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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神とは何か?)

神とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 神とは何かを考えても分からない領域のことであり、経験領域でない超経験の領域である。
  • 人間の知性を超えていて、判定しがたい存在である。
  • 人間は神ではなく、経験存在であり、神を信じるかどうかは個人の自由である。

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  • cyototu
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回答No.5

その問題を探るためには、ある具体的な命題を分析することが大切です。 そこで、  蛙に顔に小便 という命題を分析して見ましょう。 考えても 分かるか・分からないかが 分からない者=X に対して、《考えれば分る(= Y)》例として、 蛙の顔=Y とします。それに小便をかける実態の総体として 小便をかける実態の総体=Z を考えます。そして、《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 (= X)》の集合の中に属する者として、 質問者=Zi があるとの仮説を立ててみる。 この命題は一面から見ると(YーZi)で構成されている。他方の面から見ると(X-Zi)という命題も成り立つ。従って、(YーZi)と言う命題と(X-Zi)という命題が両立することになり、その結果Y=Xという命題が成り立つことになる。すなをわち、 考えれば分る者=考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 あるいは  Y=X と言うことになる。これはYに取って矛盾に見える。ところが小便をかける実態の総体の集合Zに属する要素Ziには取っては矛盾でない。何故なら、ZiはXに属すると仮定したからである。その結果、そして さらに むしろ Xの実態の認識はYでは分らないので、その実態に関しては「信じる」と言う行為しか可能でない。そこで当然 さらに つまり Xは信仰の対称、すなわち さらに 結局 「神」である。 このことから、集合XにZiが属していると言う仮説は、「信仰」と言う形態に昇華することによって、《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者》との揚棄がなされたことになる。 このことから、つまり したがって  Zi = 神 と言う結論が導かれる。 さらに その上 むしろ その検算として、始めの命題の戻ってみると、 Zi = 蛙に顔に小便 という結論が自然に導かれ、それによって《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者》はZiであると言う経験則とも矛盾していないので、この結論が正しかったと判る。 したがって つまり とうぜん 神とは何か? に対する決定保存版としては 神とは質問者のことである、 となります。どうでしょう。 わたくしも質問者さんの常々の態度、すなわち物事の認識のためには、言葉と言葉の細かい繋がりを分析することが全体を一望に眺めて把握するよりも遥かに決定に重要であると言う態度は、つまり したがって むしろ そのよう考えていらっしゃる方がこの世にいらっしゃるのかと、大変新鮮な驚きと共に感心しておりますので、私の論理の流れの細かい矛盾点を一々指摘して頂けると、私の成長の参考になると思えます。是非、細かいところをご指摘下さいませ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  重箱の隅をつっつくことを避けずに 筋を追って行きます。  ★ ~~~~~~~~~~   (α) 蛙の顔に小便  という命題を分析して見ましょう。・・・   (β) 蛙の顔=Y  とします。それに小便をかける実態の総体として   (γ) 小便をかける実態の総体=Z  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 最後の事項は げんみつには次のようでしょうね。   (γ‐1) 小便をかける実態の総体= Y あるいは Y - Z  ☆ 《あるいは》を挟んで 認識の以前と以後というふうに捉えてもらうといいと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 (= X)》の集合の中に属する者として、    (δ) 質問者=Zi 〔* または    (δ‐1) 質問者= Zbrag. 〕  があるとの仮説を立ててみる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むろん X に 人間= Zi ないし質問者= Zbr. は基本的に含まれませんが X の外延として(そのような広義においては)含まれると仮定し得るとわたしも見ます。  ★ この命題は一面から見ると(YーZi)で構成されている。  ☆ そのとおり。  ★ 他方の面から見ると(X-Zi)という命題も成り立つ。  ☆ なぜ?    (α) 蛙の顔に小便 = Y ‐ Zi  ☆ この命題に対して――ここは微妙ですよ―― 人間= Zi ないし質問者= Zbr. が 絶対= X に広義には含まれるという仮定的な認識より ( Y-Zi )の《 Zi 》に《 X-Zi 》を代入することができるという推論ですよね? まづはそう仮定してみましょうか。  ★ 従って、(YーZi)と言う命題と(X-Zi)という命題が両立することになり、その結果Y=Xという命題が成り立つことになる。  ☆ とは成りませんね。この仮定を全部採り入れたとしても  (α extension/ denotation)蛙の顔に小便= Y-( X-Zi )=X-Y-Zi  ☆ となるのみだと考えますが どうでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち、    考えれば分る者=考えても 分かるか・分からないかが 分からない者  あるいは    Y=X  と言うことになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから これら X と Y とはもともと互いに隔たりがあるわけです。《微妙だ》と言ったそのわけは こうです。     (α ext./ denot.)蛙の顔に小便= Y-( X-Zi )=X-Y-Zi  ☆ において Y = X だという帰結を得るのではないかという推論には 《人間 Zi が絶対 X によって覆い包まれる》という概念の拡張をしたのと同じように 《経験世界 Y は非経験の領域 X によって介入を受ける》という概念の拡張が得られるという仮定があずかっています。  ここで途中の過程をはぶきますが 次にたどりつくというご見解です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  このことから、つまり したがって    (ε) Zi = 神  と言う結論が導かれる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては 事情は複雑ではありません。 《(δ―1) 質問者= Zbr.》についてはそこからの仮定として実質的に次の内容を持っていたからです。むしろ《人間= Zi 》として   (δ‐2) X のもとにありそれに包まれる 人間= Zi という存在  ☆ です。これを ぎゃくに人間の側から捉えるなら おおよそ   (δ‐3) 人間= Zi は X =神によって包まれつつ その X =神     の一部分をあたかも所有する。  ☆ という命題となって表わされるからです。したがって   (ε‐1) 人間 Zi =〔部分的に見て〕 X  すなわち 神  ☆ を得ます。このいわゆる《分有》という概念においておっしゃるように   (ζ‐1) 神とは〔次の存在の部分を取り上げることにおいて〕       質問者のことである、  ☆ と帰結されますし 同時にひとしく     (ζ‐2) 神とは〔次の存在の部分においては〕回答者のことである。  ☆ という仮説的命題を得ることになります。  さあ どうでしょうかね。  * ( ε )や( ζ )の《部分的所有・分有》というのは けっきょく接点を持つというくらいに取ってください。分割するという捉え方では ややこしくなると思います。 

