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日本語は 論理表現には ふさわしくないのか
【Q‐1】 どういう根拠で 《ふさわしくない》と 言われているか。 【Q‐2】 言語じたいの問題ではなく (2-1) 論理的に述べない主体の問題である。 (2-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係から はばかられるという社会力学の問題である。 といった要因も 考えられるが どうか。 【Q‐3】 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。神道も仏教も そういう傾向を持つ。と考えられるかどうか。 質問者としては こう考えています。 【Q‐4】 日本文には よくも悪くも 表現を冗長にすることができる構造があり その話者は わざとそうしようとする言語慣習さえある。けれども 論理表現は 可能であり その伝達は 妨げられない。 * 《日本語は 論理表現には ふさわしくない》という或る種の《常識》が まま 聞かれることがあります。これが――【Q‐4】に沿って―― 間違いであると思うのですが 明確に知りたいという問い求めです。
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御返事ありがとうございます。 >☆ これだけで じゅうぶんなのです。 そうですね。でも、ご飯の前には「いただきます」と言うじゃないですか。それと同じです。手順は踏まねばなりません。ところで、回答への切り口を偶然もうひとつ発見したので、それも投稿しておきます。 新聞(デイリーニュース)が回ってきまして読んでいますと、ある文章にふと目が止まりました。 記事の内容は野球のことです。試合の内容はよくわかりませんが、先日WBCという大きな大会があったそうで、負けたキューバの選手がインタビューに答えているものです。読んでいますと、試合に負けたというのに何故だか彼はうきうきしているようで、将来の夢とか、ファンたちのことがずっと続いているような内容でした。彼には子どもがいて、将来は野球選手に育てるそうですが、そのなかでHe bought a Baseball equipment he thought would be useful to his son.という文章があり、ふとこれに目を止めたんです。 続く記事からequipmentは、特別注文のバットなのがわかります。彼は成績の良い打者のようで、バットに対する思い入れがあるんでしょう。ただ、関心を持ったのはバットではなく、その文法です。いくら大衆紙とはいえ新聞ですから、whichを抜いてhe thoughtを挿入してしまって良いのだろうかと思ったんですね。 英語の文法的には間違いに属する記述だと思いますが、でも僕はこれを読んで、むしろこの表現のほうが正解なのではないかと思ったんです。カンマなしに綴られるこの文章からは「彼が、彼が、彼が」という、実にこの選手を前にしたインタビュワーの憧憬のようなものが感じられました。思えば、ふだんの話ではこういう話形にはよく出くわします。 あるいは本来、こういうふうなのかもしれません。
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こんにちは。改めての補足です。 > こういう点に にぶいのは あれですよ 《イリ》歴史知性であるにもかかわらず 《コギト》の部分が 突出している といった状態に わたしには 老婆心ながら 見えますよ。 僕には、ひとり踊りをさせられているように見えるのですが、どうでしょう。こういう踊りを度々経験している気がするのですが、ま、それはどちらでも良いのです。(1)を掲げた部分について順に答えてゆきます。全部で三つありました。 1.「ひとの話を聞いて 自分の話を伝えようとする」 良い事例としては、この応答自体がそうでしょう。あなたはそうかもしれません。けれど、僕はそうではない。ひとの話を聞いたらば、そのひとに成り代わって答えようとする。けれどこれは、度々はぐらかされる事例がある。 そういう事例は僕ひとりのものではなさそうです。なぜなら、僕の質問「「取扱い注意」のラベルが貼られる心について」で、他にも同様の事例があることを知ったからです。あるいは探せば、まだ見つかるかもしれません。 いやむしろ、ここではこう言っておきましょう。「ひとの話を聞いておいて、自分のことを話し始めるのは、相手に対してどうか?」ということです。それが試問の場であれば落第するでしょうし、質疑応答の場であれば勘違いをするでしょう。 2.「いまの主題にかんしては すべきです」 これは、「当たり前です。《ひとの話を聞く》なら その意味で 誰でもいつでも 《他者に立つ》ことをしています。その理解力は また 別の問題にすることができるし いまの主題にかんしては すべきです あとで 《自他の認識》が出ていますが とうぜんです。できるという前提でこそ 意志疎通が 主題になります。どうしても それを論じたいのであれば 主題を変えてそうすべきです。」という部分に対してですが、 構造化した社会には、必ず役割現象があります。その社会に密接に関係した言語について語ろうとするのに、現象を無視するわけにはいきません。しかもそれが表現についてであるとすれば、尚のこと深く係るでしょう。会社組織を考えれば、上司と部下という関係、先にも書いた男性と女性という関係、親近者と疎遠者との関係、このような関係がその表現の論理的か否かに深く係ります。 このような役割のなかで、例えば「今夜は無礼講ですから」と言われた居酒屋の席で、部下が上司に「ほんとかよ?」という言説で答えるのは、無礼講という筋道を通した表現であっても、それは筋が通らぬと言わねばならないでしょう。この理屈を、役割ではなく相手を敬うといった道徳に帰する見方で説明したところで、道徳は持ち合わせぬと断れば、筋は通るのが論理表現の世界です。 それを、そうではない慣習と人間の生き様からその筋道を学べと言う言い方と、自他認識を忘れるなと言う箴言に帰していては、結局のところ同じ、学べるものも学べないと、思うんですね。主題を変えよ、というの事はただちに方法を変えよと仰っているわけで、つまりは「話題に上げるな、立ち向かって批判すべし」というご自身の方法を暗喩なさっているわけです。それでも良いのですよ? だだっ広い言語の世界で、ほんのささやかな表現上の特性について、もしも先人が言い残したことがあるのなら、僕はその話をしておきたいだけです。批判というにはおそまつですが、知識も無く、人生経験も乏しい僕に、いったい何が批判できるというのでしょうか。 正常な人間なら、「お前は何もわかっちゃいないよ」という評価がふつうでしょうし、自分でもそう思う。僕にはまともな批判なんて、できっこないです。 3.対処があれば その前段階の認識もあるに決まっているぢゃないですか。 間違った処方が長い間続けてられてきた、そういうのは自分の経験として身に沁みて感じているところがあります。そういう医薬品の歴史を少しだけ知っています。必ずしも、その対処が妥当ではない、そうは知りつつも、僕はその処方に頼ってきました。 この文言に反対したのは、自分の経験からですね。 この質問に対しては、すでに自力で書ける部分はすでに書き切ったと思っています。 失敗がなかったことを祈っていますが、ここで僕は、この質問を去ることにします。思えば、この質問によってokwaveを訪れ、自分で質問を拵えるにも至った、記念碑的な質問ですから、ちょっと感傷的にもなりますね。 自分の質問へと戻り、やり残したことを済ませれば、僕はokwaveを去るでしょう。
お礼
