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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:われらが審美眼は 劣化したか)

美の感覚の劣化と現代美術についての評言

このQ&Aのポイント
  • 現代人の美の感覚が劣化しているのではないかという質問について、木村重信の著書から解説します。
  • 木村重信の著書によると、美術はロゴス(思考)に従属せず、イメージから抽象されることで哲学や科学が生まれるとされています。
  • 現代美術では即物的な傾向やシュルレアリスム美術による日常的意識の否定が見られます。作品はオブジェとして完成する一方で、普遍的な人間性の象徴としても存在します。しかし、これらの要素が現代美術にどのように位置付けられるかは明確ではありません。

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noname#135843
noname#135843
回答No.12

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ★ そこで、いっそのこと“平面的(二次元的)”での表現が用いられたものと考えております(遠近法の否定)。  ☆ という変化は 必然性があるようで必ずしもないように思われませんか? 遠近法を否定し去るのではなく 絵画としての遠近法を独自に編み出せばよいのではないかなと。  おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。つまり、とことんまで、平面にこだわり、最終的には、形自体をもゆがめてしまうような形で でございます。 > ☆ というご解釈に異見はないのですが 上のように初めから《即自的かつ対自的にして自己の表現を目指す》と言ってしまっておけば あとでわざわざ《止揚された統合》ですとかその《困難さ》をうんぬんしなくてもよくなるかも知れないと思ったのでした。  木村 重信氏は、原始美術・民族芸術の専門家のようでございます(Wikiにてはじめて知りました)。つまり、氏にとりましては、人としてのみづみづしい躍動感等が存在する作品を肯定的に考えていると察せられます。一方、即時的な“現代アート”には、否定的とも推察できます。このため、「自己の表現を目指す」と主張してもよかったのかもしれませんが(むしろ、こちらの方が完結かつ、訴える力も強いと思われますが)、敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?そして、かような幾分回りくどい表現を用いたものと解しております。  これは、愚見でございますが、つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。そしてさらには、かような芸術論に、権威主義までもがはびこるようになってしまいました。ですが、その難解な作品には、純粋に“美”を感じ取れるものは少なかったように思われます。あくまで、“学術的”には面白いかもしれませんが、ただそれだけのようだったかと思われます。そこで、本題に移らせていただきますが、 > われらが審美眼は 劣化したか?  われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 > ★ 結果:大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました(関心度が高い)。  ☆ このとき 人の顔であるなら いろんなかたちに分かれると思うのです。面長・丸顔 掘りの深い・浅い(平面的) 目が大きい・小さい;丸い・細い 鼻が高い・低い 口が大きい・小さいなどなど。  《魅力的》だというのは これらの区分のそれぞれに諾否を与えて 《面長》の魅力的および《丸顔》の魅力的といったようにそれぞれの区分に必ずひとつ現われたのか? それとも掘りの《深い》は《浅い》よりも魅力的だ(あるいは そのぎゃく)という結果が出たのか? 問いたいと思います。  以下に、実験の(ある程度の)詳細が触れられております。つまり、この実験結果が正しいとしますと、“美の判断基準の大部分が生得的に決まっている”ということが示唆されます。 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/6901/langlois1987.html   最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん ていねいなご説明をありがとうございます。  次のご見解に膝を打ちました。  ★ ~~~~~~~~~~~~   > われらが審美眼は 劣化したか?  われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。なぜなら われわれ一般の鑑賞者は どうもおかしいではないか 美が変わったのかと普通に問うて言いますから。プロがそう言わない・見ないとすれば その隔たりには 重要な問題があるように感じます。  ★ 木村 重信氏は、・・・敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?  ☆ なるほど。この文章じたいとしては どうもそう解するもののように思いました。《いばらの道》を特に言おうとしているようなのだと。  抽象美術について  ★ おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。  ☆ なるほど。それでしたら 納得しました。振り子が反対の極に振れたという問題ではないということですね。  そして次のご指摘が はっきりさせることができればと思っていたことでもあります。  ★ つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。  ☆ 《解説 あるいは 評論》としてそういう分野があってもよいのでしょうし それとして展開されていくのでしょうが 何だかまるで美とその観賞に次元や段階があるかのように言いその高位の次元において専門家たちは独自の城を築こうとしているように映ります。  音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。  ところが 目に見ていることや耳で聞いていることについて批評をするのは問題ないと言わねばならないでしょうが そうではなく作者やその制作事情などを取り上げそれらによって批評することあるいはその批評を批評し合うことというのは 作品鑑賞とは別の分野だと考えます。目や耳であぢわうという鑑賞から離れて いわば周辺のエピソードを集めてその蘊蓄をたのしんでいるというように思えます。  J.ラングロワの実験。これについては まだなお疑問を持ちます。  ▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。  ☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか?  ▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔  ☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。  ▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。  ☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか?   ☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか?  まだ天の邪鬼にとどまりますねぇ。どうでしょう?

