  ☆ これは論拠が弱いだけではなく 不公正です。なぜなら どちらが先に誹謗中傷をおこなったかを見極めなければいけないでしょう。仮りに万が一わたしが先に誹謗中傷を受けたのでなかったとしても わたしが先に誹謗中傷をおこなったことはありません。つまり 公平・公正に判断をしたかたちでなければなりません。  わたしは 嫌な思いをしただとか心が傷ついただとか そういう心理の問題はいっさい触れていません。じっさいそんなことはどうでもよいという考えです。どういう非人間的な行為をおこなったか。これを問題にします。  ★ 私の知らぬ確執が、いろいろあるのですね。  ☆ これについて例示しておくのが いちばんでしょう。  ■ 【Q:遊戯とは】質問者: amaguappa http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5696009.html  ☆ じつはこれには ましゅまろさんも参加していて かのじょに対するあまの非人間的なおこないをひとつ先に挙げておきます。その回答No.80のお礼欄のことばです。  さてわたしとのやり取りでは そうですね。No.71の補足欄の言葉です。  むろんほかにもありますが そしていくらかはそのつながりを追ってみないと実態をつかめないでしょうが そこでは りとるきすさんや はあとまいんどさんも参加しておられるので たのしみに関連投稿をも読んでみてください。  あぁ いい例を思い出しました。  【Q:なぜ神はイエスをこの世に送ったのか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3093850.html  ☆ わたしは 以前の名前(だから noname#80116 になっています)で書いたものです。回答No.4&17&19です。そこでじつは回答No.15 noname#96295 が あまがっぱです。そこで半ばほどに  ■(回答No.15) 歴史の濁りが話すのと、濁った精神が話すのは、 / どっちがましな言葉を吐くんだろう。。。  ☆ とあるでしょう。《濁った精神》は わたくしのことを言っています。そんなただ一人の人間の考えは取り上げるに足りず たとえ《濁っていても歴史ないし世界の全体の流れ》のほうが まだましであり健全であると言いたげのようなのです。  これだけでは 証明し得ていませんが なんだったら本人にたずねてみてはいかがか?  ぢゃあ ものはついでです。もう一例挙げてみましょう。  【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3013375.html  ☆ わたし自身のですが じつは OKWave でのデビュー質問です。したがって あまがっぱとの初めての出会いです。  最後の回答No.47が noname#96295 であって その補足欄には 《 amaguappa さん》という呼びかけがありますから これで証明できました。その投稿は No.9&15&29&34&そして47です。  いまちらっと見てみると この質問ではぶつかってはいませんね。だとすると そのあとですね 衝突したのは。わたしの考えを《濁った精神》に譬えていたのが あったはずなんです。なかなか見つかりません。  なかなか見つかりません。いつもいつも衝突していたのではありません。  仕方がないので 直近のものから 次の文章について触れておきます。  【Q:《常識のない高齢者》です。思う存分ご批判をどうぞ】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6433458.html  ☆ その回答No.25ですが これはさすがに違法行為にまでは到りませんが ただしこれでは もはやふつうに信頼関係を築くという気づかいは無用になります。とてもともに何かを仕上げるといった協力関係につけるとは思えません。つまり開き直っただけというかたちです。  ★ 「ゾンビ」「幽霊」とは何なのだろうと、よくわかりません。  ☆ もはや生きていないという意味です。信頼関係が築けない。  議論のほうは すでに書いたもので なお持ち堪え得ます。と考えます。  ふとひらめいたのですが あなたはわざとわたしをためして 敵の側にまわっているのですか?

bragelonne
質問者

補足

 過去のやり取りでよいものが見つかりました。(ひどっちさんにおしえてもらいました)。探していたものではありませんが なかなかよい事例です。  【Q:思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6092710.html  No.3補足欄  およびNo.25の回答とお礼欄  お手数ですけれど。  ちょとつくんまで出て来ます。  (これは ほかの方が関係していますが あくまでわたくしの文章ですので それとしてのみ扱っていただけるものと思い 出してみるものです)。

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  • heartmind
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回答No.79