passcard さん 多くのご回答をありがとうございました。 ★ ひとの話を聞いたらば、そのひとに成り代わって答えようとする。けれどこれは、度々はぐらかされる事例がある。 ★ 「ひとの話を聞いておいて、自分のことを話し始めるのは、相手に対してどうか?」ということです。 ☆ ところが 次のように話し始めるのは 《自分のことを》ではないでしょうか? ★ 構造化した社会には、必ず役割現象があります。その社会に密接に関係した言語について語ろうとするのに、現象を無視するわけにはいきません。 ☆ これは 《自分――つまり passcard さん――のことを話し始める》ことであって それは 《ひとの話を――つまり この場合は わたし bragelonne の話を――聞いたらば そのひと(つまり わたし bragelonne )に成り代わって答えようと》することでは なくなっている。ただ 自分(passcard さん)の意見を述べて 押し付けようとしているのみです。 わたしは 《役割現象》は もし組織において いわゆる民主的に決められた権限体系にもとづくものでないならば それは 人間という主体が起こす権力関係という社会力学によると見ているというものです。反論を用意するにしても なぜ そうなのか これを明らかにしなければ 単なる異論のおしつけになるでしょう。 相手の意見は それは主張でしかないと決めつけて 取り上げないとし 自分の意見は 《相手に成り代わって》という御旗のもとに 相手の中に 忍び込ませるというそういう作業でしかありません。この自己矛盾を どうか さとるよう希望します。 今後のために ご指摘申し上げました。 ほかの事例も 同じようです。
仰られた方法に従って、補足を致します。 > ☆ 言説の種類は どうでもよいとしませんか? 内容にかんして (1) いや ちがう。(2) そのとおりだが 条件をつける必要がある。(3)われ関せず。いま これら三つとしましょう。このどれかで 答えることを 原則とすれば 話は 無理なく すすむはづです。まづは提案しておきます。 それで行きましょう。なぜ選択肢に、「そうです」が無いのかわかりませんが、よろしいです。この区分けに入れていけば良いのですね? ============================== ☆ ここで 《自己に立つか他者に立つか》は 二者択一の問題ではなく 問題にはならないと申し上げて来ています。 > (あ) 《自己に立たない人は いない》。そうでない場合というのは 人心操縦術にかかっている。 (2)でしょうか。 > (い) ひとの話を聞いて 自分の話を伝えようとするのは 当たり前です。《ひとの話を聞く》なら その意味で 誰でもいつでも 《他者に立つ》ことをしています。その理解力は また 別の問題にすることができるし いまの主題にかんしては すべきです。意思疎通が可能かどうかを問うているからです。 「ひとの話を聞いて 自分の話を伝えようとする」については(1) 「誰でもいつでも 《他者に立つ》ことをしています」については(2) 「その理解力は また 別の問題にすることができる」については(2) 「いまの主題にかんしては すべきです」については(1) 「意思疎通が可能かどうかを問うている」については(2) > (う) あとで 《自他の認識》が出ていますが とうぜんです。できるという前提でこそ 意志疎通が 主題になります。どうしても それを論じたいのであれば 主題を変えてそうすべきです。 「それを論じたいのであれば 主題を変えてそうすべき」(1) > (え) そもそも《立ち位置》は 問題になりません。話を早くしようと思えば――思いますから―― こう考えてください。きわめて片寄った立ち位置にあるという場合 それは それなら それでも それを本人が望んだのだと捉えるべきです。自他の区別ができて どちらの立ち場をも 自己の主観のかぎりで 考慮に容れて 自分の話を繰り出すのです。それが ふつうです。この前提領域を問題にするなら この質問にとっては それとして 独立させたほうがよいでしょう。 これはご主張ですから(3)でしょうか。 > ★ 読み手の自由度のなかから「相手の立ち位置に立つ」発話を除いたものは、すべて「ぶっきらぼう」に振り分けてみました。 ☆ 定義は 自由ですが これでは 全世界のぶっきらぼう氏が泣くでしょう。とうぜん 上の(あ)から(え)までの前提に立って 相手の言うことに耳を傾け よく理解し その内容について 自己の考えを述べる。そのとき いわば骨格と肉付けとで 文章をかたちづくる。これが ぶっきらぼう形式です。衣服を着せず まして 飾りなど一切つけない そういう表現のくせを言います。 立ち位置は ぶっきらぼうにとって 問題になりません。あるいは 別様に言えば できるかぎりで 全世界が 自分の立ち位置です。 これもご主張ですから(3)でしょうか。 > ☆ 対処があれば その前段階の認識もあるに決まっているぢゃないですか。 これは(1)です。 > ○ 《日本語は 論理表現には ふさわしくない》という或る種の《常識》 これは まちがいである。 ☆ と もう分かっているのなら それで よいのです。この質問は です。言いかえると 《ふさわしい》証明はなくても 意志の伝達が 特別の支障なく 可能であるとなれば それで よいとする考えです。もし その点をあいまいにしてしまって わたしが 議論を長引かせているのなら それは あらためて その確認をとりたいと思います。 少し言葉を足すと(良いのでしょうか)、「もう分かっているのなら それで よい」のであれば、回答者は何を回答するのでしょうか。
お礼
passcard さん あなたも わからないお人ですねぇ。 まづは ご回答をありがとうございます。 いいですか。 ★ 少し言葉を足すと(良いのでしょうか)、 ☆ とうぜん この《言葉を足す》ことを 求めています。(1)から(3)までのどれかを まづ 示して とうぜん それぞれについて 説明します。なぜ そうでないと考えるのですか? あきれますよ。 それに (1)から(3)は 原則です。こういう場合には 例外もあります。あるいは 全体として これこれの分類方法のほうが いいよという提案もあるでしょう。 なにか どこか 読み手なら読み手の地点に踏みとどまって どういうわけか 善意なんだろうけれど 故意に 足踏みをしている。そして むろん 大いに おのが主張を その帆に風を一杯うけて 展開しようとしている。どこか 溝をつくって ここは 入って来れないだろうよと言っているかに見える。 ★ 「もう分かっているのなら それで よい」のであれば、回答者は何を回答するのでしょうか。 ☆ 《いや 違う》という見解があり得ます。とうぜんです。そして この新しい質問に対しては 総じて 《論理表現できるが むつかしい側面がある》というご見解を受けて来たという結果です。 こういう点に にぶいのは あれですよ 《イリ》歴史知性であるにもかかわらず 《コギト》の部分が 突出している といった状態に わたしには 老婆心ながら 見えますよ。 さて (1)の《いや ちがう》のご見解が あらためて 出されました。では そうしましょう。とうぜん 回答者の側に立って そのご見解に従いましょう。 つまり 総じて言って 発信つまり表現に踏み出す前の段階としての 《認識ないしテクストの読み》 この領域に 特化して 話を すすめることを受け容れましょう。別の質問だと思っていましたが ここで お受けしましょう。 そういうことで (1)の事項について おおいに《言葉を足して》くださいませ。お待ちします。
こんばんは。補足をご用意しました。 >☆ これは けっきょく そのように推し測ることをしないと 議論が進まないと見ての発言です。 いや、僕の場合は一つひとつ同意を確認しつつ進んでもよろしいです。 >★★ (No.22) そのような話し手は、恐らくこう思って発言するでしょう。「読み手の立場に立って、言葉を選ぶようにしよう」と。 ☆ これだけでは 《病いや 自己喪失》のことが明確にはなりません。だから 《おそらく》です。 言説は話し手の立つ、立ち位置の問題であり、自己に立つか他者に立つかという事です。他者に立てばそれは自己ではないという意味です。この場合、疾病としての統合失調を病んでいるという意味ではありません。病というのは居着きの頻度のことで、どのような言説であっても、それらが全て自己への言及だと認識する頻度(被害妄想)が高くなれば、本当の疾病にもなるでしょう。そうはならないと、お考えでしょうか。 >★★ (同上) 認識上の「他者」と実際の「他者」との間に、大きなズレが生じると、話し手は「何を言っても無駄だ」と感じてしまう。違うでしょうか。 ☆ これを 分かりやすいように 《自己喪失》と言ったまでです。そうしないと 《「何を言っても無駄だ」と感じてしまう》ことの病いについて その人は 自覚しないままになってしまう。 「病」という言葉の使い方にもなると思いますが、お書きの「病い」が症例なのか、それとも「居着くこと」を指すのかで違いますが、「何を言っても無駄だ」と感じるようになるまでには、何度も同じ事がくり返されねばなりません。 それに、たぶんこの言説は、ご理解されている事の上で誤解があるようにも思います。