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その他の回答 (44)

noname#131237
noname#131237
回答No.35

補足 「たいしたことない」 のが自分であるということが暴かれたくないだけです。 事実として 正論にはまっらく反論することが出来ない。 変ないちゃもんをつけるだけwww ホワイトヘッドと自慰さんを天秤にかけると 『「イラネ」のレッテルが貼られるべきなのは   どちら であるか』という事にかんし、 「自明」です。誰が見ても明らかでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 「たいしたことない」 / のが自分であるということが暴かれたくないだけです。  ☆ ではその言葉をわたしが書いたときには わたしはまだそのことが暴かれていなかったということですね。    あとは取り上げるに足りぬ。

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noname#116360
noname#116360
回答No.34

神は絶対的他者である。 といった時これは<無ー神論>ではないか。 無限者としての他者は未来へと超越してしまっている。 だから神は人言が創ったとフォイエルバッハは言ったのではないか。 つまり神とは超越論的主観性によって構成されたものではないのか。

bragelonne
質問者

お礼

 エンテレケイアさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  今回は 《観念の神》への批判ですね。  さっそくその議論に就きますが やはりわたしの見方は 《想定》です。  ☆☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~   X =考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《想定》であるというのは 想定せざるを得ないという意味で用いています。  人類が或る種の仕方で科学万能の現代になっても 《信じる》という振る舞いをおこなっていますし そういう言語習慣が明らかにあります。では その実態はどういう科学的現実であるか。この問いから発しています。  科学的事実( Y もしくはその認識としての  Y - Z のみとしての事実)と言うまでには まだ至らないと思いますし 至らない(つまり その事実に還元されない)ほうが現実だと考えています。  ということは――微妙な定義になるのですが―― 精神の・理性の・思考能力による想像の産物はいっさい 神( X )ではないという含みを持ちます。しかも では人間の世界は 経験事実( Y もしくは Y - Z )のみかと言うと そう言いきることは出来ないだろうと見ています。その隙間あるいはいわゆる心の《あそび》のような余地を 非思考の場と呼び 神に取っておこうというものです。(こういう言い方は あくまで人間の側から発想しています)。  簡単ですが これで 《観念の神》は――ニーチェが言うまでもなく 昔から――死んだものでした。移ろい行くものです。精神も思考も 経験世界であるとはっきり分かっています。  ただし 今回のご議論は きわめてむつかしい表現をされています。 思考あるいはその主観による作りごととしての神というのでもなく そうではなく  ★ つまり神とは超越論的主観性によって構成されたものではないのか。  ☆ というわけですよね。  ★ 超越論的主観性  ☆ とは何か? それは単なる思考や《主観》とは違うのか?  《超越論的》というのは 《先験的》と訳されていた概念でしょうか? 《経験に先行する》あるいは《経験世界を超越する》というとき それは果たして《考えても分かるか分からないかが分からない非思考の場 X 》と同じかどうか?    ちょっと保留します。  ★ だから神は人間が創ったとフォイエルバッハは言ったのではないか。  ☆ この場合の《神》は 初めに取り上げた《観念の神》のことだと思います。《創った》というのなら そうなります。  ★ <無ー神論>  ☆ これは たとえば《無という一神》と立てるということでしょうか? それなら 質問趣旨での定義と同じだと思います。  ★ 神は絶対的他者である。  ☆ これについては 分かりやすいと思います。《他者》というように擬人化して表現されていますが 要するに 相対世界とへだたりを持つ絶対世界のことを言っていると見ます。次元の違いがあるというそのことを言おうとしているのだと。そのへだたりは《絶対的》であり へだたりゆえに《他者》という概念も現われます。  このあと 《絶対》であるなら この経験的な相対世界を覆い包み さらには介入をすることさえあるかも知れないという派生的な議論に移ることもあり得ます。ということだったと思います。  さて保留したことですが 《超越論的》と条件づけていても 《主観ないし主観性》というのなら それはあくまで有限・可変的・相対的な経験世界に属します。でもそれでもこの《主観性》を言いたいのは けっきょく上に見た《絶対的他者である神が しかも この人間世界を覆い包み さらには介入していくるのではないかという観想》を――つまりそのような主観性を―― 神にかかわらせたいということではないでしょうか?  ただ それはそのようにすでに想定した神から派生して出てくる概念事情であって 次のように言うと やはり《人間が創った観念の神》ではないかとうたがわれるように思います。  ★ つまり神とは超越論的主観性によって≫構成された≪ものではないのか。  ☆ 観想によって得られたと言っていれば 人間が作者ではないということを明らかにしておくことができるかと思います。  どうでしょう?

