• ベストアンサー

人生の指針

何を指針にして生きていけばいいのか。 法律は善悪の基準じゃない 虚構の世界を認識の出発点にした宗教は信じたくないし、信じられない 僕らは無意識のうちに無数の価値を信仰している。 一回それらをすべてとっぱらって、何もないところから出発したい。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#112269
noname#112269
回答No.9

自分自身を捕まえて、向き直って問うて見れば、きっと答えは自ずと生じる。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (11)

  • mdh57
  • ベストアンサー率25% (7/27)
回答No.12

「無神論」イコール「無宗教」ではないので 質問から、少し外れますが、回答させてください。 私の勉強した範囲内で恐縮ですが、ご参考になれば幸いです。 (私事で恐縮ですが・・・) 私は、「法華経文底独一本門(無神論)」を信仰をしています。 これは、10年間かけて勉強と経験を、積み重ねて出した結論です。 全ては自身の生命の内に備わっていて、「どこかに、神様や仏様がいる」という考えを否定している、無神論の教えです。 (自身の中の仏界を引出すことが重要で、外にではなく、生命に内在しています) 前半は、外道(キリスト教や神道などの有神論)と、仏教「爾前教」(日本人が仏教だと思っている教え)を学び、 後半で法華経を学び、最終的に文底独一本門(無神論)にたどりつきました。 そして、邪宗や占い師など、(もちろんカルトも)信じたり、それらにお金を出すのも誤りだと気づきました。 10年かけて、しっかり宗教比較学を勉強してきたので、他の人より少しは詳しいです(まだまだ勉強不足ですが)少しでもお役に立てれば嬉しいです。 詳しく説明したいのですが、理解するのに早い人でも2~3年かかるので、簡単に説明させていただきます。一度でいいので、最後まで読んでみてください。 仏教の始まり(約3千年前)、釈迦が仮導の教えで「地獄」や「閻魔」などを説きましたが、それは実在する場所や人物ではなく、「方便(比喩)」です。 釈迦は説法50年間のうち、まず42年間かけて「爾前教(現在の真言・浄土宗など法華経以外の仏教)」を説き、後の8年間で、爾前教を仮の教えとして、釈迦自身が否定し、「法華経28品(後半14品が重要で、「法華経本門」といいます)」を説きます。 しかし、その「法華経本門」も、釈迦の死後2000年(正法・像法)で効力を失い、現在の「末法」という時代では、釈迦仏法を信仰しても効力はないと、釈迦自身が仏典の最後に記しています。 そして、釈迦が「文底秘沈」した(明らかにしなかった)「法華経文底独一本門」(無神論)が末法で信仰すべき仏法だと教えています。 仏法では、魂(命)は「有る」わけでもなく、「無い」わけでもない、「空(くう)」と表現されます。死後、命は、「霊魂」として、ふわふわ存在するのではなく、死時は「冥伏」といい、生時は「顕現」といいます。肉体と魂は別々ではないのですが、「肉体」イコール「魂」でもないです。 簡単に言うと「起きている状態が生」、「寝ている状態が死」です。つまり「無始無終」といい「生命は永遠」ということです。 過去世の生命境涯や行いにより、現世の生命境涯(十界論をご参考になってください)がありますが、「定業」と「不定業」があり、自身の内の境涯変換(仏界涌現により)、定業(決定している宿業)でも「宿業(宿命)転換」が可能です。 また「成仏(仏)」とは「仏界をひらく」ということで、死んだ人のことではありません。 (もし、死んで仏になれるのなら、早く死んだ方がいいということになってしまいます) また、「地獄」という場所は、どこにも存在しませんが、例えば、戦地に生まれるなどの境涯を「地獄」に例えているのです。それと同様、「閻魔」という人物は存在しませんが、自分自身の中の悪い生命境涯や、自分の境涯を狂わす働きのことを「閻魔」に例えているのです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.11

「完全」には不老不死が含まれます。覚りも。イエスがノーでノーがイエスです。死は生と理解できれば永遠で、死が最後ではないと理解で来ます。死が最後と誤解しているから永遠が理解できないのです。 永遠が理解できれば不老不死です。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#112269
noname#112269
回答No.10

