私は全てであり、全ては私である

このQ&Aのポイント
  • 私は全てであり、全ては私である。あなたは全てであり、全てはあなたである。
  • この文章で始まる、どのような世界観においても世界を認識する際に、「私」は全ての基準である。そして「私自身」は「私以外のもの」との比較によってのみ認識される。だから「私以外のもの」「私自身」を生み出す源泉でもある。また、その全ての基準になる「私」は、「私以外のもの」の中に「私」が生きることによって形成されてきたものである。だから、「私」を取り巻く全てのものが「私」の源泉でもある。「あなた」が世界を認識する際に、「あなた」は全ての基準である。そして「あなた自身」は「あなた以外のもの」との比較によってのみ認識される。だから「あなた以外のもの」「あなた自身」を生み出す源泉でもある。また、その全ての基準になる「あなた」は、「あなた以外のもの」の中に「あなた」が生きることによって形成されてきたものである。だから、「あなた」を取り巻く全てのものが「あなた」の源泉でもある。そして「私」は「あなた以外」の中に入り、「あなた」は「私以外」の中に入る。それならば、「私」も「あなた」も世界の基準であるという意味においてお互いに尊重すべき同格のものとして存在しているのだ。
  • そのことがわかったとき、どうして軽々しく他人を非難できよう。否定できよう。他人の発した言葉を自分が近似的に変換し損なった可能性があるというのにどうして言葉のみによって他人を判断できよう。どうして自分と他人の世界の区切り方が異なる「言葉」を全ての判断基準とすることができよう。
回答を見る
  • ベストアンサー

私は全てであり、全ては私である。

1. 「私は全てであり、全ては私である。あなたは全てであり、全てはあなたである。それならばあなたは私であり、私はあなたである。そして私は全てであり、あなたは全てである。 全ては私であり、全てはあなたである」 という文章をどこかでみかけませんでしたでしょうか? 2. この文章で始まる、どのような世界観においても世界を認識する際に、「私」は全ての基準である。そして「私自身」は「私以外のもの」との比較によってのみ認識される。だから「私以外のもの」「私自身」を生み出す源泉でもある。また、その全ての基準になる「私」は、「私以外のもの」の中に「私」が生きることによって形成されてきたものである。だから、「私」を取り巻く全てのものが「私」の源泉でもある。「あなた」が世界を認識する際に、「あなた」は全ての基準である。そして「あなた自身」は「あなた以外のもの」との比較によってのみ認識される。だから「あなた以外のもの」「あなた自身」を生み出す源泉でもある。また、その全ての基準になる「あなた」は、「あなた以外のもの」の中に「あなた」が生きることによって形成されてきたものである。だから、「あなた」を取り巻く全てのものが「あなた」の源泉でもある。そして「私」は「あなた以外」の中に入り、「あなた」は「私以外」の中に入る。それならば、「私」も「あなた」も世界の基準であるという意味においてお互いに尊重すべき同格のものとして存在しているのだ。 そのことがわかったとき、どうして軽々しく他人を非難できよう。否定できよう。他人の発した言葉を自分が近似的に変換し損なった可能性があるというのにどうして言葉のみによって他人を判断できよう。どうして自分と他人の世界の区切り方が異なる「言葉」を全ての判断基準とすることができよう。 という文章をどこかでみかけませんでしたでしょうか? どうかお教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