「読み」の違いだけではそのようなくり返しは起こりません。そうではなく、発話を通じて知り得た、以前の自分の考え(これを「他者」と表している)に対して、実際の「他者」との間に生じたズレを「読む」のです。そのような読みによってしか、ふつうは自分を見失いません。相手を思ってなされた発話に、あまりにかけ離れた応答があった場合、かつての自分の発話と、応答とのギャップをうまく処理できないために、自己を見失うのです。 > ★★ (同上) 一度読んでしまった話し手は、この〔読み手か 自分か〕ふたつの立ち位置のどちらかを選ぶという義務からは、逃れられないように思います。 ☆ これとても 《逃れられない》という規定じたいが おかしいはづです。《自分自身の立ち位置を選ぶことができる》とすれば すでに その二者択一の義務をまぬかれていると言うべきです。 選ぶ事ができるからといって、二者択一自体の義務はなくならないと思いますが、僕は文意を読取りかねています。 > つまり 振り返れば たしかに 一つひとつの前提条件について 質していかねばならなかった性格の議論ではありました。 結構です。ひとつずつ、順番に行きましょう。書き損じがあるとも限りません。 >★★ (同上) 「自分の立ち位置を見失わない」ぶっきらぼうな方 ☆ これも 精確ではありません。 ○ 話し手は つねに 同時に 読み手である。 ☆ と言うごとく 《自分の立ち位置を見失わない》からと言って 読み手でなくなるわけではなく 読みにもとづいて 新たに話すことは 当然です。 話し手は常に読み手ですが、読み手は必ずしも話し手である必要はありません。さらに、読み手はつぎに、どのような発話をするか選べます。このような読み手の自由度のなかから「相手の立ち位置に立つ」発話を除いたものは、すべて「ぶっきらぼう」に振り分けてみました。それには、「黙して語らない」つまり、発話しない読み手を含めております。 >★ 自他認識のどちらかに常に居着くことが、病因だと申し上げています。 ☆ ではないのです。二者択一ではないのです。たとえ自他という・あるいは話者読者という二項対立があったとしても 両方を自己に摂り込めばよろしい。《論理表現》とは そもそも そういう意味であり それは 大前提です。 これは、ご主張だと受け止めます。例えば『イーリアス』のように「わたし」という言葉が出てこない古代の認識であるとか、『ドン・キホーテ』のように世界を象徴としか見ない時代ではなく、現代は、自他の認識ができる社会です。その認識が論理を構築している。 違うと仰るなら、ご説明を頂けば結構です。 そして、僕がいちばん戸惑うのは、↓のような答えを持っておられる方が、なぜ冒頭のような質問をなさるのかということです。また、その質問を通じて、いったいどのような回答を得ようとお考えになったか、その心理が推し量れないでいるのです。 ================================= ★☆ 二項対立あるいは そのあいだの境界線 ☆ これには こだわることは ないでしょう。そこから自由になる もしくは すでに 自由であるということを 大前提として 話をすすめても よいはづです。すでに そうなっているぢゃありませんか。 歴史知性としての《ヨリ・イリ・ヨセ・コギト》が入り交じる眼差し関係において 上から目線のヨセにこびる必要もないし隷属する必要もありません。 あたかももっぱら読み手として話し手に憑依するかのようなヨリ知性に 同情する必要もないでしょう。 また コギトだけを突出させても 神は よろこばないでしょう。(つまり われわれ人間は たのしい思いをするには到らないでしょう)。 《イリ》知性は しかしながら 《中庸》とはちがいます。《両極》をも容れた または あたかも左の極にも右の極にも みづからが 振れて見せるほどの幅のあるものです。それは 想像上だけでもよいでしょうし また それは あきらかに つねに 動態です。 中庸を説く人は しばしば 停滞する思想です。なぜなら 対話をこばむからです。その理由として あなたから入れ知恵を受けて 《「何を言っても無駄だ」と感じてしまう》から去るということの弁明を 読み手理論によって 補強するのでしょう。 中庸主義者が なぜ 停滞するか。それは また 《道徳規範は 愚の骨頂である》からです。文字は殺し 霊は生かすからです。 わたしたちは 《寄り》の知性を 寄せることはしませんが 目を覚ましましょうとは 言って行きます。同情は 気休めであり その別の意味での停滞性についての言い訳を 補強するだけです。そうぢゃありませんか? =================================== つまり、言説から伺えるのは対処のみです。 その対処は、冒頭の質問に絡みはするものの、要するに近ごろの科学とか、仰るところの「フーコー」であるとか、そういった例への対処です。「こうしましょう」ということへの同意と、その他の理由付けには拒否するという強い意思、また最後の「そうぢゃありませんか?」は、回答者への当為の表現だと思うんですね。 当為の言葉は、いったいどこで見つかるでしょうか。それは、お嫌いなはずの制度のなかにあるのではないでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
passcard さん ご回答をありがとうございます。 まづ ○ 対話 ☆ をしているということを 前提としてください。むろん 質問に回答を寄せてもらって その内容を 分かるように くわしく尋ねるというかたちに基づいています。 もし対話であれば 相手の言うことは 何らかの主張であるが 自分のは そうではなく 事実認識であるといったたぐいのやり取りは 無用になるでしょう。 今回 そのように わざと 言ったのは それに傾いているという意味を強調しようとしてのことです。 ★ 「こうしましょう」ということへの同意と、その他の理由付けには拒否するという強い意思、また最後の「そうぢゃありませんか?」は、回答者への当為の表現だと思うんですね。 ☆ 言説の種類は どうでもよいとしませんか? 内容にかんして (1) いや ちがう。(2) そのとおりだが 条件をつける必要がある。(3)われ関せず。いま これら三つとしましょう。このどれかで 答えることを 原則とすれば 話は 無理なく すすむはづです。まづは提案しておきます。 さて 細かく そのつど 質問をはさんでもよいということで ただちにですが ★ 言説は話し手の立つ、立ち位置の問題であり、自己に立つか他者に立つかという事です。 ☆ ここで 《自己に立つか他者に立つか》は 二者択一の問題ではなく 問題にはならないと申し上げて来ています。 (あ) 《自己に立たない人は いない》。そうでない場合というのは 人心操縦術にかかっている。 (い) ひとの話を聞いて 自分の話を伝えようとするのは 当たり前です。《ひとの話を聞く》なら その意味で 誰でもいつでも 《他者に立つ》ことをしています。その理解力は また 別の問題にすることができるし いまの主題にかんしては すべきです。意思疎通が可能かどうかを問うているからです。 (う) あとで 《自他の認識》が出ていますが とうぜんです。できるという前提でこそ 意志疎通が 主題になります。どうしても それを論じたいのであれば 主題を変えてそうすべきです。 (え) そもそも《立ち位置》は 問題になりません。話を早くしようと思えば――思いますから―― こう考えてください。きわめて片寄った立ち位置にあるという場合 それは それなら それでも それを本人が望んだのだと捉えるべきです。自他の区別ができて どちらの立ち場をも 自己の主観のかぎりで 考慮に容れて 自分の話を繰り出すのです。それが ふつうです。この前提領域を問題にするなら この質問にとっては それとして 独立させたほうがよいでしょう。 ★ 読み手の自由度のなかから「相手の立ち位置に立つ」発話を除いたものは、すべて「ぶっきらぼう」に振り分けてみました。 ☆ 定義は 自由ですが これでは 全世界のぶっきらぼう氏が泣くでしょう。とうぜん 上の(あ)から(え)までの前提に立って 相手の言うことに耳を傾け よく理解し その内容について 自己の考えを述べる。そのとき いわば骨格と肉付けとで 文章をかたちづくる。これが ぶっきらぼう形式です。衣服を着せず まして 飾りなど一切つけない そういう表現のくせを言います。 立ち位置は ぶっきらぼうにとって 問題になりません。あるいは 別様に言えば できるかぎりで 全世界が 自分の立ち位置です。 ★ つまり、言説から伺えるのは対処のみです。 ☆ 対処があれば その前段階の認識もあるに決まっているぢゃないですか。 ○ 《日本語は 論理表現には ふさわしくない》という或る種の《常識》 これは まちがいである。 ☆ と もう分かっているのなら それで よいのです。この質問は です。言いかえると 《ふさわしい》証明はなくても 意志の伝達が 特別の支障なく 可能であるとなれば それで よいとする考えです。もし その点をあいまいにしてしまって わたしが 議論を長引かせているのなら それは あらためて その確認をとりたいと思います。
