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保育の指針~生きていく上での指針 とは?
こんにちは。こちらのサイト初心者です。 私は既婚で子育て初心者(新米ママ)です。今、もうすぐ1ヶ月になる第一子を育てています。 子どもを育てていますが、私自身、人生の疑問が未解決のまま何となく生きているので、子育ての指針がわかりません。 生きていく上で大切なことは何でしょうか? 生きていくのは楽しいですか? 人として生きていくには、食べていける(稼げる)能力がやはり優先的に大切ですか? 愛情や思いやりなど、お金に還元されないもののほうがより大切でしょうか? でも、やはり実務的な能力や才能がないと、生きてゆくことすら出来ないですから、やはり、そちらを意識して、子育てでも、そちらを意識的に伸ばすようにして、私たちは生きてゆかなければいけないのでしょうか? 人の価値は何で決まりますか? 人生の意義って何ですか? 生き甲斐はどのくらい人生を変えますか? 人間がこの世に存在している価値や益はありますか? 人に生まれて本当に良かった、とか、希望とか夢を持ちながら生きてゆくよう子どもを助けるには何が役立ちますか? 人生はこういうものっていう定義づけは必要ですか? 私は物心付いたときから成人直前までは、ずっと宗教で人生観や世界観を構築していたのですが、それが崩壊してからは、答えのない問いを保留にしていることで、他者との関わりや人生自体へ消極的な姿勢になっているような気がします。(表面的には人好きのように振る舞えても。) 子どもには宗教は教えないつもりです。神話を読むような感覚で相対的に親しむことは構いませんが。 私は、親は子どもに特定の人生観と目標を持たせ、良いレールを敷いてやり、その到達に向けて細やかにサポートすることが肝要だと聞かせられて育ってきましたし、それを信じてきました。自分でもそのように育てられていたときは少なからず幸せでした。 でも、それが自分のものとして永続するものでなくなったときに、人生を再構築するのに非常な困難を覚えました。それが、子どもに宗教を与えたくない理由です。子ども自身が成長して自分で見つける場合は別です。 世間一般的には、親が子どもに道を示すのではなく、子どもが自ら道を見つけるのを親は見守っていくものなのでしょうか? そうだとしても、子どもがそうやって自らの生き方を選択できるようになるまで何をベースに育てていけばいいか、また、自分自身、何をベースに他者と関わり生きていけばよいか、アドバイスがあればお願いします。 ちなみに、今、保育士の資格取得を目指そうとしています。でも、育児中という状況に甘えた怠惰に加え、はたしてこれが本当に自分のやりたいことなのかも、自分に適性があるのかも良くわからないためモチベーションも曖昧で、教材は揃っているいるものの、なかなか取り掛かれずにいます。たぶん、自分の子どももまだ表情などのレスポンスが少ない時期なので、笑顔が育児のやりがいになったりというところまで来ていないのかもしれません。ママ友さんたちがとても楽しそうに甲斐甲斐しく子どもを世話しているのを見ると、自分は冷めているのかな?と思うこともあります。可愛がりたいという気持ちはあるのですが、なかなか自己犠牲的にはなれません…。 保育士の方々は、子どもと接する上で何を指針にして指導していらっしゃいますか?やはり社会性や心身の発達向上がベースですか? また、保育士の方に、保育士としてのやりがいや、 保育士かどうかを問わず子育てに携わる方々に、保育が生き甲斐になっているという経験などもお聞きしたいです。 質問だらけでごめんなさい。余すところなく応えていただく必要はございません。部分的で結構です。私のような疑問を持っている方はどのくらいいらっしゃるのかも気になります。皆さんの声を聞かせてください。
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こんばんは。#5の者です。 またお邪魔さ褪せて頂いてもよろしいでしょうか。。。? >私の場合、親である私自身が、前向きに「生きよう、生きたい」という強い意志と付いたり離れたりなので… 私なんて、自分については「生きようが死のうがどっちでも良いやーー」って感じですよ。^^ 只。。。。「子ども達の為に死ぬ訳にはいかない」から「死んでも生きなきゃ!」って覚悟です。^^ 只それだけです。 >旦那は、疑問が浮かぶ隙もなくアグレッシブに生きている感じですので うわ!私の大好きな夫もそんな感じです。^^ 私とは正反対!なところが多く、色々と勉強になりますし、何より「飽きません!」。。。汗 只、「欲張り」な所だけは二人とも「そっくり!」かな。。。 どうせやるんだったら、楽しくやろう! どうせ生きるんだったら、笑って幸せにならなきゃ!。。。って。^^ >少しネットで調べてみましたら、宗教的な香りのするように感じたのですが… >私は一神教にアレルギーがありますので…すこし内面の隔たりを感じてしまいました。 >折角ご紹介くださったのにごめんなさい。もし、私の早とちりでしたらご指摘ください。 そうですね。。。特定の信仰を持たず適当な(汗)私には「そんな事は無い!」と思えても、marusaku様には「無神経なお薦め」になってしまいました。お許しください。 只、私には特に「○○教の神」と言った「前提」には感じられなかったのです。実際に「神」と言う言葉は出て来ますが、文中で特定されてはいなかった筈です。(私自身の信仰についての考えは、このカテゴリの少し前に「宗教の違いについて。。。」と言う質問への回答を参照頂ければ、と思います。) 私がどうしてシュタイナーを好きになったのか?と言うと、「おもちゃの与え方」についての見解が、とてもとても私の感覚にぴったり!来たからなのです。