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哲学の授業でレポートを書くのですが・・・

テーマを、「主体の構造 自己意識と存在への開き」「意志の構想と意義への問い」「人間の共同存在の哲学的解明」のどれかから選ぶのですが、本を調べようにも一体何に関する本を探したらいいのかもわかりません・・・。 何でもいいので、何かヒント・キーワードなど教えてください!お願いします!

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.5

  まず、何の質問をされておられるのでしょうか? 哲学概論または哲学通史の授業のレポート課題で、こんな問題が出るはずはないとおもいます。もっと特徴的な哲学者に固有の用語を使っている場合とか、タームとしてある程度限定されたものを使って課題が出されている場合、それは、誰の考えにあるとか、いうはなしになります。 けれども、ここまで一般的で、しかも現代哲学のテーマであると同時に、哲学史を通じて問題になっている主題をあつかう場合、これだけでは、何のことか分かりません。 つまり、授業で実際に、どういう話を先生が行ったかで、全然、考える方向が違ってきます。 たとえば、「人間の共同存在の哲学的解明」とは、「間主観性」の問題を尋ねているのか、または、独我論に対し、哲学はどのように、主体の共同存在性を確保してきたのか、という問題を尋ねているのかで、答えが違ってきます。また「間主観性」といっても、独我論に対する反論として問題が立ちます。 「主体の構造」「存在への開き」「人間の共同存在」というと、現代哲学の問題のようにおもえますが、カントの哲学についての現代からの批判的展望として、こういう問題を立てることもできます。 これは、先生が授業で何を話したのか、ということが問題になります。授業に出ていれば、これらの課題で、何を尋ねているのか、分かるはずです。何か具体的な、特定の話や、現代倫理学概論のような話が、授業で行われたのだとおもいます。 だから、こういう問いは、その先生の授業を受けていたひとに、どういう哲学者の名前がよく話に出ていたか、どんな話があったか、参考書として何があげられていたか、を教えてもらうほうが、よほど有効です。 その上で、さらに、質問するというのは具体的なアドヴァイスが可能だとおもいますが、現在の質問内容では、アドヴァイスはできません。 これらの三つの課題を眺めると、現代倫理学の実践的課題についての理論的考察の問題のようにおもえます。そういう概論的話を、先生が授業でしたのだとおもいます。 現代倫理学入門というような本をみると、これら三つの課題に対応した問題提起が記されている可能性があります。内容を確認していませんが、比較的に安くて、入手しやすい本として次のような本があります。 >> 「現代倫理学入門」講談社学術文庫 >> 加藤 尚武 (著) 文庫 (1997/02) 講談社 >> 価格:¥820 次のような本もあるようですが、高いですし、入手は難しいとおもいます。(内容は分かりません)。 >> 「エチカとは何か―現代倫理学入門」 >> 有福 孝岳 (編集) 単行本 (1999/11) ナカニシヤ出版 >> 価格:¥2,400 現代倫理学入門というのは、新書で、そういう本がいくつか出ているともおもいます。授業に出ていたひとに尋ねることと、もうひとつ、大きな本屋に行って、現代倫理の入門書を探してみて、目次を見て、先の三つの課題に対応するような問題があつかわれているようなら、その本を参考にするのがよいでしょう。 本全体を読む必要はなく、それらしい話のある部分をもとに、自分なりに、課題に合うように、まとめるのがよいでしょう。  

rui612
質問者

お礼

実は先生が外国人で、一応日本語での授業なのですがモゴモゴして何を言っているのか誰も聞き取れないんです・・・。(泣) 丁寧かつ真摯な回答ありがとうございました!「現代倫理学入門」探してみます!

