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夕鶴つうは なぜ夫の与ひょうを去ったか

noname#130919の回答

noname#130919
noname#130919
回答No.31

前回の書き込みで質問者の方が何を求めていたかがわかり、コミュニケーションして私は大変よかったという気になりました。批判もしましたが、私も誤字脱字をかなりやったものをよく読んでくださったなと思います。オイディプス王のカタカナを間違ったのは痛かったなと思いますが。 ご承知のように、最初の回答の際に私は、ブラック・ユーモアとして夕鶴を読み換えたのです。つうを故意に、搾取を愛されていると勘違いして踊らされた女性とみなしたのです。 どこの時代にもありうる話で、ホストに貢いでいるのに、愛されていると勘違いしている女性などもボヴァリズムの例でしょう(ボヴァリズムとはフロベールの『ボヴァリー夫人』のヒロインにちなんだ名称で、現実では得られない幸福を空想で補いつつ、現実を受け入れられずに身を破滅させる心理状態を示す語です)。 織物を追ってくれという要求を求愛表現だと思って苦悩するつうがボヴァリズムだとみなすと、暗澹とした笑いが起こるのです。ただ、それは「本当は怖いグリム童話」を読んで、子供の頃に読んだ物語を凌辱しているような笑いに過ぎないのです。面白いという人もいれば、いや、バカバカしいという人もいるでしょう。文学的繊細さの問題では無いです。 裏付けれが必要だといわれると精神分析的にできないでもないですが、結局、結論自体、お気に召さないとわかっているなら、特に強弁するほどのものでは無かったのです。 精神分析の話で難儀してらっしゃるようですね。主観的な話を抜けるのが大変そうだなと見えたので、助け船のつもりで、一応、少し書いておきましょう。 フロイトが病理だと言い出す前までは、ヒステリーも憂鬱症も、病理とはみなされていなかったのです。フーコーによればヒステリーはデルフォイの巫女的な神懸かりだとみなされており(『狂気の歴史』)、憂鬱症はメランコリーというアリストテレス的にも時間を潰してあれこれ考えに耽る洗練された思考様式だったのです(rf., Jacques Rancière, L’inconscient esthétique )。フロイト以降、ものの見方が変わってしまったのです。 フーコーは有名なので、もうご存じかもしれませんね。そこでランシエールの方をレジュメしますが、フロイトの分析の材料は文学作品に比重が大きく偏っています。彼は要するに、元々は芸術的な感慨を与えるべく書かれたものを、病理と読み換えたということなのです。そうすると文学的じゃなくなるじゃないか?!という批判は出て当然だし、フロイトは別段文学者では無いから、彼もわかって故意にやったのでしょう。一介の個人としてはそれも許される解釈だと思います。ただあまりにも大きく、フロイト以降に、ものの考え方が大きく変わってしまいました。 こうしたエピステーメーの転換をわかって文学読解をしないとならないという話は、精神分析系の文学研究者からも出てはいるのです(ex., Jean Starobinski, La mélancolie au miroir)。質問者の方は精神分析的アプローチに距離を置いてらっしゃいますが、それも文学に接する態度として、一つの表明の仕方だと、私は思います。 というわけで、質問者の方が幸福を祈るように読めた方がいいということなら、それが一番だと思います。というか、それならば、最初からそう設問してくだされば、その話に寄せて書いたのですが。要するにこの質問箱は質問者のためにあるわけですから。先に好みを誘導して言ってくれないと、的を外した答えになります。 アニメでと書きましたが、照れ隠しだと思ってください。オイディプス王に続きがあるかもしれぬということですが、物語の続きを民間伝承と照合して想像するというのは、なかなか面白いなと思いました。夕鶴もヴァリエーションがあるそうですね。 物語というものは、最後は読者の心の中で完成させるものだと思います。書かれただけでは書物は完成しない、多義的に読まれることで、まだ見ぬ完成形へと近づいて行くのだ-- という考え方もあるそうです。そういうわけで私個人は議論できてよかったと思うわけです。 最後に夕鶴の座談会を収録した文献をネットで見つけました。ここの質問欄で行われていることと似た話が、そのまま行われている気がしました(文学の議論を噛み合わせることは難しいものです。特に好きな作品については。私も苦言を呈しましたが、気を落とさないでくださいね)。 http://ci.nii.ac.jp/els/110006666523.pdf?id=ART0008691715&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1288995780&cp=