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noname#116360
noname#116360
回答No.33

神は原初的にして結果的である。 それをホワイトヘッドは次のように定式化している。 1、神が恒常的で世界が流動的であるというのは、世界が恒常的で神が流動的であるというのと同じく、真である。 2、神が一で世界が多であるというのは、世界が一で神が多であるというのと同じく真である。 3、世界と比べて神がすぐれて現実的であるというのは、神と比べて世界がすぐれて現実的であるというのと同じく真である。 4、神が世界に内在するというのは、世界が神に内在するというのと同じく、真である。 5、神が世界を超越するというのは、世界が神を超越するというのと同じく、真である。 6、神が世界を創造するというのは、世界が神を創造するというのと同じく、真である。 神と世界とは相互に逆に動くのであるが、単純に互換的ではない。 それは次のように規定される。 「神ははじめから一である。神は多くの潜勢的形成の関連の原初的統一性である。過程において、神は結果的諸多性を獲得し、原初的性格はこうした諸多性をそれ自身の統一性へと吸収する。これに対して世界は原初的には多である。自然的有限性を伴った多くの現実的契機である。過程において、それは結果的統一性を獲得する。そしてこの統一性は新たな契機であり、原初的性格の諸多性へと吸収される。」 かくして、神は、世界がまず多にして、そして一とみなされるのとは逆の意味で、まず一にして、そして多とみなされるのである。 何かの参考になれば幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 エンテレケイアさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。もし伝えていただいた内容をホワイトヘッドが言っているとすれば それは――正直に言って――たいしたことないですね。    ★ 神が一である。  ☆ というときの《一》は 《全体》という意味です。  そのゆえに この経験世界を超えている(また 明らかにへだたりがある)にもかかわらず 神はあたかもこの世界に介入するかに考えられる。  相対世界を超えた絶対は もはやこの世界と何のかかわりもない。にもかかわらず 同時に(つまり 時のへだたりを置くことなく)世界を覆っている。あまねく存在しているとさえ捉えられて来る。  (1)から(6)までは ただの修辞学でしょう。  上に見た《神が世界を包み込み 介入するかに思われる》という命題(むしろ 観想)の内容を 世界と神とを逆にしては 基本的に成り立ちません。成り立つかに見えるのは 神がどんな測り知れない大きさをも包み込むことが出来ているからです。神の遍在を 世界の側からちょっと言ってみたというところだと考えます。ほんとうにそれが真であれば もはや《神》などはあって無きがごとしです。  ――あとで気づいたのですが そのことは 次のようにすでに述べてありました。早とちりでした。  ★ 神と世界とは相互に逆に動くのであるが、単純に互換的ではない。  ◆ 「神ははじめから一である。神は多くの潜勢的形成の関連の原初的統一性である。過程において、神は結果的諸多性を獲得し、原初的性格はこうした諸多性をそれ自身の統一性へと吸収する。  ☆ これは 上に見たように《世界と神とを逆にする》のではないですが 神について時空間あるいはつまり時間過程において捉えようとした観想だと思います。  この《一》も 全体のことですが 時間過程において捉えようとすると 数えられる数の一のように見られるというものだと思います。  《統一性》も《諸多性》も 神はつねに持つ。――このように表現すれば 《一》が全体のことであるし 遍在性がそのまま言い表わされるはずです。  ◆ これに対して世界は原初的には多である。自然的有限性を伴った多くの現実的契機である。過程において、それは結果的統一性を獲得する。そしてこの統一性は新たな契機であり、原初的性格の諸多性へと吸収される。」  ☆ ですから 世界と神とは次元を異にしていると言っておくべきです。  ◆ 過程において、それは結果的統一性を獲得する。  ☆ これは 大幅に大雑把な捉え方をすれば 世界は時間的なズレを伴なってなら あたかも神の《全体性および遍在性》を獲得するかに思われる。たとえば時間をかけて人間は裁判をつうじて 一応の決着をつけ合う。このことは 《諸多性》として散らばっていた世界が《原初的統一性》を持ったかに思われる瞬間である。  実際は 裁判の結審が 神のごとき瞬間だというのも 錯覚であるでしょう。つねに 世界は動いています。それでも《原初的統一性》を この相対的な世界も獲得したかに思われる瞬間があるように見える。《諸多性》をつうじてその世界を見通すかのごとくにして 秩序が望まれるという感覚は得られるかも知れない。  わたしの中での《消化》の中身は こんなふうです。それじたいを率直に述べて 感謝のことばとしたいと思います。

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noname#135843
noname#135843
回答No.32

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありあとうございました。Hidocchiでございます。 > 宇宙には、“果てがある”、もしくは“∞で、果てがない”との見解がございます。・・・そして、この“∞”という概念を、ひとは、その空観認識能力で把握・認識可能かどうかが不明 というものでございます。 ☆ これにつきましては ふたたびお尋ねします。  この《無限大》という場合には いわゆる可能無限であって〔つまりは 非経験としての絶対 X ではなく そうではなく〕 それは経験世界に属するということではないのですか? すなわち 無限大には一を足して ∞+1 という特定しうる数量がつねにありえますから 大きくは経験思考の範囲に属するということなのではないかと。  仰られますように、経験世界に属するものかと考えております。  ただ、「宇宙の果ては?」と聞かれましたとき、説明するのに、非常に苦労した経験があったため(仮に、端があったとしましても、その外側は? と聞かれますし、結局、“∞”という概念が浮かんできます。ですがその“∞”を具体的に表現・説明できなかった経験がありましたため)、ご質問させていただいた次第でございます。  駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。こんばんは ひどっちさん。  ということは 宇宙は経験世界に属している(または 経験世界そのものである)という事実 Y と そしてやはりそれとは次元の異なる〔と想定される〕非経験の場としての X  これら二つを前提として人間の現実は始まるということでよろしいでしょうか。    この質問は 大上段に振りかざしたものですから いちど挙げておくのがとよいと思いましたが(そういう流れがあったと思ったのですが) 考えてみると 他方でもっと具体的な主題について問うほうが やり取りは進めやすいかとも考えました。    閉めようかとも思いますが まだ心ははっきりしません。

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noname#135843
noname#135843
回答No.31