ご返事ありがとうございます。続けて、補足を致します。 ======================= ☆☆ (No.23補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 〔トリップ経験において 一たん なくした自己を 発信の段階で〕 とり戻すまでもなく、「自己以外に持ち合わせのない」方々だって、世の中にはいるんですよ ☆ と言っているのは あなたですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり わたしは 《読みによって 自己をなくした状態のまま 話し手になるのは いけません。そこから 自由になりなさい》と言い続けているだけです。去って行った人には もう放っておくだけです。そのようなわたしをめぐる事実に きちんと 立って論じてください。 ======================= の文章の「そのようなわたしをめぐる事実」は、そのとおりだと思いますよ。そこは、特に同じだなどとは言ってない。似ていると書いたのは、そういう事ではありません。中庸に立つということは、自他のどちらに傾く事もなく「読めている」という事です。僕は読みの話をしているのです。そして、そういうふうに読める人は、決して世の中、多くない。 そこが似ていると書いているのですが(リスペクトしているのに、なんでこう、悪し様に言われるのかと思うのだが)、僕には「腫れ物に触る」繊細さが無いって事ですか? ただ、僕は《読みによって 自己をなくした状態のまま 話し手になるのは 「いけません」》というつもりはないです。病というのは、居着きです(これは僕が言っているのではない、柳生宗矩が言っている)。 自他認識のどちらかに常に居着くことが、病因だと申し上げています。 人間には論理表現が必要になるときがあるし、情に流された言葉や行動が必要になるときもある。そのどちらが良いとは言わないが、ひとつ良くないと言えるのは、自他のどちらかに常に居着くことです。 ======================= つまり 多少の憶測が交じるとしても この《読みによって 自己喪失状態のままでいるしか すべのない人たち》と言ったのは あなたですよ。しかも それを批判するのではなく 同情するということです。憐れむということです。 おそらく 批判しないということは その喪失に対して なすすべが ないと思っておられるのでしょう。そこを けっきょくは 世界の権力関係の側に立って その権力関係そのものとして 同情し憐れんでおられる。そう見られる。こう申し上げています。 ======================= どうしてそう、被害妄想的に語れるかと些か驚いているのですが、「多少の憶測」ですって? 多少どころか、ほとんどそうではありませんか。ご自身の記述で、「おそらく」という言葉が、何回用いられたかを数えてみることです。ですから、 > そのような論理と心の筋道にて 読むわけにはいかないということです。「おそらく」と推測は、どのように世の中を見るかの鏡を通じて、読み手の認識を表出します。お書きになられた推測は、僕の語る事ではなく、ご自身がお考えの事だと思っておきましょう。 >《話者》が 同時に 《読者》でもあることは 当たり前ぢゃないですか。 人間は「話された」言葉を聞くことはできますが、まだ話されていない言葉を話者が聞くときは、おそらく「心の声」を聞いているのだと思います。僕らはそれを認識と呼びます。 境界線はテクストとして残ります。 かつての話者も、つぎにはそれを「読む」人になるでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
passcard さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ わたし bragelonnne の憶測や《おそらく》 ☆ これは けっきょく そのように推し測ることをしないと 議論が進まないと見ての発言です。 たとえば ★★ (No.22) そのような話し手は、恐らくこう思って発言するでしょう。「読み手の立場に立って、言葉を選ぶようにしよう」と。 ☆ これだけでは 《病いや 自己喪失》のことが明確にはなりません。だから 《おそらく》です。 ★★ (同上) 認識上の「他者」と実際の「他者」との間に、大きなズレが生じると、話し手は「何を言っても無駄だ」と感じてしまう。違うでしょうか。 ☆ これを 分かりやすいように 《自己喪失》と言ったまでです。そうしないと 《「何を言っても無駄だ」と感じてしまう》ことの病いについて その人は 自覚しないままになってしまう。 ★★ (同上) 一度読んでしまった話し手は、この〔読み手か 自分か〕ふたつの立ち位置のどちらかを選ぶという義務からは、逃れられないように思います。 ☆ これとても 《逃れられない》という規定じたいが おかしいはづです。《自分自身の立ち位置を選ぶことができる》とすれば すでに その二者択一の義務をまぬかれていると言うべきです。 つまり 振り返れば たしかに 一つひとつの前提条件について 質していかねばならなかった性格の議論ではありました。 ★★ (同上) 「自分の立ち位置を見失わない」ぶっきらぼうな方 ☆ これも 精確ではありません。 ○ 話し手は つねに 同時に 読み手である。 ☆ と言うごとく 《自分の立ち位置を見失わない》からと言って 読み手でなくなるわけではなく 読みにもとづいて 新たに話すことは 当然です。 ★ 自他認識のどちらかに常に居着くことが、病因だと申し上げています。 ☆ ではないのです。二者択一ではないのです。たとえ自他という・あるいは話者読者という二項対立があったとしても 両方を自己に摂り込めばよろしい。《論理表現》とは そもそも そういう意味であり それは 大前提です。 このような《筋道》の問題です。 《憶測や おそらく》は たしかに あなたの文章に わたしは 読み手として・あたかももっぱら読み手となって 就き過ぎた。そういう問題ではあったでしょう。ですが 今回は しっかりと その点をも 明らかにしておきましょう。ぶっきらぼうの容量は けっこう 大きいのです。融通が効くのです。 ★☆ 二項対立あるいは そのあいだの境界線 ☆ これには こだわることは ないでしょう。そこから自由になる もしくは すでに 自由であるということを 大前提として 話をすすめても よいはづです。すでに そうなっているぢゃありませんか。 歴史知性としての《ヨリ・イリ・ヨセ・コギト》が入り交じる眼差し関係において 上から目線のヨセにこびる必要もないし隷属する必要もありません。 あたかももっぱら読み手として話し手に憑依するかのようなヨリ知性に 同情する必要もないでしょう。 また コギトだけを突出させても 神は よろこばないでしょう。(つまり われわれ人間は たのしい思いをするには到らないでしょう)。 《イリ》知性は しかしながら 《中庸》とはちがいます。《両極》をも容れた または あたかも左の極にも右の極にも みづからが 振れて見せるほどの幅のあるものです。それは 想像上だけでもよいでしょうし また それは あきらかに つねに 動態です。 中庸を説く人は しばしば 停滞する思想です。なぜなら 対話をこばむからです。その理由として あなたから入れ知恵を受けて 《「何を言っても無駄だ」と感じてしまう》から去るということの弁明を 読み手理論によって 補強するのでしょう。 中庸主義者が なぜ 停滞するか。それは また 《道徳規範は 愚の骨頂である》からです。文字は殺し 霊は生かすからです。 わたしたちは 《寄り》の知性を 寄せることはしませんが 目を覚ましましょうとは 言って行きます。同情は 気休めであり その別の意味での停滞性についての言い訳を 補強するだけです。そうぢゃありませんか?