bragelonne
質問者

お礼

 アレアさん あらためまして ご回答をありがとうございます。  そうですね。おしえてもらった事柄について もうそれ以上伸びさせたりすることが出来ずにいてそれゆえ復唱もちょっと触れることもせずじまいに終わるのかも知れないのですが  お応えとして ふたつありますかねぇ。  直後の回答(No.32)とのやり取りを先にしましたが そこでかなり解釈――原作に即しても解釈――としては どうもつうは最後の布織りのところで意を決していたようですね。  これはおっしゃるように《恩返しを終えて ハッと我れに還る》という型ではないかと。  ただし 作品に即すかぎり どうも愛情も強いように書いてあります。いついつまでもいっしょに暮らしたいと思うというところですね。したがってこれが 献身と愛情との取り違えによるものなのかが問われるのでしょう。  たぶんわたしに思われることとしては 愛情も芽生えて来ているのは事実ではないか。それでも 何なのでしょう 姿を見られたことを決してゆるすことの出来ない裏切りに遭ったというように思ったのでしょうか 字面で《いっしょに暮したい》というその言葉がむなしいものに響くようでもあります。  そしてなおひるがえって その裏切られを重く受け取るのは 《恩返しのみ》という初心があったからなのでしょうか。  ★ 織物を追ってくれという要求を求愛表現だと思って苦悩するつうがボヴァリズムだとみなすと、暗澹とした笑いが起こるのです。ただ、それは「本当は怖いグリム童話」を読んで、子供の頃に読んだ物語を凌辱しているような笑いに過ぎないのです。  ☆ ですからここらあたりは 献身と愛情(能動および受動 どちらもでしょうか)との取り違えから来る葛藤のようなものでしょうか。しかもそれが きっぱりと捨てられるところを見ると 何とも言い難い――苦い笑いとも ええそんなっ!というおどろきとも言い難い――感覚として受け取られるようだとも思えます。  そして確かにそういう話を子どものときに読んだり聞いたりしたと思うと おっしゃるようにこれも何とも言えない感覚におそわれるかに思われます。ただし正直に申せば  ★ 子供の頃に読んだ物語を凌辱しているような笑いに過ぎないのです。  ☆ に対してわたしの場合には むしろこちらが――作者によって・もしくは作品によって――嘲られ笑われたといった感じでもあります。まっ それを今度もう一度笑ってやればよいのかも知れません。  もう一点です。   ★ ~~~~~~~~~~~~~  こうしたエピステーメーの転換をわかって文学読解をしないとならないという話は、精神分析系の文学研究者からも出てはいるのです(ex., Jean Starobinski, La mélancolie au miroir)。質問者の方は精神分析的アプローチに距離を置いてらっしゃいますが、それも文学に接する態度として、一つの表明の仕方だと、私は思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いくつかの事柄が煮詰まっているようです。広く取ってわたしのような読みもありうるということ それに好意的な見方も出されているということをおそわりました。  その上で・それなのに 中で少し角度を変えて  ★ エピステーメーの転換〔および フーコ〕  ☆ という論点についてです。  手短に述べます。もし時代とともにエピステーメーという枠組みが変わってそれに影響はむろんされつつ その思惟・内省あるいは生産などなどの行為形式がおおよそ決まって来るというのでしたら それは 行きすぎである。こう考えます。精神分析のエディプス・コンプレックスなどの理論装置と同じように その装置や枠組みを人びとはただ為すすべもなくおおいかぶることになるのかと言えば それは違うと言わなければならないのではないでしょうか?  つまりフーコのかかえる問題は 例によって関係主義はいいことであるにもかかわらず その関係の関係がつくる構造が 無主体の過程であると規定するのはいかがなものか。こう考えております。  スペースも残り少なく成りました。要は ネットワークのつながりとしての関係と同時にその結び目 これも大事なのではないか。結節点は 人間・それも《わたし》という――自己表現にかんするかぎり――主体である。表現の自由を享受しそのことに答責性を持つその限りで行為主体であると。  次の質問で簡単な問いを発しています。   【Q:フーコーは 人間は権力人だと見たのですか】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4877805.html  ☆ その後フーコも 《 cura sui 》という行動方針を明らかにしているとはおそわりました。《わたしがわたしである》という文体の動態。

bragelonne
質問者

補足

 アレアさん ご回答をありがとうございます。  ★ 夕鶴の座談会を収録した文献  ☆ がクリックすると わたしのPCではエラーと出ます。 cookie がどうだとかの指示が出ます。これが分からずに 別様に検索をしました。そのサイトの初めのページも出ますし そこに納められている個々の資料も出ます。個人の論文が二件あるようです。しかもこれらも所蔵図書館が分かるまでに終わり 本文は探し得ませんでした。そして座談会ふうのサイトは ついぞ見つかりませんでした。  申し訳ありませんが このことを報告しておきます。  ★ ここの質問欄で行われていることと似た話が、そのまま行われている気がしました  ☆ これは気になるご発言です。文学にとって事件の一回性の問題と並んで一人のひとの固有の歴史――したがって個性だとか独自性だとかが言われる つまりそもそも存在の掛け替えの無さ――にかかわる・つまり抵触するかに思われる このことにも ひとこと触れておきたいと思います。  《苦言》も批判もまったくかまいませんが ことはわたしだけではなく ほかのみなさんにも及ぶ問題ですので その文献を読まない段階でですが つつしんでお伝え申します。  お礼は お礼欄にて。

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