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他者の宇宙は他者の宇宙があるはずという仮定なのか

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.10

 こんにちは。  ★ 他者の宇宙は他者の宇宙があるはずという仮定なのか  ☆ 《仮定》だけではなく 《想定》しています。そうであると見なしているということでしょうね。  ★ 多くの人間のそれぞれの宇宙が独立して存在することになるはずが、  ☆ 上に想定した限りでの現実は 個人である《わたし》が 《独立して存在している》と想定していますが その想定において同時に――同時にです――《社会的に他者と関係して存在している》とも想定しています。《わたし》は 孤独であるが 孤独どうしとして関係し合っているというわけです。  ★ 自分は他者の宇宙を決して知ることはできないので、  ☆ たぶん そうだと思います。独立性・個人であること・つまりは自由意志の持ち主である《わたし》という存在なのだということ――これは 宇宙という喩えのほかには 広く深く水をたたえた大海であるとも言えそうだと考えます。海面における心理の現象については見えるわけですが 海の中はまづ見えず分かりません。  わたし自身にも分からないところがあると思われます。それは 意志の自由という条件から来ています。この自由がどこから来ているのか人間には分からないからです。自由でなければ 動物のごとく本能のみで生きるだけです。その場合は 分かろうとも思わないわけです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  他者にとって他者の宇宙が存在するに違いないという認識も  自分の宇宙の一部以外のなにものでもないと言うことなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは違います。想定の上でですが 《わたし》たちが《関係し合う》のは 互いに《独立しつつ》です。もし互いの《わたしの宇宙》がそれぞれ重なり合うと見るとすれば それは ニュートリノのようにかどうか知りませんがしかも《全体として》――ひとには分からないように・目に見えないかたちで――自由に重なり合っているとでも捉えたほうがよいのではないでしょうか?  《一部》としてであっても また《認識》の問題に限るのであっても 《他者の宇宙》をわたしが形象としてまたその内容として捉えたと思う必要はないと考えます。言いかえると 互いに自己表現をおこない意志疎通を図ればよいという意味です。  これは 海の表面に波風が立つというその単なる心理の動きだけの問題ではありません。ぎゃくに確かに海の底のこころの思いであるというわけでもありません。こちらは人にはなかなか分かりません。しかも この思いを ことばという代理(手段)をつうじて 表現します。  このコミュニケーションという人間の社会的交通という現実が 《独立しつつ関係し合う》という人間の存在にかんする条件です。  ★ はたして私はいったい誰にこの質問をしているのでしょうか?  ☆ 《自分》にだという側面もたしかにあるのでしょうね。《わたしは分かりたい》と言っているということでしょう。  でもそれは 上のコミュニケーションの過程として まったくふつうのことだと考えます。誰にとっても同じ事態であるはずです。ということは まわりまわって互いが 《自分として知りたい》として努めていることなのだと思われます。  でもこのことは ひとは それぞれひとりだが かかわり合っており世の中においてまじわり 話し合いつつ仕事をおこなってともに生きるという日常の生活を言っているのみですよ。

noname#107440
質問者

お礼

御回答ありがとうございます 私は荒らし行為を行ったとのご指摘を受けました。謝罪申し上げます。

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