• ベストアンサー

信仰の存在価値を訝る私見

信仰の価値が【建て前】に留まっている故に、 諸宗教団体の派閥が乱立し得るのでしょうか? 「他の宗教を邪教だ」と見做す杜撰な主張さえもが、自己弁護の為の【ルサンチマン】的な発想に起因しているのではないか、と思われましたので、此の認識が私の偏見に過ぎないのかが気になりましたから、畏れ入りますが、教えて下さいませ。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.1

日本は縁起担ぎってのがありますよね。 日本だけじゃない。 例えば、コンスタンティヌス1世はキリスト教を公認したわけですが、彼はキリスト教ばかりではなく、他の宗教も公認した。 理由は「どの神様にもいいかをしていたら、悪いようにされないだろう」って考えがあったから。 御利益目的の公認。 2000年ほど前はキリスト今日は今とは比べ物にならないくらい、ものすごい派閥があったそうなんですね。 それがなぜひとつになったのかというと、自分こそ正しい認識力を持つ者であらせられる ってことにしたかったからだと思える。 で、聖書を作って、「この辞書以外の派閥はみんな嘘」ってしちゃったんです。 辞書を作ってそれに乗ってないものは偽物ってして、他の派閥を迫害していった。 そうやって、自分たちだけが正しいって帝国を作ったわけです。 嘘まみれの教理を真実だと言って2000年近くたち、人々を奴隷化して 寄付金で悠々自適な暮らしをする マイ帝国 なるものを設立した。 信者は農奴。 死なないよう 生きないよう 搾取していって支配していったわけです。 逆に負けてしまったら、迫害されて暮らしにくくなる。 要するに政権を取ることと同じ。 動物のオスの世界に見られる行動。 猿山はボスがいて、そのボスがたくさんのメス(信者)をはびこらせて セックスし放題ですよね? メスたちはボスの欲望を満たしてさえいえれば、平和に暮らせるので、セックスを受け入れる。(信仰を受け入れる) ボスの子を生むわけです。(布教して信者を増やす) そしてあるとき メスを独占されてイラだった別の猿がボスに挑む。 勝てば今度は新しボスがメス(信者)を独占する。 宗教の教祖やリーダに女性がものすごく少ないですよね? 殺人犯も男が9割。 どうしてか その理由はわかりますよね? 人間のオスも猿のオスも基本は変わらないわけです。 人間も動物ですから、動物行動として自分の子孫を増やすという本能に支配されているわけです。 メス(信者)はといえば、「どーでもいい とにかく安全に自分の子供を育てられる環境なら 誰でもいい」ってなるわけです。 ボス同士の争いを横目でみながら「どっちでもいい」って思うわけです。 選挙もそう。 わーわー戦ってりうオス猿たちをみて「どっちでも同じ」って思うわけです。

littlekids
質問者

お礼

別のページ(http://okwave.jp/qa/q6883208.html)にも 話題を発展させて頂きました。

littlekids
質問者

補足

有り難う御座います。 いきなりに単一の宗教が登場した筈が無いですので、気になっていたものですから、非常に勉強になりました。 権力が外部からの侵略によって出来上がってきた訳ではないのですね?

その他の回答 (4)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.5

派閥ができるのは商売のためです。 独立した方が儲かるからです。 でも信者や世間にはそうは言えないので 色々と宗教上の理屈をつけるだけです。

littlekids
質問者

補足

有り難う御座います。 自爆テロさえもが繰り返されている某地域では、法律的に信仰が強要されているそうですが、其処でも、商売絡みの問題が横たわっているのでしょうか?

回答No.4

信仰の価値を建て前に留めているのは、所謂「鰯の頭も信心から」で本質を知ろうともしない『信者側』の「怠慢」と、そしてそれによる待遇に甘んじて自堕落した『えせ宗教家』の「自覚の無さ」が原因でしょう。 諸宗教団体の成立と分派の歴史を見れば、それが必ずしも根拠のない完全なる「無」から生じたものでないことはご理解頂けるはずです。 同様に「他の宗教を邪教だ」と見做すことにも各宗教による教理的な裏付けがあるわけですが、世の人はそこを見ようとはしないわけですね。 結局、宗教には枢要にして確固たる根本依拠と、一往の指針とすべき研鑽された教義があるにも関わらず、本質を見誤って或いは曲解し、或いはその一部を取出して自己弁護の為に用いてしまうのは、後学の人間のほうなのではないでしょうか。 信仰とは徒に信じることではなく、信じるが故にそれが本当に正しいのか疑うことである…。 「鰯の頭も信心から」でも、疑いを持って突き詰めた結果『鰯の頭』が真に尊いのであれば、何の問題もない。思い込みではなく、真に尊いのであれば、ね。

