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意識(心)は、どこからやって来たのか?

noname#221368の回答

noname#221368
noname#221368
回答No.19

 #9です。まず自分の出自を述べておきますね。自分は完全な理工系です(でも幽霊は信じてます^^)。なので応えは全て、理工系の発想になります。 >今回の質問の趣旨と離れるのですが、(#9)の回答の根拠、または、論理展開等を詳しく説明・・・ (一部略)  詳しく説明・・・、は出来ません。 (1)体感として感じた事がある >その様な形態を自分も感じています。  そのような体感を体験した事があります。 (2)システム制御理論  昔ですが、親指をつねった時、なぜ親指が痛むのだろう?、と考えた事があります。何故なら感じたのは脳であるはずなのに、どうして頭が痛まないのか?という、しょうもない疑問です。答えとしては、脳は肉体も含めた外界に対する、ヴァーチャルリアリティーを構成していて、その中で外界を認識しているのだ、という結論です。このヴァーチャルリアリティーの一部に、自分の意識も入っていると思うようになるまでには、そんなに時間は要りませんでした。しかしこれは、自己言及を招く、非常に強力なフィードバック機構です。  このような感触を持ったまま、ウィーナーのサイバネティクスを読みました。そこには人間の意識とは、制御理論的に見れば、フィードバック機構の塊だ、みたいな事も書いてありました。フィードバックには正のフィードバックと、負のフィードバックがあります。もし人間の意識がフィードバック機構の塊で、そこに負のフィードバックが発生したなら、すぐに「死に至る病」状態になったっておかしくないと思います。ただし人間は、負のフィードバックに対抗する正のフィードバックも、意識の中で自発的に発生できます。それが「気持ちを切り替える」だと思います。  以上の話は個人的には、すごく納得できました。実際、制御理論の考えで精神疾患(鬱病など)を理解しようとする試みがなされ、少し成功したそうです。半世紀以上前の話ですけど・・・。 (3)無意識、意識、言葉、記憶 >無意識、意識、言葉、記憶、これらが、どんな順序で発生したか、と言う様な問題提起です。  無意識と意識の区別については、自分は理工系人間だからわからないという理由で逃げておきます。記憶・・・、記憶なら犬もゾウリムシも持ってると思います。なので残るのは、意識と言葉です。 (4)言葉  さっき言った意識の自己言及性から、言葉の学習アルゴリズムはマニュアル化(プログラム化)できない、という話を聞いた事があります(これも半世紀以上前の文献です)。これを信じるなら言語能力とは先天的に、遺伝子コードに組み込まれたもので、#18さんが仰るように、環境によって発露するものです。遺伝子コードに組み込まれた言語能力は、非常に抽象化されたものだとは思いますが。  何故なら、純粋な日本人の両親から生まれた帰国子女も、出生地が欧米なら、Nativeは英語になるからです。 (5)意識  自分は犬を飼っていますが、犬にも意識はあると思います(どう見ても、そう思える)。ただ自分で自分をモニターするモニターのモニターの・・・存在の事を、人間ほどには自覚的には意識しては(モニターしては)いないと思います。余談ですが、犬には人間の言葉が通じると、自分は本気で思っています。 (6)ループ  以上の話をまとめれば、#13さんの、 >最終的に、意識が、意識に向けて飛び込む=ループを描く状態に至るまでの道のり・・・ を借りれば、「意識が、意識に向けて飛び込んだ」瞬間が「自意識」の、そして対立項としての「無意識」の発生の瞬間なのだと思えます。  読み返したら長くなりました。すいません。

noname#136007
質問者

お礼

>詳しく説明・・・、は出来ません。そのような体感を体験した事があります。 なるほど、論より証拠ってやつですか・・・・・・ 無意識・記憶・言葉・意識の順で発生しているのではないかと?今まっかんじています。詳細を説明すると長くなるので、省略しますが、新たな知識、情報で、多少、入れ変わるかも知れませんね・・・・  

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