「はじめにイメージありき」は岩波新書のほうですが、図書館にありました。 「現代美術論」もきっとあったのかもしれないけど、借りてくるののわすれました。 AかBか迷うのは、木村さんもきっと同じだと思います。 だから、ちょっとお茶をにごしたいいかたになるのだと思います。 まだあんまり読んでないけど、ただ、強い意志は感じます。 つまり、「芸術の為の芸術」になりすぎてしまっている現状に、 そもそも論「原始美術の考察」から一石を投じたいっていう。 象徴という言葉が頻繁に出てくるのはそういうことだと思います。 >たとえば富士山の美の体験においては  >その一瞬のうちに〔そのいばらの道を〕超えている。 >という見方なのですが どうでしょう? そういうことでいいと思います。 たとえば未来に、ロケットにだれもが乗れるようになって、 宇宙から地球の美しさを見ることがあたりまえになっても 太宰いわく「だけどやっぱり富士はいい」なのだと思います。 岡本太郎さんはわたしはただの抽象表現の人という見方はしてません。 「太陽の塔」は、それこそ都会の中にそびえていても、 そこの景色だけは、なんだか古代の風景にタイムスリップして見えて きませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 はあとまいんどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ヤクタアレアエストさんが うまいことツッコミを入れてくれたので いまわたしは上機嫌です。きょう一日ハイな気分でいるでしょうね。  あぁ わが不徳のいたすところ われには何と敵が多いことか。なあんて 《不徳》などとはこれっぽっちも思っていません。でも敵は多い。  さて何でしたっけ?  岡本太郎は 以前にも書いた覚えがあるのですが 《金平糖》党宣言をしていたのをわたしはパクリました。ハリネズミではありません。金平糖なのです。そういう交通(話し合い)の仕方のことです。  もっと以前には 海舟の言う《みんな敵でいいぢゃないか》でしたし これもそのまま保って来ています。  いちばんの問題は 大いに言論でたたかえば何の問題もないのに 人びとは つねに《意識の排泄》電波で応戦して来ます。そうすると《アース役はつらいよ》なる寅さん現象が 引っ切り無しにつづきます。もちろん それは 違法電波だよと言ってやるのですよ。いまでは生体電気現象といったふうにも研究されていますが その当時は 電波などというとむろんバカにされました。  ただしちょうどその今出すところを言い当ててやると もう何とも言えなくなるのです。なるのですが あとは けむったいから 俺の前からいなくなれという反応に変わります。《意識の排泄》・その垂れ流し電波が 列島を覆っていますし 感染しています。アース役はつらいよと言っていけばよいと考えます。  さて何の問題でしたっけ?  岡本太郎は 縄文土器などの縄文人の美を発見した人でしょ? たたえられていますよ。  太陽の塔は まだ具象が残っていますね。顔などとして。それですくわれていると思います。  富士山の美をめぐっては 考えが同じになりましたね。エへ。  木村重信:  ★ ~~~~~~~~~~  まだあんまり読んでないけど、ただ、強い意志は感じます。  つまり、「芸術の為の芸術」になりすぎてしまっている現状に、  そもそも論「原始美術の考察」から一石を投じたいっていう。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 一石も二石も投じているのですが 分かるようで分かりづらい。明快のようで 分からない部分を残す。残念ながら いまそういう受け止めです わたくしは。  ◆ 心霊化  ☆ という用語も出て来ますね。これが いまいち分かりづらい。抽象化(これは 用語としてはっきりしていて分かります)と象徴 あるいはオブジェ これらもわたしの自分の中にしっくり位置を占めないでいます。とほほ。  ★ AかBか迷うのは、木村さんもきっと同じだと思います。  ☆ とおっしゃる分には たぶんそうなんだろうと思うのですが その《 A や B 》の選択肢の中身も はあとまいんどさんが思っているほどには わたしも・たぶんほかのみなさんも 把握しかねている部分があると思いますよ。  ★★ ~~~~~~~~~~~~  A.近頃の作品は自閉的だから、ここまで広まるとは思えないなー。   もっとコミュニケーションを目指す方向になればいいのに。  B.こうなっちゃうと、もやもや=この作品って情報記号みたいになっちゃって   本質つまり、人間の奥のところに働きかけるっていうのが   薄れちゃうんじゃないかなー。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《もやもや》〔あるいは それと微妙に異なるところの《もどかしさ》〕とは何か? あるいは 《自閉的》という言葉がポーンと無造作に投げ出されている。ように見える。ですよおおん。  太宰は――これは 批判でも何でもありません―― それこそイメージがわるい。マイナス・イメージなのです。ということは しっかりと言葉の表現でそのイメージをぬぐい去った上で主張を推し進めて行かねばならないのぢゃないかと思ったりします。  * そう言えば インスピレーションだとか ちゃおぽるぽさんから 用語の整理の課題が出されていましたね。《象徴・オブジェ》もつかみにくいですし。・・・