お気に召さなかったようですから、少し補足します。 ○【Q‐4】 日本文には よくも悪くも 表現を冗長にすることができる構造があり その話者は わざとそうしようとする言語慣習さえある。 ○これが――【Q‐4】に沿って―― 間違いであると思うのですが くり返しますが、指摘しているのは、質問の問題を「話者」に限定なさるところです。 僕が言っているのは、論理表現が損なわれてしまう病因があるとすれば、それは「読み」でしょうということです。アリスの不思議の国から逃れる術があるとしたら、それは唯一「話す」ことにおいてです。話すというのは、「読み」に対して頁数を打つことに近い。 かたちのない観念の世界に刻み目を入れ、かたちを整える作業です。「読み」という病因に対して、「話す」ということは、いわば処方箋です。その処方を間違えば、病因はたちまち顕在化する。けれど、その処方を如何に正しくせよと言ったところで、それで病因が除かれるわけではないという事です。 >あなたは たぶん 同情しているのです。 もちろん同情しております。同情しているからこそ、誰もが抱える病因に、そこへは目を向けず、問題をすり替えてあげるから安心して暮らしなさいとは言えないわけです。 《弱い者の味方》? それは、人間を弱い者だと見る方のご意見でしょう。 これまでもそうですが、人間は様々な未知の病因を見つけ出し、克服し、生きてきたわけです。そして、これからもそうやってゆくでしょう。それは、まさに「大いなる物語」に理屈をつけることによってですが、僕の書いている事と、あなたの書いている事のどちらが人間というものに失礼な思想かは、神に対しては少々の失礼をお許し願うとしても、明らかなのではないでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
passcard さん ご回答をありがとうございます。 まづ ki…氏との思惟形式上の類同という発言は 失礼です。しっかりと 論じてください。 つぎに ☆☆ (No.23補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 〔トリップ経験において 一たん なくした自己を 発信の段階で〕 とり戻すまでもなく、「自己以外に持ち合わせのない」方々だって、世の中にはいるんですよ ☆ と言っているのは あなたですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり わたしは 《読みによって 自己をなくした状態のまま 話し手になるのは いけません。そこから 自由になりなさい》と言い続けているだけです。去って行った人には もう放っておくだけです。そのようなわたしをめぐる事実に きちんと 立って論じてください。 つまり 多少の憶測が交じるとしても この《読みによって 自己喪失状態のままでいるしか すべのない人たち》と言ったのは あなたですよ。しかも それを批判するのではなく 同情するということです。憐れむということです。 おそらく 批判しないということは その喪失に対して なすすべが ないと思っておられるのでしょう。そこを けっきょくは 世界の権力関係の側に立って その権力関係そのものとして 同情し憐れんでおられる。そう見られる。こう申し上げています。 ★ 同情しているからこそ、誰もが抱える病因に、そこへは目を向けず、問題をすり替えてあげるから安心して暮らしなさいとは言えないわけです。 ☆ これも わたしの発言に対する《読み》が まちがっています。 そもそも 《病いが起きること》と 《誰もが抱える病因》とは 同じことではありません。後者は おそらく 原因を言っているのではなく すでにその病因が ひとに作用している状態を言っているのでしょうから すべての人が 《読みによって 自己喪失の状態に陥っている》と診断し 宣言していることになります。 冗談ではありません。 みづからが そのように 錯乱しているだけです。みづからは 論理表現ができるからには 病因から自由なのです。なのですが 自由でない人たちがいるからには 《同情する》ことをとおして あたかも みづからも 同じ病いに罹っている・その限りで 錯乱している。と言いたげであるし こちらも それを見て そう言わざるを得ないところです。 つまり 批判です。わたしの場合は そのように つねに 批判です。自由になりなさいと。すでに成っているのですから 成っている人を増やすように つとめなさい。 そのような論理と心の筋道にて つぎの文章を読んでください。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これまでもそうですが、人間は様々な未知の病因を見つけ出し、克服し、生きてきたわけです。そして、これからもそうやってゆくでしょう。 それは、まさに「大いなる物語」に理屈をつけることによってですが、僕の書いている事と、あなたの書いている事のどちらが人間というものに失礼な思想かは、神に対しては少々の失礼をお許し願うとしても、明らかなのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということは わたしの文章を《読む》人なら わたしの心によって 《自己を喪失した》ことになるのですから わたしという《自己》は その心にやどったはづなのですが どうでしょう? つまり もしそうではないと言う理論であるのならば このテクストの読みに関する理論も あまり 成ってはいませんね。(バルトだか誰だか これも 推測で 判断しています)。 《話者》が 同時に 《読者》でもあることは 当たり前ぢゃないですか。どう考えても おかしい。 ★ くり返しますが、指摘しているのは、質問の問題を「話者」に限定なさるところです。
>☆ 最後の《発信段階において 自己を取り戻して 自己の考えをまとめ これを論理的に表わす》 このことの可能性があるなら それで じゅうぶんなわけです。どうでしょう? 無論です。そうあらねば、ならぬでしょう。そうでなければ、おかしいでしょう? ただし、とり戻すまでもなく、「自己以外に持ち合わせのない」方々だって、世の中にはいるんですよというのが、kigurumi節だと言いたかったのです。 似てるんですよ、あなたがたは。 まあ、あなたの場合に限って言えば、そろそろここらで風呂敷を広げて、飲めや唄えのどんちゃん騒ぎを始めたって良いわけです。つまり、そういうことです。
お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
passcard さん ご回答をありがとうございます。 ☆☆ (質問趣旨) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【Q‐2】 言語じたいの問題ではなく (2-1) 論理的に述べない主体の問題である。 (2-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係から はばかられるという社会力学の問題である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この両方の原因について ★ 〔トリップ経験において 一たん なくした自己を 発信の段階で〕 とり戻すまでもなく、「自己以外に持ち合わせのない」方々だって、世の中にはいるんですよ ☆ と言っているのは あなたですよ。 ★★ (No.22) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「読み手の立場に立って、言葉を選ぶようにしよう」と。(=前者) ・・・ 大方の人は、自己と他者の役割を違えれば論理は破綻すると知りつつも、前者の立ち位置へ立とうとなされます。 そして論理表現は、その時から綻び始めるのだろうと僕は思います。 僕の仮説に立てば、議論を置いて「立ち去る」のは、このような場合だと考えられます。 他者である読み手が、同じく他者である話し手であるような場合、つまり前者であるような場合、認識上の「他者」と実際の「他者」との間に、大きなズレが生じると、話し手は「何を言っても無駄だ」と感じてしまう。違うでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ほら そうでしょう? わたしは何も言っていませんよ。まして ki…さんとやらの論理とは 月とすっぽんほど 離れています。わたしの場合は 批判するか その機会を待つかするからです。 ★ 〔論理的に表現して 発信する。〕無論です。そうあらねば、ならぬでしょう。そうでなければ、おかしいでしょう? ☆ と どこまでも 伝え続けているのが わたしですから。あなたは たぶん 同情しているのです。その同情を いっさい 放っておいて おれについてこいというのが ひとつのやり方としての ki…さん流です。なぜなら それが 中庸であり 常識だからだと言うでしょう。万人の総意だから 従いなさいという論理でしょう。 これは フーコーの向こう側の論理ですが けっきょく フーコーの言う権力関係と同じ内容のものです。しかも あなたは その権力関係という現実は 何を思ってか 後生大事に 守れと 言っているのです。守っている人も 大勢 いるのではないかと言っているのです。《弱い者の味方》ということが その旗印には書いてあるそうですね。 ただし わたしは 権力関係が 無主体の構造から 降って湧いたとは考えないわけで むろん 《ヨセ》なる超歴史知性が そういうふうに 操縦していると 初めから 言っています。社会的なマインドコントロールだと言って来ています。 あなたは それに従えと言っているのですよ。《なぜなら そのようなお上から なんとなく ささやかれ 時には 明確に 〈和を以って貴しと為せ〉と告げられるその声に ただただ 従うしかすべを知らない人たちが いるから》というのは 輝かしいわが近代理性によって紡いだ大いなる物語であると言って 理屈をつけているだけです。 人間というものに失礼な思想ですよ。あっ いや 《人間》というものなどは いなかったのでしたっけ。
