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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神とは何か?)

神とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 神とは何かを考えても分からない領域のことであり、経験領域でない超経験の領域である。
  • 人間の知性を超えていて、判定しがたい存在である。
  • 人間は神ではなく、経験存在であり、神を信じるかどうかは個人の自由である。

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  • cyototu
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回答No.5

その問題を探るためには、ある具体的な命題を分析することが大切です。 そこで、  蛙に顔に小便 という命題を分析して見ましょう。 考えても 分かるか・分からないかが 分からない者=X に対して、《考えれば分る(= Y)》例として、 蛙の顔=Y とします。それに小便をかける実態の総体として 小便をかける実態の総体=Z を考えます。そして、《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 (= X)》の集合の中に属する者として、 質問者=Zi があるとの仮説を立ててみる。 この命題は一面から見ると(YーZi)で構成されている。他方の面から見ると(X-Zi)という命題も成り立つ。従って、(YーZi)と言う命題と(X-Zi)という命題が両立することになり、その結果Y=Xという命題が成り立つことになる。すなをわち、 考えれば分る者=考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 あるいは  Y=X と言うことになる。これはYに取って矛盾に見える。ところが小便をかける実態の総体の集合Zに属する要素Ziには取っては矛盾でない。何故なら、ZiはXに属すると仮定したからである。その結果、そして さらに むしろ Xの実態の認識はYでは分らないので、その実態に関しては「信じる」と言う行為しか可能でない。そこで当然 さらに つまり Xは信仰の対称、すなわち さらに 結局 「神」である。 このことから、集合XにZiが属していると言う仮説は、「信仰」と言う形態に昇華することによって、《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者》との揚棄がなされたことになる。 このことから、つまり したがって  Zi = 神 と言う結論が導かれる。 さらに その上 むしろ その検算として、始めの命題の戻ってみると、 Zi = 蛙に顔に小便 という結論が自然に導かれ、それによって《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者》はZiであると言う経験則とも矛盾していないので、この結論が正しかったと判る。 したがって つまり とうぜん 神とは何か? に対する決定保存版としては 神とは質問者のことである、 となります。どうでしょう。 わたくしも質問者さんの常々の態度、すなわち物事の認識のためには、言葉と言葉の細かい繋がりを分析することが全体を一望に眺めて把握するよりも遥かに決定に重要であると言う態度は、つまり したがって むしろ そのよう考えていらっしゃる方がこの世にいらっしゃるのかと、大変新鮮な驚きと共に感心しておりますので、私の論理の流れの細かい矛盾点を一々指摘して頂けると、私の成長の参考になると思えます。是非、細かいところをご指摘下さいませ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  重箱の隅をつっつくことを避けずに 筋を追って行きます。  ★ ~~~~~~~~~~   (α) 蛙の顔に小便  という命題を分析して見ましょう。・・・   (β) 蛙の顔=Y  とします。それに小便をかける実態の総体として   (γ) 小便をかける実態の総体=Z  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 最後の事項は げんみつには次のようでしょうね。   (γ‐1) 小便をかける実態の総体= Y あるいは Y - Z  ☆ 《あるいは》を挟んで 認識の以前と以後というふうに捉えてもらうといいと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 (= X)》の集合の中に属する者として、    (δ) 質問者=Zi 〔* または    (δ‐1) 質問者= Zbrag. 〕  があるとの仮説を立ててみる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むろん X に 人間= Zi ないし質問者= Zbr. は基本的に含まれませんが X の外延として(そのような広義においては)含まれると仮定し得るとわたしも見ます。  ★ この命題は一面から見ると(YーZi)で構成されている。  ☆ そのとおり。  ★ 他方の面から見ると(X-Zi)という命題も成り立つ。  ☆ なぜ?    (α) 蛙の顔に小便 = Y ‐ Zi  ☆ この命題に対して――ここは微妙ですよ―― 人間= Zi ないし質問者= Zbr. が 絶対= X に広義には含まれるという仮定的な認識より ( Y-Zi )の《 Zi 》に《 X-Zi 》を代入することができるという推論ですよね? まづはそう仮定してみましょうか。  ★ 従って、(YーZi)と言う命題と(X-Zi)という命題が両立することになり、その結果Y=Xという命題が成り立つことになる。  ☆ とは成りませんね。この仮定を全部採り入れたとしても  (α extension/ denotation)蛙の顔に小便= Y-( X-Zi )=X-Y-Zi  ☆ となるのみだと考えますが どうでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち、    考えれば分る者=考えても 分かるか・分からないかが 分からない者  あるいは    Y=X  と言うことになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから これら X と Y とはもともと互いに隔たりがあるわけです。《微妙だ》と言ったそのわけは こうです。     (α ext./ denot.)蛙の顔に小便= Y-( X-Zi )=X-Y-Zi  ☆ において Y = X だという帰結を得るのではないかという推論には 《人間 Zi が絶対 X によって覆い包まれる》という概念の拡張をしたのと同じように 《経験世界 Y は非経験の領域 X によって介入を受ける》という概念の拡張が得られるという仮定があずかっています。  ここで途中の過程をはぶきますが 次にたどりつくというご見解です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  このことから、つまり したがって    (ε) Zi = 神  と言う結論が導かれる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては 事情は複雑ではありません。 《(δ―1) 質問者= Zbr.》についてはそこからの仮定として実質的に次の内容を持っていたからです。むしろ《人間= Zi 》として   (δ‐2) X のもとにありそれに包まれる 人間= Zi という存在  ☆ です。これを ぎゃくに人間の側から捉えるなら おおよそ   (δ‐3) 人間= Zi は X =神によって包まれつつ その X =神     の一部分をあたかも所有する。  ☆ という命題となって表わされるからです。したがって   (ε‐1) 人間 Zi =〔部分的に見て〕 X  すなわち 神  ☆ を得ます。このいわゆる《分有》という概念においておっしゃるように   (ζ‐1) 神とは〔次の存在の部分を取り上げることにおいて〕       質問者のことである、  ☆ と帰結されますし 同時にひとしく     (ζ‐2) 神とは〔次の存在の部分においては〕回答者のことである。  ☆ という仮説的命題を得ることになります。  さあ どうでしょうかね。  * ( ε )や( ζ )の《部分的所有・分有》というのは けっきょく接点を持つというくらいに取ってください。分割するという捉え方では ややこしくなると思います。 