>一回それらをすべてとっぱらって、何もないところから出発したい。 それで良いのであると思います。常にそのようであるならば、いつも新鮮でいられる。邪なものに流されなくてすむ。行き先は明るい。 希望もっていい 素直な心で歩けばいつかは 今から歩けばついには 他者の姿に真実を見れば其のとき 自らの過ちを知って きよらになるよ どんな人でも

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.8

誰とも関わらないで生きていけるのであれば、その選択は可能です。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#112847
noname#112847
回答No.7

見て聞いて、貴方が選びとったものが指針です。 貴方が選んだものが、貴方の指針になります。 人が選んだものは、貴方の指針にはなりません。 決めるのはご自身でしょう。 夢に向かって指針を決められるというのは幸せな事だと思います。 ですが、夢のない人生の指針はと問われれば・・・ 夢が見つかるまで、今の旅をつづけるしかない・・・としか答えようがありません。 じっくりと時間をかけて夢を見つけるのもいいのではないでしょうか。 夢を見つける旅も悪くはないのでは・・・。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#112847
noname#112847
回答No.6

>何もないところから出発したい。 何もないところにおいて、この世界は素晴らしいのでしょうか? 何もないところにおいて、出発する自分は素晴らしいのでしょうか? 旅の夢は、旅立つ人だけが知っています 夢が壊れないうちに旅に出ましょう 見たもの、聞いたものすべてが旅の指針になります。

JoyWorld
質問者

補足

何もないところっていうのは価値がないってこと。 今ある価値をすべてカッコでくくってしまって、世界を見て新しく価値を生み出すということ

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.5

それは「完全を目指すこと」です。注意してほしいのは「完全」ではなく「完全を目指すこと」にある点です。 東洋ではその「完全を目指すこと」を擬人化して「仏」または「本仏」と言います。

JoyWorld
質問者

補足

完全? 完全でも死ぬんでしょ?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.4

新世紀エヴァンゲリオンで、シンジ(神の子)は人の命令に従うという処世術で生きてきた。 人の言うなりになった方が、人から気に入られ、生きやすいから。 だけど、そういう彼だって、モラルってものがあり、仲間は殺したくないわけです。 その仲間は敵に取り込まれ、自分の集団を破滅させようと襲ってきたとき、上司の命令は「殺せ」なのですが、取り込まれても本体は自分の友人である以上、自分が死んでもいい、仲間は殺せないと戦おうとしなかった。 結局、回路を切断されて、擬似プログラムを作動させられ、身体が勝手に動いて仲間の使徒を倒させられてしまった。 怒ったシンジは、ドグマを攻撃して、「だだっ子にはつきあっていられない」と回路をすべて切断されちゃた。 で、すったもんだあって、生きる価値を失ったシンジは廃人同然になってしまった。 最終的に人類の最大の敵は人間だったわけで、人類は3人のチルドレンを殺そうとしてきたわけです。 アスカは猛烈に自分の個を守るために人類が作り出した使徒と戦うわけです。 「あんたたちなんかに負けていられないのよぉ 馬鹿シンジがいなくたって」ってモリモリ戦っている中、シンジは膝を抱え縮こまって動こうとしなかった。 その廃人同然になったシンジをひきずって、アスカはドグマのコアの部分の手前まで連れて行く。 リンクを直接貼ると削除されるので、、、 youtubeで<エヴァンゲリオンを1.5倍ぐらい楽しくする動画 Part7>をみてみてください。 シンジのリピドーとデストルドーが戦い、デストルドーが勝利し、すべては始まりに戻った。 自分という<個>が存在する必須条件は、自分とは違う考えをする<他人>が存在すること。 そうなると、他人と自分の考えは違うので衝突する。 それが怖くて他人の言いなりになると、自分という個を曖昧にしか感じられなくなる。 他人と考えが違う、他人が自分と考えが違う そのことを許せない場合、他人を殺すか自分を殺すしかなくなる。 究極的には、ですが。 で、シンジは最終的に、自分という個を存在させるために、自分とは違う他人の存在を認めたんです。 そうすると、また諍いが起こるが、それでもいい と決意した。 自分と違う考えをする人を傷つけてしまうし、自分も傷つけられる その世界を受容したことで、無に戻った世界から自分を出現させたわけです。 自分を出現させるってことは、他人も同時に出現したわけです。 他人が自分に対して、あるいは自分が他人に対して攻撃するのは、その本心は平和な世界を望むから かも。 だから同意して欲しいと願うが、その気持ちがあまりにも強くなると、「みんなしんじゃえ」と殺意が出現する。 孤独に相当強くないと、孤独になることを恐れるあまりに、わかってもらえないと怒りが出現する。 それか、孤独を恐れ、自分とは違う考えに納得しないまま従うことになる。 <価値が欲しい、ゆらぎの無い価値が欲しい。>  そうシンジも人類も望んでいたわけですが、ゆらぎの無い価値など無い。 youtubeでもう一つ<劇場版EVA  珠玉の9分間>もみてみてください。 何故<新世紀>エヴァンゲリオン なのか。 エヴァンゲリオンとは<福音>で、<善い知らせ> <ハッピーニュース>です。 キリスト教は、違う考えを認めない。 全人類がたった一つになることを求めているんです。 他人のいない世界が至福だとしているんです。 他人がいない=自分もいない世界。  それがキリスト教 およびゼーレの求めている世界なんです。 それは死です。 だからある中世の聖職者は、至福にいたるには全人類が死ぬしか無いって言ってたわけです。 だからキリスト教は異文化を破壊するという歴史を歩んできたわけです。 新世紀エヴァンゲリオンの思想は違います。 他人を殺さなくても、自分を消滅させなくてもいい。 です。 最高の至福を求めること自体が大間違い。 他人に全部をわかってもらおうとしなくていい、他人に全部わかってもらおうとしなくていい。 自分という個があっていい。 あるべきなんです。 孤独を恐れ、他人の考えに無理に融合しようとしなくていい。 