こんにちは。 懲りないところが、僕の悪いところで、少々短くしてみました(少し、kigurumi節を真似ています)。 >☆ このトリップ経験をしたあと――または つねに しているその第二段階として―― 発信の側は 論理表現につとめる。こうなると考えるからです。話し手も じつは 発信する前に 別の発信の読み手であったわけです。つまり読み手として 《トリップ経験》は済ましているわけです。そのあと つねに 第二段階として 論理表現にいどむことになります。 「話し手も じつは 発信する前に 別の発信の読み手であった」良いお言葉だと思いました。「あった」という過去形に、同意頂けただけで充分です。 そして、話し手はそれを知っている。そのような話し手は、恐らくこう思って発言するでしょう。「読み手の立場に立って、言葉を選ぶようにしよう」と。あるいはこう思うかもしれません。「読み手がどうあれ、自分の立場で言葉を貫くまでよ」と。どうでしょうか。 >ですから 《パラドックス》は ないので はなく、一度読んでしまった話し手は、このふたつの立ち位置のどちらかを選ぶという義務からは、逃れられないように思います。そして、前者の立ち位置を取ったものだけが、パラドクスのお世話になり、後者の立ち位置を取るものは、世間から「ぶっきらぼう」と呼ばれるのではないでしょうか。先の文章では、前者に生じるパラドクスの起源が、発話ではなく読みにあるんですよという事を書いたわけです。ですから、 >あるいは あっても 論理表現にとって 妨げになるようではない のは後者、つまり「自分の立ち位置を見失わない」ぶっきらぼうな方にしか、当て嵌まらない事になります(ところで巷で話を聞くと、ブラジュロンヌさんは、ぶっきらぼうだそうですね)。大方の人は、自己と他者の役割を違えれば論理は破綻すると知りつつも、前者の立ち位置へ立とうとなされます。 そして論理表現は、その時から綻び始めるのだろうと僕は思います。 僕の仮説に立てば、議論を置いて「立ち去る」のは、このような場合だと考えられます。 他者である読み手が、同じく他者である話し手であるような場合、つまり前者であるような場合、認識上の「他者」と実際の「他者」との間に、大きなズレが生じると、話し手は「何を言っても無駄だ」と感じてしまう。違うでしょうか。 読みによって生じた認識上の「他者」に由来するにも係らず、その結果、その場を立ち去るのではないでしょうか。それとも、撃たれぬ大砲からは、争いの幕は気って落とされないというお立場を貫かれるでしょうか。「他者」は、そこにあると信じ込むだけで、人間には発射ボタンを押せるものだと僕には思われます。 以上を頂いた補足に対する答えとします。 「言語は論理表現にふさわしいか」という問題を日本人に投げかけたとき、彼らに答えれるのが日本語だけであることから、質問は「日本語は論理表現にふさわしいか」と変わる。 そして、その言語に纏わる論理表現は、「話し手」と「聞き手」という独立した世界に所在する問題というよりも、そうではなくて世界の境界線、つまり如何なる者も「読み」という鏡を通じて与えられる社会の役割現象の影響から自由ではないために、確固たる自他認識を保ち続ける努力の度合いによってはかられることになるだろう。 だからこそ、この問題は近代になって囁かれるようになった。 こんな感じですが、如何でしょうか。
お礼
passcard さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 問題は このように・つまり この回答を書いて投稿することを成し得たように passcard さんが ★ 如何なる者も「読み」という鏡を通じて与えられる社会の役割現象の影響から自由ではない ☆ と考えられているにもかかわらず ★ 確固たる自他認識を保ち続ける努力の度合い ☆ が 人一倍 大きくていらっしゃるからでしょうか 自由な論理表現を実現できておられるという現実にあるのではないでしょうか? ☆☆ (No.21補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 受信段階 :返信(つまり発信)のための準備段階でもある。 :聞き手として 話し手に対して 人格の存在形式の全体において(感性的にも理性的にも) 密着する。(=α:トリップ作業) :いわば 自己をなくすかのように――そして それによってこそ 自己を生かすために――相手の人格に やどる。(=α:トリップ経験) ○ 発信段階 :受信のあと 実際に 発信する。 :そのとき 自己を取り戻して 自己の考えをまとめ これを論理的に表わす。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 最後の《発信段階において 自己を取り戻して 自己の考えをまとめ これを論理的に表わす》 このことの可能性があるなら それで じゅうぶんなわけです。どうでしょう? もし この可能性を否定するのならば それは ぶっきらぼうなのではなく 人間侮蔑史観に立つということを意味するでしょう。あるいは こと 日本人に限るのならば 日本人は非人類なりという仮説になります。
こんにちは。回答者Noは、要らなさそうですね。 >☆ ひょっとしたら 何かあるかも知れないとは思うものの どうも まだ 奇怪なことをおっしゃっているように思えています。 でしょうか。その奇怪さは、記述があまりに断片的で、一連のまとまりを持っていないことに由来するのではないかと思うのですが、このあたりでひとつ、確かに仰られるようにまとめをしておかなければならないと思いました。 ですから、僕が考えてきたことをまず順を追って書き出してみます。 まず、「日本語は論理表現にふさわしくない」と言われるこの言説は、いったい何時から始まったのでしょうか。 ここで、ひとつの仮説を用意します。 もしもそれが、通事的に語られてきたことだとするなら、恐らくその原因は言語に内在するものでしょう。けれど、そうでないのなら、その原因はそれを用いる側にあるのではないでしょうか。つまり、用いる側の暮らす社会が、またあるいは考え方、時代、そのようなものが変わるにつれて、あるときその言説が生まれ、そして語られるようになった。 僕は、このように考えました。 その考えからすると、僕には後者のように思われます。 最近になって言われ始めたのではないか? だとすれば、きっと社会のあり方に深く関係した理由があるに違いない。まず、こう思ったんです。 そこでご質問の補足文章を見ますと、Q1からQ3のいずれもが、共時的な視点に立っておられ、暗黙のうちに要因は現代社会の「何か」に求められているように思われます。一応、言語に内在するかどうかという視点については、先に消えてしまった対話のなかで仰られていたお説に倣い、そうではないというふうに理解するとしても、Q4の補足、また補足の全般に渡って「日本語は論理表現にふさわしくない」という言説の出所を、話し手個人に向けておられるのが、どうも僕とは違うのだと思うに至りました。 本当にそう言いきってしまって良いのでしょうか。 むしろ、話し手に問題意識を向けることで、本当の原因が見えなくなっている。いや、都合良く見ないようにされている、こんなふうに感じたのです。 悪く言えば、虚勢されたタヌキ。 先の問答では、質問者様の表情を醸し出す印象的な画像がありましたが、どうも、今回の質問は、良い子ぶっている気がする――と考えるのは、僕だけではありますまい。 そのようななかで、「日本語は論理表現にふさわしいか」と問われたとき、正しく「ふさわしくない」と言えるのは、おそらく日本人だけではないか、ということには気がついていました。むしろ日本人だからこそ、「日本語は」という主格に意味が生まれている。 だから第一投は、そうではない外人さんがいますよ? というスタンスで入ってみた。質疑応答は、雨天中止となってしまいましたが、しかし、「日本語は論理表現にふさわしいか」と問われている相手は、日本人でなければならないという思いは強く、その理由から書き始めてみることに致します。 その理由は、あの有名な「すべてのクレタ人は嘘つきである」と言った、正直者のクレタ人のパラドクスと同じです。このパラドクスが成立するのは、この命題を聞いた者が、他者(要するにクレタ人ではない者)である場合に限られます。 もしも自己(すなわちクレタ人)であるならば、言説の内容がどうであれ、自分が嘘つきか正直者かはわかっているからです。 パラドクスの背景には、他者である「嘘をつく役割の人」と、同じ他者である「その言説を語る正直な役割の人」がいなければなりません。他者と他者が織りなす役割演技のなかで、このパラドクスは古代ギリシャ以来、生き続けてきました。けれど、自他認識に長けた現代、この命題はパラドクスの檻から、ようやく解き放たれたのだと思います。 すなわち、「日本語は論理表現にふさわしいか」という言説は、現在よりもちょっと前に生まれ、そして現代では、すでに解決され得る問題だと僕は考えました。 さて、自己認識に関するこのエピソードから、僕は先の投稿で入力と出力は非対称になっていると書きました。というのも、話し手は常に自己であるのに対し、聞き手(読み手)は常に他者の立場を取っているからではないだろうか。