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その他の回答 (44)

回答No.15

そもそもxやyなどや式にする必要性がないですね それがアナタの論を理解し難くしています アナタに対応する場合は机に向かって紙とペンを必要とし…ジックリ取り組まねばなりません せっかくのネットという便利な手段が活かせませんね それに、この文章はもっとはるかに簡単に書き直せると思います あと アナタに感情的に反論しているのは社会経験のない幼い者なのは確実でしょうね

bragelonne
質問者

お礼

 あろがんすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ あと / アナタに感情的に反論しているのは社会経験のない幼い者なのは確実でしょうね  ☆ もう誰かを刺激するようなことも述べていないのですが まだ引きずっています。わたしのほうが引きずっているというふうに まだ最近までは見えていたところがありました。おかげで 見方がやっと変わりつつあります。  ともかく売り言葉に買い言葉で きたなく応じていましたから。そういう触媒が必要だと思ったのでした。でもやっぱり一人の力では どうすることも出来なかった。ついに同じことの繰り返しになった状態では ブロックしましたから。今回の人は あたらしい人なので 突っぱねてはいますが 簡単にシャットアウトするわけには行かないという気持ちがあります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) そもそもxやyなどや式にする必要性がないですね  ・・・  (β) それに、この文章はもっとはるかに簡単に書き直せると思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (α)は おっしゃるとおりです。方程式でも何でもないですし ましてや計算することなどまったくない単なる図式です。X・Y・Z の三項として案外おもしろそうだと思ったのですが 裏目だったですか?  あれですよ。 X-Y-Zi とすれば これでその人の世界観であることを表わし得ます。便利かなぁとは思ったのです。  記号の表現がなくても 文章だけで表わせるというのは そのとおりなのですが。  申し訳ないですが たぶん 記号のほうも分かりやすいという人もいることと思うので 要らないという場合には すべて取り外して捉えてくださるとさいわいです。    まだ記号を無くそうとは思わないので すみません。  ただ (β)は どうなりますかねぇ。  ★ もっと簡単に  ☆ という意味は ここではふたつの場合があると思いますね。  ひとつは いまの文章が表わす意味をすべて保って もっと簡単に表わし得るという場合。  もうひとつは つけ加えられている(あ)派生的なあるいは (い)例示のためのあるいは (う)説明の繰り返しであるような事項を端折ってしまって より簡単にするという場合。  後者は わたしは最小限にすでに絞っていますので なかなかむつかしいとは思っています。もっともっと説明のための例示などが必要ではないかと思うくらいです。  前者は いまわたしにはよく分かりません。これでもけっこう推敲を加えていますので ここまで持って来た本人にとっては いまよく分からないところです。  個性のちがいを超えて すっきりした表現のかたちがありましたら おしえてください。言ってみれば――わたしは大胆ですから言いますが――定理のようなものとさえしたいので ここまで来れば 公共のものとして添削や批判を仰ぎたいとも思います。そのときわたし自身の考えをも述べますけれど。  ★ アナタに対応する場合は机に向かって紙とペンを必要とし…ジックリ取り組まねばなりません  ☆ ちょっと自慢します。何でも初めはむつかしい。世界初の仕事だと思います。ぎょっ! 

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回答No.14

 bragelonneさん、浅学の凡俗からは相変わる事のないbragelonneさん。  大事なご質問を私に対してブロックアウトなさならない、素晴らしいbragelonneさんに尊敬します。  それで、私は定義でなく、論理必然でもなく、私と世界という存在からでなく、神って永遠で普遍、そして遍在だと存じます。  万物が神、森羅万象が神。神という意識存在。  だからYだってXだって、Zだって神なんです。  鰯の頭も食べているご飯も神食べる私も神。それだけのことでしかない。難しい理屈運びはない、私達の教えです。すみませんね。  そんなの哲学ではないと仰せですか?  bragelonneさんの哲学でない哲学かもしれません。哲学でない哲学かな。  いつもと同じに該博なご知識、ご薀蓄にかかわらずどうも空しいご質問に思えます。  素晴らしいご回答を勉強しましたが、更なるご回答を勉強する為に投稿しますね。すみません。