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noname#130919
noname#130919
回答No.78

他の回答者との応答を見て、思うところあって、戻ってきました。貴方が私に求めた「見止める」ですが、辞書にある「見止める」=「様子を見る」では意味が通じないから、「重要なところに立ち止まって吟味し、意見を認めてほしい」(認める=見て視線を止める)ということを、音と文字の変換を言葉遊びにした造語なのでしょうね。私は結局、貴方が提示した議論の材料では、ご期待にこたえることはできませんでした。 ただし貴方がエチケット云々と私に言い出したからには、今後はエチケットを貴方が率先してお守りになるかと思い、他の回答者の方も参入し、「嬉しい悲鳴」とも他の欄で書いていたので、まぁ私が抜けてもいいかと思って、離れました。が、なかなかどうして、雨合羽さんの気を、相当、悪くさせてしまったようですね。彼女は私の質問欄に応えてくれた当初、「ネットには善意で話をする人ばかりでもない」と忠告してくれたものですが、いや、貴方の話し方は、よくないことではありませんか?私は随分と貴方に評言を呈したので、貴方が私にそういう態度をとるなら仕方ない側面はあるかもしれませんが(それでも私としては誠意を欠いたつもりはないのですが)、ただ貴方の雨合羽さんへの態度はいただけないと思います。 私は段々と貴方の議論の様相がわかってきました。他人の議論を批評するのは失礼かもしれませんが、そもそも質問欄を投稿する以前から、次のような強い信念をお持ちではありませんか。信念というのは絶対に譲りたくないというものです。 1人間は時代や空間や、様々な隔たりを超えて、同じ感じ方を出来る。 2芸術は感受性によって、鑑賞するべきものである。 3個人の主体には、絶対的に、敬意を払うべきである(そこで構造主義など主体に懐疑的である議論は一貫して批判している)。 さて、雨合羽さんの意見は、少なくても1と2に関して、反対か、別の見方を提示しているといえるでしょう。貴方としては信念として反対なさっているのかもしれません。しかし彼女の回答をざっと読みましたが、一貫していたと思います。確かに参考文献の明示が少ないのに議論の運びが早いので、彼女の議論が予め概観ができた人が読めばわかりはするでしょうが、知識が不足しており、具体的な議論以外は徹底的に疑うという亀の歩みをよしとする学術スタンスの私などにしてみれば、惜しいことではあります。 ただそういう私であったにせよ、認めるものはあります。雨合羽さんの議論は飛躍や矛盾はないでしょう。貴方が鱶の如く食らいついている箇所(貴方がお礼欄で示すcとaの矛盾)ですが、aは元を読むと貴方とコミュニケーションするための譲歩表現と私には見えますよ。つまり、彼女の立場は貴方とは違うのではあるが、その差異を認めて、その上で双方の見解をやり取りしようとしたと読めます。 コミュニケーションのための配慮による譲歩表現を矛盾だとか、その後の補足について立場を守りたいだけなどと食らいついても、どうしようもないというものに見えます。貴方としては、cからaという意見なのでしょうが、それは貴方の意見であって、客観的に相手の意見を認められないのでしょうか。私が貴方の意見を認められないのは、貴方の応答が不十分と思い、質問しても結果を得られなかったからです。しかし彼女の議論がそうであるなら、質問すればいいでしょうし、私は彼女が説明をちゃんとしていると思います。そんな風に「評言」を呈するものではありませんよ(これが評言なら、貴方に対しては、相当の誹謗中傷も評言として許されることになるでしょう)。彼女のように貴方に期待して、せっかく真面目に議論してくれた人に不愉快な気持ちをさせるのは、いけないことではありませんか。そういう積み重ねの結果、何が起きたか、貴方はよくご存じのはずでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 さて具体的に:  ★ 貴方が鱶の如く食らいついている箇所(貴方がお礼欄で示す c と a の矛盾)ですが、a は元を読むと貴方とコミュニケーションするための譲歩表現と私には見えますよ。  ☆ 確認します。  ☆☆(No.71お礼欄) _____________  ■■(回答No.68) ~~~~~~~~  最後に付け加える形になりましたが、  ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。  ( b ) でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。  ■■ (回答No.71)~~~~~~~~~~~  ( c ) 作家個人の制作の問題と美術史の変容の問題は別、というお話をさせていただいているのですが。  ( d ) もちろん美術史は精神史に沿うものであるという見解でそのように述べています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆ もし( c )のとおりであるなら 《作家個人の制作の問題》には《美術史の変容の問題》は 基本的に影響を与えない。ゆえに   ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ。  が生きるというものです。・・・  ____________________  ☆ 途中で端折りました。  ( c )と( a )とはむしろ矛盾しないのです。  上に確認した命題(1・2・3)にもとづき 《ひとは 外の社会環境の変化によって その美の感覚が消えてしまったりするような変化をこうむることはない》 しかも 《その美の感覚は 一定の時間過程を経て成るというものではなく そうではなく 対象を目にしたとき一瞬のうちに成るというかたちで自然本性において与えられている》 このことを確認しています。  そこでまづ( d )ですが これは《精神史》をどう捉えるかで もめようとしていますので保留しておきます。(たいした問題にはならないでしょう)。  そこで( b )です。  ■ ( b-1 ) 歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。  ☆ これはおそらく《美術そのものの変容》ということの中に ひとの美の感覚も変容をきたしたことを含むと見るべきでしょうね。つまりもしそうであれば ( c ・ a )と矛盾します。  ■ ( b-2 )人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。  ☆ これについては ほかにおぎないを投稿しているようです。ただしその結果はまだあいまいです。  要しますと その最後の一文:  ■ そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。  ☆ この指摘にもとづき あなたも  ★ a は元を読むと貴方とコミュニケーションするための譲歩表現と私には見えますよ。  ☆ という解釈をみちびき出した。のではないですか? たしかに( c ・ a )の命題とは別様の《話として問題を扱う》必要を言うのなら おそらくあなたの解釈が妥当でしょう。  話をやはり端折りますが もしそうであるなら――つまり ( c ・ a )の命題と( b )の指摘との間には矛盾がないというのであるなら―― 今度は あなたとの間にもそこにたどりついたところの《見解の相違》ということであり その結論で互いに合意することになる。こうですね? これ以外に考えられません。  むすびのことば:  (あ) 見解の相違だという認めの言葉を明らかに述べればよいし 述べなければならない。(学識の深い浅いといったウワベの事柄を出すほど 動揺をきたしていたらしいのは いかに? とも問い返し得ますが)。  (い) しつこくするとすれば ( a )の《譲歩》は何だったのか? これです。(わたしは話を早くするためにあなたにゆづりましたが 表現は矛盾していると言わねばならないでしょう)。  (う) 見解の相違で合意したあとの課題としては:    ○ それなら 人間の《精神》もしくは広い含みを持ってながら人の《自然本性》が近代以降に別のものに変容するといった変化がもたらされた。と主張していることになる。その仮説からして証明をし始めていなければならない。  つまり そういう議論として はじめに ことわっていなければならない。さもなければ《われらが審美眼は 劣化したか》といった時代遅れの質問にわざわざしゃしゃり出てくる謂われはない。  こんなところでしょうかね。どうですか?   あなたのわるいくせは 早合点すると 一方の側に寄りついてしまうことです。