その他の回答 (4)

  • shota_TK
  • ベストアンサー率43% (967/2200)
回答No.4

最初のテーマ「主体の構造・・・」だったら、デカルトの「コギト・エルゴ・スム (われ思う、ゆえにわれあり)」から始まった認識論について述べれば、何とか なりそうな気がします。その後に続くカントの純粋理性批判によって、存在と 認識の関係が明らかになりましたよね。つまり、存在(あるいは真理)を 直接認識することは不可能であり、感性や悟性(感覚を組み合わせて論理的に 理解すること)通してしか認識することはできない、という考えです。 とりあえず、そんなところで検討してみて下さい。

rui612
質問者

お礼

デカルトですか~。「存在」について確かにそんな感じのことを言っていたような気がします・・・。参考にさせていただきます。ありがとうございました!

  • izumokun
  • ベストアンサー率30% (1129/3679)
回答No.3

 このテーマだったら、実存主義に関するテーマだと思います。非常に分かりやすい本であれば、岩崎武雄著「存在論・実践論」、「真理論」あたりがいいんじゃないでしょうか。

rui612
質問者

お礼

具体的な本の名前まで教えてくださってありがとうございます!早速本屋さんで探してみます。

回答No.2

よくわかりませんが、構造主義、ハイデガー、エマニュエル・レヴィナス、 などじゃないですかね? googleで「主体 構造」とか「自己意識 存在への開き」 など入力して調べてみたらいかがでしょうか?

参考URL:
http://www.google.co.jp
rui612
質問者

お礼

ハイデガーという線はかなり濃厚だと思います・・・。 参考になりそうなキーワードありがとうございました!

  • Yepes
  • ベストアンサー率17% (18/104)
回答No.1

ずいぶん難しそうですね。 個人的には、有斐閣選書の文庫ものが好きです。 また、こんなことを言うと笑われるかもしれませんが、 課題の意味を解釈するだけでレポートになるかも しれません。(哲学辞典なぞで)

rui612
質問者

お礼

確かに課題の意味を自分なりに解釈するだけでもレポートになりそうかも・・・。 回答ありがとうございました。

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  • 哲学・政治学本が好きです!

    哲学・政治学系の本を読むことが好きなので、今度の冬休みにでも、有名なネグリの「帝国」を読んでみようかな… と考えていたのですが、他にも読みたい本がいくつもあるので、時間がかかりそうな「帝国」を省略しようかどうしようか迷っています。 書評などを読む限り、「帝国」のポイントは、 現代の「帝国」は、かつての帝国主義国家と違い、世界規模で、軍事や金融を支配する組織連合のような形で存在している… という現状を指摘することかな、と思うのですが、そういう端的なポイント以外にも、実際読むことによって考えさせられることは大きいでしょうか?それとも、そういうポイントさえ知っておけば、取り立てて急いで読む必要はないでしょうか? 他には、特に自分にとって読む必要があるとかではなく、ただの思い付きみたいなものですが、 バタイユの「エロティシズム」、 ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」、 リップマンの「世論」 等を読もうかな、と思っています。 他にも、最近光文社から新訳が出ているカントの「純粋理性批判」とか、ニーチェの「善悪の彼岸」等も読んでみたいのですが、ちゃんと理解しながら読むのにすごく時間がかかりそうなイメージがあるので、今のところ何となくですが、上記の3冊を優先しようかな・・・と思っています。あと、ノージックの「アナーキー・国家・ユートピア」は読もうと思っています。ノージックとネグリは、東浩紀氏がアマゾンでおススメリストとして公開されていたので特に興味が湧きました。 他に、例えばレヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」とかも、書評などを読む限りかなり良い本だろう、と思うのですが、構造主義などは解説本などでかなり大雑把にですが内容は読んだことがあるので、後回しにしようかな、と思いました。 他にも、フーコーの「言葉と物」もかなり気になっているのですが、「監獄の誕生」をとりあえず読んだことがあるので、まだ後回しにしとこうかな、と思っています。 こっちを先に優先した方が良いんじゃないかという意見、とか、他にもこれが特におススメという本があったら教えてください。