bragelonne
質問者

お礼

 クリヤさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 私は定義でなく、論理必然でもなく、私と世界という存在からでなく、神って永遠で普遍、そして遍在だと存じます。  ☆ ここにご主張の内容は凝縮されていると思います。  ということはわたくしのほうは 《定義・論理必然》のもんだいとして この質問としての理論を出しています。  ★ 私と世界という存在からでなく  ☆ というところは 少し分かりにくいように思いますが  ★ 神って永遠で普遍、そして遍在だと存じます。  ☆ というところは 《理論》から――わたしに言わせればですが――派生している内容であるかと考えます。  じっさい《永遠で普遍》は 質問趣旨にそのまま共有しています。《遍在》は No.7補足欄その(5:神は今どこにいるか)の項目のところで わたしも発言しています。  ★ だから Y だって X だって、Z だって神なんです。  ☆ これも 派生する想定内容として捉えています。神 X に 経験世界 Y も 人間 Z も みな包まれるという仮定です。そこからさらに 包まれているということは 包まれているほうが包むほうをあたかも部分的に所有しているかのようだと表現しうるのではないか。  この《分有》というのは たぶん 接点があるといった事態ではないか。このように言って来ております。  ★ 難しい理屈運びはない、私達の教えです。すみませんね。  ☆ ですから それなら なぜわざわざ理論をつくろうとするのか? それは No.11で突きあたりました。  ☆☆ (No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~   ★ てげてげに   ☆ 《ほどほどに》という意味で 鹿児島方言だそうですね。理論は てげてげにというわけには行かないと思います。   考えてもみてください。リングは日本国内にあるというよりは 世界そして今のところ特には欧米にあります。そのリングに上がって 或る種の拳闘をせねばなりません。日本人もです。   理論を欠かすわけには 行きません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いい文章ではないと反省していますが こういう理由からです。世界を説得せねばなりません。たぶんこの神と信仰の問題は 日本人がいちばん過去の手あかがついてなくて――アジアの純心として――それを論じるにはふさわしいのではないでしょうか? イスラームにはわたしはしり込みしがちですが やがてその世界とも話し合いを――日本人たちが――するようになるのではないでしょうか?   理論だけではないでしょうが 理論は大事です。  そういった意味で 《むなしい質問》とは思っていないのです。どうでしょうかねぇ。

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noname#131237
noname#131237
回答No.13

>たとえば《仏性》――これが 人間に宿ると言われているそのこと―― >について思いをめぐらせてみてください。 あなたの「ない-ない-ない-あるかもしれない」理論に基づけば、 神は仏性ではない。 「仏性の理論に信憑性があるだろ? だから神は存在する」というのは、盗人の理論です。 論理的にみても、神学的にみても仏性と神は関係ない。 貴方の理論に基づけば、仏性・神聖のりろん(屁理屈)は こうです。 りろんはじめ--- 仏性・神聖について、 おいら(あなたのいうわたし)には 仏性・神聖がある? っての ただそれだけのことである  知る由もないこと。 よって全てが楽しい。 りろん終わり--- ここまで来て目を覚ますべきです。 あなたの「よって全てが楽しい。」ということばには、楽しみのかけらもない。 貴方のつづる言葉には、 よろこびも 感動も 人間的説得力すらない。 貴方の言葉は 貴方と貴方の家族との関係です。 無と不幸。 貴方のへ理屈は文字通り臭いだけ。 ゴミ屋敷に帰って残飯の食事を済まして寝なさい。 一人ぼっちの力のない言葉で、つぶやいているのは自宅か自分のブログでだけにしなさい。 迷惑です。 貴方のメタモルフォーゼは、老いです。 劣化したポンコツは、ポンコツを作った紙(神)と一緒に消えるべきす。

bragelonne
質問者

お礼

 たらこさん あなたは これでいいのですか?  ――ご回答をありがとうございます。――  けれども こういう内容で投稿して あなたはこころやすらかなのでしょうか?  おまえの心配することぢゃないと言われれば それまでですが。だって 誰が見ても その文章の中身ははっきりと分かるでしょう。  ★ 貴方のメタモルフォーゼは、老いです。  ☆ 変身というのは 通常とは違ったものに変わることを言うのでは? だから この一文は 用語の使い方がおかしいと思う。  この一文を除けば あとは みなさんが読んだとおりに理解してくださるものと思います。何も言うことはありません。  ただ これでいいの? と念押ししておきましょう。

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  • g3452sgp
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回答No.12

No.7です。 分かりました、徹底的に付き合いましょう。 問いはまだまだ続きます(あと数百続きます)。 これらを決して大雑把に扱ったり、適当に扱ったりしてはなりません。 本当に神とは何か知りたいのであればこれら一つ一つに根気よく真面目に答えを出さないと正しく神を理解することはできません。 これらを一つ一つ丁寧につぶしていく以外、神を知る方法はないのです。     ・     ・     ・     ・ 神に親はいるのか 神に子はいるのか 神に孫はいるのか 神に親戚はいるのか 神はどのように生計を立てているか 神は働くのか 神にノルマはあるか 神も税金を払うのか 神も保険をかけるのか 神も年金のこと心配するのか 神の寿命はどのくらいか 神も日々学ぶのか 神も生長するのか 神は飯を食うのか 神は風呂に入るのか 神は寝るのか 今神は何をしているのか 神は喜んだりするのか 神は笑ったりするのか 神は泣いたりするのか 神は怒ったりするのか 神は幸せか 神も嘘をつくのか 神は何を好むのか 神は何を嫌うのか 神の趣味は何か     ・     ・     ・     ・ (あと数百続くが、とりあえずここまで)  