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > いい方向に向かえばよいがと思っております。  意見を等しく致します。 > 《かも知れない》によって その条件を埋めていると思ったでしょうか。?  すみません。非常に細かいことですが、例えば、“宇宙”を例にとらせていただきます。  宇宙には、“果てがある”、もしくは“∞で、果てがない”との見解がございます。もちろん、現在も分かってはおりません。仮に、“果てがある”と考えましても、その外側は? というように、結局は“∞”となってしまうかと考えられます。そして、この“∞”という概念を、ひとは、その空観認識能力で把握・認識可能かどうかが不明 というものでございます。 > ☆《想定》という捉え方は 問い求めの最初の頃からしていましたので その感覚は薄れていたようです。《想定上のではありながら 神と言えばこれとして捉えるべき神( X - Z )》と言ったほうがよかったかも知れません。  評論家じみたことを言ってしまい、お恥ずかしい限りでございます。「皆様との交通整理がもう一つかな?」、と感じましたため、愚見を述べさせていただいた次第でございます。 > ☆ この事項についての賛成票はありがたいです。このことが主観共同化されたなら どんなに世界は変わっているかと 自慢気に 想像します。  こちらこそ、誠に光栄に存じます。 > ☆ たしかに 《天使》もしくはほぼ同じことで《悪魔》あるいは《天の国・地獄》といった概念も きちんと吟味し定義しておくべきかも知れません。あのエワにささやいた《蛇》の問題もありました。そして《魔女》でしょうか。  正直に言ってわたしは これらについては《表現の問題》として処理して来ましたので 《正式》の定義や扱い方については 自信がありません。よって 応答できません。という発信をするのみです。?  説明不足で申し訳ございませんでした。《悪魔or 魔女》、つまり、経験世界に属するものでもないに関わらず、《悪魔or 魔女》の定義付けを、当時の方たちは勝手にしてしまったがために、不幸な事件が生じてしまった一例 として、解していただければ幸いでございます。 > ★ “科学信仰”  ☆ についてもまだまだひとつの主題として取り上げる必要があるのかも知れません。  例えば、今回の進化論でございますが、何の疑いもなく、著名な学者さんが話したという一点のみで、この仮説(進化論)を受け入れてしまいますと、これこそ、非科学的かと考えております(思考の停止)。 > ★ 進化論  ☆ 科学行為として経験世界のことだけを述べているのではないですか?   申し訳ございません。またもや、舌足らずでございました。 ここでは、(経験則に由来する)進化論を否定する人も、科学技術が進歩している米国ですら、少なからず存在する ということでございます。つまり、日本(“進化論”が正しいと解する人がほとんど)と米国の違いを述べさせていただいただけでございます。日本では、滑稽に思われる“想像説”も、地域等が変われば、今日でさえも、十分受け入れられている現実があるということでございます。  駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん ご回答をありがとうございます。  どうも虚心坦懐に読んでいればよかったでしょうか。  具体的な情況において具体的に起きている現象について そのゆがみ もしくは 行き違いのようなことを取り上げておられるのですね。分かりました。  ★ 進化論 / 科学信仰 / 悪魔や魔女  ☆ これらについてです。  ★ 宇宙には、“果てがある”、もしくは“∞で、果てがない”との見解がございます。・・・そして、この“∞”という概念を、ひとは、その空観認識能力で把握・認識可能かどうかが不明 というものでございます。  ☆ これにつきましては ふたたびお尋ねします。  この《無限大》という場合には いわゆる可能無限であって〔つまりは 非経験としての絶対 X ではなく そうではなく〕 それは経験世界に属するということではないのですか? すなわち 無限大には一を足して ∞+1 という特定しうる数量がつねにありえますから 大きくは経験思考の範囲に属するということなのではないかと。  * 進化論についてしっかりと把握せねばならないかも分かりません。

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noname#135843
noname#135843
回答No.30