JoyWorld
質問者

補足

エヴァってそういう話なんだ なんかセリフが小賢しいのが多いし、登場人物に似たような人間が多いから敬遠してたんだけど、少しだけ見てみます

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.3

本質(≒先験)的に、普遍的な“目的”などありません。 しかし、無いがゆえに、現象的に絶対的な目的が生じる、という事もあるのです。 物質に「目的」はありません。 しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。 「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。 一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。 生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。 「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。 であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。 しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう? 人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。 原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。 お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。 本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。 お金は、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。 (その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙) その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。 何かを信じる前に、自己の本質を知ればそこに全ての答えはあるのに、弱い人間は、周りに求めたり信じたり、楽をしようとするのです。

JoyWorld
質問者

補足

物質の目的は安定することじゃないか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • OtamaFJ
  • ベストアンサー率10% (4/37)
回答No.2

では「環境認識」を指針にしてはどうでしょうか? これは学問の壁をなくしたところにあるものです。科学的です。 その思想から言えば、人は生きるために生き、社会生命としては働くことが生きることと同義です。また、宗教をしないのもひとつの宗教です。 >何もないところから出発したい と言っても既にあなたは環境の中で生きています。その思想を発見してないだけで。思想とは全てのものを位置づけるものだから物理などとは矛盾してはいけない。様々にあるような思想は「証明プロセス併存中」であって、最終的には1個に確定されます。 例えば「いい仕事をしたから給料をたくさんよこせ」というのは世の中の価値観が狂っている証拠です。なぜなら、給料(入力)に対して実体生産(出力)が大きいほど「いい仕事」であるのは物理で当たり前でしょう?

JoyWorld
質問者

補足

何もないところっていうのは価値がないってこと。 今ある価値をすべてカッコでくくってしまって、世界を見て新しく価値を生み出すということ

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 保育の指針~生きていく上での指針 とは?