そんなふうに思ったからです。 これを延々とやっても良いのですが、(つい最近ですが)偶然から見つけた「護身と排他」のパラドクスについて回答を差し上げたとき、この「日本語は論理表現にふさわしいか」というパラドクスと、よく似たところを問うておられるので、軌道を修正して、そこから解決の糸口を見つけ出して行こうと考えました。 要するに、論理表現がどこでおかしくなり始めるかという点です。 僕はお節介な人間ですから、質問者様のように「日本文には よくも悪くも 表現を冗長にすることができる構造があり その話者は わざとそうしようとする言語慣習さえある」とは、言いたくないわけです。 論理的に表現する、その努力は確かに必要でしょう。 けれど僕のような非論理的な人間にとって、そうできない事情だって、ひとつくらい見つけないと、僕が可哀想じゃないかと「同情」するのですね。こういう、弱い者の主張だってあっても良いような気がしました。 日常生活における役割現象というのは、ジンメルが言うように「他者」をめぐる社会現象のひとつだと思います。その役割は、先に書いたギリシャ人のパラドクス同様に、「~であるような」という認識を伴った他者の役割を想定しています。 護身と排他はまさにその関係であり、社会において他者と係るとき、自分たちの頭のなかに知識として蓄えられたパターン化された役割に沿って、人々は実際にもふるまうと考えるところに原因があるのです。 実際の生活では、機械のように精密には動作しませんが、けれど提示された役割が明確にイメージできるものであれば、解決不能のパラドクスを生み出します。 僕はこれを、多数決として提示してみました。合意形成と採決という二つの場面、そして護身をするものは排他をするという自動律を正確にイメージできれば、どれだけ考えたとしても数学的な解法は得られない。けれど、現実的な解法は自動律に備わる対称性が崩れてしまえば、他者の役割は正しく機能して解決ができるようになります。僕たちは日常生活において、論理を破綻させながら、正しく意思の伝達をしているからです。 ではこの手の現象は、どのような心理に起因するのでしょうか。 先に僕は、性差について書きました。性差というのもまた、実際の性とは別に、日常生活の役割を巡る社会現象のひとつになります。性差という類型は、神に性差が無いように、単独(ひとりの人物)では生じません。複数の主体が相互に関係を及ぼし合って初めて「~であるような」という認識を生み出します。つまり、関係はあったのではなく、「なった」のです。僕たちはひとりでいるとき、父親であったり、労働者であったり、神であったりするのではない。子どもがいて父親になり、雇い人がいて労働者になり、神がいて、自分が神ではないことを知るのであって、話し手もまた、聞き手(読み手)がいて初めて、かつての自分が話し手で「あった」ことを知るのだと思います。 (こういう書き方は、嫌いだと仰ると思いますが、ご辛抱ください) 僕たちは他者との係りを通じて「~であるような」ものに、なるのです。日常生活における類型化は、このとき発動されます。僕らがひとたび聞こう(読もう)とするとき、そこにはもう、かつての話し手の姿はありません。あるのは、類型化された役割だけが残されている。その役割ゆえにギリシャ人のいうパラドクスに度々お世話になることになります。 この他者のパラドクスから抜け出すためには、どこかで自己との同一化を図らねばならないでしょう。「話し手であるような」他者と、まるで鏡に映ったような「聞き手であるような」他者の間に引かれた境界線を超えるのです。そこで論理は破綻します。 でもどちらかを選ぶとしたら、僕なら論理表現を捨てて、他者を自己と読み替えます。つまり同情、あるいは共感するのです。こういうトリップは、日常生活ではそれほど困難ではありません。けれど、話し手に対して読み手には、そのトリップ経験(つまり論理表現を捨てること)をしなければ、何時までたっても相手に辿り着けないリスクがあります。 僕が言いたかったのは、どうやらこのことだったと気付きました。 うまく書けたかどうか自信がないですが、どうでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
passcardさん 長考一番 ご回答をありがとうございます。 そうですね。読み物としては おもしろいのですが という言い方を 最初からすることになってしまいますが 質問者として 納得のいく回答であるかと訊かれれば たぶん 予測のつかれたように わたしの思考形式からは どうも ちがうと まづは はっきりとお伝えしなければならないと思いますね。 身も蓋もなくなるほどに ずばり言ってしまえば こうです。 ★ (α=《トリップ体験》としましょう)~~~~~~~~~~~~~ 話し手に対して読み手には、そのトリップ経験(つまり論理表現を捨てること)をしなければ、何時までたっても相手に辿り着けないリスクがあります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このトリップ経験をしたあと――または つねに しているその第二段階として―― 発信の側は 論理表現につとめる。こうなると考えるからです。 話し手も じつは 発信する前に 別の発信の読み手であったわけです。つまり読み手として 《トリップ経験》は済ましているわけです。そのあと つねに 第二段階として 論理表現にいどむことになります。 ○ 受信段階 :返信(つまり発信)のための準備段階でもある。 :聞き手として 話し手に対して 人格の存在形式の全体において(感性的にも理性的にも) 密着する。(=α:トリップ作業) :いわば 自己をなくすかのように――そして それによってこそ 自己を生かすために――相手の人格に やどる。(=α:トリップ経験) ○ 発信段階 :受信のあと 実際に 発信する。 :そのとき 自己を取り戻して 自己の考えをまとめ これを論理的に表わす。 ですから 《パラドックス》は ないのです。あるいは あっても 論理表現にとって 妨げになるようではないでしょう。 《役割》は さまざまに 《変態》すれば よいでしょう。人格(ないし 人間という生命存在にそなわった自然本性 なかんづく その自由意志)には 変態するほど自由自在に役割をになう能力が 開発を待っていますし 開発されて来ています。 性差や 護身も排他も あるいは わたしの嫌いな同情も それらが しかるべき役割であるなら 誰であっても 割り合いに容易に こなしていけるようになるでしょう。 ▲ きみの持っているもので もらっていないものがあるか。もらっているのなら なぜ もらっていない者のように 自分自身を誇るのか。 ★ 要するに、論理表現がどこでおかしくなり始めるかという点です。 ☆ 明確です。発信の段階においてです。つまり 【Q‐2】(2-1)です。もしくは その主体の問題として 論理表現がおかしくなるだけではなく 故意に あいまいにするという【Q‐3】です。 ただし 【Q‐2】の(2-2)の場合も 考えられます。これは 今回のご論述のなかに ぴったりの箇所がないかに見えますが 最近 タレントの北野誠の舌禍事件というのがありました。 【Q:北野誠の不適切発言】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4870954.html で知ることができます。わたしも これを 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか?】(そのNo.4)で取り上げました。つまり 社会力学の問題です。 文福茶釜の絵は こんどわたしが利用することになった運営会社の場には 画像入力の機能が まだ ついていませんので 残念ながら 載せられません。 ★ 「すべてのクレタ人は嘘つきである」 ☆ 《うそをついたことのない人間は いない》ということで 処理したほうが よいと考えます。クレタ人か非クレタ人かなどで 境界線を引かずにです。 その他 その記事としてはおもしろい部分について もはや 触れ得ずじまいです。 このようにして まだ 説得されておりません。
あれこれ文章を書き連ねては消し、また書いてはしているのですが、どうも、どうやら、何度やってもどうも違うなと思ってしまう理由を考えるに、その理由は【Q-4】にあるのではないかと思いました。どうも僕は、 「日本文には よくも悪くも 表現を冗長にすることができる構造があり その話者は わざとそうしようとする言語慣習さえある。けれども 論理表現は 可能であり その伝達は 妨げられない。」 という質問者様のお考えにあるこの文章に、何か自分の思っていることとの違いを感じるような気がします。というのは、これまでどのくらい「ふさわしいか」という事例を、ある意味一つひとつ見つけ出してきたわけですが、もし、論理表現にふさわしくない言語というものがあったなら、それはどんな言語なのだろうかという、最初の頃の話に戻らざるを得ないようなそんな戸惑いを感じたからです。 いったい、ふさわしくない言語というものが本当にあるのだろうか。 このように考えたのは、質問者様の立ち位置が主に発話(すなわち出力)にあるように感じるからで、入力に関しては、それほど重要視されていないのではないか。ふとそのように感じたからでもあります。出力はもちろんですが、入力においても、もしそういった言語があるとすれば、やはり「ふさわしくない」という評価が下されるのではないでしょうか。 論理表現にふさわしい言語はおそらく、入力・出力ともに「ふさわしい」と呼ばれるのではないかと思います。そしてさらに、どうやら最近は出力よりもむしろ入力のほうこそが、論理表現には大事なのではないかと、思ったりした次第です。 という意味で中間報告になりますが、如何でしょう。