littlekids
質問者

補足

有り難う御座います。 西洋近代科学やら鍼灸理論やらと違いまして、宗教の教義は『小集団内部での正義』に留まっている、と考えられます。 従いまして、その共同主観的な事情を踏まえまして、【建て前】という表現を私は此処で用いました。

noname#182988
noname#182988
回答No.3

すみません、教えるほど教養がないので、学ばせていただけないでしょうか。 質問者様の主張にはとても興味があります。 御質問を要約すると 自己弁護の為の【ルサンチマン】的な発想が、諸宗教団体の派閥が乱立し得る主たる原因であり、「他の宗教を邪教だ」と見做す杜撰な主張もそのことに起因する。という主張である。 という理解でよいでしょうか。 ルサンチマンの意味をニーチェの用語である、 「弱者が強者に対する憎悪や復讐心を鬱屈させていること。」広辞苑 として理解を進めます。 質問者様は、 ニーチェの提唱した君主道徳的な発想を、派閥の乱立を説明する際に援用している。というふうに考えていらっしゃると解釈します。 つまり、質問を以上から整理すると 派閥同士でそれぞれ、「あいつらは正しいものに対する劣等感を埋め合わせるために、派閥なり、宗教を作っている。」という風に感じている。また、他の宗教を邪教だ」と見做す杜撰な宗教者も他教についてそのような理解をしている。 ということでしょうか。 (「信仰の価値が【建て前】に留まっている故に」という文章がよく理解できませんでした。 その点から正確に質問者様の意図をくむことができませんでした。) あいつは劣等感の裏返しで偶像を信じているのだ。正義は私にある。という傲慢な発想から派閥の乱立がなされているということはわかりませんが、そのような発想をする方もいるように思います。 そして、そのような排他主義的な宗派は世の中によく迷惑をかけているように思います。宗教が抱える病気のようなものだと思っています。そのような宗派がもてはやされるような国は危ないという風に感じます。 すみません、正確に質問者様のご質問を理解できていないかもしれません。 お許し下さい。大変勉強になりました。  

littlekids
質問者

お礼

もう少しの御教授を賜りたくなりましたので、 別のページ(http://okwave.jp/qa/q6868243.html)に 続きの質問をスピンオフさせて頂きましたから、 もし支障が御座いませんでしたら、御覧になって下さいませ。

littlekids
質問者

補足

有り難う御座います。 宗教の教義は他の団体の教義と一致しているとは限らず、各団体の代表者達が利己的に【相対的な正義】を信者達へ押し付けているのではないか、と私は考えております。 そして、たとえ特定の団体への入信の後に、其の団体の教義の問題点の存在に信者の方々が気付いたとしましても、其処の代表者達の思想の全体像を受け入れませんと、信仰心の維持が難しくなっていくかも知れませんね。 従いまして、自覚の有無に関わらず、信者の方々が自己暗示を掛けているのでしょうから、其の意味を託しまして、此処では【建て前】という表現を盛り込んでみました。 つまり、自分達の教義への依存の価値を正当化する為には、多数の比較対象群を祀り上げる発想の採用が適しているのでしょうから、世間の諸問題の一因もが他の団体の存在に由来している、と見做しているのではないか、と判断したのですが、私の謬見なのでしょうか?

  • ROKABAURA
  • ベストアンサー率35% (513/1452)
回答No.2

宗教の本質は「何を尊いとするか」という価値観の固定化にあります。 金や物や人はどんどん変化してなくなったり増えたり変わったりするので これに振り回されて人は 「何が良いのかもうわからん・・」 となるので宗教があります。 この質問にある「建前」の意味は 「これをやれば救われる」 という事だと思います。 本質とは違う主張の差が生まれるのも この「救われたい」があるからで 本質に目を向けていないので 多分に我慾や思いこみが入りやすくなります。 で自己弁護的になるわけです。 仏教もキリスト教もイスラム教も諸々も 原初をたどれば宗派なんてものはありえないはずなのがよく分かります。 おそらく教祖は思いもいなかったことでしょう。 宗派はわからん凡人が後から勝手に作る物なのです。

littlekids
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6895578.html 此方でも御教授を賜れますと幸いです。

littlekids
質問者

補足

有り難う御座います。 信者達の他力本願的な期待が過剰に膨らみ過ぎているせいで、教祖達の思惑と食い違ってくる可能性は大いに有り得るのでしょうけれども、自分達の団体の運営の継続の為に、自分達の教義の【無謬性】を偽装すべく、教祖達は他団体の教義のネガティブキャンペーンを繰り返したがるのでしょうか?

