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意識(心)は、どこからやって来たのか?

entahu2の回答

  • entahu2
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回答No.16

kunobouさんが どういう人生を歩んでこられた方なのか全く知らないのに、 失礼な質問かもしれませんが、 “そちらの この質問にて希求するところが 何であるのか”について興味を持ちましたので、少し回答を書いてみたいと思いました。 どういうことかと言いますと、  私たちの意識は、まず、ともかく、知らない間に存在していたとしても 確かに大きな時間の流れの線でも描けばその中のほんの短い線で表わされてしまうような時間の間にしか存在しない意識ですけど、 重要なのは 五感の大地の中に無限ともいえるような豊かな価値を宿し、 また同じ五感などの感覚の中にあってはならない苦痛の世界の可能性も持っていて、 たった今 苦しんでいる人がいるというふうに意識がとらえることができる というところ、その両極の間に 価値という存在を意識できるという事実の中に意識が置かれているということです。 その時にて、 そちらの質問 》意識(心)は、どこからやって来たのか?《 と  》あなたの主体である意識は、いつ、どのように生じたか?《 という質問の価値を kunobouさん御自身が どのように捕らえているのかについて興味を抱いたということなのです。 ◎それは、 その起源をなんであれ遡ることで、 つかの間とも理論的線では描ける時間内の巨大な意識の世界の価値を浮かび上がらせたいという 希求があってのことでしょうか? ◎それとも 解かりえないことのあたりに、何かの数学的な記述を成してみたいとかいった論理的希求の世界なのでしょうか? では、 ともかく私なりの回答もしていってみます。 起源ということでは、おもしろい体験があります。 私は 3歳の時に重い肺炎にかかり危なく死の一歩手前までいって、ぎりぎり外国からペニシリンが間にあって命拾いをしたと両親から聞いている“とある幸運者^^”であるのですが、 が、まず、その事を現在の私の意識は全く憶えていません。 3歳以後のことなら ほんのとある断片の記憶があったりしますが、ここでは略します。 ともかく 3歳以前の記憶が無いのですが、 私は中学の頃、 その3歳以前に私と家族が住んでいたという地域に親に連れられて行ったことがあります。 隣の家のおばさんという人が 私を憶えていて「いやあ 大きくなったわねえ、 ~ちゃん。 それにしても あの元気なかわいい子が こんなに立派になって。 そうそう、 おませというのかねえ、 ~ちゃん、かわいいったらなかったのよ。 私の娘に 毎日会いに来るのだけど、そのたびに「キスしてあげるから お家にあがっていい?」と言って 娘の手にキスをしてから上がってきたのよ」 ? ? ?  もちろんまったく憶えていないことであるわけですが、 あれれれ? これってまじめな「私」とは、別な子どもじゃないか?  ほんとうに「わたし」だったのか? ヒュルルルルルと 何故か冷たい風が吹き抜けたかのようなさびし~~い違和感を覚えたのを憶えています^^。 それからさらに 小学5年の頃、私は重い肺炎で右の肺胞が全部つぶれ左の肺胞もあと少しというところから助かってもいる人間、 これって もしその時に死んでいたら私という主体である意識は、 今これを書いてはいないわけです。 が、今 これを 私という存在は、 これを読んでいるだろう時間に“「あなた」という「私という存在」”が読んでいるだろうと想定して書いています。 今 ここ という存在の中にて、そしてこの奇跡の星の上にこの奇跡の五感とともに。 もし、差し支えなければ あなたの希求するところを教えてください。  

noname#136007
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 答えになっているかどうか分かりませんが、 自分の追求したい大きいテーマの一つが「自分という存在は何か?」という事です。 その答えを求めるため、様々な本を読み、考え、そして、ここで問題スレッドを立てています。 例えば、 心とは、すべてなんだ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5331537.html 自分を突き詰めれば、自分でない感じがする。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5445957.html 意識の中に「自分」は存在するのか? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5573923.html 等々・・ (因みに、前は、mintarou1 という名前でした・・) 上の質問スレッドを読んでもらえれば、分かると思いますが、 結果、次第に明らかになった事は、「自分という存在が、あやふやである。」 と言う事です。 そこで、現在は、何故あやふやなのか?、どういう風にあやふやなのか? という、疑問に変わってきて、その辺を、追求したいと思っています。 答えに、なっているでしょうか?  

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