お礼
passcard さん ご回答をありがとうございます。 ううーむ。 ★ 入力の問題 ☆ ひょっとしたら 何かあるかも知れないとは思うものの どうも まだ 奇怪なことをおっしゃっているように思えています。 なぜなら ○ 入力とは おそらく 受け取りと理解のことだと思いますが その過程は 出力されたものの受け取りと理解なわけですから ここで 新たな問題が発生しているとも 思えないのです。 ☆ 受け取る文章(――テクストとしましょうか――)は 出力のそれと まったく 同じものです。だとすれば 理解つまり 理解力は ☆☆ 【Q‐2】 言語じたいの問題ではなく (2-1) 論理的に述べない主体の問題である。 ☆ という出力の側と同じく 論理的に理解しない主体の問題であるとなるはづですから。 話者が どれだけ 話題をあちこちに散らしたりして 話を冗長にし焦点が定まらないようなテクストを出力したとしても 入力における受け取りとしては ふつうの日本語使用人であれば 容易について行けると思いますよ。そして たしかに 理解ないし理解力がどうかとなれば それは ひとによるという部分があるかも知れません。 この主体の問題は じっさいには 出力の側でさえ 意図した内容とはちがったことを そのテクストに出力してしまったという場合があると考えられるからです。 そうなれば あとは 修正が効くかどうかです。とうぜん 効くでしょうから 日本語という言語じたいに 《論理表現にふさわしくない》という要因を捉えることにはならないと思うのですが どうでしょう? 一気に述べてしまいましたが おそらく 軌道修正も効くと思うのです。そういう問題であるように思いますが さらなる展開をお待ちします。
こんにちは >ううーん。全体として まだ エンジンがかかっていないかのようですね。それか わたしが にぶいかです。ちょっとやそっとぢゃ 鈍くならないので たぶん 前者でしょう。 性能を過信しています。どちらかといえば、僕はポンコツ車のようなものですからね。ひとつを修理すると、別のところが目立つようになる。《あいまい》表現は、お詫びします。でも、こうするより他なかったんです。 > 日本語は ○ 対策 ☆ に踏み込まれては いかがですか? 下にまとめがある事に気付きました。すでに、来ているのでしょうか。 来ているのかもしれません。そうですね、ひとつ文章を拵えようと思います。僕にうまくできるでしょうか、がんばってみます。
お礼
passcardさん ご回答をありがとうございます。 bragelonne さまも 繊細なるところがあることを!!! 馬のひとみを流れるしずくが・・・ 夢ならば醒める 雨ならば落ちる 雲ならば流れる 無常がコマーシャル・フィルムならば 木魚の音に混じって 新たなる夢に落ちよ 落ちて流れよ 傷まざる河を 読経の雨が白み始め つばめたちが降りてゆく 石段をはずさず 照源寺の墓地を駆け抜ける 馬のひとみを流れるしずくが 病葉を集めて 注ぎ込む大河を * 二十代末です。
お礼
《内的な表出》にかんして No.10へのお応えです。 奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが HA..... と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはづです。 HA.....SI。 というふうに 続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして 発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取った。また その心の状態を 取り立てた。 HASI . / はし。 こうなると 心の状態が あたかも表わされたかに思える。《愛(は)し》。つまり これは 中心主題相/ h / と指定相・断定相/ s /が働いたと《あとづけ》してそうなる事態ではある。ここに 自称相 / ’(=ア行子音)/で う。 アルイハ うる(⇒裏・裡・心)。 と作って これを添えれば うる‐はし。(心愛し・麗しい) とつなげて いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる当の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。 《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを 合成すれば 《やま‐と》のかたちに つくった。 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり やまと(山‐処)‐は うるはし。 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。 やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。 《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここに《ま / ろ / ば 》をも添えて やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として 文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。
補足
passcardさん ご回答をありがとうございます。 考えてみれば この質問のかかえる主題や課題は 言語学の基本を押さえつつ 哲学のあつかうあらゆる思考形態を網羅して 向こうからやって来るものは何でも 仕訳していかねばならないのではないでしょうか。 言いかえると 《表現》のすべてが 入るのではないでしょうか。 【Q‐6】 言語と性差という問題 ☆ この点で たとえばひとつ 気になっていることを提起させてください。実体詞(名詞等)の性の問題です。 仏語で 日本語から入った tatami(畳)に性があると聞いて おどろいたという経験があります。いったい どんな感覚なのか。このような言語習慣とは 何なのか。 さて ★ ご飯の前には「いただきます」と言うじゃないですか。それと同じです。手順は踏まねばなりません。 ☆ これは No.5補足欄で取り上げた質問 すなわち 【Q‐5】 われわれ日本人によく見られる《あいまい表現》という傾向が つごうのわるい場合 どうすればよいか。 ☆ に入ると思います。広く 《対策》の問題です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (α) He bought a Baseball equipment he thought would be useful to his son. という文章があり、ふとこれに目を止めたんです。・・・ 思えば、ふだんの話ではこういう話形にはよく出くわします。 あるいは本来、こういうふうなのかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかに おもしろいですね。そして そのような或る種の仕方で始原的な話形は たぶん 主題提示という文構成の原形につながるのではないかと考えます。 言いかえるなら ひとは 話者となるとき 思いついたことがらを 主題として 一つひとつ 半ば筋道(=最終の意味連開)から自由なかたちで 言い出して行く。主観の中において表出するままに 主観によって それらを 表にも いわば《絶対的に提示していく》かたちです。 さらに言いかえるならば この絶対的な表出とその表出事項の提示が 主観の形成となり 文の生成となり 思想の始原的な成立であるとなるように 思われますから。 おそらく 主観なり文なり〔文の集まりとしての文章なるかたちでの思想なり〕を やはり 締めくくるということが起こった。主観は 判断の打ち切り 意志決定の打ち止めを起こした。これを 《法判断》というのだと思います。 ・断定法・推量法・否定法・仮想法・命令法・希求法・・・。あるいは 概念法(=日本語で 連用形)・不定法(=未然形)・連体法(=連体形)などなど。 法判断が決まったところで 最終に提示された主題が 論述となる。論述判断は それ以前の諸主題が 問いかけとなっているその意味内容に対して 答えとなる。文は 問・答から成る。 論述判断が受ける問いかけとしての主題は 論述の判断内容に対して 格関係をかたちづくる。意味連関が 固まっていく。 (α) He bought a Baseball equipment / he thought / would be useful to his son. ○ A 1(かれ)‐ハ B1(野球道具を買った)‐ガ C1。// C1= A2(おそらく=かれが思うに)‐ハ B2(それ)‐ガ C2(息子の能力を引き出すだろう)。// 〔話者格〕:〔ということだそうだ〕。 ・A : 第一中心主題 ・B : 関係第二主題 ・C : 論述主題( 法判断 ) 主題提示は 内面における絶対的な表出とその外面への絶対的な外化(=表現・疎外)によって 生成する。すなわち はじめは もし格関係をうんぬんするなら 絶対格による提示となる。 これが 文において文の要素となって 具体的に 堂々と 主題格を構成するようになり さらには 論述に対応する意味連関としての主格や賓格(対格・与格)をも 文の中の別の層において 担うようになる。 おあとがよろしいようで。