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皆さんは何のために働きますか?

島崎 信也(@zakky74)の回答

回答No.11

zakky74でございます。 すみません。仰っている事が、まだよく分かりません。 >生物(ヒト)として、生きることは自発的(自律的)であり、全ての行動は任意です。 本当にそうでしょうか?僕には必ずしもそう思えない事があるのですが、根拠は何でございましょうか? >よって、その「対象のために動く」のは任意(自律的)です。一方、蟻や蜂のように遺伝子にプログラムされた個体が、条件反射的に動くことを「他律的」といいます。 ここもよく分かりません。遺伝子にプログラムされた個体が・・・というのはどういう意味でございましょうか? OtamaFJWRさんとの交流が噛みあっているかどうかがとても不安な僕がいます。 もしかしたら僕がお伝えしたかった事がちゃんと伝わりきっていない印象も少し受けました為に、再度、書いてみたいと思います。 僕は、自律的というのは自分自身の内面から溢れ出る意志の事であると思っております。自分の外面がどうであっても・・・の世界でございまして、自分自身が出所であり、自分以外の何かという対象とは関係の無い世界であると認識しております。 自分自身が原因となって、自分自身が意志そのものとなって動く事ですね。スイッチは自分の意志そのものでございます。 逆に、自分以外の何かという対象があって、その対象に原因があって、その対象をキッカケに自分にスイッチが入るというのは他律であると認識しております。 自分がスイッチそのものであるか? それとも、自分以外の対象によって自分のスイッチが押されるのか? OtamaFJWRさんのご質問内容には、 >「人助けのため」に働く=『自律的』と言えます。 とありましたが、「人助けのため」というのは自分以外の対象・・・だとは思われませんか? 僕はそこのところが気になりました。自分以外の対象がキッカケで自分のスイッチが押されるという事であれば、それは他律的だと言えないでしょうか?というのが、僕のご質問でした。 如何でございましょうか?

OtamaFJWR
質問者

補足

こう考えればどうでしょうか? 先に述べたように、他律的社会化には個体に意識がない。つまり「他律的=無意識的」と言えます。 逆に自律的社会化では個体は任意に行動するので「自律的=意識的」と言えます。 つまり「人助けのため」に働く場合、 1。意識的に「助けたい」という意志がある=自律的 2。お金のために働けば、結果として他を利することになりますが、無意識的社会行動です=他律的 あなたは「きっかけ」により判別されていますが、 私は「意識的」or「無意識的」で判別しています。その根拠が先に述べた生物学的要因や社会進化の違いによるものです。 もう一度、科学的判断(社会進化の2パターン等)について考えてみてください。 「きっかけ」で判別するのは不適当だと思いますよ。ありがとね。 (「他律」ということを言葉の上のみで考えるのはお勧めできません)

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