^^(お薦めの「子どもの教育」の方に詳しく載っております) それと、落合恵子さんって、ご存知でしょうか? 小さい頃に読んで印象に残っていた絵本が、落合さんの絵本でした。 その落合さんが主催している「クレヨンハウス」と言う絵本屋さんが有ります。その理念(?)に惚れ惚れし、そこで目にしたのが「シュタイナー教育」。。。何だこれ?と調べて本を読み、何だか「ほのぼの」してしまって、「こんな気持ちを忘れずに子ども達と過ごしたい!」と思ったのです。 だから、私にとってシュタイナー教育の中で語られている「神」は、「○○教の神」では無く、「大人からは見えない子どもの世界」のような感じです。 小さな命を生み出し、世話をし、観察し、その「感受性に寄り添って」いくと、不思議な事にいっぱい出会いますよね。^^ 「言葉を知らないままで感じる世界」って、どんなでしょうね。。。 私はとてもとても気になります。^^ 例えば「おむつがビチョビチョ!」。。。これを「言葉でなく感じる」って。。。 そんなくだらない(大汗!)事を考えていると、やっぱり「人智を超えた存在」を無くして「子どもの世界は語れない」ように私には思えるのです。 私にとって「神様」って、そんな感じです。(適当で申し訳ありません!!) こんな感覚でいるので、お薦めした本の中の「神」と言う言葉が「気にならなかった」のだと思います。 私はこう思っておりますが、「ちょっと。。。」とお思いになりますなら、無理に調べたりなさらず無視して下さいませ。^^ >私は、素直に喜ぶことを、こわいと感じてしまうのですが…。 その感覚、私もあります。^^ きっと「症状のひとつ」でもあると思いますが。。。 私は子ども達とぶつかり合い、夫とぶつかり合う日々の中で、かなり薄れたように感じております。何しろ「そんな事は言っていられない!」くらい、次から次へと子ども達は「感情の嵐」を巻き起こしますので。。。汗 それにつられて「勝手にリハビリ?」されちゃったようにも思います。 子どもと過ごす日々って、これ迄の人生で味わった事の無い「感情の深さ」を体験させてくれます。勿論「家事のやり方」から「段取りの仕方」「視線の高さの違い」から「言葉の選び方」まで、ありとあらゆる「未体験」を含んでいるので、私は「自分の人生を一から作り直した」気分になります。そのくらい「白紙撤回させられる」事が多いですので。。。爆 >親である私たちの幸せが、子どもの生きる意志と結びつきますように、 という(同じ)ことですよね^^ この詩(?)は 「おまえの中に光が流れていきますように」と言う文から始まります。 命は「光」を内包しているもの、と言うのが「前提」です。 お子様を見守っていて思いませんでしょうか? 「子どもって、人間ってこんなに一生懸命なんだ。。。」って。^^ 私は子どもを産んで初めて「人類の未来に希望を感じる」って思いました。(大袈裟な!) 何も「教えられていない」子どもが、一生懸命「大きくなろう!」とし、「寝返りしよう!」と頑張り、寝返り出来たら「次はずり這い!」、「ちょっと足を使ってみようかな。。。?あ!こんな事も出来るんだ!。。。じゃあ、これは?。。。あ!失敗しちゃった!!」って日々「修行」している。^^ 「命」って、初めの初めから、「前進/向上」で形成されているんだな。。。って私は思いました。 そう気付いたら、「素直に喜ぶ」事が、あまり「引っかからなく」なっていました。 私は子ども達に「世界は美しい/綺麗だ」と教えるつもりはありません。 現に「美しい/綺麗だ」とは思っておりませんので。^^ でも、実際に世界には「美しいもの/綺麗なもの」が存在し、その多くは「隠れている」と思うのです。 実際、「こんな汚い世界/社会!」と言う言い回しは良く耳にしますし。^^ 私が子ども達に教えてあげたいのは、「世界に隠れている良いもの」の「見つけ方」です。 これは、「幸せ」でないと見つけられない事が多いように思います。 私自身、「目の前の幸せ」が何故か「見えなくて」、命を粗末にしてしまった訳ですし。。。。 何だか、とりとめも纏まりも無くて申し訳ありません!! こんな人生経験不足で未熟な若造が「育児論」めいた事を長々と書くなんて。。。。大恥かも知れません。数日後には「削除してーーー!」と恥じ入っているかも知れません。。。。 私も「睡眠至上主義」とは思うのですが。。。夜更かしばかり。。。 お身体大切にお過ごしくださいませ^^
こんばんは。 質問が立った時から興味深く拝見しておりました。 20代後半の三児の母です。 特定の信仰は有りませんが、「神の存在」については信じているものです。まあ。。。。サンタさんが居ないなんて、つまらない!と言うのと似た感覚です。^^ >私自身、人生の疑問が未解決のまま何となく生きているので、子育ての指針がわかりません。 育児の方針と言うか、とにかく「生きる意志を強く持つ」ように育てなければ、と、これが私の最初の育児方針かも知れません。^^ 私自身が一度「命を捨てかけた」人間です。 この「過ち」だけは「絶対の過ち」と考えております。だから、他の事はどうあれ、この事については「身に沁み込ませて」育てたい、と思います。 私が私の母に言われた印象的な言葉が幾つか有るのですが。。。 *やって挙げたい事をしてあげなさい *私たち(母)が間違っていた、とあなたが思う事があったなら、あなたはそうしないように育てなさい。 このふたつが、私が「育児で迷った時の頼り」になっています。 色々と迷う事や選択肢は有りますが、まずは「理想的人生の一例」として、親の生き方があれば良いかと考えています。 私は既に「大きな償い切れない過ち」を犯しましたけれど、これを「二度とする筈が無い」人間です。そして、「する筈が無い自信の根拠」を、子ども達に「未経験のままで」教え込んで行かねばなりません。 その為に。。。。と言っては何ですが、一つの「目安」のようなものとして、「シュタイナー教育」をかじっております。 