 お世話になっております。Hidocchiでございます。 [はじめに]  スコラ哲学の時代、「針の上で天使は何人踊れるか」という議論が真剣になされたといわれています。もちろん、いくら議論をしても回答なるものは得られませんでした。ですが、当時の人たちは真剣だったとされています。  そして一方では、不幸なことに、“魔女狩り”といったことも実際に、起きてしまいました(経験領域外の考えを、無理やり当てはめてしまったのが原因の一つかと思われます)。  では現在はと申しますと、“科学信仰”も手伝って、神を必要としない科学主義の世界観の方が数段優れているという考えが、暗黙の了解として認められているものと察せられます。  ですが、日本では信じられないかもしれませんが、最も科学技術が発展している米国でさえ、以下の統計結果が得られています。つまり、不毛・不幸な歴史を繰り返してしまう可能性も否定はできません。 「2004年11月のCBSの調査では、55%のアメリカ人が神が人を創造したと考えているという結果がでている。」 「2009年2月11日に米世論調査企業ギャラップ(Gallup)が発表した調査結果によりますと、 <中略> 過去10年間に行われた調査においても、44~47%の人が、神が過去1万年ほどの間に、人間を現在のような形で創造したと信じていると答えている。」 ソース:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96%E8%A3%81%E5%88%A4   以下に、愚見を述べさせていただきます。 > §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  この問題につきましては、意見を等しく致します。 「世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない」というお言葉につきましては、若干疑問がございますが、その他につきましては、古くは、カントによる、形而上学・神学批判、一方20世紀では、ヴィトゲンシュタインの、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」、「神は世界の中に現れない」との記述からも分かりますように、厳密に、XとY領域の区別は必要かと考えております。 > §2 《考える》と《信じる》  “言語表現”における便宜上、“信”の対象を、《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》、《神》、《ヤハヱー》もしくは、《アッラーフ》と呼んでも差し支えはないと思われます。  そして、結論としまして、「この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。」とのことでございますが、“想定上の”という表現がおそらく、ご回答者様に混乱を起こした可能性があるかもしれませんが、上述からの論理的帰結として導かれるものと推察されます。 > §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  「つまり言いかえると たとえば神 X が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである」  これは、“因果応報説”例えば、「これこれ云々といった問題・被害を受けた場合、それは、バチがあたったのだ」と一般には言われたりしますが、そんなことは、人間の思考・認識領域の範囲外のこと(埒が開かないもの)である と考えられます。  今回は、“おおまかな”ものとなってしまい、非常に心苦しいのですが、何らかのご一助になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ピエロぶりも板について来たかも知れないと思っておりますが というのは一抹の恥づかしさを紛らわすためのタメにすることばですが いい方向に向かえばよいがと思っております。  ★ 「世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない」というお言葉につきましては、若干疑問がございますが、  ☆ なるほど そういう表現の問題でしたか。つまり たぶん《人間に分かることとしては》と条件づけておくべきだったでしょうか? なるほど。気がつきませんでした。《かも知れない》によって その条件を埋めていると思ったでしょうか。  ★ 「この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。」とのことでございますが、“想定上の”という表現がおそらく、ご回答者様に混乱を起こした可能性があるかもしれませんが  ☆ つまり初めのほうに《想定してしまっておく》と言ってはいるのですが なじみの薄い表現ということですね。あぁ これも気がつきませんでした。《想定》という捉え方は 問い求めの最初の頃からしていましたので その感覚は薄れていたようです。《想定上のではありながら 神と言えばこれとして捉えるべき神( X - Z )》と言ったほうがよかったかも知れません。  ★ これは、“因果応報説”例えば、「これこれ云々といった問題・被害を受けた場合、それは、バチがあたったのだ」と一般には言われたりしますが、そんなことは、人間の思考・認識領域の範囲外のこと(埒が開かないもの)である と考えられます。  ☆ そう言えばこの主題についても――わたしはいぢわるぢいさんよろしく さんざ質問したのですが―― まだまだ千年ニ千年の慣性は消えて行きませんね。  ★ “言語表現”における便宜上、“信”の対象を、《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》、《神》、《ヤハヱー》もしくは、《アッラーフ》と呼んでも差し支えはないと思われます。  ☆ この事項についての賛成票はありがたいです。このことが主観共同化されたなら どんなに世界は変わっているかと 自慢気に 想像します。  ★ アメリカの原理主義  ☆ と言うのでしょうか。この主題は けっきょく正面に位置する或る種の敵なわけですが ここでは 質問者としては この信仰類型論としての《神の定義》の問い求めでまづは満足したほうがよいかとも思っています。もっとも回答者の方々にその方面の問い求めを進めている場合があれば それを受けて何らかの応答をしたいと思います。(実情そのものについてはわたしは詳しくありません)。  ★ 経験領域外の考え  ☆ つまり 《超経験あるいは非経験》ではなく きわめてあいまいな《経験領域外》ですか。同じ次元で隣の空き地といった感覚をも誘うようですが。その事例として  ★ 不幸なことに、“魔女狩り”。〔そして〕スコラ哲学の時代、「針の上で天使は何人踊れるか」という議論が真剣になされたといわれています。  ☆ ですか。まさに  ☆☆ 「この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の〔ではありながら 神と言えばこれと言うべきその〕神( X-Z )とは峻別しなければならない。」  ☆ たしかに 《天使》もしくはほぼ同じことで《悪魔》あるいは《天の国・地獄》といった概念も きちんと吟味し定義しておくべきかも知れません。あのエワにささやいた《蛇》の問題もありました。そして《魔女》でしょうか。  正直に言ってわたしは これらについては《表現の問題》として処理して来ましたので 《正式》の定義や扱い方については 自信がありません。よって 応答できません。という発信をするのみです。  そして  ★ “科学信仰”  ☆ についてもまだまだひとつの主題として取り上げる必要があるのかも知れません。デカルトのコギトの目的化また神格化がいけないといった捉え方で済まして来ました。これも 大きな主題なのでしょうね。いま質問者としては保留のようなかたちになってしまいますが。  ★ 進化論  ☆ は――ちょっと恥づかしいことですが―― 科学行為として経験世界のことだけを述べているのではないですか? 創造説もその創造主という擬人化した表現の仕方にあいまいなところがあるでしょうし そうして 両者は決して同じ次元での二つの仮説だとかいうことではないはずだと思うのですが。・・・

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  • rin00077
  • ベストアンサー率21% (117/534)
回答No.29