bragelonne
質問者

補足

 アレアさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  よくぞ言ってくれました。まさにぴったりの評言をこれほどうまく言ってくれました。  ★ (これが評言なら、貴方に対しては、相当の誹謗中傷も評言として許されることになるでしょう)。  ☆ すなわち あまがっぱなる投稿者からは まさにその《相当の誹謗中傷》がわたくしに対してすでに――先に――なされたのです。その事実をお示しします。  ■ (【Q:常識のない高齢者 (言語が苦手な人)】回答No.30) ~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6430103.html  (投稿者 amaguappa )  じゃれ-つ・く【戯れ付く】  ざれ-ごと【戯れ事】  第三者から上記を言われるなり目を三角にして吊り上げる人の精神には何が欠けているか?  答え: 行いに重要性があると認めてもらいたい  つまり戯れ付いていると言われるのは、似た者同士だからなのだ。  非線形理論で総括して平和である。  投稿日時 - 2011-01-20 04:04:42  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 投稿文の全部ですが 質問は《本歌》のほうですよ。ただしいくらかは背景説明が必要でしょうか あなたにとっては。まづ問題の誹謗中傷は   ■ つまり戯れ付いていると言われるのは、似た者同士だからなのだ。  ☆ この一文です。内容は  ○ 質問者( tarako009 )は その《荒らし》をする相手と《似た者同士だから》《戯れ付いている》のだ。  ☆ になります。《荒らしの相手》とは わたくしのことです。ほかにも荒らしの常習犯は 三四人ほどいますが 過去の質問を見ればすぐにこのたらこが そういうことを行なっていたということ そして その行為を もちろんあまがっぱが じゃれているみたいだと評したことがあるという意味です。  ■(【Q:われわれ日本人は ひょっとして互いに互いを神と思っているのですか?】) ~~~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5615111.html  (回答No.12 投稿者 amaguappa )  (第二段落) bragelonneさんにじゃれている人物の一人を初めてお見かけしたのは、「蜘蛛の糸」に六道についての投稿を寄せてもらったときです。・・・  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ただしこの質問には たらこは出て来ません。そしてほかの質問でも その内容からして削除されているものが多いのです。そしてほかの荒らし屋といっしょにしてこの《じゃれている人物(* 複数)》と名指されています。よって たらこの投稿をお示しする必要はないと判断します。(じっさいこの《じゃれている》という表現で すでにあの質問では意味が通じていますから)。(《蜘蛛の糸》とは あまがっぱのそういう質問のことです)。  確認します。あまがっぱは   ○ 質問者( tarako009 )は その《荒らし》をする相手( bragelonne )と《似た者同士だから》《戯れ付いている》のだ。  ☆ という誹謗中傷を為した。こういう事実が わたしの・あまがっぱに対する犯罪者扱いのような応答の仕方をみちびいた。これです。  さて ほかにもお叱りを受けていますね。  ★ ~~~~~~~~~~~~  1 人間は時代や空間や、様々な隔たりを超えて、同じ感じ方を出来る。  2 芸術は感受性によって、鑑賞するべきものである。  3 個人の主体には、絶対的に、敬意を払うべきである(そこで構造主義など主体に懐疑的である議論は一貫して批判している)。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 基本的な考えの違いをまづ明らかにします。わたしの言葉で言いなおします。  (1) ひとには《共通感覚 sensus communis 》がそなわっていると想定している。  (2) 視覚にうったえる芸術すなわち美術は それを見たわたしたちが《うつくしい》と感じる作品がある。美術は この鑑賞がすべてである。(そこから派生する評論などは 別ものだ)。  (3) ひとは その存在が――孤独であってしかもそれは孤独関係であるというあり方において実は自由―― 絶対的なコトである。(一人ひとりが掛け替えのない存在である)。  生命存在ということ。あるいはもう少し具体的には 自由意志のこと。その人の自由意志による判断ないし意志表示は それとしてまづ互いに絶対的なコトと見なされる。  互いに批判することも自由であるが その説得をつうじて互いに見解を見なおすということ。  (この自由意志にもとづくという意味での主体を無と見なす考えは みづからを幽霊ないしゾンビだと見なすことにひとしい)。

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.77

ああもしかして「精神史」という語をうまく捉えられないでいるのですか。 もしそうであれば、下記のわたしの言葉は理解し難かったのではないでしょうか。 「光学と自然科学が美術をどのように牽引してきたかという視点を持たれますと、キリスト教が幻燈を使ってイメージを庶民に伝えたことを詳しく考察できるでしょう。そこから、クレドとイメージについて考えるという方法が思い浮かびました。デカルトを参照しながらの作業になるかもしれませんね。そこから写真や映画やTVやインターネットへ飛び上がって、現代のイメージ論へ届くと思います。」 広い鏡面の発明や、遠近法の発明や、幻燈機の発明や、鏡面を多用できる建築素材と建築技術の発明や、写真の発明や、映画の発明や、精巧な複写機の発明といったことがらが人間の精神に変化をもたらしているという意味の「精神史」です。

bragelonne
質問者

お礼

 それで どうなるのですか?