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  さっそくまいりましょう。  ★(26) 神に親はいるのか・神に子はいるのか・神に孫はいるのか・神に親戚はいるのか  ☆ 《(19) 神は人間か》をめぐって 《キリスト・イエスの特異な神の物語》について考えるところを述べました(=No.7補足欄・お礼欄)。  基本的に言って 人間の生活における《親・子・親戚》はいません。いる必要がないと考えられます。  ただし キリスト信仰の場合には その神について その中身じたいに《父なる神と子なる神と聖霊なる神》という三つの貌(かお)を持つと想定しています。と言っても 親が子を産むといった概念でも次元でもなかった。うんぬん。  ★(27) 神はどのように生計を立てているか・神は働くのか・神にノルマはあるか・神も税金を払うのか・神も保険をかけるのか・神も年金のこと心配するのか  ☆ そうですね。もし初めの想定からさらに仮想を重ねるとしたら いろんな仮定を出してみることができます。たとえば 人びとが年金制度の不備で苦しんでいるのなら そのとき神が同じように苦しまないことがあろうかと言ってみたり。    ★(28) 神の寿命はどのくらいか  ☆ 阿弥陀仏(アミターユス=無量寿)というくらいですから そうなんでしょうね。  ★(30) 神も日々学ぶのか  ☆ こういうふうに聞かれていると あぁそうか 神も学ぶのかと思うような気持ちになって来ますから おかしなものです。たぶん あらゆるものごとについてすべて予知していると思います。言うとすれば です。  ★(31) 神も生長するのか  ☆ あぁ 分かりました。いま上で錯覚のような気持ちが起きましたが それは 次のよな内容だったのだと分かりました。それは わたしたち人間が学びつつ成長していくというとき その成り行きを神を鏡としてそこに映し出して見ている。こうではないかと。  ★(32) 神は飯を食うのか・神は風呂に入るのか・神は寝るのか  ☆ 創造の七日目に 神は休んだと書いてありますね。文字通り サバト=休みですね。そうなると ただわたしたち人間が神の中に われわれ人間の出来事を反映させて見ているというだけの話ではないのでしょうか? それだけではないかも知れない。神も寝るのかも知れない。――正直に言って 分かりません。  ★(33) 今神は何をしているのか  ☆ さあ どうでしょう? 誰か分かるひとはいますかね。  ★(34) 神は喜んだりするのか・神は笑ったりするのか・神は泣いたりするのか・神は怒ったりするのか  ☆ ですから 旧約聖書では 《ねたむ神・怒る神》と書かれていますが わたしはこれも鏡面理論で捉えています。つまり 《狭いながらも楽しい我が家》というとき 家が楽しいのではなく そうではなくそこに暮らす人びとがである。ねたむ神というときにも 神がねたむのではなく 神のもとに生きる人びとがであると。  でも神は われらが泣いているときに 元気づけるためにわざとでなければ 笑ったりはしないでしょうよ。  ★(35) 神は幸せか  ☆ 《ひとり満ち足りている存在》だと言われます。  ★(36) 神も嘘をつくのか  ☆ これは もしウソをつくとしますと それは 元気づけたりそのあやまちについて気づかせるためにであるでしょうよ。  ★(37) 神は何を好むのか・神は何を嫌うのか・神の趣味は何か  ☆ 神は 人間における心の高ぶりを嫌い へりくだりを好むでしょうよ。  ▲ (ルカによる福音書14:11 / 18:14 / ) だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。  ▲ (ペトロの第一の手紙 5:5-6) ~~~~~  皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、   「神は、高慢な者を敵とし、    謙遜な者には恵みをお与えになる」(箴言3:34)  からです。  だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さあ どうでしょう。

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  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.11

