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アイラヴユー/我爱你は 線形の論理に過ぎる。
非線形の構造に親しんでいるわれわれ日本人は この一直線の論理になじまない。 直線だけの論理は 人間の論理ではない。 アソビがない。 アソビがないということは 相手との関係を見ていない。 それとも 言葉による表現の外で 目や仕種でおぎなっているのだろうか? 人間関係をおもんじるなら 自己表現は構造的であるはずだ。 相手の意志自由をとうとぶゆえに。 《アイラヴユー / 我爱你》は 言いっ放しに過ぎる。 のではないだろうか?
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こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。 夏目漱石が英語教師をしてた時、 生徒が「I love you」を「我君ヲ愛ス」と訳した所、 「日本人がそんな台詞口にするか。 『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ。 それで伝わるものだ」 と言ったそうな。 ちょっと大げさかもですが。 ___________ たとえば、の話。 閉じられた質問と開かれた質問があるようです。 ◇ 親:今日(は)、学校(が)、楽しかった? 子:Yes(or No)。 ◇ 親:今日は(あなたにとって)何が楽しかった? ついでに何がイヤだった? 子:給食と体育の授業と休み時間が楽しかった。 イヤだったこと?書道の時間に叱られた。 親:給食は何を食った?体育の授業は何をした? 休み時間は何をした?書道の時間は何で叱られた? 子:あーだこーだ誰々がうんぬん&%$ぁ★wが’*。 ちょっと大げさかもですが。 ___________ またまたたとえば、の話。 AさんはBさんを気に入っている。 だからAさんはBさんにも自分を気に入ってほしい。 Aさんは、わたしの気持ちはこれぐらいなのだよ、と 「 i love you」と刻印されたハート形の巨大な岩石を 思いっきりBさんに投げつける。 Aさん→すっきりする。期待までするかもしれない。 Bさん→ハート形の岩石の下敷きになって動けない。 「重いからどけてちょうだい、ああ血が出てるわ、 これぢゃあのんびり話もできないぢゃないか。」 ちょっと大げさかもですが。 ほぢゃ、お邪魔しました。
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- NemurinekoNya
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こんばんはです。 語形や語順がすべてに優先する中国語ですから、言語の構造的にも、アソビはないんでしょうね。 他者との関係性などをすべて無視し、むき出しの感情や考えがあらわに、ダイレクトに表現されてしまう。 ムード・Moodなんてものはない!! じゃないですか、 中国語には(笑い)。 特にわたしが読むような、千年以上前の中国語の古典は簡潔な表現で、余韻といったものがまったく感じられません。血も涙もないといった印象を受けますね。簡にして要こそ中国語の特色といった感じを受けます。 ただ、中国語には、四声とかあるじゃないですか。これで、こうした欠点をある程度補うことは可能なのかもしれませんが。 ですが、そこは中国語、文字の国、(昔の)中国、 膨大な漢字群がその背後に控えています。 この漢字の組み合わせによって、かつては、この欠点を抑えられていたに違いない。 ですが、今は……、 TVなどで拝見する中国の人たちは、ただうるさく騒いでいるだけのように思えます。 互いの、むき出しの感情、エゴ、利益が噴出し合い、カオス・混沌状態を形成しているような・・・。 I love you.のアメリカさんにしても、権利と義務ばかりが目立って、世知辛くていけませんよ。 加藤秀俊か多田道太郎か誰かの本で、 アメリカの家庭では、旦那さんは奥さんに対して毎日のように「I love you」なる言葉を言い続けなければならない。これは義務。これを怠ると、ある日突然、奥さんから離婚をつきつけられてしまう、 といった内容が書いてありました。 「I love you」なる言葉を発しないと、相手、先方は愛情の存在を確認できない・・・。 日本のような《察しの文化》や《察しの土壌》がない。 夫婦間は権利と義務で結びついている。 アメリカ(ピューリタン的なアメリカ)人の奥さんは、日本人の奥さんとは比較にならないほど働き者。キッチンやオーブンなどは舐めてもよいほどに綺麗に磨き上げる。旦那さんから「I love you」という言葉に値するほど、家事をよくこなす。そして、ホームパーティーなどを開き、旦那さんの出世に役立つような働きをする。 ということで、旦那さんにとって、家庭は安らぎの場所とならない。できうることならば、この地獄のような環境から逃げ出したいと、ひそかに願っているとか、いないとか・・・。 こういったことを書いておりました。 わたしが思うに、アメリカ(ピューリタント社会)において、「I love you」という言葉は、誓約の言葉なんでしょう。あるいは、努力目標に違いない!! で、 日本語、和語には、中国語の「愛」や英語の「love」に該当する言葉がないじゃないですか。 これを無理やり日本語・和語、ヤマト言葉に当てはめるとすれば、 「好く」とか「思ふ」になるじゃないですか。 和歌の世界ですと、もっぱら「思ふ」ですよね。 そして、「思ふ」の連用形「思ひ」の「ひ」と「火」が結びつき、その思いの強さ、激しさを表現する。 この歌を受け取った相手は、それを読み取る、察する。 何とも雅の世界ですね~♪
