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意識(心)は、どこからやって来たのか?

sheep67の回答

  • sheep67
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回答No.13

こんばんは。 今考えてるのと重なるテーマなんでちょっと。 僕も何か有益な意見を得たいのですが・・ で、うまれる前がどうかまでは僕は分からないんですが、 おおざっぱに生まれてから以降の話でいいですよね。 以下は、僕の自己観察の結果です。 ーーー前提となる完全性の話 で、まだ全部はわからないですが、考えてる範囲でいうと、 基本形を、完全な状態、と思っています。まあ一応。 つまり、意識があるなどの自覚が生まれるまでは、意識と心人格現実などは、完全に一体化している、という仮定です。 ーーー矛盾による完全性の崩れと意識の発生 生まれ以降矛盾にさらされることで、これらの一体が崩れます。 心や人格などの主観が、世界に対応してるのは大体いいとします。 分離が起こるまでは、意識は強力なでも先天的な集中力で、内面の自分と外部の世界を一体化させている、とみます。 不条理や矛盾により、筋のとおらなさを感じ、不満が生じることで集中は低下、それによって、自分と世界との一体は崩れます。 (言換えると認識能力が上がるにつれて広がる世界の取り込みに失敗した、とも言えるかなー?、見方の違いですが) この地点で、意識は本来の働きである一体化、という作業をできなくなりました。(例えば幼稚園でいじめられて三つ子の魂百まで的経験をするとかです) この辺りが僕も考え中なんですが、たぶんこれ以前の完全なときには、意識は、遊離することなく、自分内面と世界を巡って、全体を一体化させる役目があると思います。役目、というかもともと脳がそうできてる、ということですが。 内面と外面の完全な対応が崩れたときに、有限で限定的な自己ができることはわかってもらえると思います。外面と内面の完全でない対応の、ギャップ部分がまさに自分です。外面ー内面=自分、です。 外面とは人格外の自分の無意識とそれに対応した世界の対。 内面とは、自分の持ってる主観とそれに対応した世界の対。とみます。(外内の定義がごちゃごちゃ・・) その自分に対応して、意識が生じます。 つまり、自分の中で、心ー意識、人格ー意識、現実ー意識、などというペアを組むことで、いろんなタイプの自分が生じます。 意識は、全体の自分と、部分の自分の境界に存在するし、 全体の自分は、本当の世界に対応、部分の自分は思いこみの世界に対応しています。 意識の、ある種パーフェクトな完全さを保っているのに対して、矛盾を感じることで主観は分離した不完全なものになりました。 そのため、そこで初めて、主観と意識の間に優劣関係ができ、そのため意識が主観ー世界の対を把握する、という完全性から見ると不本意な事態が生まれます。小さいときにすでに。 ーーーループする意識 下で他の人が書いているように、(いきなり話飛びますが) 意識は循環しています。我思う故に我ありです。僕はループと呼んでいます。工学では再帰性とかなんとか言います。 というか、ループを描いているから、分裂した部分的な自我が、いつまでも存続できます。 それは5感と判断力を元にした、内面と外面のフィードバック、という名前のループです。ループの形で循環している、 ということは、そういう風に作っている、といえます。本質ではなく作り物です。 その作り物を維持するエネルギーは、本来上流から下流に水が流れるように流れるはずのものが、意味の矛盾という壁に阻まれ、よどんで渦を巻いている、という風な気もします。 ふーつかれ・・ ーー分裂して初めて意識は意識が属する自己を把握可能 意識は意識に戻ってくるように見えますが、 意識は、意識を、直接は捉えられていないことはわかってもらえますか? 意識は、意識そのものを把握はできません。意識が意識を見る鏡みたいなものはありません。 意識が見ているのは、部分的自分です。 つまり、上に書いた、主観と意識が一緒にあるところの、部分的自分です。 勝手に、主観+意識=自分(部分的自分)、と定義させてもらってます。 もし分裂前であれば、自分がまだ全体と等しい幼いときなら、自分は全体であるので、把握はできません。 意識による把握は、「部分、有限、限定」のみが対象だからです。全体の把握とは、無限、全体の把握と同じようなもので、人の脳では無理です。