「神」カミ、カムィ、もう十分、居場所がせまくなっています。今では、人の心の中に「存在」するだけです。 「神」は、人の心に宿ります。それでよいのではないでしょうか? 人間の歴史は、自然の征服の歴史かもしれません。「もののけ姫」の「神殺し」ですね。 もう、地球上には、神々しい場所は、世界遺産のなかくらいしかのこっていないのでしょう。 「宇宙船・地球号」といったのは、だれだったか忘れましたが、地球上の生物・無生物が、自然界の掟にしたがって、戦争も無く、争いもなく、お互いに尊敬して、助け合う、そういう世界が近づいている予感がします。 夏の暑さを適当にやりすごして、(てげてげに)秋には、お祭りがあります。お米の収穫を祝い、これで、来年まで、食いつなげる安堵感、「神」に感謝して、飲み食い放題の無礼講があったそうです。 共同体(コミューン)ですね。 bragelonne さんの、「神とは何か?」本格的ですね。論理的だと思いました。 不毛の神学論争に終止符を打つことができると思います。 ただ、世の中に、数十億人の人々が、「神」や「仏」や神々しいものを信仰している現実も、否定しないでほしいのです。居場所を残しておいてほしいのです。 数百年か数千年の後、「神」も「仏」も、生きている人も死んだ人も、幸せに暮らせる地球には、「神」の議論は、もうなくなっていることでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 はなのけいじさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「神」は、人の心に宿ります。それでよいのではないでしょうか?  ☆ たしかにおっしゃるとおりのように思います。ほかの議論でも――議論以外の何ものでもない対話でも―― 行きつくところは わたしたちが神によって覆われ包まれ 運がよければ(?) そのめぐみにあずかることができる。ここでした。   あるいは そんな理論ぢゃオチが無いという向きには 《仏性がひとに宿る》ということわざを例として出しました。落ち着きどころとしてです。  ですから そういうところに突っ込みを入れてもらったのだと思います。  もんだいは 理論であり議論です。ここでは です。  ★ てげてげに  ☆ 《ほどほどに》という意味で 鹿児島方言だそうですね。理論は てげてげにというわけには行かないと思います。考えてもみてください。リングは日本国内にあるというよりは 世界そして今のところ特には欧米にあります。そのリングに上がって 或る種の拳闘をせねばなりません。日本人もです。理論を欠かすわけには 行きません。  ところが 副作用が出て来ますか?  ★ ただ、世の中に、数十億人の人々が、「神」や「仏」や神々しいものを信仰している現実も、否定しないでほしいのです。居場所を残しておいてほしいのです。  ☆ わたしの結論としては その今の居場所にそのまま居つづけて しかもその人びと自身の中からあたらしい息吹きが湧き上がる。こう確信しています。  いまの《てげてげ》ないわゆる信心について この理論によって否定されたと分かる人は だいたい だいじょうぶです。息吹きをみづから飲み干すでしょう。宗旨替えをしなくても あたらしい自分とあたらしい世界に向けて進んでいくことでしょう。  いままでの生き方を否定されたと分からない場合には これも 大した副作用にはならないと思います。  問題があるとしたなら 《自分の信念――つまり ですから ほんとうには〈信仰〉ではなかったわけです――が否定されたと思った》人たちの中で そこでさらにへそを曲げる場合です。回答No.13を見てください。ちょっと例に挙げるのは残酷であるかも知れませんが 見事にへそを曲げています。これ以上のぴったりの例はないかと思うほどです。  つまり もはや理由も理屈もなく ふるい生き方にこだわりしがみついているように見えます。たぶん何かきっかけがあれば これとてもだいじょうぶだと思うのですが どうでしょう? ただわたし( bragelonne )が嫌いという理由で 理論の妥当性には就かないということではないでしょうか?  ★ 数百年か数千年の後、「神」も「仏」も、生きている人も死んだ人も、幸せに暮らせる地球には、「神」の議論は、もうなくなっていることでしょう。  ☆ そのいしずえは これから百年ほどにかかっているのではないでしょうか? われらの世代と次の世代くらいとして。(寿命が 二百年くらいまで延びるという見通し)。  ★ もう、地球上には、神々しい場所は、世界遺産のなかくらいしかのこっていないのでしょう。  ☆ なるほど。自然の場所も実際に欲しいということですね。どうしましょう?

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回答No.10

僕はアナタのファンなのでムリに考えてみようと思います ・物理法則 ・地球誕生などの適切な偶然性や神秘性 ・人間誕生の奇跡 主に人間の存在が物理法則や偶然性も神秘性も…その他一切を現象認識させるもので、仮に人間が存在しなければ二次元でも四次元でも構わないといえます 人間の認識が神を神たらしめている ここまででスミマセン

bragelonne
質問者

お礼

 あろがんすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですか。読んでくださってたのですか。ありがたいですね。  はてさて 今回の《ツィッター》は長めでしたが ちょっと方向が違っているかも知れません。わたしの考えを述べます。  ★ 人間の認識が神を神たらしめている  ☆ たしかに 非思考の場というのは それを人間が受け止め受け容れるという意志行為を伴なって初めて 《信仰》が成り立つのですし その意味ではそこでこそ初めて《神が神である》ことが現実となります。  ただ そういう言い方をするのは 人間の側から見た場合だけの話です。  非思考の《絶対》なる場というのは ひとり満ち足りている と形容されると思います。  早い話が その神は 自分が人間に受け容れられなくても 何ら痛痒を感じない存在である。  そういう存在として受け容れることができて初めて 神が神であるというめぐみを 人間は享受することができます。  神とそして人間の存在とは 次元がちがうのだと考えます。  王あるいは主人というのは その自分に従う家来や奴隷がいて初めて王であり主人であると言われます。家来がいなくなれば 王でも何でもない。主人も同じく。そういう意味でも 労働者のストライキも 意味があるのかも知れません。  ところが 神は どうでしょう? 《絶対》という場は いったいどういうことなのでしょう? 少なくとも人間にとって どういう現実なのでしょう?    ○ 風は気ままに吹く。  ○ わたしは 双子の兄弟の弟のヤコブを愛し 兄のエサウを憎んだ。   (しかも 二人が母の胎内にいるときからであったと言います。それぞれが何かを考えたりおこなったりしてから そのわざに応じて神は愛したり憎んだりするという理由づけを拒むかのごとく 神は 胎児であるときにすでに 一人を愛しもう一人を憎んだと書かれています。とてつもない文章ではないでしょうか?)  ○ わたしは慈しもうと思う者を慈しみ 憐れもうと思う者を憐れむ。  ☆ というふうに 聖書記者たちは 神についてしるしています。そういう現実だと見てとったのでしょう。  《風は気ままに吹く》その風と 神は 同じだと見ているのです。  ここに《人間の認識や意志》は どう入り込む余地があるでしょう?    しかもその神が 《愛である》とも言われています。果てさて この矛盾やいかに? です。    ★ 適切な偶然性や神秘性  ☆ として見ますか?  ★ 物理法則  ☆ として整ったかたちにおいて 見ることができますか?  誰もが一度は 《神よ わが神よ なにゆえわれを見捨てたまいしか?》と叫んだことがあるのではないですか? 誰もが一度は 《くそっ この神というたわけ野郎!》とののしったことがあるのではないですか?   果てさて この種の問い求めは どこまで行くのでしょう? おあとがよろしいようで。

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noname#131237
noname#131237
回答No.9