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その他の回答 (121)

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.92

ひどっちさん、わざわざありがとうございました。どういたしまして、お気になさらずにいてください。 さて、ブラジュロンヌさん、 わたしも、ちょうど今ヤナーチェクを聴きながら調性について考えていましたよ。 懐かしいリンクがいくつか貼られていますので、聴きながら開けて眺めてみましたが、 【なぜ神はイエスをこの世に送ったのか】 ああ、アレクサンドリア図書館の話を書いたな、とすぐに思い出しました。 キリスト教権力によるヒュパティアの惨殺はご存じですか? ぜひウィキペディアご参照を。  ご存じと思いますが、 ヨーロッパの歴史には、キリスト教権力が追い払った、悟性と哲学と科学の別の歴史がありますね。 歴史が、澄んだ水の一直線に流れているようなものではないのはあたりまえで、 掻き回した沼のように濁った時期が、通史を編めば要所要所にあります。 これが、「歴史の濁り」とわたしが言ったもので、あの文脈の場合、新プラトン主義の学問を捩じ伏せたことです。 「濁った精神」とは、キリスト教会の教えや、キリスト教徒の盲信の精神のことです。 つまりあの質問者さんが回答を引き出そうとしているキリスト教の精神です。 歴史の濁りと濁った精神というのは、間違った真実と正しい嘘、のようなことを念頭に置いているのです。おわかりですか。 わたしの呟きが、ブラジュロンヌさんのことであるように響いていたとは、驚きだな。 なるほどあなたは人並みに濁っているかもしれませんが、歴史と並べて評されるほどの器じゃないでしょう。意味不明でしょう。 あなたの世界には、きっといろいろな響きが沸いているのでしょうね。 少しはご自分のことにがっかりしたなら、わたしを「さん」付けでお願いしますよ。少しはがっかりしてほしいですね。どうせ体は元気なんでしょう。

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noname#135843
noname#135843
回答No.91

 こんばんは、Hidocchiでございます。  今回は、ご質問者様、雨合羽様にお詫び申し上げたく、投稿させていただきました。  先程の、ANo.87の回答欄にて、雨合羽様に対する愚生の一方的な誤解がございました。この場をお仮し、深くお詫び申し上げます。   誠に申し分けござませんでした。  Hidocchi 拝

bragelonne
質問者

お礼

 《調性》の何たるかについて 弱っています。  聞いても捉えられません。と白状しなければならないかと思います。  ヰキぺは読みましたが 少しづつでもまなんでいければよいと思っています。  ありがとうございました。

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.90

おや、ひどっちさん、あらためましてこんにちは。 それは誤解でしょう。 お挙げになっているリンクは、3と25がわたしの書き込みです。 ブラジュロンヌさんは、ちょっと悪い癖だと思うのですが、ましゅまろさんとわたしのあいだに、 何かを読み間違えたのだと思います。 3でとんちんかんな応答をブラジュロンヌさんから補足にいただいてしまったのです。 猪突さんまでひっぱりだしてきています。ザビーヌに関する質問で何かを読んだように感じたらしいです。 そこで、わたしは何をどう書くか迷いましたが、25に、優しい言葉を選んで思い違いに気付くようにと配慮しているつもりです。 猪突さんとえらく仲良しに見えたらしいことについては、物理屋さんとは結婚しなかったが交友は好きである、と自分の身の回りの話をして濁しました。猪突さんは物理屋さんでしょう。ちなみに直接お話ししたことは一度しかないのですがね。 ひどっちさんのお書き込みは、申し訳ないですが読ませていただかなかったのですが、何かお気にさわりましたか。お話の機会があればどうぞ今後ともよろしくお願いします。