私が参考にした本をあげておきます。 ルドルフ・シュタイナー 「人間理解からの教育」西川隆範訳 「シュタイナー・コレクション1 子どもの教育」高橋巌訳 両方とも筑摩書房からの出版です。 この中の「赤ちゃんのための眠る前の祈り」が大好きです。 「心から この私(=親)の喜びの気持ちが お前の生きる意志と結びつきますように そして この意志が どんな時も どんなところでも 自分自身で強く存在していけますように」 その終わりの一節です。 「神」と言う言葉を使わずに書かれた「祈り」と言う所にも惹かれました。 でも、親が子どもに「幸せになってね」と強く強く願う事は、まさしく「祈り」だと感じます。無神論者であろうと、誰であろうと、親はそう願います。きっと、神様なんて信じようが信じまいが、親はそう「祈り」ます。。。。marusaku様もきっとそうなのでしょう。 現在、鬱病治療中にて引き蘢っておりますので、時間はまま有りますし(汗)、何か有意義なお話が出来たらいいな、と考えております。 纏まりが無い文章にて、申し訳ありません! どうぞよろしくお願い致します。^^
お礼
(補足欄の続きです。) いちいち表現に躓いていてすみません。 親である私たちの幸せが、子どもの生きる意志と結びつきますように、 という(同じ)ことですよね^^ ちょっと言葉が抽象的で意味を捉えにくいのですが(末尾だけだからでしょうか)、 「親が幸せだと子どもも生きられる」、っていうことなのでしょうか? >現在、鬱病治療中にて引き蘢っておりますので そうでしたか。安定をお祈りいたします。 こちらは現在は安定していると思います。 月単位・日単位でも変動しますが。。 密閉された「自分」の中で考え続けることが鬱の罠だな、とは思っています。 この掲示板を通して他の方と意見交換することで、けっこう気分的にも助かっています。 現在、育児の疲れやストレスを招かぬよう、睡眠至上主義のような生活をしておりますが(笑)、覚醒している時には投稿もいたしますので また機会がございましたらよろしくお願いいたします。
補足
>生きる意志を強く持つ 一番根本、ゆえに一番大切な指針かもしれませんね。 意志っていうのは受け身ではないですもんね。 その意志を持つには、きっと、子ども本来の力と、周りの力との両方が必要なのだと思います。 振り返ってみると、私は幼い頃は物にも愛情にも何不足なく育ちましたので、生きる意志といったものがなくとも、親をはじめとする大人たちに守られ(受け身で)生かされていたのですが 生きる意志という主体性を必要としていったのは、10代の、少し大人になりかけた頃からかもしれません。 まずは守ることから。この子の命を守るところから始め、続けたいと想います。自ら「生きよう」と思うことができるまでは、生かすことがまず必要ですものね。その後(主体的に生き始めてから)は、子どもの背中を押すような気持ちで生きるサポートをしてゆけたらと思います。 >*やって挙げたい事をしてあげなさい >*私たち(母)が間違っていた、とあなたが思う事があったなら、あなたはそうしないように育てなさい。 そうしたいなぁ、と思います。 親の育児法は、部分肯定 部分否定で、 自分が親からもらったものを同じようにあげたいな、とか 親の二の舞にはなりたくないな、とか 思います。 (今は、ここまで育ててきてくれたということ自体に脱帽の思いですが。) 親子なので結局価値観は似てくるかもしれませんが、 旦那 という別人格のパートナーとの共同作業ですので、 ふたりで話し合って、子育てのビジョンを共有してゆかないとな と思っています。 >私は既に「大きな償い切れない過ち」を犯しましたけれど、これを「二度とする筈が無い」人間です。そして、「する筈が無い自信の根拠」を、子ども達に「未経験のままで」教え込んで行かねばなりません。 そう言い切れるところが素敵ですね。 私の場合、親である私自身が、前向きに「生きよう、生きたい」という強い意志と付いたり離れたりなので… 自分にないものを果たして子どもに与えられるのかなぁ?といったところです。夢や目標に関しても、気まぐれです。熱しやすく冷めやすいというか。自分がかつて懸けていた信仰に比べたら、何となく物足りなくて。現在に満足している(もうこれ以上求めるべきものはないだろう)というのもありますが。 旦那は、疑問が浮かぶ隙もなくアグレッシブに生きている感じですので(むしろ生に執着していそうです)、生きるのは当たり前と思っているような気がします。私が、かつて、半分死んだような感覚で生きていたときに出会った人です。 もし、子どもが何かに苦しみ「死にたい」という気持ちになったら 私は理解してあげ易いと思います。 子どもが何かに苦しみながら「生きたい」という気持ちを示すとき 旦那は共感してあげ易いと思います。私は逆に、この子すごいね、えらいね 私だったら…と思うかもしれません。 いずれにしても、子どもが命を大切に感じるように導いてゆけたらと思います。 >私が参考にした本をあげておきます。 少しネットで調べてみましたら、宗教的な香りのするように感じたのですが… 私は一神教にアレルギーがありますので…すこし内面の隔たりを感じてしまいました。 折角ご紹介くださったのにごめんなさい。もし、私の早とちりでしたらご指摘ください。 >心から この私(=親)の喜びの気持ちが お前の生きる意志と結びつきますように 親自身が、喜びの気持ちを抱いていてこそ祈れることですね。 私は、素直に喜ぶことを、こわいと感じてしまうのですが…。 自分のうちに、「幸せ」という心の状態を認めることはできても、 「喜び」であるかというと ?(回答不能)な人生を歩んでおります。 イメージで表しますと、喜び=↑ であり、 次に↓=失望となることを連想してしまうせいかと思います。 幸せにも、不幸という対義語はありますが 客観的に不幸でも、当人は内的に幸せであれたりしますから。 (お礼欄に続きます)
