- ベストアンサー
人生の指針
何を指針にして生きていけばいいのか。 法律は善悪の基準じゃない 虚構の世界を認識の出発点にした宗教は信じたくないし、信じられない 僕らは無意識のうちに無数の価値を信仰している。 一回それらをすべてとっぱらって、何もないところから出発したい。
- みんなの回答 (12)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
その他の回答 (11)
- mdh57
- ベストアンサー率25% (7/27)
- jinseiwalk
- ベストアンサー率23% (372/1603)
- augustinus
- ベストアンサー率26% (60/226)
- jinseiwalk
- ベストアンサー率23% (372/1603)
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
- OtamaFJ
- ベストアンサー率10% (4/37)
- 1
- 2
関連するQ&A
- 保育の指針~生きていく上での指針 とは?
こんにちは。こちらのサイト初心者です。 私は既婚で子育て初心者(新米ママ)です。今、もうすぐ1ヶ月になる第一子を育てています。 子どもを育てていますが、私自身、人生の疑問が未解決のまま何となく生きているので、子育ての指針がわかりません。 生きていく上で大切なことは何でしょうか? 生きていくのは楽しいですか? 人として生きていくには、食べていける(稼げる)能力がやはり優先的に大切ですか? 愛情や思いやりなど、お金に還元されないもののほうがより大切でしょうか? でも、やはり実務的な能力や才能がないと、生きてゆくことすら出来ないですから、やはり、そちらを意識して、子育てでも、そちらを意識的に伸ばすようにして、私たちは生きてゆかなければいけないのでしょうか? 人の価値は何で決まりますか? 人生の意義って何ですか? 生き甲斐はどのくらい人生を変えますか? 人間がこの世に存在している価値や益はありますか? 人に生まれて本当に良かった、とか、希望とか夢を持ちながら生きてゆくよう子どもを助けるには何が役立ちますか? 人生はこういうものっていう定義づけは必要ですか? 私は物心付いたときから成人直前までは、ずっと宗教で人生観や世界観を構築していたのですが、それが崩壊してからは、答えのない問いを保留にしていることで、他者との関わりや人生自体へ消極的な姿勢になっているような気がします。(表面的には人好きのように振る舞えても。) 子どもには宗教は教えないつもりです。神話を読むような感覚で相対的に親しむことは構いませんが。 私は、親は子どもに特定の人生観と目標を持たせ、良いレールを敷いてやり、その到達に向けて細やかにサポートすることが肝要だと聞かせられて育ってきましたし、それを信じてきました。自分でもそのように育てられていたときは少なからず幸せでした。 でも、それが自分のものとして永続するものでなくなったときに、人生を再構築するのに非常な困難を覚えました。それが、子どもに宗教を与えたくない理由です。子ども自身が成長して自分で見つける場合は別です。 世間一般的には、親が子どもに道を示すのではなく、子どもが自ら道を見つけるのを親は見守っていくものなのでしょうか? そうだとしても、子どもがそうやって自らの生き方を選択できるようになるまで何をベースに育てていけばいいか、また、自分自身、何をベースに他者と関わり生きていけばよいか、アドバイスがあればお願いします。 ちなみに、今、保育士の資格取得を目指そうとしています。でも、育児中という状況に甘えた怠惰に加え、はたしてこれが本当に自分のやりたいことなのかも、自分に適性があるのかも良くわからないためモチベーションも曖昧で、教材は揃っているいるものの、なかなか取り掛かれずにいます。たぶん、自分の子どももまだ表情などのレスポンスが少ない時期なので、笑顔が育児のやりがいになったりというところまで来ていないのかもしれません。ママ友さんたちがとても楽しそうに甲斐甲斐しく子どもを世話しているのを見ると、自分は冷めているのかな?と思うこともあります。可愛がりたいという気持ちはあるのですが、なかなか自己犠牲的にはなれません…。 保育士の方々は、子どもと接する上で何を指針にして指導していらっしゃいますか?やはり社会性や心身の発達向上がベースですか? また、保育士の方に、保育士としてのやりがいや、 保育士かどうかを問わず子育てに携わる方々に、保育が生き甲斐になっているという経験などもお聞きしたいです。 質問だらけでごめんなさい。余すところなく応えていただく必要はございません。部分的で結構です。私のような疑問を持っている方はどのくらいいらっしゃるのかも気になります。皆さんの声を聞かせてください。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 信仰とはどんな感覚なのでしょうか?