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  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.89

「はじめにイメージありき」はもう少しじっくり読み進めたいと 思っています。「現代美術論」は人気があって、手に入りにくい かもしれません。 崇高へのベクトルの話ですが、象徴となりえないオブジェがあると 言う話なんですが。 カテゴライズ大好き人間じゃないけど、なにを象徴しうるかという話 A.どういう感じ、感覚、精神状態、こと、 B.もの C.直接なにかを象徴しないけど、直接的に人間の内面に働きかけてくる   デザインに近い作品、だけど、その作品の出会いのエピソード自体が、   象徴なりうる それ以外に D.何だろう、と問い続けるしかなく、何らかの感覚は喚起されるが、   それがなんであるか分からず、今まで体験したことであるか、   体験したこともないのかもこたえられず、ただそれは孤独に閉じている こういうものは象徴なりえません。でも、これはこれでもう、いっちゃってる からいいのです。科学や分析が追い付きいつかは象徴なりうる可能性を秘めて いますので。 ただ、「象徴なりえないこと」だけを目指しているだけの作品を自閉的と いいたいのです。 ですので、例えば昔昔はただ神秘で物質だと認識されていなかった、光や、 その媒体となるガスと光の関係が分析され、色との関係が明らかになった としてもじゃあそれを現代人がみて、神秘的だなあと思わないかっていえば、 思うわけで 遠近法や、写真技術が発達して、空間を2Dに展開する技術が発達しても、 ダビンチの緻密な画法には感嘆させられるわけで、 そういう懸念よりもやはり、自閉的になりすぎていることの方がより、 懸念されると、個人的には思うのですが。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ふううむ。もう一回 ふううむ。  たとえばこうですか?  ○ 絵も自己表現として自分の美の体験を表わして行けばよい。よいのだが その描いた結果として 何も見る人に分からないようでは あまりにも自己閉鎖的である。  ぎゃくに自己閉鎖的な気分でいたとしても 自分にとって確かな美の体験にもとづき画きたいものを画く。その結果が 見る人にその美をやはり伝えているということもあるかも知れない。  いづれにしても 人をも感動させうるとみづからの自信のある作品を発表してくれ。  ☆ 《象徴が通じる》というのは こういうことを言うのですか? そして通じない場合は 問題だと。

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noname#130919
noname#130919
回答No.88