関連するQ&A

  • 新興宗教を信仰している人との関係

    ある教団を信仰していて・・・と知り合いに告げられた場合、どう思いますか? 言葉の感じでは、それほど夢中になっている様子はなく、強引な勧誘もしそうには ない場合は・・・ そもそも、新興宗教を新興している人をどう思いますか? 私は、神社へ初詣、仏式の葬儀でお焼香、くらいはしても、基本無神論者で、 新興宗教を信じている人に対して、受け付け難いものを感じてしまいます。 金集めの団体にしか思えず、それに惑わされているのは馬鹿かなと。 偏見もあるかなと思うのですが。 例えば、代々チベット仏教を信仰しているチベットの人たちを見て、そういう感情は ないのですが。 また、新興宗教を信仰している人と、どの関係まで築けますか? あくまで知人の関係まで、友達まで、親友まで、恋人まで、好きなら結婚も考える、などなど。

  • 信仰心を保たせる詭弁

    栄養の摂取の効果の現れ方にも、複雑な条件が個人差を齎(もたら)しますので、健康食品類の長期的な摂取の価値を営業部隊の方々がプレゼンテーションで訴えたがやすい様ですが、そういう考え方を宗教への入信の効果に当て嵌めている諸団体もが存在しているそうです。 確かに、信者の方々の因縁の度合いの個人差の存在を指摘して、功徳の効果の現れ方の違いの正当性を訴え、しかも其の個人差を埋め合わせる為に、次の通りの手段を採用する判断は宗教法人の権利なのかも知れません。 (1)新規の入会者を募る精進やら護摩供養等の為の浄財の金額やらの積極的な追加を促す。 (2)他の宗教団体の教義との比較によって自分達の考え方を正当化させる為に、其の教義を「邪教」と見做して糾弾する。 でも、此の事情を考えた際に次の疑問が残ったものですから、教えて下さい。 たとえ入信の直後に簡単な問題が解決したとしましても、それが継続し得る可能性は低いのでしょうけれども、それが精進・浄財の不足に起因しているという詭弁をどうして其処の信者達は自発的に受け入れたがるのでしょうか?

  • 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4

    イタズラ回答を回避しながら断続的投稿です。 その一12月22日付 ​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5539308.html​ 宗教と言う組織の特徴的な現象として「神様争奪戦」の弊害の原因として神仏に取りすがる姿勢を提起したつもりです。 その2 12月31日付 質問趣旨が誤解されてアラシにあったので削除されました。 その3 1月6日付 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5573063.html 自助と互助のバランスとして信仰の共同体(宗教)の役割を問おうとしました。 思いがけずA1さんより健全な信仰心の在り方についてコメントをいただいていますが、そのような感謝とは別にあらかじめ神仏に要求を突き付けるのはとりすがりと言うべきではなかろうかとも考えます。 宗教が健全な信仰をはぐくみより良く生きるための互助団体として機能すれば話は早いのですが、実情はご利益追求のための信仰とは無縁の欲望の成就を祈願するとりすがり団体の側面があり、肥大化した求心力ゆえの暴挙として、要するに神様争奪戦として歴史に現れる失点があるのではないか。 その原因の一つとして曲がった求心力を信仰に期待するとりすがりがあり、集団として暴力と化しているからこそ、神仏に取りすがる姿勢は個人の自由として容認せざる横暴ではないか。 私は平均的な日本人らしい生活をしており、信仰を表ざたにしたり意識的に生活に取り入れたりはしません。このような普通人にとって信仰を表ざたにする立場とは、とりすがりに代表される神仏への辱めを行う人間としての裏切り者、廃人、とも受け止められます。もちろんこれは偏見と判りますが、一般的に信仰におぼれる者の特徴として毛嫌いされる要素です。この点について信仰の内側よりの説明をいただきたいと思って質問しています。

  • 無心状態での布教活動の可否

    新興宗教団体の所属者達が他の教団の方々の説得を行なう過程の途上で、説得相手側の【建て前】的な主張の方が自分達の【本音】に近い、と感じさせられますと、逆に一部の門徒達が折伏されて裏切り・寝返りを実行するかも知れません。 然し乍ら、そもそも、『現実逃避的な救済を求める不純な動機』は無心状態での信仰を阻む訳ですので、もし【本来的な無心状態】が維持されているのでしたら、その場合には、いずれの教義への感情移入さえもが払拭されているべきなのでしょうから、教えて下さい。 「感情移入をも払拭させた無心状態では、信仰が可能になり得るのでしょうか?」 ※是を肯定しますと、宗教法人の代表者さえもが浄財で生活費を賄ってはいけなくなりますが、もし信仰が無心で行なわれているのでしたら、其処から稼ぎが発生する展開は有り得ないのでしょうから、此の質問を試みました。