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noname#202494
noname#202494
回答No.76

こんにちは、 未熟者の登場です。よろしくお願いします。 この場がかくも紛糾するのは、ロゴスとイメージの定義が人によってまちまちだからだと拝察いたします。 イメージについては、ザッキさんと質問者さん(以下ブロンさん)が最初から食い違っていた点です。辞書には14もの違った定義が載っていて、これは作者である木村氏がどの定義を選ぶのか、確認するしかないでしょう。 例えば私はイメージは他人とは分かち合えないものだと確信していますが、雨合羽さんはイメージは共用出来るとおっしゃる。どちらが間違っているといえるものではないでしょう。どちらも辞書には定義されています。でもどちらも正解とすると、木村氏の文章の解釈は正反対なものになります。 ロゴスについてもブロンさんは表をおつくりになって、それに沿って説明せよとおっしゃるけれど、私はロゴスというのは”論証を目的とする言葉”という意味だと、アメリカ英語風に明確に解釈しています。もやもやしたものを含む余地はないです。 これではブロンさんが”quote”なさった短い文章といえども、解釈の仕方がテンデンバラバラになるのは、当たり前ではないでしょうか。 さて、これを”常識を超えた”ブロンさんがどうまとめられるか、興味の尽きないところです。 失礼をいたしました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ専売特許を何度もですが掲げます。   ○ ロゴスとイメージ ~~~~~~~~~~~~~~       ロゴス(α):無根拠〔と人間との関係は 非思考の場=クレド〕    _____________________________    ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ              ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?    ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この図式は ヤクタアレアエストさんとのやり取りでわたしの理解するところを示したものです。かれとの間では 共通の了解が得られたようです。それで ほかのみなさんにも通用するのではないかという意味で たたき台としてご提案しています。むろんほかの理解・ほかの図式があれば それによってご説明くださいとはっきりお伝えしております。  ★ ロゴスについてもブロンさんは表をおつくりになって、それに沿って説明せよとおっしゃるけれど、私はロゴスというのは”論証を目的とする言葉”という意味だと、アメリカ英語風に明確に解釈しています。もやもやしたものを含む余地はないです。  ☆ とはおっしゃいますが 上の図式で 《ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理》というのが その《”論証を目的とする言葉”》を含みます。よ。  ★ これではブロンさんが”quote”なさった短い文章といえども、解釈の仕方がテンデンバラバラになるのは、当たり前ではないでしょうか。  ☆ 木村重信の文章は 質問者としてわたしは 途中で気づいたところで《出汁にして使っただけのようです》とお伝えしています。これも けっきょくみなさんへのお知らせになります。  ですから 焦点は表題のごとく《われらが審美眼は 劣化したか》という主題にあります。  つまり木村の文章があまりにもその解釈の分かれを呼ぶのであれば いっさい放っておいてもらってもよいわけです。言いかえると ご自分の解釈で むろんその内容を示しつつですが 回答内容を述べていただくというかたちで いいわけです。解釈をしないで 初めからご自分の回答を述べていただくのもよし。こういうことになります。  ★ 例えば私はイメージは他人とは分かち合えないものだと確信していますが、雨合羽さんはイメージは共用出来るとおっしゃる。どちらが間違っているといえるものではないでしょう。  ☆ それでかまいません。まづは質問者のわたしとやり取りをしてください。できると思ったところで みなさんそれぞれとの互いの了解を 同じところと異なるところとについて 明らかにしてまいりたいと考えます。  イメージにかんしてなら わたしとのやり取りでは   ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ  をお使いになるか それともこの理解を批判して あたらしい定義によってご見解をしめすというかたちを取るか そのようになさっていただけば問題ないと考えます。  ちなみに  ★ イメージについては、ザッキさんと質問者さん(以下ブロンさん)が最初から食い違っていた点です。  ☆ このご理解は精確ではありません。わたしは断片的にイメージの定義をしましたが ざっきさんは 判断基準の互いの違いを指摘されたとしても このわたしの定義については きちんとした《食い違い》を示されたことはありません。細かいところですが。  木村の文章は忘れてもらってもかまいませんし 取り上げても大丈夫ですし あるいは ほかの方々のご見解を取り上げてご自分の考えを示してもらっても大丈夫だと思います。よりよい理解にたどりつけばありがたいですし よかったと考えますから。  紛糾という場合 中身について見解が分かれるというのと そしてそうではなく すでに中身ははっきりしているのにそのはっきりした内容を飲み込みたくないと言ってじたばたしているのと ふたつあります。  あぁ ざっきさんは ご自分の話の進め方にわたしが乗らなければ答えを言わないというかたちで紛糾しています。めづらしいと思います。もっとも乗らないなら それはそれでいいから ご自分のやり方で進めるとまでは言っておられるようですが そのあとは進みません。  こんな情況だと思いますよ。  * いちばん簡単なのは 質問者はひどっちさんのご見解に賛成していますので それに賛成か反対かで 自説を展開なさることではないでしょうか。