私は敵も味方もないという立場です。凹ませる気もありません。これで投稿文を何度か考え、時には数時間使っているのです。が、貴方を咎める以上の内容になりませんでした。それは無意味だと思い、草稿は何度か破棄しました。どう応答したものか、迷っています。 リンク先も読み、正直、納得できず、貴方に呆れました。雨合羽さんの記述が論理としてダメというのではなく、人間として雨合羽さんの記述には信頼が置けないと述べているように私には思えていますが、そういうことなのですか。しかし彼女は貴方がバッシングに合っている時、嗜めてくれた人ですよ(「他人をつかまえてそうやって病気とか言わない」)。 貴方はこのような点に一切触れないで、彼女が上目線で答弁した箇所だけ集めてらっしゃる。そして雨合羽さんに関する限り、貴方を攻撃したらしい質問欄よりも、ひどい誹謗中傷になっています。というのも、その設問者は貴方の個人名を挙げてもいないし(お礼欄のやり取りで、わかる人にはわかりますが)、貴方の過去の質疑応答を具体的に示してもしていません。 更に貴方にとって悪いことに、貴方が私のお礼欄に書いてしまった理屈だと、様々な人が貴方の質問欄に出入り禁止になってこそいないが、「犯罪者」のような対応を受けると最初から決まっているように見えています。嘘でしょう?と思いましたが、他の設問欄の「へらず口」の回答を見て、どうも本当らしいと思いました。いや、慎重になることをお勧めします。 貴方がこの投稿に対して「へらず口」を書くのなら、むしろ私に応答しなくても構いません。それは私が嫌だというのではなく、貴方の信用力がこれ以上落ちても、何にもならないからです。私は基本的に、設問者のためにしか投稿していません。当初の私の目論見を改めて書いておくと、私が「いけないことですよ」と嗜めた時、敵に回るつもりではなく、貴方がちゃんと応答なさると思っていたのです。そしたら貴方の信用も戻るだろうと思ったのです。折も折、貴方をバッシングする質問欄が立っています。あそこに書いてあることを、再度やったら貴方にとって致命的です。しかし雨合羽さんに関して、貴方は身をもって証明してしまったと私は見ています。私は補正するつもりでした。しかし失敗しました。貴方はいかに彼女が信頼に足らないかを力説し始めましたが、主観的なルサンチマンにしかなっていません。残念です。 ひょっとしたら、貴方は疲れているのではありませんか。貴方は「罪を憎んで人を憎まず」であり、コミュニケーションのためではなく、情報交換をしたくてこのサイトに来ていたはずです。であれば、惜しみなく仮説を開陳した雨合羽さんは上客のはずです。それなのに個人の人間性を問題にするとは、何かが変です。別に私生活を話す必要はないですが、何か大変なことでも起きたのではありませんか。だとすれば、一カ月くらい、カメラでも片手に旅行して、休んだ方がいいでしょう。もう少し貴方は慎重な方だと私は思っていましたが、ここまで波風を立ててしまうとは、この設問の「フィナーレ」を貴方はご自身の退会をもって締められるのかな――とさえ思いました。いやいや、それでは陶片追放されたようなものですから、貴方も潔しとなさらないでしょう。 回答者を敵とみなすことについてですが、聖書の「放蕩息子」のエピソードはご存じでしょうね(第三者が閲覧しても放蕩息子で検索すればすぐに見つかる話なので説明は省略しますが)。出て行って舞い戻った息子に、父は「この息子は死んでいたのに生き返った」と祝福して迎え入れたのでした。貴方がこの父のように振舞うことができないのはなぜなのでしょう。人を「ゾンビ、亡霊、敵」=信頼できない相手だとか決めつけても、何もなりませんよ。そんなレッテル貼り、誰でも出来ることではありませんか。生かそうとする時に、その人が問われるのではありませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 お考えになっていますね。