    こんにちは。こちらのサイト初心者です。 私は既婚で子育て初心者(新米ママ)です。今、もうすぐ1ヶ月になる第一子を育てています。 子どもを育てていますが、私自身、人生の疑問が未解決のまま何となく生きているので、子育ての指針がわかりません。 生きていく上で大切なことは何でしょうか? 生きていくのは楽しいですか? 人として生きていくには、食べていける(稼げる)能力がやはり優先的に大切ですか? 愛情や思いやりなど、お金に還元されないもののほうがより大切でしょうか? でも、やはり実務的な能力や才能がないと、生きてゆくことすら出来ないですから、やはり、そちらを意識して、子育てでも、そちらを意識的に伸ばすようにして、私たちは生きてゆかなければいけないのでしょうか? 人の価値は何で決まりますか? 人生の意義って何ですか? 生き甲斐はどのくらい人生を変えますか? 人間がこの世に存在している価値や益はありますか? 人に生まれて本当に良かった、とか、希望とか夢を持ちながら生きてゆくよう子どもを助けるには何が役立ちますか? 人生はこういうものっていう定義づけは必要ですか? 私は物心付いたときから成人直前までは、ずっと宗教で人生観や世界観を構築していたのですが、それが崩壊してからは、答えのない問いを保留にしていることで、他者との関わりや人生自体へ消極的な姿勢になっているような気がします。(表面的には人好きのように振る舞えても。) 子どもには宗教は教えないつもりです。神話を読むような感覚で相対的に親しむことは構いませんが。 私は、親は子どもに特定の人生観と目標を持たせ、良いレールを敷いてやり、その到達に向けて細やかにサポートすることが肝要だと聞かせられて育ってきましたし、それを信じてきました。自分でもそのように育てられていたときは少なからず幸せでした。 でも、それが自分のものとして永続するものでなくなったときに、人生を再構築するのに非常な困難を覚えました。それが、子どもに宗教を与えたくない理由です。子ども自身が成長して自分で見つける場合は別です。 世間一般的には、親が子どもに道を示すのではなく、子どもが自ら道を見つけるのを親は見守っていくものなのでしょうか? そうだとしても、子どもがそうやって自らの生き方を選択できるようになるまで何をベースに育てていけばいいか、また、自分自身、何をベースに他者と関わり生きていけばよいか、アドバイスがあればお願いします。 ちなみに、今、保育士の資格取得を目指そうとしています。でも、育児中という状況に甘えた怠惰に加え、はたしてこれが本当に自分のやりたいことなのかも、自分に適性があるのかも良くわからないためモチベーションも曖昧で、教材は揃っているいるものの、なかなか取り掛かれずにいます。たぶん、自分の子どももまだ表情などのレスポンスが少ない時期なので、笑顔が育児のやりがいになったりというところまで来ていないのかもしれません。ママ友さんたちがとても楽しそうに甲斐甲斐しく子どもを世話しているのを見ると、自分は冷めているのかな?と思うこともあります。可愛がりたいという気持ちはあるのですが、なかなか自己犠牲的にはなれません…。 保育士の方々は、子どもと接する上で何を指針にして指導していらっしゃいますか?やはり社会性や心身の発達向上がベースですか? また、保育士の方に、保育士としてのやりがいや、 保育士かどうかを問わず子育てに携わる方々に、保育が生き甲斐になっているという経験などもお聞きしたいです。 質問だらけでごめんなさい。余すところなく応えていただく必要はございません。部分的で結構です。私のような疑問を持っている方はどのくらいいらっしゃるのかも気になります。皆さんの声を聞かせてください。

  • 信仰とはどんな感覚なのでしょうか?

    自分は無宗教です。信仰に対して理解が乏しいですが、宗教を持っている人とうまく接していきたいので理解を深めたいと思います。 宗教を持っている人はむしろ多数派ですし、信仰心というものを持ったり神仏や宗教指導者を崇拝する性質を多くの人間が持っているのは疑っていません。自分も本当に追い詰められた時に「神に祈る」という精神状態になったことがあります。ただし、それは現存する特定の宗教の神仏ではありませんでした。 宗教指導者や教典にはまったくあこがれやありがたみを感じません。善悪や正義、愛といった価値観は宗教がなくとも養えるものであり、逆にそうした倫理の根拠を宗教に求めることで柔軟性を失ってしまうことには危機感すら感じるので、自分は受け入れることは出来ません。また、科学が世界の仕組みを明らかにしていく上で、宗教に基づく説明、たとえば「お空の上には神様がいる」といった説明がまったくウソであることが判明してしまったりして余計に信用に足らず、ありがたいどころか真実を見失わせる胡散臭いものとしか感じられません。そのためか、自分には信仰という感覚がまったく理解できません。信仰心を持つというのは、いったいどんな感覚なのでしょうか?とくに根拠のない宗教的な説明に価値や説得力を感じる人がいるのは、どんな理由によるものでしょうか? どなたからの回答も歓迎いたしますが、「以前信仰心を持っていたことがあるが、現在はあらゆる宗教に対してまったく信仰心を失っていおり、客観的に信仰を説明できる」「自然科学的な演繹に基づく事実と、宗教に基づく非科学的な概念の両方を受け入れ持ち合わせている」といった方のコメントを特にお待ちしています。

  • 霊、宗教、信じますか?