限りがない、というもののダイレクトな把握は、脳はやってくれません。 なので極めて幼い満ち足りているときは、自分は宇宙全部とも(内面的外面的に)同じなので、その時独立した意識みたいなものがあっても、全体性そのもの(いや、正確には全体であり部分でありありとあらゆる物)である自分を把握できません。なので遊離した意識はないと思います。 それは正確には、無いのではなく、部分化していないため、独立して現れていない、と、今のところは見ています。(心理学で言う自我肥大とは逆の、心の広さというか、器の大きさ、と呼ばれる系統のもの) ーーーループの大きさの変化 でも自分が、分裂によって部分的自分となって以降なら話は別です。 意識は、その部分となった自分を捉えられます。 その部分か、自分の断片化がもっともっと進むと、ゲシュタルト崩壊や、虚無、ニヒリズムの方に行くと思います。 最後、極限に於いて、意識が、意識だけを捉えるときは、たぶん・・生きることは難しいと思います。 意識がもし意識だけに戻る純粋さがあるなら、それはもう僕の意識ではなく、普遍的なもののはずです。つまり意識に名前は付けられないし個性もないからです。それはもう、ちょっとこの世のものではない感覚がするんですが・・ 逆にいうと僕の意識、と言ってる限り、それが捉えるのは部分的自分だと思います。「僕の」という言葉が感じがある限り、つまり、普通「僕には意識がある」と言うときには、意識を持った自分を指している、と思うんですが。意識のみを単独で取り出せない、それは、我思う故に我ありのように、ひとつの象徴というか、極限に於いてはそうだよ、という表現になります。でも本当にそうなったときには、そのところに於いては「我」という単語は成り立たないのでは?そんな部分を占めす単語が出てくることは、意識だけの純粋な循環をしたのではない証拠かなと思います。 意識が純粋に意識に戻るとき、それは、ネガティブに、ニヒリズムに陥って、あらゆるものが意味を失うとき、つまり自分(=意識+主観)のなかで、主観と意識が乖離し、意識だけが単独になるときか、 逆に人生を十分に生きてあらゆることに満ち足りて思い残すことがないとき(意識と主観が完全に統合されるとき)などが考えらると思います。それはいい意味で、全体性からはじき出された意識がアローンで存在してない、という風な・・ 前者は、「部分の極限」、後者は、「全体の極限」です。ミニマムかマックスか? の違いと見てます。 人の脳には、関係性を通じて自己の一体化をする、という機能があることが条件として考えられます。 こういう話は、極限の仕組みになります。物質は有限ですが、意味や感覚は、基本的に極限か無限だし、大まじめで僕は、極限の組み合わせとして扱ってます。と言っても数学強くないのでいい加減・・ あと、アーラヤ識みたいな、人格の階層のモデルとしても考えてます。 存在する階層としての人格と、その人格を、外部や他の人格と結ぶものとしての、意味や感覚、という役回りで、存在と関係の仕組み、と捉えます。存在を司る意識と、関係を司る主観(意味や感覚)、この2つが、赤ちゃんのころは、一体になって分離していなかった、完全状態だった、という一面があります。(完全じゃないですが) あえてかなり宗教概念抜きで書いてみました・・。 おわりです。長文になりました。 ーーー 合ってるかどうか・・ そもそも自信満々ならここには書かないので、まあぼつぼつと言うことで。書いてて整理できました。 何かあったら意見ください。おもしろかったです! 追加、NO8の下のネズミくんの実験は、学者にネズミが協力する気持ちがあるから可能だと思います。ネズミは操られた、とも言えますが、操られさせてあげた、とも言えるからです。洗脳や麻薬も、被験者がそうなりたいからなるんだ、という一面は否定できませんし。 ちなみに質問文に正確には答えてないでしょうが・・意識の由来と在りようについて参考です。 NO2,NO9の人も、この循環ループに言い及んではります。似たような意見かも知れませんが。 不完全も甚だしいけど、かまいませんよね・・

noname#136007
質問者

お礼

  つっこみたい所は、多々ありますが、 長い文章で、苦労して書かれただろうと思います。 その苦労に、敬意を表して、つっこみを控えます。 丁寧な、回答ありがとうございます。 参考にさせていただきます。  

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