永井均のいう「独我論」だろ? 「独我論」を論破することは不可能。 この世界には私しかいない、他人は私の「影」「分身」に過ぎない。 なぜって、私には他人の心は見えないし、見えるのは外見である身体とその振る舞いや言動でしかない。 私たちはその他人の身体の、外見の、振る舞いの向こうにそれを統一し、振る舞いや言動を表出するものとしての心があるものと想像しているけど、もしかしたらそんなものはなくて、ロボットかゾンビかもしれない。 なぜって、ロボットだって身体を持っているし、振る舞いをするし、言葉も喋る、現代では人間とロボットの区別は出来ないとは言えないかもしれないけど、だんだん言えなくなるから。 私たちは他人の身体の向こうに私の心を感情移入によって「投げ入れて」、他人に心があると思っているだけです。 だから他人の心というのは私の心、私の心の分身に過ぎない。 こうして「独我論」が帰結します。 これを論破することは難しい。 たしかに、私と他人を超越した第三者の視点から見れば、「独我論」は成り立たないかもしれないけど、そんな超越者なんか存在しないから、論破するのは難しい。 たとえば、第三者として、他の人間を想定しても、その他人が私やあなたの心の存在を知りえないという意味では、同じです。 もし、神のような存在がいて、私の心も他人の心も等しく知ることができれば、「独我論」は成り立ちませんが、そんな存在は考えられない。 だげど、これを批判した哲学者がただ一人います。 ウィトゲンシュタインで、かれは私的感覚とか感覚の私秘性、私的言語の存在を否定しました。 独我論者は私的感覚があり、その私秘性は本人にしか接近できず、他人には分からないというけれど、言語というものは公共的な規範なんだから、たとえ私的感覚とか、感覚の私秘性があるからと言って、そんなものは「言語ゲーム」には入らない、と。 この場合の「言語ゲーム」とは規則のこと、規範のこと。 独我論者は私というもの、私の心というものを特権視している、そしてその心を他人は持っていない、という。 だけどそれは、私とか心が「言語ゲーム」の外だと言っているにすぎない。 だから、それは言葉で表すことは出来ず、というのも言葉というのは私にとっても、他人にとっても共通なものなのだから、言葉で表せないということは「この」とか「これ」と言って示す以外のことは出来ない。 私という言葉を使うこともできない。 独我論者は「私」という言葉を使っているけど、それは自己矛盾なのだ。 私的感覚なんて存在しない、感覚の私秘性も存在しない、私的言語も存在しない。 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言って、外的世界の存在をいっさい疑い、絶対に疑えない確実的なものとして、私の思考を取り出し、私が思うことは疑えない、確実だといい、哲学を内省によって私の心に定位して、その心を真理の基準に据えたけど、ウィトゲンシュタインによれば、私とか心は「言語ゲーム」の中に入らないから、真偽の基準にはならないと言って、それを否定し、新たに「言語ゲーム」というコンテクストに真理の基準を求めました。 「独我論」はこのデカルトの私の心の存在は絶対に確実だという考えから出発し、それを前提にしているのです。 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言って、私が思う以上、私の存在は確実で絶対に疑えないと言いましたが、そんなことはありません。 私の存在は疑うことができるし、存在しない可能性だってあります。 私が思うことで確実で疑えないのは、私が思っているということだけで、私の存在ではありません。 カントも言っています、 「われ思うからと言って、私が存在するとは言えない。それは単に私の思考作用があると言っているにすぎず、私の思考作用があるからと言って、私が存在するとは限らない」と。 デカルトはそれをよく知っていて、思考作用だけでは、私の存在は偶有的・蓋然的で、存在しない可能性があると思い、そのために「省察」の3章と5章で、必死になって神の存在証明を行ない、神が人間や自然を創造したといい、その神が私を欺くことはあり得ないのだから、私は絶対に確実に必然的に存在すると言いました。 つまり、神が存在して、その神が私の存在を保証しているから、私が存在するので、その神がいなかったら、私の存在は確実でなくなってしまうのです。 近代哲学はそのデカルトの私が存在する、私の心が存在する、その前提を引き継いで、私が存在する、私の心が存在することを自明な前提においていますが、決して自明ではないのです。 カントにとって、私の心とか自我が存在することは認識の成立にとって不可欠な「要請」だったからで、それがないと認識の成立を合理的に説明できなかったからにすぎず、カントにとって自我とか心は「可想的」なものでした。 つまりカントにとって、自我とか心は「超越論的な仮象」にすぎませんでした。 その「仮象」にしか過ぎないものを、私たちは現実に存在するものと思い込んでいるのです。 永井均の「独我論」を知りたかったら、かれの「<私>の存在の比類なさ」などの一連の著作を参照してみてください。

krya1998
質問者

お礼

該博なご知見からのお教えを感謝申し上げます。

その他の回答 (1)