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.75

わたしに矛盾があるというあなたの論理は本当に破綻しているのですが、ご自分の目にはそれでつながってみえるのですね。それだけですね。ただそういうことです。 あなたにはあなたの論理がつながって見えるのだから、あなたの主張は続く。あなたはあなたという己れを信仰しています。これをフランス語で、foi de soi といいます。

bragelonne
質問者

お礼

 そのまま返せばよいご回答内容です。    ありがとうございました。

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.74

> わかったけれども こうやってみづからの立ち場だけは守りたいというところだとお察しします。ありがとうございました。 あきれて物が言えません。わたしはとても丁寧に論説しておりますのに残念です。 何の学部にせよ、修士課程だけは出られたのでしょう? なのにあなたは、進学高校生ほどの論理構成力も失くされてしまっています。 あなたがわたしに「矛盾」とおっしゃるときは、いつも矛盾でないことが多くの人にわかる程度の話なのです。一つも矛盾だったことはないのですよ。 わたしは、あなたを馬鹿呼ばわりしないで放ってしまうので、ご自身で気付かなかったのでしょう。 だからといってこともあろうに冒頭のような言葉を吐いてみていい気になったりするほどの道化にはおなりになりませんように。 話が理解できないなら理解できませんでしたと言えばいいのですよ。わたしの学歴を鼻にかけるつもりはありませんが、わたしとあなたで知識のバックポーンが違っていて当然です。 しかし、大事なことは、知識や学歴が違っていても、自分の怠惰を乗り越える人は、豊かな対話を手に入れられる、ということなのです。 怠惰と老いに負けないように。 突拍子のない方向にねじ曲がって道化になる人を見るのは、寂しい眺めです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。  ★★(回答No.68) ~~~~~~~~  最後に付け加える形になりましたが、  ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。  ( b ) でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。  ★ (本回答)~~~~~~~~~~~  ( c ) 作家個人の制作の問題と美術史の変容の問題は別、というお話をさせていただいているのですが。  ( d ) もちろん美術史は精神史に沿うものであるという見解でそのように述べています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もし( c )のとおりであるなら 《作家個人の制作の問題》には《美術史の変容の問題》は 基本的に影響を与えない。ゆえに   ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ。  が生きるというものです。すなわち《いばらの道》をたどる以前にすでに 即自と対自の問題は済んでいる。( b )のごとく《人間の精神も変容を迫られた来た》けれども ( d )のごとく《美術史は〔* 個人の〕精神史に沿うものである》ゆえに ( a )の命題が生きる。こう帰結しています。  矛盾というものです。  うんともすんとも言えないというお答えとお見受けしました。  ありがとうございました。