自分は無宗教です。信仰に対して理解が乏しいですが、宗教を持っている人とうまく接していきたいので理解を深めたいと思います。 宗教を持っている人はむしろ多数派ですし、信仰心というものを持ったり神仏や宗教指導者を崇拝する性質を多くの人間が持っているのは疑っていません。自分も本当に追い詰められた時に「神に祈る」という精神状態になったことがあります。ただし、それは現存する特定の宗教の神仏ではありませんでした。 宗教指導者や教典にはまったくあこがれやありがたみを感じません。善悪や正義、愛といった価値観は宗教がなくとも養えるものであり、逆にそうした倫理の根拠を宗教に求めることで柔軟性を失ってしまうことには危機感すら感じるので、自分は受け入れることは出来ません。また、科学が世界の仕組みを明らかにしていく上で、宗教に基づく説明、たとえば「お空の上には神様がいる」といった説明がまったくウソであることが判明してしまったりして余計に信用に足らず、ありがたいどころか真実を見失わせる胡散臭いものとしか感じられません。そのためか、自分には信仰という感覚がまったく理解できません。信仰心を持つというのは、いったいどんな感覚なのでしょうか?とくに根拠のない宗教的な説明に価値や説得力を感じる人がいるのは、どんな理由によるものでしょうか? どなたからの回答も歓迎いたしますが、「以前信仰心を持っていたことがあるが、現在はあらゆる宗教に対してまったく信仰心を失っていおり、客観的に信仰を説明できる」「自然科学的な演繹に基づく事実と、宗教に基づく非科学的な概念の両方を受け入れ持ち合わせている」といった方のコメントを特にお待ちしています。
- 締切済み
- その他(社会)
- 霊、宗教、信じますか?
霊の存在を信じますか? 死んだら魂として残ると信じますか? 死んだあとには別の世界があると信じますか? 死んだら生まれ変わると信じますか? 宗教は信仰しますか? 私は、全て信じていません。 宗教も嫌いです。 人間の弱さから宗教ができたのでしょうけど、害でしかないと思っています。
- ベストアンサー
- アンケート
- 行政書士試験の意見公募手続について
パブリックコメントをしなければならない「命令等」ですが、命令、規則、審査基準、処分基準、行政指導指針はすべて法律に基づいたもののみでしょうか? それともこの中(命令、規則、審査基準、処分基準、行政指導指針)に法律に基づかなくてもパブリックコメントの実施が義務化されるものはありますか? 根拠となる法令か判例などがあれば合わせて教えていただきたいです
- ベストアンサー
- その他(法律)
- 信じるものとそうでないものとの付き合い方
私の友人はあるメジャーな宗教を信仰しています。 私もその宗教についてはよく知っていますが、信仰はしていません。 友人とは高校時代からの親友です。 世間話やちょっとした相談程度の話はよくしており、友情もあると思います。 しかし、深い話になってくると、やはり友人はその信仰の世界観から全てを判断するので、その世界観からはずれているものは「愚か」だと考えています。また、世の中色んな考え方を認める事や、違う大きな視点があるかもしれない事、自分と世界観は違っている人でも心から愛する事もできるはずだという私の考えには全く否定的です。 確かに私が言っているのは理想論かもしれませんし、友人にとってはその信仰は「人生の全て」ですから、ちょっとした意見とかもすごく遺憾なのでしょう。 友人の信仰の世界である、同じ信仰を持った人間としか心から仲良くする事はできないというのは何だか悲しい気がします。ですので深い話をすると、必ずどこかで意見が食い違い、分裂してしまうのです。 これは仕方ない事でしょうか?友人とは深い話は一生できないのでしょうか?
- 締切済み
- 恋愛相談
- 日本独自の宗教についての質問です。
現代(第二次世界大戦後)の日本社会に単一の宗教が根付かなかった理由は何だ、と思われますでしょうか? 確かに大日本帝国憲法でも信仰の自由が認められていたそうですが、基本的には「『国家神道』への信仰」が重視されていた、と思われますので、終戦後に帝から【神格性】が剥奪された途端に、信仰の対象の必要性が感じられなくなったからなのか、と私が勝手に考えてきました。 でも、それに酷い誤解が含まれていますと、勿体無いですから、 宗教的な価値判断を為さらずに、教科書的な回答を頂けませんでしょうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 自分の生を肯定するにはどうすればいいのか??