演算「-」の意味不明。 こんなくずの理論 誰が保存するのwww 結局自分(の一部)が「神」といたいだけだったと言うのは オチニモならない。かわいそすぎる。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 演算「-」の意味不明。  ☆ ハイフンです。切り結びする関係を表わそうとしています。  ★ 結局自分(の一部)が「神」と言いたいだけだったと言うのは / オチニモならない。  ☆ たとえば《仏性》――これが 人間に宿ると言われているそのこと――について思いをめぐらせてみてください。  そしてここでは そういう想定もありうるという理論です。《分有》というのは 接点があることだと述べておぎないましたが 《霊》によってわれわれが触れられているといった感覚でも説明できるでしょう。そんなもの――つまり 霊のことですが―― あるわけない。と言うのも 自由な立ち場ですし 想定するのも 同じその自由において ありうるということを示す理論です。有限で相対的だという人間の存在にかんする条件として そうなのだという意味です。  ★ こんなくずの理論 誰が保存するのwww  ☆ 誰にとっても何についてもクズだとしても たとえどれだけ《かわいそすぎる》としても わたしにはとうといものです。信教・良心の自由を 間接的にせよ 侵すおそれのある言論は いやしくもひとであるなら つつしむことでしょう。

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  • cyototu
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回答No.8

ブラベクトルさん、#5の回答をご丁寧にありがとうございます。脱帽致します。

bragelonne
質問者

お礼

 それでは ちょとつさん――お礼をありがとうございます―― 百尺竿頭に一歩を進め 蜀をも望みましょう。  説明抜きにて。  ▲ ( Augustinus : De agone christiano )~~~~  しかし      自らに人間性を引き受け 女性から生まれ 罪びとたち    からありとあらゆる苦しみを受けるという仕方でしか 神    の知恵は人間を解放することができなかった  と言う人々は愚かであろうか。  それらの人々に対して われわれははっきり言おう。     もちろん 神の知恵は別の仕方でも人間を解放すること    はできた。しかし たとえ違った仕方でそれをしたとしても    あなた方の愚かさを満足させることはできないであろう  と。  というのは もし神の知恵が罪人の目に現われてくださるのでなければ 内なる目によって見られる その方の徹底的に永遠の光を 汚れた精神は見ることができないのである。  ところが今や 目で見ることのできないものを見るための備えをするために 目に見える仕方で〔現われて〕われわれに注意を促すことを 神の知恵は敢えて決心したもうたが その方が黄金の体を持たなかったということが貪欲な人々の気に入らない。  女性から生まれたということが不道徳な人々の気に入らない(というのは 不道徳な人々は 女性が妊娠し 子供を産むことをとても嫌がるからである)。  辱めを徹底的に堪え忍んだということが傲慢な人々の気に入らない。  十字架につけられたということが優雅な人々の気に入らない。  死んだということが臆病な人々の気に入らない。  そして 自分たちの悪徳を自己弁護していると思われないために このこと(弱さ)が人間のうちにあることが気に入らないのではなく 神の子のうちにあることが気に入らないのだ と彼らは主張するのである。  それは 人間性を受け取った神の永遠性とは何か そして 自らの変化から以前の確固不動へと呼び戻された人間の本性とは何か ということを 彼らは理解していないからである。  われわれが・・・  (第十一章 森泰男訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを現代語に翻訳して行かねばなりません。  ○ わたしはあやまつなら ある。  ○ わたしは自分の弱さをこそほころう。  ○ わたしは弱いときにこそ強い。(《わたしは自分の弱さをほころう》を経て来た者にとってその弱さは相手のそれを感性をつうじて こちらが受け止めているだけなのだから)。    ☆ これらは そのままでも通用すると思いますが 膨大なおとぎ話が倉庫に眠っています。日本人の歴史にもいいものがありますが いかんせん ちょっとした光を当ててやらないと なかなかその燻りは晴れません。イエスやパウロは 親鸞抜きでも光を放っていますが 親鸞は かれら抜きでは どうでしょう? その耀きがほんものになるにはわたしには無理だったです。  またイエスやパウロの亜流を譴責するのはいいかも知れませんが ほんものを顕揚する道も大切です。  どぢゃ? 酒をひかえてこころを入れ替えるかい?

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  • g3452sgp
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回答No.7

哲学カテでは回答者が質問し、質問者が答えるというのが定番なのです。 もし神とは何か知りたいのであれば以下の質問に一つ一つ根気よく答えを出すのが正しい神の理解の仕方です。 これを一つ一つつぶしていく以外にありません。 神は存在するか 神はいつ誕生したか 神はどこで誕生したか 神はどれほど誕生したか 神は今どこにいるか 神は物質か 神は状態か 神はエネルギーか 神の大きさは 神の重さは 神は何色か 神は何で構成されているか 神は光を放つか 神に万有引力は働くか 神は見えるか 神は聞こえるか 神は熱を放つか 神は形をもつか 神は触れることが出来るか 神は生き物か 神は人間か 神は男か女か 神は意思を持つか 神は話すか 神は動くか 神は言葉を持つか 神の言葉は何語か     ・     ・     ・     ・ どうです、やってみますか。