僕は頭が悪く、いまいちよくわからないのですが、つまり信者の人は 非思考で信者になっている。と、いうことでしょうか? そしてその非思考というのは、自分の意思ではなく、かつ強制的でもなく 自然に信じさせられること。と、いうようなことなのでしょうか? それなら、それで別によいのです。 信者の人がどういう理由で信者になったのかは、僕は知る由もありません。 無理やり信者にさせられた人もいれば、ある日突然神を感じて信者になった 人もいるでしょう。 若い女性がたくさん信者にいるから。という下心で、信者になった不届きな輩も、 あとがたえないと思います。 そして、僕が神を信じないという意味は、神が現実にいても信じない。 という意味なのです。 要するに科学的に神がいると証明されても、神はいない。ということです。 神は人を救わないのであれば、それは僕の中では神ではないのです。 もっとわかりやすくいうと、モー娘の愛ちゃんは実はわがままで性格が悪い。 のであれば、僕にとって愛ちゃんという神々しい女性は存在しないのです。 ちなみにT美とは、AKB48のともちんこと板野友美のことです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ もっとわかりやすくいうと、モー娘の愛ちゃんは実はわがままで性格が悪い。 / のであれば、僕にとって愛ちゃんという神々しい女性は存在しないのです。  ☆ でも そういう名の《神》なのですか? わからんなぁ。つまり《性格がわるい》のほうではなく 《神々しい女性は存在しない》のほうが どうして出てくるのかがです。  ★ ちなみにT美とは、AKB48のともちんこと板野友美のことです。  ☆ さすがここまで来ると 分かりません。でもおしえてくれてありがとうございます。あっ そうそう わたしがプロを感じると言えば あややは ファンのために一生懸命にアイドルしていると思ったことがあります。  りんさん ご回答をありがとうございます。  さて  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  僕が神を信じないという意味は、神が現実にいても信じない。  という意味なのです。  要するに科学的に神がいると証明されても、神はいない。ということです。  神は人を救わないのであれば、それは僕の中では神ではないのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ なかなか一筋縄では行かないと言いますか むつかしいですね。  分かっていることは 《科学的に証明された》としたらその《神》は 思考の場におさまる経験世界のものごとだということです。神ではないという意味です。  ★ 神は人を救わないのであれば、それは僕の中では神ではないのです。  ☆ 《神が人を救う》という場合 それはその人個人の主観にすべてがおさまるということ これも分かっていることです。ほかの人にとっては 《救い》であるかどうかは分からないです。  《非思考の場》は 《わたし》と神との向き合った関係です。その関係の場が 閉ざされているということではなく 基本的に言って ほかの人には分からない――つまり分かったなら その分かりにおいての限りで ちょうど宗教組織において修行を積んだくらいの高い人がほかの人を指導するといった形に似て しばしば権限を持ちつつ《説教》することになると思います――のだと考えます。  しかも非思考の場がつまり神が 普遍的なものならば その・他の人には分からない信仰の中身が あたかも香りのように 他の人にも伝わることもあると見られます。   そこに《救い》を嗅ぎ取るかどうかは やはり個人個人の――あろがんすさんに言わせれば――《趣向》におさまるということだとか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  つまり信者の人は / 非思考で信者になっている。と、いうことでしょうか?  そしてその非思考というのは、自分の意思ではなく、かつ強制的でもなく  自然に信じさせられること。と、いうようなことなのでしょうか?  それなら、それで別によいのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ぢゃあ 一件落着ですか? でもこのあとに 上に見てきたように むつかしい問題があるようなのですね。  ★ 若い女性がたくさん信者にいるから。という下心で、信者になった不届きな輩も、 / あとがたえないと思います。  ☆ これは この事態が料簡が汚いからという理由によってではなく そうではなく 宗教組織にかかわる事態であるという理由で 問題が非思考の場とは別です。教団に入るか入らないかは 個人の信仰が成るかどうかとは まったく関係がありません。教義は思考の場を出ませんし 教団も教祖も――その人びとそれぞれの非思考の場はあっても――その入会者にとっては 非思考の場ではないからです。あり得ません。  百歩譲歩して言えば 教会は 個人が信仰を得た(なぞの何ものかによって与えられた)そのことを証しするためにそのような信徒たちによって共有されるものです。《目に見えない教会》が その会員には信仰が成っており生きておることを示します。毎週目に見える教会に通うことが 信仰が厚いことを意味しません。それは 組織に忠実であり社交的で人びとと友好的であろうとすることを意味しているだけです。まして 非思考の場が成ったかどうかとは それだけでは関係ありません。  世界のリングに上がって拳闘をしなければならないと言いましたが やはり日本においても インチキ宗教を淘汰させていくことも大事であるように思います。自分たちの社会においてそれが出来なくては 世界に出て行っても まだまだだと思いますから。  あれっ わたしは何を言って来たのでしょう? 高橋愛ちゃんに聞いてみましょうか。

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  • g3452sgp
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回答No.28

  「非思考の場」を求めるという考えは、それはそれで成り立つのです。 しかしその場合私に言わせれば当然ながら相当な覚悟を持たなければならないと考えます。 つまり完全にハイになり最後には狂い死にしてもよいのだというそういう極限の状態です。 実際この世にはそのような人はそれほど珍しくなく何人もいますから。  

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。思いなおすところがあります。気がつきました。――ヂ―さん ご回答をありがとうございます。――  つまりそれは No.7お礼欄にしるした《ひとと社会の成り立ちについての図式》つまり《三位一体》のことですが これを考えていると頭が一瞬くらっと来たことがあったかと思います。あるいは 趣旨説明の文章も 意外とむつかしい部分もあるように思います。  たぶん――いま思うに そして過去に一度くらっと来たかに感じたときにも思ったことだと記憶しますが―― もしこの非思考の場が むつかしいというのは じつは まだなお頭で・理性で制御しようとしているからではないか。こう思いますが どうでしょう?  別の言葉で同じことを述べるなら:  一方で学問ないし科学としての考え方 他方でいわゆる既存の宗教の考え方 これらの考えがわれわれ一人ひとりに一般的に何らかの影響を与えている。その所為で かえってふつうの《非思考の場》ということが おかしなものだと思ってしまう。のではないか。  単純に言ってしまえば コギトの神格化・理性崇拝 そして 倫理規範の規範化――タテマエとしては絶対的に規範にのっとったことを言わなければそれは社会に通用する人間ではないと見なすという枠組み―― これらによる影響なのではないか。  レッツ・エポケー。  つまり  ★ つまり完全にハイになり最後には狂い死にしてもよいのだというそういう極限の状態です。 / 実際この世にはそのような人はそれほど珍しくなく何人もいますから。  ☆ という人は この既成の枠組み――パラダイム?(こんな言葉 ほとんど初めて使ったかなぁ)――の中で忠義にも間違いなきを期してそれにきちんと即して この非思考の場を問い求めるから 少々むつかしい状態にも落ち入るのかも知れません。  要するに 脳天気です。これが 突破口なのではないでしょうか。  ヂ―さんは 実践家でした。お見それしました。ごめんなさい。