回答No.2

我々の見ている全ては、脳の中の現象である。 もちろん、それは“外の物”を映したものである、という 前提であるが、それを証明する絶対的手段はない。 その「脳の中の世界」に、さらに“自分(肉体)”があり、 通常それを自分だと考えるが、人は真の自分(の中)を 見る事は不可能である(見た=解体した瞬間に死ぬ)。 つまり、自分の外こそが真の自分だという事だ。 その「自分」の境界=感受表面(量子相互作用=光速)は、 外に空間(予測=未来=光速下)、内に時間(記憶=過去 =超光速)を分ける、時空の交点であり、相対性理論の 四次元ミンコフスキー空間における、時・空軸の虚数関係 において、その等距離点に生じる0の界面原点=仮想的 時空の広がりへの無の射影=階層現象表面的な定性化 (いい加減に捉える事)による「何かあるんじゃないの」と いう疑問として生じる宇宙を無に還元するものなのだ。 そこにおいて「他人」とは、そうした階層現象的プロセスの 射影として、「摂食=環境との物質循環」や「交配=遺伝子 に残された進化」、「社会=分業化による相互依存」といっ た自己存在の成立のための環境との相互作用の一環と しての、「自分のルーツの環境への射影」なのだ。 宇宙が、自己存在(肉体的自覚)の必要として対発生して いると言える時、その博愛に至る道標として他人はある。

krya1998
質問者

お礼

精緻なご理論でのお教えに心より感謝申し上げます。 私自身としては質問の論文がどこのサイトからコピペしたのかを知りたかったのです

関連するQ&A

  • 全ての始まりとは?

    えと・・・・17歳高校生のものです^^ 私が最近良く考えるものの中に全ての始まり・・・という疑問があります、 もちろんまだ誰にも証明させていないし全てのの始まりはこうだ!っていう説も聞いたことがありません ですが気になってしょうがないんです>< 原子・電子・光・粒子などがどこからどのように生まれ この空間がどのように形成され 時というものがいつから始まったのか・・・ これらを考えると私ではどうしても神と言う存在にあたってしまう・・・ 最初からあるものと考えれますがじゃあ最初って何?っと考え・・・・・ その他にもこの空間はデータの世界と考えることもありますが、 それではデータの外でまた全ての始まりは?という疑問が生まれます・・・ 答えが無い答えれないそれが答えなのかもしれませんが・・・・ 皆様の意見を聞かせてください!!

  • 「ぢ」と「じ」の区別

    既にある質問かもしれませんが、検索できなかったので教えてください。 現代語において「世界中」のふりがなは「せかいじゅう」となりますよね。 「中」だけだと「ちゅう」ですから「せかいぢゅう」となるような気がします。 「『世界中』は一つの言葉になってるから」という説明を見ましたが、 他の言葉で正しく判断できる自信がわかりません。 どこかに基準があるのでしょうか。一覧があるとしたら、いちいち参照しないといけないのでしょうか。

  • 認識とか判断とか

    「認識」「判断」の辞書的定義は以下の通りです。 認識:物事を見分け、本質を理解し、正しく判断する事。 判断:物事を理解して、考えを決める事。論理・基準などに従って、判定を下す事。 つまり、「認識」も「判断」も共に「正確」でなければならないと言う事ですよね。正確でなければそれは、認識でも判断でも有り得ない、と言う事。それが辞書が定めるところですよね。 しかし、よく他人の会話を聞いていると「君の判断は間違っていた」「そう認識していたがそれは間違いだった」等と言う発言をよく聞きます。これは日本語としては矛盾が有りませんか?上記の辞書の定義に依ればこれらの文章は日本語的にはおかしいと思うのですが。それとも私が間違っているのでしょうか?御指南宜しくお願い致します。

  • 他人の中にしか自分がいない

    わたしは、他人の中の評価でしか自分のことを理解することが出来ません。 例えば何も知らない相手でも嫌なやつだと言われたら、わたしは自分のことが大嫌いになります。逆に好きだと言われたら嬉しくて、誰かが好きでいてくれる自分が好きになります。 自分自身のことがよく分からないんです。良いところも悪いところもあるのは分かるのに他人に言われたことが全てだと思ってしまいます。 相手の小さな言葉の中に自分を見つけようとするので、考えすぎてよく落ち込みます。気にしすぎて疲れます。自分がどう思われてるか。好かれてるか嫌われてるか。可愛いか可愛くないか。そんなことを無意識に淡々と探ってしまいます。 ただ自分に自信が無くて不安です。誰かに評価されることでしか自分を認識出来ないと思ってしまいます。 これはおかしなことですか?そんなものなんでしょうか。本当は自分であることを自分が受け入れて人と関わりたいです。でも出来ないです。何かアドバイス頂けたら嬉しいです。

  • 世の中の人すべてが仲間

    とある本で、世の中全ての人を自分の仲間だと思えば、見える世界が変わるし、世の中が安全なものに変わるみたいなことが書いてあったのですが、私はどうも納得がいきません。 まず、自分を馬鹿 にしてくる人や、危害を加えてくる人のことを仲間だと思うことができますか? 私の場合、外に出ると自分の顔を見て笑われることがしょっちゅうあります。そんな奴らのことを仲間だと思うことは到底できません。 また、赤の他人じゃなくても、自分と関わりのある人の中で、自分にとってマイナスにしかならない人がいるのですが、その人さえも仲間だと思えとでもいうのでしょうか? と私は思うのですが、皆さんはこの本に書かれてある言葉をどう思いますか? 私の考えは間違ってますか?