bragelonne
質問者

お礼

 もういちど整理します。  (d) 逆説の仮定によれば ひとは一人残らず 部分的に神でもある。神そのものではないが 神本体に触れられている。(仏性がやどると言えば 分かりやすい)。  (e) しかるに イエスというふつうの人間は かれだけが 神の霊を分有するというよりは その《身体=精神》――これを《肉》と呼んでいる――において神の子であり神そのものであるといううわさが広がった。  (f) これは 《子なる神が 肉となる》という言い方でひとつの物語として編まれた。  これらの事柄を説明したものとして 次のような解釈をわたしは取っています。のでかかげます。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ この内容を図式において示したいと思います。ひとつの解釈です。  ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~~~~  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ________________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) _________________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 三位一体論は 想定のあとの仮定を経て さらにそのあとの物語に属します。空想と言ってもいいものです。ですが 上のように捉えるなら 現実的だとは思っておりますが どうでしょう?  念のためにひとことつけ添えます。  (g) 三位一体なる神は 子の父と父の子と両者から発する聖霊といったそれぞれの位格(ペルソナ)が 他の位格と個別ごとに互いにひとしく その個としての位格は 三位一体なる全体ともひとしく 全体は各個ともそれぞれひとしい。  (h) 無限の半分も三分の一も じつは 無限です。∞ ÷ 2=∞。 ∞ ÷ 3=∞。  (i) 冗長を嫌わずに。父なる神は 子なる神とおよび聖霊なる神とそれぞれ互いにひとしい。子なる神は 父なる神とおよび聖霊なる神とそれぞれ互いにひとしい。聖霊なる神は 父なる神とおよび子なる神とそれぞれ互いにひとしい。父なる神 子なる神そして聖霊なる神 それぞれは その三つの位格の一体なる全体と互いにひとしい。  (j) 光のたとえで 全体としての光が 光源とそこからの発耀およびそれらの明るさ・暖かさといった個別の要素の一体として成り立っていますが その一体性には時間の間隔があります。発耀そのものを取り上げても そこに時間の経過が伴なわれています。しかしながら 神の三位一体には この時間の要素がいっさいありません。時空間を超えています。  ・・・  (k) 人の自然本性として持つ三つの行為能力のうち 記憶行為は はなはだ不類似ながら少しは分有して似ているとすれば 父なる神(光源)にたとえられます。同じように 知解行為は 子なる神(キリスト・イエス)に そして意志(愛)行為は 聖霊なる神に それぞれたとえられる。というかたちです。  (l) 人間の三つの行為能力について一体性を見ることは出来るかと思います。ただし それは時間の要因を伴なっての一体性です。諍いは 裁判をとおして 長い時間をかけて決着をつけなければなりません。三位一体なる神の眼は この時間性を必要としないと見られます。  ・・・

bragelonne
質問者

補足

 ヂ―さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ではさっそくやってみましょう。  ★(1) 神は存在するか  ☆ しかりとも いなとも 人間には決められない。ぎゃくに仮説としては 人間は しかりと受けとめていわゆる有神論をいだくことが出来ます。同じように同時に いなと取り決めて 無神論に立つことができる。完全に自由です。  ★(2) 神はいつ誕生したか  ☆ 《超経験》は 時空間を超えています。  ★(3) 神はどこで誕生したか   (4) 神はどれほど誕生したか   (5) 神は今どこにいるか  ☆ 時空間ないしこの世界を超えています。ただしそのことを逆手に取って (4)では 《どれほど》でも この世界の中で具体的なものごととしてあたかも誕生しつづけていると見る向きがないとは言えません。  そのつてでは (5)については よく言われるように《いつでも どこにでも いる》という神の遍在性が説かれてもそれほど奇異ではありません。  ★(6) 神は物質か   (7) 神は状態か   (8) 神はエネルギーか   (9) 神は熱を放つか   (10) 神は何で構成されているか   (11) 神は光を放つか   (12) 神に万有引力は働くか   (13) 神は形をもつか   (14) 神の大きさは   (15) 神の重さは   (16) 神は何色か   (17) 神は見えるか・神は聞こえるか・神は触れることが出来るか  ☆ 基本的に言えば 超経験〔ゆえに人間にとっては非思考〕には かたちがありません。時空間に有るものや無いものという規定によっては捉えられません。  存在として あるか無いかが分かりません。そのことについても分かるか分からないかが分かりません。この世界においてかたちのある(もしくは かたちが見えないけれど そのかたちある存在として見込まれる)ような《物質や状態であること》を超えています。  そして《超えている》ということは (4)や(5)の逆説と同じように 神はあらゆる物質のあらゆる状態でもあり得ると 仮説としてなら 帰結され得ます。通念としての《分身》という言い方で捉えて大きく間違うものではないと考えます。  あるいは 《(12) 神に万有引力は働くか》を取り上げるなら いろんな仮説上の想定が出来るかも知れません。   (あ) 基本としては 神は万有引力を超えている。   (い) ゆえに逆説的に 万有引力を自分の中に持っている。   (う) さらには万有引力以上のちからを持ち これをはたらかせることが出来る。   (え) けれども神は そのような人間世界への介入をひかえている。    ・・・   ★(18) 神は生き物か    (19) 神は人間か    (20) 神は男か女か    (21) 神は意思を持つか    (22) 神は話すか    (23) 神は動くか    (24) 神は言葉を持つか    (25) 神の言葉は何語か  ☆ 《生き物》だとしたら 神の《分身》としてでしょう。《本体》は 生き物であることを超えていて 人間であることを超えており 性を超えています。《父なる神よ》という表現は あくまでも比喩です。  《女神》という場合には 英雄や偉人あるいは人間の知恵や力や勇気などの徳や芸術などの才能等々を 神的な存在と見なして神話として神々と呼ぶ場合のひとつの例です。つまりそういう場合には 人間にある性別も 神々に反映されます。《知恵》や《勝利》は 女性であることにかかわってふさわしいという見立てで 知恵の女神とか勝利の女神と言い慣わしています。  これらの神々は いっさい《非経験 X としての神》ではありません。  では 《分身》説においては どうなのか? ですから《本体》ではありません。  ちなみに 本地垂迹説とも微妙に違うのではないでしょうか。本体が分身になり切るということはないと言い続けている必要があると思います。  ★(19) 神は人間か  ☆ これについては 聖書のキリスト・イエスの物語における《神》として 特異な内容が伝えられています。  (a) ナザレのイエスという人間は キリストとして神であり イエスとして人間である。  (b) しかも イエスがキリストなる神であることは 分身としての神であるというのではなく そうではなく 神本体そのものである。  ☆ という物語です。そのつてでたとえば  (c) その母――むろん イエスと同じくふつうの人間――のマリアは その人間でありながら 超経験 X (一般に《聖霊なる神》とよばれる)によって身ごもった。  ☆ ともうわさされるようになった。つまり 夫ヨセフとのあいだの子なのですが そこに神の霊が介入したと。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.6