- magga
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<<まず能動的に「与える」ことを意識してゆくことが大切なんですね!>> ですね。喜捨(喜んで捨てる)です。 <<与えれば必ず自分も得られる、満たされる、という保証がなくても与えることは大切でしょうか?たとえば愛情などです。>> もちろんw しかし愛情のなかの執着心などは結構邪魔者で、愛情という言葉に隠れてた怒りと貪りによって、相手を弾き飛ばそうという・奪い取ろうと言う感情をぶつけることに。それは与えることになってませんから、その感情に自分も他人も傷つき、他者からはそれ相応の対応をなされるように感じます。 与えることになれることですね。 無理して後で後悔なんてしたらその感情で自他が焼かれますから。気持ちよく捨てるように(喜捨)与えら得れるように。少しずつ簡単なことから始めることです。 そのうち与える行為自体が自分を幸福に導くものと納得がいくと同時に行為自体に満足できるようになると思います。 <<物質面でも精神面でも損得を計算してしまい、結果的に心が貧しくなってしまっている自分に気付くんです。「与え損」と感じ、ばかをやっているような寂しさや空しさを感じてしまうことがあります…鏡の法則では、与えることは受け取ることと同じだそうですが、そこまでの境地には私は達せていません。。>> 損得勘定は善いことと思いますよ。 スマナサーラ長老の書籍で「智慧と慈悲の開発レッスン」に損得勘定について詳しく載ってますが、自分と相手の損得勘定が出来る人は「自分と他人がどうなれば損するのか得するのかがわかってる人」ですから明るく自他が得をする方法を見つけられる人と思います。 ばかをやっているような寂しさや空しさを感じてしまうなら、損得勘定自体が間違ってしまっているのかも知れません。与え方や与えるとき与えるものを。 <<他者の幸せが自分の幸せでもあると感じられるようになれば、自ら幸せを生み出せるようになれますね。積極的になれそうですね。>> はいw <<楽しみ。いい言葉ですね。必要な仕事を楽しむ(自分の場合は家事・育児)こともできますしそれでも十分幸福感がもてるっていうことですね。 >> 楽しみに根拠は必要ありませんw 興味を持ってちょっと集中するだけですw 感情的にならず楽しむようにと思うだけで人生は大分違うものになると思います。楽しみの天才になりませうw <<【「与えるものの多さ」でしょうかね。】物差しで計れるものでなくても、自分の価値を感じたり、価値を高めることは出来るんですね。私は自分に自信が持てなくて、今は経済的・社会的には価値を発揮する場もないので不安になることがあります。>> 何をおっしゃいますw 子育てなんて、この世でこれほど社会的経済的に影響の有る価値を発揮する行為はなかなかあるものではないでしょう? これほど有意義で社会の一員として役に立つことは無いと思いますよ。 社会に迷惑を与えない人間に育てるだけでも相当役に立ちますし、社会に有益に働こうとする立派な人間に育てれば計り知れないほどの影響価値を生むことになるでしょう。 <<私はまず自分の苦しみをなくしたいと思ってしまいます幸福なふりをするのは辛いですでも人を助けようとすると平安な気持ちになります。>> 自分を助けることは、他人を助けることになって。 他人を助けることは、自分を助けることになる。 そのようなことを探していけば間違いは無いですねw 「怒らないこと」とかもこのうちにあると思います。 <<人格向上は生涯かけてめざしていきたいと思います。やっぱり誰かを想える純粋な気持ちで一生懸命生きるのは幸せだと思います。>> そうですよね。 <<完全な哲学などなく、どんな考え方でも否定する人がいる以上、摩擦を避けるためには哲学を持つべきではないと思っていたところがあったので、結局自分自身も見失うことがよくあります。>> 一度サンガ出版の「仏法」の八正道の項目を読むことをオススメします。理性的に生きるとは何かについて現実的に何かを見たり語るのにどのようにしたら善いかの指針が書いてあり、多く納得のいくものと思いますよ。 <<でも自分なりの哲学は持っていてもいいんですよね。相手と異なる哲学を持っていることを嘆く必要はないんですね…それでも現在の私は嘆いてしまいますが。嘆くな、っていう哲学を持てばよいでしょうか。>> そもそも自分と全く同じ見解なんて全てを悟るまで無いと思ったほうが善いと思います。自分の見解も正しいと言えたものではないんです。皆が語ることもただの一つの仮説ですから。 その中から自分の理性をフルに使って、範囲と根拠を探して、自分の納得がいくものがあったなら自分の見解仮説をさらに構築しなおせば善いと考えれば善いと思います。 だんだんマシなものになっていくでしょうw 範囲も根拠もあやふや、アベコベなことを言ってるなら「そうですかぁ」と聞きながら無視しておけば問題も無いでしょう。 強引に押し付けてきたときだけ、「貴方の言うものにはこのような不完全なところが有る。範囲と根拠をがこのように足りない。」と論破するか、にこやかに離れるかすればあまり問題も起こらないでしょう。 上記した書籍の正見の項目に役に立つであろうことが多く詳しく載ってますよ。 <<はい!私も幸せ、あなたも幸せ、みんな幸せ。という風になれるように工夫やイメージをしてみます。>> すばらしいことです。貴方も幸せであれw 多く思念したことに心は傾くと思います。 慈悲の冥想なんかもオススメですよ。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
補足