    霊の存在を信じますか? 死んだら魂として残ると信じますか? 死んだあとには別の世界があると信じますか? 死んだら生まれ変わると信じますか? 宗教は信仰しますか? 私は、全て信じていません。 宗教も嫌いです。 人間の弱さから宗教ができたのでしょうけど、害でしかないと思っています。

  • 行政書士試験の意見公募手続について

    パブリックコメントをしなければならない「命令等」ですが、命令、規則、審査基準、処分基準、行政指導指針はすべて法律に基づいたもののみでしょうか? それともこの中(命令、規則、審査基準、処分基準、行政指導指針)に法律に基づかなくてもパブリックコメントの実施が義務化されるものはありますか? 根拠となる法令か判例などがあれば合わせて教えていただきたいです

  • 信じるものとそうでないものとの付き合い方

    私の友人はあるメジャーな宗教を信仰しています。 私もその宗教についてはよく知っていますが、信仰はしていません。 友人とは高校時代からの親友です。 世間話やちょっとした相談程度の話はよくしており、友情もあると思います。 しかし、深い話になってくると、やはり友人はその信仰の世界観から全てを判断するので、その世界観からはずれているものは「愚か」だと考えています。また、世の中色んな考え方を認める事や、違う大きな視点があるかもしれない事、自分と世界観は違っている人でも心から愛する事もできるはずだという私の考えには全く否定的です。 確かに私が言っているのは理想論かもしれませんし、友人にとってはその信仰は「人生の全て」ですから、ちょっとした意見とかもすごく遺憾なのでしょう。 友人の信仰の世界である、同じ信仰を持った人間としか心から仲良くする事はできないというのは何だか悲しい気がします。ですので深い話をすると、必ずどこかで意見が食い違い、分裂してしまうのです。 これは仕方ない事でしょうか?友人とは深い話は一生できないのでしょうか?

  • 日本独自の宗教についての質問です。

    現代(第二次世界大戦後)の日本社会に単一の宗教が根付かなかった理由は何だ、と思われますでしょうか? 確かに大日本帝国憲法でも信仰の自由が認められていたそうですが、基本的には「『国家神道』への信仰」が重視されていた、と思われますので、終戦後に帝から【神格性】が剥奪された途端に、信仰の対象の必要性が感じられなくなったからなのか、と私が勝手に考えてきました。 でも、それに酷い誤解が含まれていますと、勿体無いですから、 宗教的な価値判断を為さらずに、教科書的な回答を頂けませんでしょうか?

  • 自分の生を肯定するにはどうすればいいのか??