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回答No.27

社会には神がなんであるかの確たる認識が無いのに、神を知りたいというのは個の趣向の範囲内です どんな物事にも広義と狭義での認識があります 達人が居ます 誰もが業の凄さや価値を認めますが、業の理論までは求めません 仏教では一般人は念仏を唱えれば良いが、仏教徒ならば深い認識を必要とします 社会への所属のため 社会でのルールや規範意識を守るには、広義での共通認識で十分であり…善である必要もありません 悪は社会において利も理も損なうために、悪と共通認識されて忌み嫌われています 善は趣向の範囲内であり…個人的にはプラスもありません これは神への認識にも云えます…神が善や超理性的な存在であると仮定しても…神に利や理があり求めたい者が認識すれば良いこと…(神は絶対者だとか云々を…) 社会で個として確たる存在であり、共通認識に沿って生活できる者には、一般人も神も区別する必要がありません…存在に左右されません…唯一悪だけを区別できれば良い 社会は広義であり一般人から聖人や神にすら対応するもの…そして人類文明を享受できる…それは規範や共通認識を守る存在の社会での恩恵…権利です 社会では善の認識は必要ありません 憐れんで云います…悟りたいとか、聖人でありたいなど、他者と比較してしまう競争原理であり、本能でしかありません 神とは何か?という問いには一般人に必要のないものと答えます…もしくは悪が恐れるもの また善以上の認識は趣向にすぎないために、質問は『イデアを信じますか?』の一行で十分です 回答には感情は感じられないと思いますが、僕はアナタが大好きです

bragelonne
質問者

お礼

 告白もされちまったですね。――ご回答をありがとうございます。――わたしは 以前すでにひょんなことで(つまりそれは 理科文科何でもござれの優秀な男とのやり取りで わたしは面と向かって話をするように文章を書いているのだと言ってやったくだりで) こうも言ってしまっています。遠山の金さんに惚れないやつはワルだけだけれど ブラジュのロンヌくんにはワルも惚れるよと。こんながらっぱちだという意味です。それでいて あまり人情がないかも知れません。  はてさて今回のご議論は 理論としてというよりはどちらかと言えば現実問題の中の現実論をもって 迫ってくるような内容です。  わたしなりに解釈し整理すれば こうなりましょうか。  誰だか知らない愚かな禿げとかいう者が変なことをのたまわったために 世の中は悪人の大安売りだ。善人が高く売れるかと言えばさにあらず。お呼びもかからないありさまさ。  何だって 善人なおもて往生す いわんや悪人をや だったっけ。  何を言ってんだか。善人のほうが 世の中にとってよいに決まってらあ。悪人ってえのは その半ば坊主のその心の中でああだこうだ反芻するからいちいち七面倒なことになって出して来ているだけぢゃないのか。  おいら 毎日きちんとおのれを省みてしっかりと世の中を生きているんだ。こんな善人のほうがいいに決まってるぢゃないか。この生活態度こそが よき信仰なんぢゃないの? たぶん りんさんもそう言っているんぢゃないだろうか。  まぁ 反省のし足りないご仁には 大いに反省してもらって あとはいちいち非思考の場だ超経験だなどと理論ったぁ いったい何だい? そんなもなぁ犬にモーニング ネコにイヴニング つまらん飾りだぁな。  そんなことを考えるひまがあったら 事業仕分けにもっと人を当てろってぇんだ。  ・・・  わたしのこの質疑応答の目的は ちょうどはなのけいじさんとのやり取りでそれに触れています。  ☆☆ (No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~~  もんだいは 理論であり議論です。ここでは です。   ★ てげてげに   ☆ 《ほどほどに》という意味で 鹿児島方言だそうですね。理論は てげてげにというわけには行かないと思います。  考えてもみてください。リングは日本国内にあるというよりは 世界そして今のところ特には欧米にあります。そのリングに上がって 或る種の拳闘をせねばなりません。日本人もです。理論を欠かすわけには 行きません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしがしり込みするわけではありませんが 大いに世界のリング上で日本人もその生活態度を 信仰なら信仰の理論とともに 発信して欲しい。てげてげにというわけには行かないと思っています。  この理論家というミサイルは 何人でも何発でも日本から発射して欲しいと願います。  あっ これも  ★ 神を知りたいというのは個の趣向の範囲内です。  ☆ と言われてしまうのが落ちなのかぁ。

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noname#114944
noname#114944
回答No.26