という表現を使うと茶化すことになりますが まづはご回答をありがとうございます。  今回は ところが茶飲み話で済みそうです。中身は高尚ですよ。  《放蕩息子》の話が出て来るのでしたら 確かに話題は 論理をたたかわす次元を超えて  ★ それなのに個人の人間性を問題にするとは、何かが変です。  ☆ の次元に移っているのです。  ★ 私は基本的に、設問者のためにしか投稿していません。  ☆ もしこの基本に従うというお話でしたら わたしの場合には 以前に思惟と境地とのふたつの領野を指し示したとおりに 上の《人間性の問題》に触れることを避けていません。相手に向かってしゃべっているという意味です。  荒らし屋の話が出ましたが かれらは言わば好んでわたしの質問にやって来ました。その最高(?)記録は 回答数が三百件を超えたものです。(あとでは 削除がなされて 百件が残ったかどうかですが)。何が言いたいかと言いますと わたしは《相手に合わせてものを言っている》ということです。鐘になって 相手の撞き方に応じて鳴ります。それを連中はおもしろがったというところでしょう。  何が言いたいか? 人間性の問題に触れることを避けないで じっさいあなたも指摘されるように しかるべきときには 触れている。そういうふうに鐘を撞いて来ている。これを言うのみです。    感性と理性を離すべからずですが 思惟と境地とをも しかるべきときには 切り離す必要はない。こう考えて実行しています。すべての人に対して それぞれその人のようになります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  雨合羽さんの記述が論理としてダメというのではなく、人間として雨合羽さんの記述には信頼が置けないと述べているように私には思えていますが、そういうことなのですか。  しかし彼女は貴方がバッシングに合っている時、嗜めてくれた人ですよ(「他人をつかまえてそうやって病気とか言わない」)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 第三者であるあなたやほかの方々に分かるかどうか  ■ (「他人をつかまえてそうやって病気とか言わない」)  ☆ この命題は 《病気である者に対しては そのように病気のことを出すことは控えよ》と言っているのです。これは クリヤさん絡みの質疑応答で それまでウラでくすぶっていたこの発言者の思いが オモテにも出てしまった。その途端そのわたしの質問は 削除されてしまった。(でも前回出した【Q:思想としてのゴロツキや・・・】は その削除質問に近いものです。内容にしても回答者の顔ぶれにしてもです)。そういうふうに事態は推移して来ています。  雨合羽というのは 森進一のおふくろさんの歌にあるように 困っていて弱っているひとに――この質疑応答の場でも あるいは この場でこそ――傘を差し出すという意味があると いちどその説明を本人から聞きました。わたしはそのこころざしを思って 何度かゆづるということを行なって来たのです。いたづらに。  つまり 鐘の鳴り方を 撞き方に応じないで この蓑笠に対する場合には 控えて来たのです。  まぁ どういういきさつか知りませんが このたび晴れて 大団円を迎える。こういう運びになっています。  わたくしの信用も省みず あるいは ほかの方々の問題〔があるとすればその問題〕もほっぽり出して このひとつの問題にのみ――九十九匹よりも一匹を重んじ その人と同じようになって―― 対処している。これのみです。  ★ 出て行って舞い戻った息子に、父は「この息子は死んでいたのに生き返った」と祝福して迎え入れたのでした。貴方がこの父のように振舞うことができないのはなぜなのでしょう。  ☆ 舞い戻って来ていないどころか 心に還り見ることもしていないからです。ただし 人間であるわたし自身が《父》だというたとえは ズレているでしょうね。  さいころくん どぢゃ?