  • 神に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか

    宗教は特に研究していないのですが素人ながらに以下のように例えます。 1、神様私は罪深いです。どうかわたしを罰してください。 2、神様私は罪深いです。どうかわたしをお救いください。 信仰に盲目的であるならば、私の場合は1でした。 私に言わせれば、2の「お救いください」を面倒見るのは人間同士の互助のみであり、救いの言葉を探すとしたらお釈迦様なりイエスさんなり、元人間の神様の象徴のみから探る事になるでしょう。 無神論のお釈迦様は人生を謳歌しましたが、イエスさんの方はいけにえになりました。 そもそも人間同士でお互いに和解して助け合えば、神の救いは不要ではないでしょうか。 お互いに愛し合いなさいと言うではないですか。 神に助けを求める「お救いください」は、経験世界のみの事柄を指していて神様の関知しない自由意思の範囲内の事柄ではないでしょうか。 このように考えて神なり仏なりに救いを求めるのは無い物ねだりであり恐れ多い事ではないか。 さらに自然に人間同士の互助により解決すべき問題となるので、宗教や派閥が勃興して互助と和解が成立するまで争い続ける故に、個人の信仰の範疇では収まらない争いの火種ではないか。 はっきり言いましょう。 「お救いください」は、悪意が存在します。 以上のように考えました。 御意見をお待ちいたします。 なお、年末なので毎日ネットに接続するとは限りませんので、お礼の返事は遅れたりぶっきらぼうだったりします。

  • なぜ宗教は信仰する人々の考え方、人生に、大きな影響を与えるのでしょうか

    なぜ宗教は信仰する人々の考え方、人生に、大きな影響を与えるのでしょうか。    こんにちは。  今期、大学で「自然科学概論」の講義を受けて、多くの科学者たち(例えば、コロンブスやガリレイ)の研究がキリスト教的世界観、自然観によって妨げられることがあったということに気づきました。 また、非常に重要で可能性に満ちた研究を聖書に反するものだとみなし、彼らを罰した(最悪の場合、殺そうとした)キリスト教徒に対して、驚きを覚えました。 (1)なぜ当時、科学者たちの研究に反対したキリスト教徒はここまで聖書の教えに沿っていたのでしょうか。 私の視点からだと、「異常」にも見えます(私が信仰心を持たないゆえに浅はかな発言であったら、ごめんなさい)。現在だったら「聖書の教えとは違うから、その研究をとりやめろ!さもなければ、罰を与える!」なんてことには滅多になりませんよね。  また、コロンブスについてのビデオ観賞の際、魔女狩りなどの場面を見ました。 キリスト教は、他人を許したり、愛したり、ととても美しいイメージがあったのですが、教えを背くものを「異端者」と呼び、罰する姿は、残酷だと感じました。 (2)当時、キリスト教徒が他人を「罰する」「殺す」まで実行するような信仰心は一体どこから来たのでしょうか。 そして、最後に (3)どうして宗教は人間の考え方、生き方に大きな影響を与えるのでしょうか。 (4)地球上にあるものをキリスト教的世界観・自然観からみなすときに伴う心理や理由について学ぶことが出来るような参考文献があったら教えてください。 コロンブスやガリレオの生涯に関する講義、そして自身で読んだ文献から、彼らがキリスト教の教えや聖書が原因でどんな困難に出逢ったかを知ることは出来ました。 その後、なぜキリスト教の教えや考え方が彼らに、人々に、そんなにも大きな影響を与えるのは、何故なのか、と興味を持ったのですが、このことについて研究している文献を中々探し当てることができません。どなたかおすすめの文献があったら教えてください。 以上です。 宗教について分からないことが多く、漠然としているので、感情論を伴ったり、自身の独断と偏見が介在していたら、申し訳ありません。 どなたか、お時間ありましたら、回答のほうよろしくお願いします。

  • 身の回りに独善的な宗教信者いますか?