>神とは何か? 神の概念の形態について述べよということですか。 1、神は非人格的存在で、世界はそれに適合するとみなす。 2、神は特定の人格的個的実在である。 3、世界の実在性は神の実在性である。 1は東アジア的概念であり仏教のダルマなど。 2はセム族的概念、キリスト教の神はこれに三位一体の考えを加える。 3は汎神論的概念、神即自然。 1の場合は、神について語ることは世界について語ることである。3の場合、世界について語ることは神について語ることである。2の場合、神について、人格的、実在者、個別者、現実的、等々の説明後を付するが、それらは厳密に用いられなければならない。そのためには形而上学が必要である。 以上はホワイトヘッドの分類を簡単に述べたものです。 何かの参考になれば幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 エンテレキアさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ホワイトヘッドを知らないものですから ぶっつけ本番で応答いたします。  わたくしなりの整理です。  なおここでは すべてすでに《非思考の場》を仮りに表わした言葉――つまり 神なら神という言葉――が持たれているという前提で話します。したがって 言葉があるとすれば それに伴なって《概念》も持たれている。その概念をめぐって 交通整理するというかたちに限定されます。  (2)の《セム族的概念》が やはり基礎を提供しており基本を成すとわたしは考えます。  ただしそこでは すでに表現のもんだいが色濃くつけ加えられていると思います。すなわちすでに擬人化が為されていて     2、神は特定の人格的個的実在である。  という形で述べられています。  すなわち言いかえるなら その擬人化をほどこす前の状態は    1、神は非人格的存在で  の部分にひとしいでしょう。なぜ そのあとの箇所を除いたかと言えば まづ    1、世界はそれ〔* すなわち 神が非人格的存在であること〕に適合するとみなす。  ですが この場合には 指摘された《仏教》だけではなく それ以前のブラフマニズムにも 条件付きで 適合するのではないかと考えるからです。  つまり ブラフマンやヰ゛シュヌやシワ゛はすでに人格的存在として語られているではないかと言われるでしょうが そのように《保守≒ヰ゛シュヌ》と《破壊≒シワ゛》というかたちで主宰神ブラフマンが 《世界に適合する》というそのあり方は 必ずしも予定調和ではないと思われるからです。  さらに言いかえると 仏教の《ダルマ》にしても 《法》と訳すから何らかの決まった法則があると取られがちですが これとても ただ世界のもろもろのものごとの動きを指し示しているだけであるかも知れません。《如来》とか《空観》というとき そこに必ずしも価値判断は――その基礎において――ないとも考えられます。仏性というごとくの 生命の維持存続という意味での善が 初めに――想定はされていても――予定調和としてのように保証されているものではないと見られます。  このような意味で(1)からその価値観の部分を取り除いた中身としての《神》すなわち《非思考の場》 これが 基礎であり したがって(2)の唯一絶対の人格神からその擬人化という加工の部分を取り除いたものにひとしいと考えます。  (3)については  ★ 3の場合、世界について語ることは神について語ることである。  ☆ と指摘されるごとく 《非思考の場としての神は 思考経験の世界のものごとに先行する》という見方を指し示していると受け取ります。しかもこの《先行》というのは 時間的にであるよりは 考え方においてであろうと見ます。その意味は たとえば《人間の自由》にしても 《良心・信教の自由》のほうが もろもろの《表現の自由》に先行するという内容なのだと考えます。  ★ 1の場合は、神について語ることは世界について語ることである。  ☆ これは 実質的に無神論であると思われるブディズムについてそうであるだけでなく それと対立するブラフマニズムにおいても 《保守≒ヰ゛シュヌ》うんぬんのごとく 神々のことを語ることはこの人間世界のことを語っているのだと見られます。  そこで 《例外》があります。浄土系のブディズムです。アミターバ(阿弥陀仏)は 明らかに有神論だと捉えます。つまり セム系〔およびヘレニズムだとか言われるようですが〕のクリスチアニズムと方向を同じくしていると見ます。  ★ 2はセム族的概念、キリスト教の神はこれに三位一体の考えを加える。  ☆ 《三位一体》については No.7お礼欄にわたしの考えるところを記しましたので 参照してもらえればさいわいです。その  ★ 2の場合、神について、人格的、実在者、個別者、現実的、等々の説明後を付するが、それらは厳密に用いられなければならない。そのためには形而上学が必要である。  ☆ いわゆる神学だと思いますが これについてはさすが ここでは 主題として焦点になるまでは ひかえたいと思います。  きわめて荒削りですが 応答いたしました。  * たとえばイスラームも 現代においては 喫緊の課題であるようです。わたしは 自分から主題を掲げてやり取りするまでの問題意識をあまりまだ形作っていません。回答者からその主題についての投稿がありましたら その内容のおもむくところへとついてまいりたいとは思っております。  エンテレキアさん ありがとうございました。この主題は むしろ世界とその歴史のすべてを対象とするほどですから まだまだ情報の網羅という点ではとうぜんのごとく不足しています。うんぬん。

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  • フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?

     文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。  ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり 経験世界 Y に属す。  《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― マチガイである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。  X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の     歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

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     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

  • ブッダは 神ですか

     絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 普遍神は 無根拠が根拠である

     1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。  2. その普遍神への信仰は 義無きを以って義とする。義をともなえば 人間のただのハカラヒによって神を信じるに過ぎなくなる。  3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。  4. 言わんや 神は人間がつくったなどという浅い考えは もってのほかである。  5. 人間がつくったり規定したりしてできる神なら その人間のあたまのチカラを出ない。だから おふざけにしかならない。アイドル狂いにひとしい。  6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。  ご批判をどうぞ。

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • キリスト教で言う『神は愛なり』について

    キリスト教では『神は愛なり』と言っていますが、何故そう言えるのか、実感が湧きません。 神が愛であるということが実感できるような具体的な事柄を教えて戴きたいと思います。 人間の罪を購うために、父なる神がその子イエスをこの世に遣わし、イエスが十字架上の死をとげることによって、人間の罪を許したのが、神の愛の証拠だと言われても、信じる人には有難い話かも知れませんが、普通の人間にとっては、全く馬鹿馬鹿しい荒唐無稽の話としか思えません。 もし、神が全能であって、人間の罪を許そうと思うなら、なにもイエスを地上に派遣してイエスを死なせるなどとややこしい小細工をしなくても、いくらでも許せるのではないでしょうか? しかも、この話を信じた者は救われるが、信じない者は救われない、と言うのでは、なおさら、神はえこひいきの神としか思えません。 クリスチャンの方々から見れば、とんでもない、不遜な質問ですが、真面目に悩んでますので、信者さんの信仰告白的な話ではなく、信者でなくても、普通の人間でも神の愛を感じざるを得ないような、具体的な「事実・事柄」を教えて欲しいと思います。 勿論、人によって感じ方の差はあると思いますが、具体的な「事実・事柄」を教えて戴ければ、それを神の愛の表れだと感じられるような人間になれれば幸せだと思っています。