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回答No.73

zakky74でございます。 お久しぶりです。 >ゴッホはいかがですか? > 美をお感じになりますか? 美を感じる事もございますが。 感じない事もあります。 ゴッホを好んで観る訳でもなく、ゴッホに嫌悪を感じる訳でもなく、ゴッホを鑑賞する機会そのものが少ないんですよね。 > あるいは 誰かいい画家を見つけておいでですか? > あったら おしえてください。 絵を鑑賞するという機会そのものがございません。 ですから画家もほとんど知りません。そういう意味では、画家が描く絵によって美を感じる事は少ないんですよね。画家も、絵も、ここで具体例を挙げる事が出来ません。 自分でも絵を描く事はとても苦手で、うまく描けません。平面的な絵と言うんですかね?ただ、絵を描く事が嫌いという訳でもございません。自分でも結構楽しんで描きます。 ところで、bragelonneさんが仰る「いい画家」というのは、僕の判断基準によるいい画家という事だったのでございましょうか?それとも、一般的に言う判断基準によるいい画家という事だったのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 自分でも絵を描く事はとても苦手で、うまく描けません。平面的な絵と言うんですかね?ただ、絵を描く事が嫌いという訳でもございません。自分でも結構楽しんで描きます。  ☆ そうですか。わたしは 絵は好きですが そしてたぶん画くのも好きですが 自分の作品というわけには行きません。  ★ ところで、bragelonneさんが仰る「いい画家」というのは、僕の判断基準によるいい画家という事だったのでございましょうか? それとも、一般的に言う判断基準によるいい画家という事だったのでしょうか?  ☆ まったく無条件で問うています。もしどうしても特定してくれということでしたら たとえば  ★ 美を感じる事もございますが。 / 感じない事もあります。  ★ 平面的な絵と言うんですかね?  ☆ というような場合にすでに用いている《判断基準》でいいわけです。  《イメージ》について答えをお持ちだとうかがったのですが この質問は《審美眼》と言っていますから イメージについても美の問題から明らかにしてもらえるとうれしいです。

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     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 審美眼を見につけたいです…!

    当方、頭が良くないのですが、(泣) ユーチューブなどで一日に一回でも オペラや歌舞伎やミュージカルなど 久しく積み重ねて流し見していけば、暫くは良く分からなくても 審美眼や教養などが次第に見に付くものなのでしょうか? とにかく美しいものと悪いものを見極める目と、教養を 手に入れたくて仕方がありません! 身に付けるとしたら他にどんな物を見ればいいのでしょうか? どなたか教えて下さい

  • 審美眼?

    美術館へ行った帰り道は 周りの風景が美しく見えて仕方がないのですが これは審美眼が高まったせいでしょうか? この現象を専門用語でなにか説明できますか? 教えてください。よろしくお願いいたします。

  • 審美歯科の審美って何ですか?

    審美歯科の審美って何ですか? しんび?しんびしか?

  • シンプル イズ ベストは本当か

    20世紀の現代美術や建築、車や広告などのデザインを見ていると、 表現が時間と共にシンプルになっていく傾向が見られます。 たとえば、 ダダイズムがミニマルアートになる流れ。 T型フォードがフェラーリF40やTOYOTAプリウスになる流れ。 ガウディが安藤忠雄になる流れ。 幾人かの個人的な思い入れで生み出されていた表現が、 時間を経て、世間に広まり、多くの人の 様式化された表現となっていくのは理解できます。 ○ しかし、それがなぜシンプルになろうとする 方向に向かって進むのでしょうか。 ○ シンプル イズ ベストという価値観は 時代を問わず普遍的なものでしょうか。 表現がシンプルになるに従い、 表現の是非が、表現結果を対象とするのではなく そのコンセプト(思考方法や発見)やストーリー(理由や動機)を 対象とするようになりました。 表現は言葉による補足を前提とした、 シンボリックなプレゼンテーションでしかない。 (つまり難解だったり、感情移入を排除する表現になる) 哲学について素人ですが ウィトゲンシュタインの論理哲学論考を読んで ミニマルアートの彫刻を見ているような芸術性を感じました。 その一方で、シンプルさゆえの難解さも感じ、 哲学の世界にも同じような傾向があるのだろうかと考え、 投稿させていただきました。 漠然とした質問ですが なにかヒントを与えていただけたらと思っております。

  • 審美歯科どーやって探す?

    エステをして心も身体もリフレッシュ!!気持ちいいし、憧れの美白。 しかし、肌が白くなったら、なんだか歯の色が気になりだして、歯も白くしたくなってきた。だけど審美歯科ってありそうでなさそうで、チラシやCMなんて見た事ないし、敷居も高そうで...。 白くしてみたいけど何処でやっていいんだろ? 値段とか、そこに決めた理由とか、いろいろ教えてください。

  • 現代における審美の可能性

    審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。