#5です。 そうそう、文章の詳細な構造の分析に長けた質問者さんに前から聞いてみようと思っていたのですが、西洋の戦争論の古典中の古典、クラウゼウィツの「戦争論」の序文に引用されているもので、彼はこれをヒンデンベルグの「火災対策論」から採った文だと紹介しております。以下の文章がそれですが、その文章の構成に関して、是非質問者さんにご感想をお聞きしたいと思っておりましたので、是非お願い致します。 「ある家庭が火事をおこした場合には、何よりもまず、その左側の家屋の右側の壁と右側の家屋の左側の壁を保護することに努力しなくければならぬ。何故ならば、例えば、左側の家屋の左側の壁を保護しようとしたとしよう。その家屋の右側の壁は左側の壁の右側にあり、ところが火事はこの両方の壁のさらに右側にあるだから(というのは、われわれは、家屋は火事の左側にあると仮定しておいたからである)右側の壁の方が左側の壁よりもいっそう火に近いわけだからである。したがって、家屋の右側の壁は、もしそれが保護されていないと、保護されている左側の壁に火が燃え移るより先に、燃える恐れがある。左側の壁もまた保護されていないとしても、それでもやはり、保護されていない右側の壁の燃える方が早い。だから前者を放置して、後者を保護することが必要である。このことをはっきり頭に刻みこむためには、次のように記憶していればいい。家屋が火災の右側にあるときには左壁を、家屋の火災が左側にあるときは、右壁を保護せよ」

bragelonne
質問者

お礼

 こんなの知らんがな。  申し訳ない。分かりません。  文脈はないのかいな? どうなんかいな。    常識に合ったことを非常識な表現で言っている。なんだけど。・・・

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  • フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?

     文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。  ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり 経験世界 Y に属す。  《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― マチガイである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。  X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の     歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

  • ブッダは 神ですか

     絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 普遍神は 無根拠が根拠である

     1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。  2. その普遍神への信仰は 義無きを以って義とする。義をともなえば 人間のただのハカラヒによって神を信じるに過ぎなくなる。  3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。  4. 言わんや 神は人間がつくったなどという浅い考えは もってのほかである。  5. 人間がつくったり規定したりしてできる神なら その人間のあたまのチカラを出ない。だから おふざけにしかならない。アイドル狂いにひとしい。  6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。  ご批判をどうぞ。

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • キリスト教で言う『神は愛なり』について

    キリスト教では『神は愛なり』と言っていますが、何故そう言えるのか、実感が湧きません。 神が愛であるということが実感できるような具体的な事柄を教えて戴きたいと思います。 人間の罪を購うために、父なる神がその子イエスをこの世に遣わし、イエスが十字架上の死をとげることによって、人間の罪を許したのが、神の愛の証拠だと言われても、信じる人には有難い話かも知れませんが、普通の人間にとっては、全く馬鹿馬鹿しい荒唐無稽の話としか思えません。 もし、神が全能であって、人間の罪を許そうと思うなら、なにもイエスを地上に派遣してイエスを死なせるなどとややこしい小細工をしなくても、いくらでも許せるのではないでしょうか? しかも、この話を信じた者は救われるが、信じない者は救われない、と言うのでは、なおさら、神はえこひいきの神としか思えません。 クリスチャンの方々から見れば、とんでもない、不遜な質問ですが、真面目に悩んでますので、信者さんの信仰告白的な話ではなく、信者でなくても、普通の人間でも神の愛を感じざるを得ないような、具体的な「事実・事柄」を教えて欲しいと思います。 勿論、人によって感じ方の差はあると思いますが、具体的な「事実・事柄」を教えて戴ければ、それを神の愛の表れだと感じられるような人間になれれば幸せだと思っています。

このQ&Aのポイント
  • スマホに入れているZEROウイルスセキュリティーが2個のウイルスを検出し削除しましたが、駆除できません。ホーム画面も問題があります。
  • 購入製品(ZERO ウイルスセキュリティ1台/3台/5台)の中で、スマホに入れているZEROウイルスセキュリティーで検出したウイルスの駆除方法が分からないです。
  • スマホに入れているZEROウイルスセキュリティーがウイルスを検出したが、駆除できずにホーム画面にも問題が出ているので、対処方法を教えてください。
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