私の母はキリスト教徒です(世間では新興宗教に属すとされている)。 よって、私は生まれてから、思春期に至るまで、神を無意識に信仰してきました。 その信仰に違和感を感じたのは小学校高学年の時です。 私は根っからの松井秀喜ファンで小学生時代は自他共に認める野球少年でした。 しかし、その野球を捨てねばならない状況になり、また恋愛や友情も否定されました。 私の青春を否定されこの世に自分の生を肯定できるものが一切なくなりました。 (ex1:恋愛→異教徒との結婚の否定&性の不道徳に陥る可能性から。ex2:友情→信仰がない人との繋がりは信仰に反する思想を作る可能性があるから極力避けるように、ex3:部活→週3回の集会に出席しなければならず、また奉仕活動にも参加しなくてはならなかった) それに加え、キリスト教の教え(愛・喜び・平和・辛抱強さ・親切・善良・親切・温和・自制などを身に着けること、暴力・性の不道徳などの否定)が私にはどうしてもできず、ペシミスティックになってしまうのです。 小学生の時にもう宗教を辞めたいと母に直訴しましたが、泣きつかれてどうしようもありませんでした。 それから、ぐだぐだと高校時代まで続けましたが、もちろん生を肯定できるものは何も生まれませんでした。 中学高校時代に隠れて3人ぐらいと付き合いましたが、自暴自棄になりすべて2週間以内に僕の勝手で別れました。 高校の途中でこのままでは死しかなくなると思い、宗教から脱退しました。しかし、そこに見えたものは絶望でした。 宗教と無宗教では善悪の基準が全く異なり、宗教は道徳を人間がすべき絶対の掟であるとするが、無宗教は道徳は個人的な良い悪いがただ社会を形成するためにあるだけであるというものでした。 その社会のルールは表向きは道徳を基本として形成されていますが、誰も道徳を守っていないという矛盾の世界でした。(社会が認める道徳的であることは、利己的・虚栄心からも成立し、根本的に道徳的ではない) そしてどっちが根本的に正しいか、人間の言葉では、決めれないということにも気づいてしまいました・・・。 私が宗教から学んだことはヒューマニズム・禁欲主義ですが、現代の競争主義・大量消費社会に精神的に違和感を覚え苦しいです。 私の心の中にはきれいごとが住みついていて、世の中の一切を無意識に否定します。その否定してしまった自分を否定してしまいます。 宗教に戻ればいいではないかと思われるかもしれませんが、宗教に対して憎しみが根本的にあるので無理です。(宗教を否定しているわけではありません。宗教を信じるか信じないかはんもちろん自由だと思います) 私はどのようにしたら生の肯定をできるでしょうか?? 前にも同じような質問をしましたが、教えてGOOのスタッフさんに了承を得たので投稿させていただきました。
- 締切済み
- その他(恋愛・人生相談)
- 自暴自棄→生の肯定
私の母はキリスト教徒です。よって私は生まれてから、思春期に至るまで、キリスト教の神を無意識に信仰してきました。 その無意識の信仰に違和感を感じたのは小学5年の時です。私は根っからの松井秀喜ファンで小学生時代は自他共に認める野球少年でした。しかし、その野球を捨てねばならない状況になってしまったんです。それに加え、一般的な恋愛さえも否定されていました。 私の青春を完膚なきまでに破壊され(ex1:恋愛→生の不道徳という考え、また異教徒や無宗教との繋がりは極力避けるようにという教えから。ex2:部活道→週に宗教の集まりに3回出席しなければならず、それに加えて宗教を広く伝えるという奉仕活動にも参加しなくてはならなかった)、この世に自分の生きていくことを肯定できるものが一切なくなってしまいました。 また、キリスト教の教えは私を二重に苦しめました。キリスト教の教え(愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、親切、温和、自制などを身に着けること、暴力、性の不道徳などを否定すること)が私にはどうしてもできず、ペシミスティックになってしまうのです。 小学生の時にもう宗教を辞めたいと母に直訴しましたが、泣きつかれてどうしようもありませんでした。 それから、ぐだぐだと高校時代まで続けましたが、もちろん生の肯定できるものは何も生まれませんでした。 高校の途中でこのままでは死ぬしかなくなると思い、宗教から脱退しました。しかし、そこに見えたものは絶望でした。 この世界は私が教えられていた善悪の判断をほぼ否定した世界であり、その社会のルールは表向きは道徳を基本として形成されていますが、誰も道徳を守っていないという矛盾の世界でした。(社会が認める道徳的であることは利己心・虚栄心・狂信・私利私欲に使われているので結局は道徳的ではない) 私の心の中にはきれいごとが住みついていて、世の中の一切を無意識に否定します。その否定してしまった自分を否定してしまいます。 宗教に戻ればいいではないかと思われるかもしれませんが、憎しみがあるので無理です。 私はどのようにしたら生の肯定をできるでしょうか??
- 締切済み
- その他(恋愛・人生相談)
- 宗教とこれからの宗教問題について
大学の1回生なのですが、宗教についてのレポートを書かなくてはいけません・・・それで少しだけ意見を教えてください。お願いします。 宗教とは信仰している人によってどのようなものであるか。最近の紛争宗教の溝によって起こることが多く、なぜそのようになってしまったか。この紛争を解決するにはどうすればいいか。この3点について皆さんの意見をお願いします。少し難しくてすみません。
- ベストアンサー
- その他(社会問題・時事)
- 1948年サウジアラビアはなぜ人権宣言を棄権したのか?
1948年の第三回国連総会において、「世界人権宣言」が可決されました。しかし、この採決時にサウジアラビアは棄権しています。それはなぜでしょう? ある宗教を信仰しているかららしいのですが、詳しく教えてください。
- 締切済み
- 経済学・経営学
補足
何もないところっていうのは価値がないってこと。 今ある価値をすべてカッコでくくってしまって、世界を見て新しく価値を生み出すということ