bragelonne
質問者

補足

 るせえっ! と言われるのを承知の上で つぎの質疑応答をお知らせします。抱腹絶倒となっても わたしは知りません。  ○ 【Q:ザビーヌ事件について】 ~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html  [回答]  amaguappa :No.3&8&12&16  cyototu :No.9  mashumaro2 :No.13  ri_rong :No.15&17&18  Hidocchi :No.11&14&19&20  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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noname#135843
noname#135843
回答No.87

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。  勝手ながら、「小休憩」を挟むご無礼をお許しください。 > ベートーベンのパテティックは 最近なかなか面白いと思って来ているのですが 何か聞き方といったようなことがありますか?ベートーベンの余韻を残して エリック・サティを聞くとじつによろしいと思っています。  今回、聞きなおしてみました。第一楽章はとても重苦しく、強弱を付けたベートーベンらしい曲かと思われます。悲愴感、絶望感を訴えておりますが、ソナタ形式という“形式”がかろうじて、その爆発を押しとどめているように思われます(これは個人的印象でございますが、ハ短調と申しますと、例えば、ベートーベンの第五交響曲等、特有の緊張感があるように見受けられます)。  次の第二楽章でございますが、前楽章とは対照的に、やさしく語りかけてくるような曲想かと思われます。おそらく、ベートーベンの曲という知識を取っ払って聞きますと、“中期ロマン派”の曲だと言われましても、納得してしまいそうな旋律美が見られます。  そして、終楽章は、第一楽章と同様ハ短調に戻り、緊張感のある曲へと戻ります。  全体的に、緩急を巧みに取り入れた曲で、様式的にも非常にしっかりとした、決して飽きがこない名曲かと推察されます。ですが、これがサティともなりますと、ぐっと自由度が増します。これらの緊張感からの開放、もしくは、第二楽章からさらに自由化された曲想等が強く印象に残るかと推察されます。  もちろん、以上は愚見でございます。ご質問者様が、さらなる感動ができるよう切に願っております。   > ワーグナーの調性問題につきまして  以下に、数曲列挙させていただいておりますが、調性は存在しているように思われますが…..  なお、作曲の順は、ローエングリン → トリスタン → ジークフリート →(この間に“神々の黄昏”がきます)→ パルシファル となっております。  お暇なときにでも、BGMのつもりでお聴きいただければ幸いでございます。 ローエングリン 第一幕への前奏曲 http://www.youtube.com/watch?v=92zOcbPfPjo  トリスタンとイゾルデ フィナーレ http://www.youtube.com/watch?v=qGbmjX7AYyU&feature=related  ジークフリート 第二幕から http://www.youtube.com/watch?v=6egZr8-8k2k&feature=related  パルシファル 第三幕から http://www.youtube.com/watch?v=DwdYZWFrBBM > その他  雨合羽様のお話が出てきましたが、以前のご質問「思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが」http://okwave.jp/qa/q6092710.html にもございましたが(かような公的な場所での発言でございますので)、愚生に対しましては、あまり良い印象をお持ちでないように見受けられました(嫌われているのかな?)。女性に疎まれるのは慣れておりますので、別段気にはしておりませんし、直接衝突したこともございませんので、別段愚生自身は不快な感情は持っておりません。ただ、今まで以上に悪い印象も与えたくもございませんので、可能な限り直接の意見交換は避けるようにはしております。たらこさんにしてもそうでございます。以前、直接の意見交換をしたことがありましたが、モメただけでしたもので..... 何か建設的なものが得られる可能性があれば、たとえモメルと分かっていましても、お話をさせていただくのですが。    とりとめのない話に終始してしまい申し訳ございませんでした。  駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  【Q:思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが】  これについて思い出させてくださってありがとうございます。そこで書いたいきさつは ヤクタアレアエストさんに おぎないとして書きこみました。くわしい説明になっていると思いましたから。  ★ ワグナ― 調性  ☆ は 時間をかけて聞きます。  ★ 第一楽章はとても重苦しく、強弱を付けたベートーベンらしい曲かと思われます。悲愴感、絶望感を訴えておりますが、ソナタ形式という“形式”がかろうじて、その爆発を押しとどめているように思われます。  ☆ これがですね 初めのダーン ダダダダーンのところからみんな たのしい調子で聞こえてくるものですから。軽い調子と言いますか 明るくたのしい感じです。重苦しい中にと言うべきでしょうか。重苦し感じと重なったかたちと言うのでしょうか。  これは 楽観の音楽だと思うようになったものですから。まったくただの感覚としてです。すみません。そんなあやしい聞き方で。  ときの満ちるのを俟ちます。

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  • owls_jp
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回答No.86

 もうひとつ。  過去の質問者さんとのやり取りで、「本当に許せなくて」回答したことに対して「じゃれ付いている」という発言をした、ということに尽きますね。「じゃれついている」に対しては「憤りがある」と言っていることを理解してください。 塵だのなんだの他者を貶めることをしないで、まず自分の頭の上のハエを追い払うことに専念したほうが良いと想いますよ、amaguappa君は。  抑圧されたが故に生じた支配欲による情動が働き、それらが今までの作文となっているようです、自覚はないでしょうけど。親の罪が子に伝わり。 基本的な理解力をつけられますよう、参考までに。 http://okwave.jp/qa/q6430103.html

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  • owls_jp
  • ベストアンサー率0% (0/6)
回答No.85

ああ、それからamaguappa君の勘違いと挙げ足取りを防ぐために書いておきますが、憤り、「本当に怒っている」と表現したのは、amaguappa君が「じゃれついている」と評した回答群に対するその当時の言とその当時の姿勢であって、現状のことではないということだけを伝えておきたいと想います。まあ、こんなことは普通言わなくても理解できるはずだと思うのですが、念のため。 それから、似たもの同士は普段は基本的に気が合うが、似ているが故に部分的、そして一時的に反目もしあうのではないか、とも想います。 それから、ついでにもう一つアドバイスを。 >われらが審美眼は 劣化したか  われら ではなく、個人単位で考えるのが正解だと想います。個人差もあり、時代によって環境も芸術作品も変わっていますので...。