お礼
ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ひさびさのご登場ですね。 ◇ 夫婦間は権利と義務で結びついている。 ☆ ほんとうに こうなんでしょうか? たしかアラブの世界でも 結婚に際して 離婚のときの財産分与についてもきちんと決めて契約書を作成するとか。 そしてあるいは 感情や愛情やあるいは所帯を持つことの責任感などは これらの権利と義務の世界とは 別にあると見る必要があるのかどうなのか。 ◇ アメリカの家庭では、旦那さんは奥さんに対して毎日のように「I love you」なる言葉を言い続けなければならない。これは義務。これを怠ると、ある日突然、奥さんから離婚をつきつけられてしまう、 / といった内容が書いてありました。 ☆ であるのならば まるで人間関係ないし信頼関係が 直線的な――線分としてつながってその両端で応答するだけのような――つまりその言葉のやり取りによって 成り立っているというのでしょうか? ぎゃくに言えば 言葉は 重要なのですね。別の意味で はじめにロゴスがあった。となるのでしょうか? いやぁ 分かりません。いままでは それはそれで アメリカ人も ほかのヨーロッパ人もセム族の人びとも けっきょく生活をしているのですから 言語のつくりの違いによって それほど違いが出るとは考えませんでしたが どうもよくよく思いをめぐらしていると おかしい。いちゃもんをつけるようながら どうも おかしい。 《毎日のように言う「I love you」》は 義務であり あたかも《仕事》なのでしょうか? 家庭生活が 職業に就くのとあたかも同じような人生のつとめなのでしょうか? ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ アメリカ(ピューリタン的なアメリカ)人の奥さんは、日本人の奥さんとは比較にならないほど働き者。キッチンやオーブンなどは舐めてもよいほどに綺麗に磨き上げる。旦那さんから「I love you」という言葉に値するほど、家事をよくこなす。そして、ホームパーティーなどを開き、旦那さんの出世に役立つような働きをする。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ そういう一面もあるのですか。それは 大きいですね。それが ふつうにやれるとすれば 非常に活動的な人びとなんでしょうね。 でも やっぱりまるで結婚して築く家庭へ就職したかのようでもあります。 ◇ ということで、旦那さんにとって、家庭は安らぎの場所とならない。できうることならば、この地獄のような環境から逃げ出したいと、ひそかに願っているとか、いないとか・・・。 ☆ あぁ。やっぱし。ですよね。ううーん。なんでそんなしんどいことをし続けるのでしょうね。 ◇ わたしが思うに、アメリカ(ピューリタント社会)において、「I love you」という言葉は、誓約の言葉なんでしょう。あるいは、努力目標に違いない!! ☆ ううーむ。理想を措定しこれを実現するよう問い求めて行くのでしょうか。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ 日本語、和語には、中国語の「愛」や英語の「love」に該当する言葉がないじゃないですか。 ・・・・ そして、「思ふ」の連用形「思ひ」の「ひ」と「火」が結びつき、その思いの強さ、激しさを表現する。 この歌を受け取った相手は、それを読み取る、察する。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 思ひのヒは火のヒなんですか。これは 聞いたことがないなぁ。そういう言い回しができるほどだということですかねぇ。 縁側があるのも いいですね。 さて 漢族の人びとは どうなんでしょう。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ 語形や語順がすべてに優先する中国語ですから、言語の構造的にも、アソビはないんでしょうね。 ・・・・ 簡にして要こそ中国語の特色といった感じを受けます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いま うまい応答を探していますが なかなか出て来ません。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ですが、今は……、 TVなどで拝見する中国の人たちは、ただうるさく騒いでいるだけのように思えます。 互いの、むき出しの感情、エゴ、利益が噴出し合い、カオス・混沌状態を形成しているような・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 会議や大きな集まりなどで発言する場合 あらかじめ文字でつづったものが配られるというのを聞いたことがありますが そこのところなども どうなのか。知りたいですね。 話し言葉で発表したり演説をしたりしても 必ずしも聞き取れない場合がある。よって 文書でおぎなうというようなことだったと記憶しているんですが。 くわしい方がいたら おしえて欲しいですね。 《我爱你》論は 持ち出した割りには 線香花火に終わりそうです。というより 社会事情や生活感覚は 知りません〔のに 出しました〕。