    よろしくお願いします。 宗教自体には偏見はないつもりなのですが、 宗教の世界には独善家を人をよく見ます。 1,周囲にいますか? いないですか? 2,(見た範囲、聞いた範囲で)どのように独善的ですか? 3,(身の回りにいる場合)その人が独善的なのは宗教のせいだと思いますか? たまたま独善的な人が宗教に入っただけだと思いますか? あるいは助長されているのでしょうか? 4,(宗教団体へ入っている人へ) 周囲に独善的な人がいても、教団にいることに嫌気は差しませんか? よろしくお願いします。 ちなみに質問者は、独善的な人を見ると教団自体が嫌になりますので、結局どこにも属していはいません。宗教自体への偏見はないつもりですが、宗教が独善を援助している部分は確実にあると思っているので、あまりにも入り込んだ信仰には疑問を抱きます。それを勧める宗教であれば、その宗教にも独善性を感じます。

  • 公明党

    公明党支持者は創価学会の会員が多いと聞きました。 宗教が政界に進出するのはどうか、と思うのですが・・・。 政党の最終目的は政権を取ることを目指していますが、もし公明党=創価学会が日本の中心になったら中東戦争のように宗教絡みのややこしい争いに発展してしまうことも考えられると思うのですが。 創価学会の会員の中には「創価学会が一番正しく、他は邪教だ」とか、神社や寺には「魔」が住むとか言って決して鳥居や門をくぐらない、徹底した信仰をしている人がいますよね?強い信念は認めますが柔軟性を欠いてそれらがエスカレートしていったらイスラム過激派のようになってしまい怖いと思うのです。 それから、なぜ創価学会は学会の会館に爆弾を仕掛けられたり、ヨーロッパではカルト指定されたり、一部の人は「とんでもない悪の団体だ」と言っているのですか? 日本最大の宗教団体で会員数(信者数)も日本一なのに、明らかに他の宗教団体より批判が多いですよね?そこまでされる何かが過去にあったのですか?

  • 宗教のことについて困っています。

    現在僕は大学1年生です。 あるきっかけで僕は聖書の勉強をしています。 最初は知り合いの人にバレーボールをする団体として参加していただけなのですが、誘われた人と何度か食事を一緒にし、そのうち聖書の勉強をすることになりました。 最初は『聖書って世界中で読まれてるから読んでみようかな』と好奇心で思い、二つ返事で勉強をしはじめました。 最初は聖書で勉強になることがあるなぁと思っていたのですが、最近その聖書を教えてる人達は宗教団体であることを知りました。 ここからが本題です。 僕は様々な理由で宗教は嫌いです。 神様を信じていないわけないですが、宗教はどうしても信じられません。 聖書の教え自体は納得出来るものもありますが、その団体に所属している人達に聞くと、 『聖書の教えは全部正しい。僕たちはその通りに行わなければならない』 『日本で自殺が多いのは霊が死んでるからだよ』 など、『聖書を学ばない人』=『悪人』 みたいな考えがあり、どうしても納得できません。 しかしその団体から抜けるにも、後が怖くてなかなか言うことができません。 嫌がらせなどあったらどうしようと思うと、すごく疲れます。 もしかしたら信仰をしてるうちに、偏見が無くなって健全で信仰出来る宗教だと思えるかもしれませんし……正直どうしたらいいかわかりません。 支離滅裂な文章ですが、ご助言を頂けると嬉しいですm(__)m

  • 総合格闘技団体みたいな、総合宗教団体を作りたい。

    最近、宗教の事を身近に感じます。 少し無理が有るかもしれないですが、すべての宗教をまとめる宗教団体を作りたい。 総合格闘技みたいな。 宗教法人、宗教研究会とか、宗教法人、総合宗教団体オールとか、宗教法人、宗教オリンピックとか、宗教法人、宗教交流会とか、宗教法人、宗教すべてオッケーの輪とか、宗教の宗派や、派閥は、あっても良いけど、宗教は宗教だから、みんな一つの輪だから、思想も色々あるが、とりあえず一つの輪になって、宗教活動したい。 それで、思想の違いから意見の対立があるから、 宗教オリンピックを開いて、宗教論争の戦いをやる。宗教の専門家に審判をお願いする。 もちろん、これが元で宗教戦争になったら困るので、言い争っても、テロとか、やらないように、論者に頼んで、また信者にも頼んで、合法的な活動にする。 それで、相手を批判したり、自分が批判されたりして、自他共に、良い所、悪い所を認めあい、自分の宗派や派閥を、良い物にして行く。 これは、どうでしょうか?面白いんではないでしょうか? 柔道的な発想です。 嘉納治五郎も、その昔、柔術が無くなって行くから、柔術を総合し、人道を加えて、柔道を作りました。 それなら、宗教から、宗道べの時代が、やって来てないですかね? 少々無理があるかもしれないですが、回答を、よろしく、お願いします。