字数の関係で、お礼の内容ですが補足欄に書かせていただきます。 >しかし愛情のなかの執着心などは結構邪魔者で… 仏教では愛は欲望や煩悩と同じなんですね。 私は元々キリスト系でしたので、愛を至上のもの、綺麗なもの、絶対のものと信じこんでいました。 でも、強すぎる愛(密着心というか依存心というか)には恨みや嫉妬や失望や欲求不満などの副作用もありました。 愛されるべき、愛されるべきという信念に囚われていた(執着していた)と思います。 いま愛せないという現実に苦しみ、自分が最高に超自然的存在(神)を愛し、それにより自分や他者を愛せていた時代(楽しかった時代)を振り返っては懐古主義になってしまうのです。 ネットで少し仏教の精神を調べてみました。喜びにも苦しみにも冷静であることがベースとしてあるようでしたが、相違ないでしょうか。 なので、「大好き!」と思えなくても良いわけなんですね。私は、なぜ大好きになれないのか、自分は冷たい人間になったのか、人を愛せなくなったのか、選ぶ人を誤ったのかなど悩んでいました。以前は人間大好きでしたので。 しかし大好きという感情はなくても慈みの心があれば人に優しくなれるということでしょうか。安定した温情を持てるでしょうか。そのようになれるようにしていきたいと思います。 >与えることになれることですね。…そのうち与える行為自体が自分を幸福に導くものと納得がいくと同時に行為自体に満足できるようになると思います。 はい。実感こそ継続の力かもしれませんね。躓いたら原因を探りつつ、続けたいと思います。 >ばかをやっているような寂しさや空しさを感じてしまうなら、損得勘定自体が間違ってしまっているのかも知れません。与え方や与えるとき与えるものを。 たとえば、私には、人と会っているとき、会話しなければ。おもしろい話題を提供しなければ。雰囲気を作らねば。自分をさらけ出さなければ。という脅迫観念に近いものがあります。それが相手への持て成し(<サービス・好意表現)だと考えるためです。親近感を自然に感じない相手に対してもです。そしてぐったりと疲れてしまうのです。でも演じているキャラクターを定着させてしまい、維持に苦しむことになります。 >子育て…これほど有意義で社会の一員として役に立つことは無いと思いますよ。 このお言葉をいただき、とても嬉しく気持ちがぱっと明るくなりました。自分もそういう見方をしてモチベーションを支えたいと思います。ありがとうございます。 >自分を助けることは、他人を助けることになって。 慈悲の瞑想でも、まず自分の幸せを願うことから始まるんですね。自分を満たすことが、他者へも恵みを広げていくためのステップになるんですね。とても新鮮で爽快です。 >そもそも自分と全く同じ見解なんて全てを悟るまで無いと思ったほうが善いと思います。自分の見解も正しいと言えたものではないんです。皆が語ることもただの一つの仮説ですから。 自分の見方に執着してはいけないんですね。同じ人がいないからといって戸惑ったり孤独を感じないようにしたいと思います。 >強引に押し付けてきたときだけ、「貴方の言うものにはこのような不完全なところが有る。範囲と根拠をがこのように足りない。」と論破するか、にこやかに離れるかすればあまり問題も起こらないでしょう 自分が正しいと思っている傲慢な人には不快感を感じ、気持ちよく接することを難しく感じます。特に、他者への影響や配慮を軽んじる人には理性的にも生理的にも抵抗を感じます。でも相手が家族の場合、諭すことも離れることもできません。相手の面子に配慮し黙って聞き流すことはできても、その態度の大きさ自体に反感を持ち、こちらが内心で相手を見下げてしまいます。また、年下の者が年長の相手の意見を聞かないと、頑固な生意気者という印象を与えるようですが…それでも自分の思い(価値観の相違点)だけは伝えておいたほうがよいのでしょうか。長期的な関係を良好に保ちたい場合ですがいかがでしょうか。 >その中から自分の理性をフルに使って、範囲と根拠を探して、自分の納得がいくものがあったなら自分の見解仮説をさらに構築しなおせば善いと考えれば善いと思います。 はい。常に未完成とし、柔軟性を持たせるということですね。 >多く思念したことに心は傾くと思います。 慈悲の冥想なんかもオススメですよ。 調べてみました。上記の通りです。毎日、瞑想文を見るようにしています。 心が乱れているときはすっと入ってこないこともありますが、心が柔らかなときに反芻して、いずれは自分の精神の基盤にしていきたいと思います。 仏法の本につきましては、少々高いかなという印象ですが…入手検討してみます。重ねてのご回答に感謝いたします。
- trolls
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お子様を育てるにあたり、これまでの人生や我が子のこれからをずいぶんとお考えになられていると思いました。子育てにあたっても、色々と心労もお有りかと拝察いたします。 私も若い頃は人生の意義などについて、色々と考え込む時期がありました。が、考えれば考えるほど矛盾やら何やらでこんがらかってしまい、挙げ句に出した結論が、「日々一日一日を淡々と送る、それが亡くなる時に人生となるんだよ、結局」でした。「遠き山に日は落ちて」という歌がありますね。その歌詞に「今日の業(今日のやるべき事)を成し終えて、心軽ろく休らえば、風はすずしこの夕べ…」とあります。この歌詞が私の人生観にぴたり、あたります。 さて子育てについてですが、私はプライベートで若い人のヘビーな相談を時に受けるのですが、その経験から言うと、「子どもは愛される権利がある」「愛されている実感を持った子供は、逆境に強い」です。 子どもは「自分は愛されている」という実感を持たないで育つと、人生の中で経験する様々な困難に打ち勝つことが大変難しくなります。なぜなら、土台がないからです。子どもは、「自分は愛されている存在なんだ」と感じていればこそ、様々な冒険も時にぶち当たる困難にも耐えられるのです。 保育者は子ども達に、「今のあなたが好きなのよ。