  • 赤道を引く場所

    地理の授業で『世界地図の中に赤道を引く場合のポイントになる地域はどこでしょう。3箇所かきなさい。』という問題が出されました。 採点者の判断する基準をかけと先生が言っていました。 どこを基準にすれば良いでしょうか?おそらく、「マレーシアの南部」のように書けば良いのだと思います。 皆様の意見をお聞かせ下さい。 つたない文章で申し訳ありません…

  • さとりとは 真理がすべてにおいてすべてであることだ

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第六章 さとりとは 何か  1. さとりとは 真理がすべてにおいてすべてであることである。  2. 真理とは 変わらざる真実である。  3. よって 世界のすべてにおいて真理が真理であることが わが主観において成っていることである。  4. たとえば あのときアイツは これこれのことを言った。けれども それは あれそれの事情とひろく情況とからひとつの判断をして自己表現をしたものだ。・・・というふうに すべての世界条件を知ることが出来て その場の相手やまわりの関係者のそれぞれについて 事情が分かるということ。  5. 真理を知ると 世界との・そしてなかんづく自己自身との 和解が成る。真理はきみたちを自由にする。  6. わたしは 真理であり 道であり いのちである。という命題をたずさえてわれわれは生きる。この動態が さとりなる実存である。  7. 未完成であり 人間にとっては 未完成なる実存の道が さとりの成就した状態である。  8. ただし すべては ひとりの人間における主観の問題である。そこにおさまるコトである。よって主観は すでにつねにひらかれていなければならぬ。未完成だと言っているのだし 言っているからには。  ☆ 思いっきり自由なご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。  賛成だとしても 添削をもどうぞ。  9. このさとりなる動態主観は 相手とのあいだに言わば肝胆相照らす状態にあることが出来る。未熟なる状態をも互いに分かり合える。そこでは いくら批判をし合いまたけんかをしても 仲が傷つくことなく こわれることもない。――これが さとりだ。

  • 「日本」で、あなたは何位ですか?

    平成17年の国勢調査では、日本の人口は   「127,767,994人」 だったそうです。 今はもうちょっと少ないでしょうか。 みなさんは、日本に住むこれだけの人の中で、 ・自分は何位にいると感じますか ・その判断基準は何ですか 他人と比較する必要性を感じない方もいるでしょうし、 自分を一位と信じて疑わない方もいると思います。 もちろん「順位=幸せ」ではないですが、 たとえ幾ばくかでも、他人と比較することによって 自分の立ち位置を確かめているような方にご回答頂けると 大変嬉しいです。 あと、できるだけ謙遜せずにご回答ください。 ちなみに私は    127,767,994人中、80,000,000位 くらいでしょうか。 「収入」「親しい人の数」「社会への貢献」が私の主な判断です。 決して一位を目指すわけではないですが、 将来的に10万位以内には入りたいですね。

  • 建値制って何?

    今読んでいる文章の中で建値制という言葉が出てきました。ネットで調べてみると、 「建値制」とはメ-カ-の希望小売価格を軸にして形成される価格体系であり、これに対して「オ-プン価格制」とはメ-カ-が表示する卸、小売段階ごとの取引価格から、流通業者自身の自主判断によって価格を決める制度である とあったのですが、一体どういうことでしょうか? 価格決定にどういう違いがでてくるのでしょうか? 推測でも構いませんので、何かご意見いただけると嬉しいです。

  • 刑法の相当因果関係の折衷説について

    判断基準についてなのですが 行為時に一般人が認識し又は認識することのできた事情 及び行為者が特に認識していた事情を相当性の判断基準 行為時に一般人が認識することのできた事情 及び行為者が特に認識していた事情を相当性の判断基準 と本に「一般人が認識し」が 入っているものと入ってないものがあるのですが 折衷説の中でも差があるというくらいの捉え方で いいんでしょうか。 「及び」は基礎事情のどれかに該当すれば 因果関係があるという理解で正しいですか。