    私の母はキリスト教徒です(世間では新興宗教に属すとされている)。 よって、私は生まれてから、思春期に至るまで、神を無意識に信仰してきました。 その信仰に違和感を感じたのは小学校高学年の時です。 私は根っからの松井秀喜ファンで小学生時代は自他共に認める野球少年でした。 しかし、その野球を捨てねばならない状況になり、また恋愛や友情も否定されました。 私の青春を否定されこの世に自分の生を肯定できるものが一切なくなりました。 (ex1:恋愛→異教徒との結婚の否定&性の不道徳に陥る可能性から。ex2:友情→信仰がない人との繋がりは信仰に反する思想を作る可能性があるから極力避けるように、ex3:部活→週3回の集会に出席しなければならず、また奉仕活動にも参加しなくてはならなかった) それに加え、キリスト教の教え(愛・喜び・平和・辛抱強さ・親切・善良・親切・温和・自制などを身に着けること、暴力・性の不道徳などの否定)が私にはどうしてもできず、ペシミスティックになってしまうのです。 小学生の時にもう宗教を辞めたいと母に直訴しましたが、泣きつかれてどうしようもありませんでした。 それから、ぐだぐだと高校時代まで続けましたが、もちろん生を肯定できるものは何も生まれませんでした。 中学高校時代に隠れて3人ぐらいと付き合いましたが、自暴自棄になりすべて2週間以内に僕の勝手で別れました。 高校の途中でこのままでは死しかなくなると思い、宗教から脱退しました。しかし、そこに見えたものは絶望でした。 宗教と無宗教では善悪の基準が全く異なり、宗教は道徳を人間がすべき絶対の掟であるとするが、無宗教は道徳は個人的な良い悪いがただ社会を形成するためにあるだけであるというものでした。 その社会のルールは表向きは道徳を基本として形成されていますが、誰も道徳を守っていないという矛盾の世界でした。(社会が認める道徳的であることは、利己的・虚栄心からも成立し、根本的に道徳的ではない) そしてどっちが根本的に正しいか、人間の言葉では、決めれないということにも気づいてしまいました・・・。 私が宗教から学んだことはヒューマニズム・禁欲主義ですが、現代の競争主義・大量消費社会に精神的に違和感を覚え苦しいです。 私の心の中にはきれいごとが住みついていて、世の中の一切を無意識に否定します。その否定してしまった自分を否定してしまいます。 宗教に戻ればいいではないかと思われるかもしれませんが、宗教に対して憎しみが根本的にあるので無理です。(宗教を否定しているわけではありません。宗教を信じるか信じないかはんもちろん自由だと思います) 私はどのようにしたら生の肯定をできるでしょうか?? 前にも同じような質問をしましたが、教えてGOOのスタッフさんに了承を得たので投稿させていただきました。

  • 自暴自棄→生の肯定

    私の母はキリスト教徒です。よって私は生まれてから、思春期に至るまで、キリスト教の神を無意識に信仰してきました。 その無意識の信仰に違和感を感じたのは小学5年の時です。私は根っからの松井秀喜ファンで小学生時代は自他共に認める野球少年でした。しかし、その野球を捨てねばならない状況になってしまったんです。それに加え、一般的な恋愛さえも否定されていました。 私の青春を完膚なきまでに破壊され(ex1:恋愛→生の不道徳という考え、また異教徒や無宗教との繋がりは極力避けるようにという教えから。ex2:部活道→週に宗教の集まりに3回出席しなければならず、それに加えて宗教を広く伝えるという奉仕活動にも参加しなくてはならなかった)、この世に自分の生きていくことを肯定できるものが一切なくなってしまいました。 また、キリスト教の教えは私を二重に苦しめました。キリスト教の教え(愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、親切、温和、自制などを身に着けること、暴力、性の不道徳などを否定すること)が私にはどうしてもできず、ペシミスティックになってしまうのです。 小学生の時にもう宗教を辞めたいと母に直訴しましたが、泣きつかれてどうしようもありませんでした。 それから、ぐだぐだと高校時代まで続けましたが、もちろん生の肯定できるものは何も生まれませんでした。 高校の途中でこのままでは死ぬしかなくなると思い、宗教から脱退しました。しかし、そこに見えたものは絶望でした。 この世界は私が教えられていた善悪の判断をほぼ否定した世界であり、その社会のルールは表向きは道徳を基本として形成されていますが、誰も道徳を守っていないという矛盾の世界でした。(社会が認める道徳的であることは利己心・虚栄心・狂信・私利私欲に使われているので結局は道徳的ではない) 私の心の中にはきれいごとが住みついていて、世の中の一切を無意識に否定します。その否定してしまった自分を否定してしまいます。 宗教に戻ればいいではないかと思われるかもしれませんが、憎しみがあるので無理です。 私はどのようにしたら生の肯定をできるでしょうか??

  • 宗教とこれからの宗教問題について

    大学の1回生なのですが、宗教についてのレポートを書かなくてはいけません・・・それで少しだけ意見を教えてください。お願いします。 宗教とは信仰している人によってどのようなものであるか。最近の紛争宗教の溝によって起こることが多く、なぜそのようになってしまったか。この紛争を解決するにはどうすればいいか。この3点について皆さんの意見をお願いします。少し難しくてすみません。

  • 1948年サウジアラビアはなぜ人権宣言を棄権したのか?

    1948年の第三回国連総会において、「世界人権宣言」が可決されました。しかし、この採決時にサウジアラビアは棄権しています。それはなぜでしょう? ある宗教を信仰しているかららしいのですが、詳しく教えてください。