今のあなたで良いのよ」と肯定することが大切であり、それが原点だと思います。その原点をふまえた上で、「この子がこれからの人生を渡っていくのに必要なものは何?」と考え、実践することが求められるのです。 質問者様のお子様はまだ生後1ヶ月とのこと、確かに見たところ昨日と大して変わらない、明日とも大して変わらない今日のご様子でしょう。ですが、お子様の体内では、見えないけれども日々成長し、未来への準備を着々とされているのです。それは、質問者様が十月十日お腹の中で育み、質問者様がその間様々な困難や痛みを通してお子様に与えた力があったからこそ なのです。それを忘れないように願います。 今は目一杯お子様を抱いてあげて下さい。質問者様が悲しい時も、苦しい時も、お子様を抱いてあげて下さい。3ヶ月くらいになると首もすわりますから、忙しい時にはおんぶをして、家事をされるのがよろしいかと思います。「抱き癖」を「これでもか!」というほどつけて下さい。 それが、お子様が将来困難に遭遇した時の打ち勝つための原動力になるのです。 抱きしめることは、抱きしめられる ことになるのです。いずれ、質問者様も実感されることと思います。
お礼
trolls様 温かい応援のこもったご回答ありがとうございました。 母として子どもに与えられるものがある喜びに想いをはせることが出来ました。 >子どもは、「自分は愛されている存在なんだ」と感じていればこそ、様々な冒険も時にぶち当たる困難にも耐えられるのです。 いつも忘れないようにしたいです。子どもの、生きる力になりたいです。 >質問者様のお子様はまだ生後1ヶ月とのこと、確かに見たところ昨日と大して変わらない、明日とも大して変わらない今日のご様子でしょう。ですが、お子様の体内では、見えないけれども日々成長し、未来への準備を着々とされているのです。それは、質問者様が十月十日お腹の中で育み、質問者様がその間様々な困難や痛みを通してお子様に与えた力があったからこそ なのです。 実は早産で、2ヶ月ほどは病院でお世話になっていたんです…もうすぐ生後1ヶ月というのは修正月齢(出産予定日からのカウント)です。その間は通いの面会で一日に一時間か二時間抱いて授乳してやれただけでした。 このハンデを埋めるくらいに…↓ >今は目一杯お子様を抱いてあげて下さい。 はい。 今まだレスポンスが少ないのは淋しいですが、これから先長いので、ゆっくりと時間を共にして母子の絆を深めていきたいと思います。
- magga
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<<こんにちは。こちらのサイト初心者です。>> こんにちは。マッガと申します。 僕の思うところを書いてみますね。 <<生きていく上で大切なことは何でしょうか?>> 今有る能力・物を与えて、更なる与えるものを得る(能力や物)、そしてその能力与えることでさらに得ることが出来る。 という基本的な法則を守ることでしょうか。 「得て、与える」「得るために与える」より「与えて、得る」。 子供なら与えるものを得る。つまり「勉強や迷惑をかけない生き方など」を学ぶことが今後の生きていく大きな要素となると思います。 与えるものが多い人には多くの仲間や友が支援者が集まるのは当然のことですからねw そこには自分の感情面も考慮したほうが善いと思います。相手も自分の感情をもって反応しますからね。善い感情を受けたほうが善い感情を返してくれる可能性が多いですからね。 そのようにすれば支援も増えますし、自分をもっと向上させようと言う気持ちとその環境が整っていくと思います。 簡単に言うと「生きとし生けるものが幸せでありますように」ということを、中心の心情におくこと。「自業自得」自分の行いによって結果を得ることが出来る。という明るい思いで自信を持って生きる。ことが重要なことと思います。 そうすると強く生きて生けるようになると思います。 <<生きていくのは楽しいですか?>> 人生は苦しいものですね。思い道理になんてなりませんし、老いますし、病気になりますし、最後は死にます。それだけでなくしかも我々は自分の感情や完璧な自分像などとの比較などによってより苦しいものにしてしまいます。 だから楽しく・楽しみ多く生きるように工夫する必要が有るんですよね。 だからと言ってなんでも楽しんでやってしまっては自己破壊になってしまいますから、自分に・他人に必要なことを楽しむように。 必要なことをすれば自分に利得がありますから後で幸福になりますね。しかも楽しめるように工夫すれば成功しやすいですし。何より楽しいことはありがたいことですからw <<人として生きていくには、食べていける(稼げる)能力がやはり優先的に大切ですか?愛情や思いやりなど、お金に還元されないもののほうがより大切でしょうか?でも、やはり実務的な能力や才能がないと、生きてゆくことすら出来ないですから、やはり、そちらを意識して、子育てでも、そちらを意識的に伸ばすようにして、私たちは生きてゆかなければいけないのでしょうか?>> 上記したことで有る程度わかる思いますw 愛情や思いやりなどをもって能力開発(与えるものを得るを)することです。その感情自体が周りに多大な影響を与えるものです。 能力が天才的に高くても、皆に嫌われて、輪を乱すような、人ならば会社にとってはありがたくないでしょう。多数の人々の効率や士気を削ぐのですからねwそれだけでなく本人も苦しみを多く持つことになるでしょうから。 <<人の価値は何で決まりますか?>> 世間の評価でまともなものを観るなら。 「与えるものの多さ」でしょうかね。 <<人生の意義って何ですか?>> 広い意味で、「自他の苦しみを減らす無くすこと」と思います。 そこには幸福と平安があると思います。 <<生き甲斐はどのくらい人生を変えますか?>> 自他に役立つよい生き甲斐ならば、暗闇の沼地から自由に動き回れる柔らかな光の如く人生が変わると思います。 <<人間がこの世に存在している価値や益はありますか?>> もともとある価値・意味などは無いと思いますが。益となる。価値があると自他が多く思えるように生きることは出来ると思います。 <<人に生まれて本当に良かった、とか、希望とか夢を持ちながら生きてゆくよう子どもを助けるには何が役立ちますか?>> 「希望・夢」は危険をはらみますね。才能能力が無いのに無理して何かをやろうとしたら人生それだけで終わってしまいます。出来ることをやったほうが他人の役に立つし、そこに生き甲斐が出てきます。 一番病も他人に勝つことなども危険な思考ですね。 「夢」がかなったからと言って、役に立つか、充実感・生き甲斐を感じられるか、幸福になれるかは解らないのです。 もし持つなら人格向上に関することや、生きとし生けるもののために・他者のために役に立つこと自体に・そのような立派なしっかりとした人間になるんだと言うことに持つべきものと思います。 そのような夢を持っていれば充実感と生き甲斐を感じられ幸福になることは堅いことと思います。 <<人生はこういうものっていう定義づけは必要ですか?>> 与えるものが無ければ何も得られない 与えようとすれば多く得られる 取ろうとすれば多く取られる でしょうかw <<子どもには宗教は教えないつもりです。神話を読むような感覚で相対的に親しむことは構いませんが。>> 確信を持つものが無いならそのようにするのが理性的態度と思います。個人的には、宗教・信仰に賛成はしません。何より理性的なのが一番と考えてます。大元のパーリ語の初期仏教を学んでいますがそれもこのような態度なので気に入ってます。 仏教と言ったら大乗仏教のように宗教がイメージされますが、仏教以上に反宗教的なものを他に知りませんw <<世間一般的には、親が子どもに道を示すのではなく、子どもが自ら道を見つけるのを親は見守っていくものなのでしょうか?そうだとしても、子どもがそうやって自らの生き方を選択できるようになるまで何をベースに育てていけばいいか、また、自分自身、何をベースに他者と関わり生きていけばよいか、アドバイスがあればお願いします。>> まずは自分の理性を持って正しいと納得がいくものを柔軟に構築していくことですね。自分なりの人生哲学を。 それをこれこそ絶対だと押し付けずに有る程度の年になったら、自分の理性で持って正しいと納得がいくものを柔軟に構築していくこと。柔軟に人生哲学を創っていくことの重要性を教えることが大切だと感じます。 信仰を押し付けられるとその中から出られなくなってしまいますから。理性は大切なものです。 <<可愛がりたいという気持ちはあるのですが、なかなか自己犠牲的にはなれません…。>> 人生の最初の師は「親」です。道徳的な一人前に育てるだけでもすごい仕事なんですよ。 目の前にある必要なことを楽しむように工夫してみてください。どうやったらどう考えたら楽しく感じるかな。あんまり肩肘張らずに気楽に少しずつやってみてください。犠牲にすることは無いでんす。 私達に有ることは「目の前の必要なこと」その連続です。 そのほかの逆の道に行けば今より苦しくなるだけ。 だからいかに必要を楽しむかが善き人生のコツともいえると思いますw <<保育士の方々は、子どもと接する上で何を指針にして指導していらっしゃいますか?やはり社会性や心身の発達向上がベースですか?>> その楽しみを探す能力が育まれれば育まれるほどに、きっと保育しになったとき何でもうまくいくようになりますよw 生きるヒントとして参考になるであろう、スマナサーラ長老の無料で聞けるポッドキャストや書籍などをオススメします。 慈悲の冥想などはかなりオススメです。保育士になられたとき、工夫して子供達が健やかに成長する為の歌など作る際、役に立つと思いますよ。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
お礼
【「得て、与える」「得るために与える」より「与えて、得る」】 まず能動的に「与える」ことを意識してゆくことが大切なんですね! でも… 与えれば、与えられる。ということを信じるには信仰がいると思います。与え合う関係になれたとしても、相手が与えてくれるものは、必ずしも自分が求めているものとは限りませんし…でも相手の気持ちを思うとどんなものでもきっとありがたいものなのかもしれません。 また、与えれば必ず自分も得られる、満たされる、という保証がなくても与えることは大切でしょうか?たとえば愛情などです。何かを得られると期待できる相手に与えるのではなくて皆に公平に喜んで与える精神をもてたらと思うのですが、自分の心の中に神がいた頃のようにはできなくなってしまいました。物質面でも精神面でも損得を計算してしまい、結果的に心が貧しくなってしまっている自分に気付くんです。「与え損」と感じ、ばかをやっているような寂しさや空しさを感じてしまうことがあります… 鏡の法則では、与えることは受け取ることと同じだそうですが、そこまでの境地には私は達せていません。。 【簡単に言うと「生きとし生けるものが幸せでありますように」ということを、中心の心情におくこと。「自業自得」自分の行いによって結果を得ることが出来る。という明るい思いで自信を持って生きる。ことが重要なことと思います。】 【そうすると強く生きて生けるようになると思います。】 なるほど…他者の幸せが自分の幸せでもあると感じられるようになれば、自ら幸せを生み出せるようになれますね。積極的になれそうですね。 【楽しく・楽しみ多く生きるように工夫する必要が有るんですよね。】 【必要なことをすれば自分に利得がありますから後で幸福になりますね。しかも楽しめるように工夫すれば成功しやすいですし。何より楽しいことはありがたいことですからw】 楽しみ。いい言葉ですね。宗教的背景により、楽しむことに罪悪感のようなものがどこかにありました。でも、必要な仕事を楽しむ(自分の場合は家事・育児)こともできますしそれでも十分幸福感がもてるっていうことですね。
