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美の感覚の劣化と現代美術についての評言
- 現代人の美の感覚が劣化しているのではないかという質問について、木村重信の著書から解説します。
- 木村重信の著書によると、美術はロゴス(思考)に従属せず、イメージから抽象されることで哲学や科学が生まれるとされています。
- 現代美術では即物的な傾向やシュルレアリスム美術による日常的意識の否定が見られます。作品はオブジェとして完成する一方で、普遍的な人間性の象徴としても存在します。しかし、これらの要素が現代美術にどのように位置付けられるかは明確ではありません。
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- 天使とは?――《はじめにことばがあった》。
( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか? ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。 ( c ) つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。 ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~ 1:1 はじめに ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。 1:2 このことばは はじめに神とともにあった。 1:3 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。 1:4 このことばに命があった。 この命は人を照らす光りであった。 1:5 光りは闇のなかに輝いている。 闇は光りをとらえなかった。 ~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。 言いかえると 次のように位置づけるかたちである。 ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。 ○ (ことばの階層) ~~~ (α) 神としてのことば (α’) 天使としてのことば (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?) (δ) 人間のことば ~~~~~~~~~~ ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。 ○ (ロゴスの階層) ~~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~~ ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。 被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか? もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。 おしえてください。
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次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。 【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】 http://okwave.jp/qa/q6797352.html ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。 あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論 により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性 に発散する(=無)ことが明らかとなっています。 つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、 対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化 =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、 「ひらめき」の方が本質なのです。 「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい 加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」 というのも、そうした事によるのでしょう。 そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、 それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映 されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的 無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補 としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在 (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。 ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~ ご回答をありがとうございます。 そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか? ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ 無根拠(神) | ヒラメキ | 人間(経験思考および自由意志) ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。 つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。 ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ 人間(意志主体):じつはヒラメキ | (階層現象性) | 量子振動 片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。 ☆ と見ている。 まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか? 次には 《還元》の意味が問われます。 ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~ “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。 ◆ ~~~~~~~~~ ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。 ~~~~~~~~~~~ ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか? あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか? そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか? 言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。 だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。 つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか? ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生 ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか? ですから ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。 ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。 永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。 意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。 ◆ その補完(「派生」の自覚化)として ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。 もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。 偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。 なぜ ◆ 補完(「派生」の自覚化) ☆ か? そしてそのあとに ◆ 愛に向かうのです。 ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか? つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか? こういった反応を持ちました。どうでしょう? 〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解 ○ (ロゴスの階層) ~~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~ ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。
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- 哲学・倫理・宗教学
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ひどっちさん ていねいなご説明をありがとうございます。 次のご見解に膝を打ちました。 ★ ~~~~~~~~~~~~ > われらが審美眼は 劣化したか? われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。なぜなら われわれ一般の鑑賞者は どうもおかしいではないか 美が変わったのかと普通に問うて言いますから。プロがそう言わない・見ないとすれば その隔たりには 重要な問題があるように感じます。 ★ 木村 重信氏は、・・・敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか? ☆ なるほど。この文章じたいとしては どうもそう解するもののように思いました。《いばらの道》を特に言おうとしているようなのだと。 抽象美術について ★ おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。 ☆ なるほど。それでしたら 納得しました。振り子が反対の極に振れたという問題ではないということですね。 そして次のご指摘が はっきりさせることができればと思っていたことでもあります。 ★ つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。 ☆ 《解説 あるいは 評論》としてそういう分野があってもよいのでしょうし それとして展開されていくのでしょうが 何だかまるで美とその観賞に次元や段階があるかのように言いその高位の次元において専門家たちは独自の城を築こうとしているように映ります。 音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。 ところが 目に見ていることや耳で聞いていることについて批評をするのは問題ないと言わねばならないでしょうが そうではなく作者やその制作事情などを取り上げそれらによって批評することあるいはその批評を批評し合うことというのは 作品鑑賞とは別の分野だと考えます。目や耳であぢわうという鑑賞から離れて いわば周辺のエピソードを集めてその蘊蓄をたのしんでいるというように思えます。 J.ラングロワの実験。これについては まだなお疑問を持ちます。 ▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。 ☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか? ▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔 ☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。 ▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。 ☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか? ☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか? まだ天の邪鬼にとどまりますねぇ。どうでしょう?