- a_hona
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この、一生に一度言うか言わないかの言葉は遊びではないので、真っ直ぐでいいのです。当然受け答えもまっすぐで、横槍の入らないことがいいのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですかねぇ。 まづ それを母語とする国の人びとは しょうっちゅう言っているのではないでしょうか。 そして もし日本人のばあいには ★ 一生に一度言うか言わないかの言葉 ☆ だとしますと どうなるか? おそらく そうなると ★ 遊びではないので、真っ直ぐでいいのです ☆ ということだとは考えられます。つまりその意味は こうです。 ふだんは意志表示をあいまいにするクセがついているけれど ものごとにははっきりさせなければならない場合がある。 職業やあるいは会社を選択するのは おおむねひとつに決まっているし はっきりと決めなければならない。それと同じように 連れ合いを決めるとき 特定のひとりだと決まっているし 決めて意志表示しなくてはならない。 問題があるとしたら ひとつに 片や結婚の申し込みやそれへのこたえは 《真っ直ぐでいい》し むしろそうでなくてはならない。のだけれど 片や愛の告白は どうか? 《真っ直ぐでいい》場合もあるし 普段つかっている言葉で伝える場合もある。のではないだろうか? ひとつに 日本語で《真っ直ぐな表現》とは 何か? 将来を見越しての愛の気持ちを伝える際の表現として 何か? いまでは この《アイラヴユー/我爱你》なる直線的な言い方が ふつうになっているだろうか? 日本語で何と言うのだろうか? ★ 横槍の入らないことがいいのです。 ☆ という考えから ストレートな表現がよいとして その場合 この《アイラヴユー/我爱你》に似た表現に落ち着くのだろうか? そんな表現はあるだろうか? 日本語には そうではなく 互いのあいだに言わば縁側をもうけていて さらに内側に入るかどうかの言い回しでやり取りするのではないか? 構造的におのれの心をも表わし 伝え合うのではないか? いやぁ どうなんでしょうねぇ。 もうすっかりアメリカナイズされているということなんですかねぇ。
お礼
こんにちは にゅうとらるさん。ご回答をありがとうございます。 この質問は 手さぐりしながらの問い求めです。 昔は 英文等が簡潔で直截な意志表示〔を可能にする文例〕であって 話がしやすいと思って受け留めていましたが どうもそうではないような側面が 大きい。のではないか? ここから出発しています。 ▲ 『月が綺麗ですね』 ☆ でしたか。そういった話があったようなもう覚えていないような。 ということは その文脈がものを言う。あるいはつまり その場やふたりのそれまで過ごしてきた歴史があって それが言葉よりも多くを語るというようなことでしょうか。 ★ 閉じられた質問と開かれた質問があるようです。 ☆ なるほど。そういう観点から捉えることが出来るのですね。文型が一直線で成り立っているというのは その直線の延長線上に答えが予定されていて それ以外の道には寄り道をしない。その意味で 非常に合理的で しかも 《閉じられた質問》である。――こうですよね? ここまでのお話は 想定しようと思えばできました〔と思うのです〕が 次の世界は わたしの想像の範囲を超えていました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ またまたたとえば、の話。 AさんはBさんを気に入っている。 だからAさんはBさんにも自分を気に入ってほしい。 Aさんは、わたしの気持ちはこれぐらいなのだよ、と 「 i love you」と刻印されたハート形の巨大な岩石を 思いっきりBさんに投げつける。 Aさん→すっきりする。期待までするかもしれない。 Bさん→ハート形の岩石の下敷きになって動けない。 「重いからどけてちょうだい、ああ血が出てるわ、 これぢゃあのんびり話もできないぢゃないか。」 ちょっと大げさかもですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほどですね。たとえば こういうふうにわたしも言いたかった。 あ_ほなさんが どう受け取って考えるだろう。 こういった問題は ありますよね。 つまり・つまり ★ だからAさんはBさんにも自分を気に入ってほしい。 ☆ というとき おのれの愛なる気持ちをストレートに――むろん 表現の自由なんですが――表わすと言っても 《気に入って欲しい》のであり そのために話をするのであるならば まだその直球がど真ん中のストライクであるかどうかは分からない。そういう互いの気持ちの段階であるはずだ。 たとえ純真でウソイツワリのない直球で確かにストライクだったとしても さあ打てというような問いかけになってしまう。 あるいはそれとは違ってすでに ふたりのあいだの気持ちも心もかなり定まって来ていて 信頼関係も築かれて来ている。といった段階にあるなら 今度はぎゃくに いま上のようなど真ん中のストレートを投げても それは かえっておかしい。いまさらの言葉になってしまう。そんな直截な表現で表わす必要がなくなっている。 (たぶん 場合によっては・または 何かのきっかけによっては 一本調子の表現がふさわしかったり必要だったりするのでしょうが)。 というように考え その思いはやはりつよいのですが どうなんでしょうねぇ 現代人は。