補足
すみません。お礼の続きです。下の枠内から順にお読みください。 【「与えるものの多さ」でしょうかね。】 仕事の能力とか効率の良さとか、物差しで計れるものでなくても、自分の価値を感じたり、価値を高めることは出来るんですね。私は自分に自信が持てなくて、今は経済的・社会的には価値を発揮する場もないので不安になることがあります。宗教をやっているときは、「愛を与えることや誠実な奉仕が大切だ」と確信をもっていられましたが、自分が離れて、そう繰り返し言ってくれる人がいなくなってから、誰かにはっきりとそう言ってほしくて、見えないものの価値を、確信を持って語ってもらいたかったんだと思います。 シンプルで深い答えをありがとうございました。心に留めておきます。 【広い意味で、「自他の苦しみを減らす無くすこと」と思います。 そこには幸福と平安があると思います。】 私はまず自分の苦しみをなくしたいと思ってしまいます 幸福なふりをするのは辛いです でも人を助けようとすると平安な気持ちになります。 【もともとある価値・意味などは無いと思いますが。益となる。価値があると自他が多く思えるように生きることは出来ると思います。】 【もし持つなら人格向上に関することや、生きとし生けるもののために・他者のために役に立つこと自体に・そのような立派なしっかりとした人間になるんだと言うことに持つべきものと思います。】 はい。性格や思考を変えよう(戻そう)と、もう一度宗教に頼ろうか?!とか、自分で聖典を読んだり、カウンセラーに相談しようか、とかセミナーを受けようかとか色々考えては退けてきましたが、人格向上は生涯かけてめざしていきたいと思います。やっぱり誰かを想える純粋な気持ちで一生懸命生きるのは幸せだと思います。 【まずは自分の理性を持って正しいと納得がいくものを柔軟に構築していくことですね。自分なりの人生哲学を】。 【それをこれこそ絶対だと押し付けずに有る程度の年になったら、自分の理性で持って正しいと納得がいくものを柔軟に構築していくこと。柔軟に人生哲学を創っていくことの重要性を教えることが大切だと感じます。】 完全な哲学などなく、どんな考え方でも否定する人がいる以上、摩擦を避けるためには哲学を持つべきではないと思っていたところがあったので、結局自分自身も見失うことがよくあります。でも自分なりの哲学は持っていてもいいんですよね。相手と異なる哲学を持っていることを嘆く必要はないんですね…それでも現在の私は嘆いてしまいますが。嘆くな、っていう哲学を持てばよいでしょうか。 【目の前にある必要なことを楽しむように工夫してみてください。どうやったらどう考えたら楽しく感じるかな。あんまり肩肘張らずに気楽に少しずつやってみてください。犠牲にすることは無いんです。】 はい!私も幸せ、あなたも幸せ、みんな幸せ。という風になれるように工夫やイメージをしてみます。 【生きるヒントとして参考になるであろう、スマナサーラ長老の無料で聞けるポッドキャストや書籍などをオススメします。】 近いうちに探してみます。 親身に答えてくださり本当にありがとうございました。 また、色々教えてください。
おもちゃ屋に勤めていていつも子供と接しています。 親に限らず大人に出来ることは子供に一つでも多くの幸福な体験をさせることです。 勉強が出来るかどうかとかそんなことは関係有りません。 それを怠ると大人になって社会で自活する自身が育たなくてニートになります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 大人から幸福な体験をさせてもらえれば、健全に育ち、幸福な体験が少ないと、社会に適応しづらい大人に育つということでしょうか? また質問でごめんなさい。
お礼
>「子ども達の為に死ぬ訳にはいかない」 私自身はそこまで母性が育っていないので、育っていくことを祈っています・・・ >私とは正反対!なところが多く、色々と勉強になりますし、何より「飽きません!」。。。汗 そうですか、ステキですね!私は、感受性や思考回路や表現のズレを感じて逆に淋しくなることが多いですよ。 でも、旦那は子どもへの愛情はすごくて、旦那が一緒にいるときは私もこの子を自然に可愛がれるんです。その点はすごくよかったな、と。 >marusaku様には「無神経なお薦め」になってしまいました。お許しください。 いえいえ。私も宗教問題に悩んだ経験がなければ、抵抗はなかったと思います。 ただ、同シュタイナー氏の著に「イエスを語る」 という本があるのが偶然目に入ってしまったので・・・ >「宗教の違いについて。。。」と言う質問への回答を参照頂ければ、と思います。) 拝見いたしました。組織宗教に属するとどうしても、悪気なくとも、その絶対的自信が他者には傲慢に映ったりしますね>< 「自分は間違っているかもしれない」 この考えひとつで謙虚になれますものね。これが正しいとかではなく、個人的にとても役立っているよ、くらいの感覚がいいのかもしれませんね。 >「大人からは見えない子どもの世界」のような感じです。 たしかに子どもの生きている世界は、大人の世界とは違いますよね^^ (大人化させられて育った子は違いますが・・・) >「勝手にリハビリ?」されちゃったようにも思います。 >「自分の人生を一から作り直した」気分になります。 私も人生のリメイク楽しんでみます♪ >私が子ども達に教えてあげたいのは、「世界に隠れている良いもの」の「見つけ方」です。 これは、「幸せ」でないと見つけられない事が多いように思います。 幸せになることって本当に大切なんですね 苦労や犠牲が美徳だと頭で考えて動いているうちは、見つけられないかもしれませんね 子どものような感受性をもって、一緒に楽しみ、そばにある幸せをありのままに幸せと感じていこうと思います。