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.84

いましがたの投稿との間に何かの塵がはさまっていますがそれはいいとして、 ひょっとするとブラジュロンヌさんは、 「作家のうちで、弁証法的過程は済んでいすると、わたしも思いますよ」 を、 「作家のうちで、あなたのおっしゃるような弁証法過程は済んでいると、わたしも思いますよ」 と思ったのですね? ちがいますか? 弁証法的過程などは、制作において、作品を客観的に自律させることにおいて、済んでいるのが当然のことです。主観性から、作品の自律が招かれるのではないはずです。これは美術史上の重要な議題で、モダニズム考の要となっている事柄です。objetをめぐる自律性についての議論は、演劇性などの用語を生みだしており、緻密に扱おうとするととても難しいものであると思います。自律性そのものが神話幻想であるとする議論もあるでしょう。しかし、わたしは、主観を否定するように屹立してくる客観性というものが作品にはあると考える者です。 こういう、あなたのご質問には触れない問題圏をふまえて、わたしは、作家のうちで弁証法的過程は済んでいるとわたしも思う、と言うのですよ。 あなたのお考えを敷衍したところは、わたしの論説には微塵もないのですから、あなたのお考えをわたしが取りあげていないことは、お読みになればわかると思っていました。 こんなところですか? ここに誤解があるのでなければ、もはやわたしにはあなたの思考回路における理屈の出所がわかりません。

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  • owls_jp
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回答No.83

さて、カッパ先生が「常識のない~」で言われたことが意味が解らず、しかし批判されたのを見たせいか悔しくて自暴自棄的な対応をしてきていますねw 以前、質問者さんを賞賛(に近い評価を)してきたカッパ先生は、雲行きが怪しくなると見るや徐々に距離をとり始め(計画的に?)、しまいには質問者さんを貶める文章を書くようになってしまいました。 以前nanaに尼河童の評価を求めたところ、「アタマ悪いんじゃないかしら。」と言っていたのですが、今となってはそれが身にしみてわかるような気がします。 最初の勘違いを直せぬまま、自分も親のようになって子育てをしいる河童に以前「次の機会は完全に独りになってからです。」と言いましたが、やはり意味が解らないのか、それとも認めたくないのか相変わらず変わってませんね。人間、変わるべきときは変わらなければならないのですが、精神的忍耐と現環境の持続を必要とする子育に携わっている河童先生に今何を言っても無駄でしょう。そういう意味では河童先生は今、変わったら壊れてしまうかもしれませんね。 変わることが出来ない、という意味においてはある意味質問者さんと一緒で、ここで自慰的な詩を披露しているamaguappaさんと同じですね。質問者さんとは気が合うのはやはり理由があるのです。 amaguappa君が、まさに自分を投影して「自分の重要性を認めてもらいたい」、そして自分の恨みを他者に投影して「恨んでいる」と叫んでいるのは見ることで、質問者さんにとっても良い反面教師となるのではないでしょうか。 甘えているが故に「じゃれ付いている(甘えている)」などと判断する人間に対して憤りを感じるのは誰でも同じでしょう。それを恨んでいる、などと発言しているのは理解に苦しみます。快楽犯気味になっている感があります。 >われらが審美眼は 劣化したか もし、人によって認識力の「劣化」があるとすれば、例えばamaguappa先生の幼児期の人間関係を推察することで解るのではないでしょうか。 カッパ先生は、ただの先生ではなく、やはり反面教師だったのですね。人を落とし、自分を高めるテクニックは芸術的、とも言えます。なぜ「目を三角にして吊り上げて怒っている」とか、「似た者同士の群におけるカタルシスをかけた交歓である」と判断したのか、その根拠はおそらくないでしょう。それこそ自分の感性のみで判断し、決め付け、絶対に意見を変えない、という意味では似たもの同士で意気投合することもある(あった?)のでしょう。 でも、嫌いではないですよ。それなりに良いキャラクターであり、人間の精神の複雑性を、良くも悪くも実感できます。

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     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

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    エステをして心も身体もリフレッシュ!!気持ちいいし、憧れの美白。 しかし、肌が白くなったら、なんだか歯の色が気になりだして、歯も白くしたくなってきた。だけど審美歯科ってありそうでなさそうで、チラシやCMなんて見た事ないし、敷居も高そうで...。 白くしてみたいけど何処でやっていいんだろ? 値段とか、そこに決めた理由とか、いろいろ教えてください。

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    審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。