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意識(心)は、どこからやって来たのか?

sheep67の回答

  • sheep67
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回答No.17

こんばんはー。 >つっこみと、ボケの両方を自分でやっていらっしゃるので がくっ! 大阪人だから? いえーそんなん自信がないからに決まってますよー。ほほえみのヨン様・・ まあそれはそれで・・ すんませんねーこういう長文を読む大変さはわかるんですが、勝手に筆が進む・・ >超難問 なんかけしかけてません?(笑) でも確かに、難問です。で、どんとチャレンジをー。基本議論の場なんですから。 といいつつ、とりあえず思ってることはみんな書いて、あとはkunobouさんに丸投げですー。 >これは幼心にいつ、どのように生じたかについて そもそもこんなアバウトな質問だと、断定できないですよー。 どういう状態を持って、意識が生じる、と思ってるんでしょうか? 他人が見て、あると観察できるか?というだけなら、おなかの中にいるときにもうあるでしょうし。 だから、意識が「生じる」と、kunobouさんは書かれましたが、この「生じる」とは、えらく微妙でアバウトな言い方ですよ。定義がはっきりしないとも言いますが。 以下の文は、自信なくおっかなびっくり書いたので、参考程度です。 意識の、外界とのフィードバックによる循環の周期は、脳波に現れると思います。僕は主観と客観はこの間書いたみたいに完全な対応をしていると思っているので、(相関があるが因果関係はない)、意識による把握の循環は、たぶん脳波に出るはずです。 先日、アーチェリーでの精神集中に於いて、リラックスの脳波と集中の脳波がある、という話をテレビで見ました。バイオフィードバックだそうです。 僕は広い意味で、広義で、一日24時間の生体リズム周期や、一ヶ月の周期も、やはり脳波の一つだと思います。周期が長すぎて測定できないですが。というか、脳波の測定なんてほんといい加減~。 0.あらかじめある意識ーーー いつ意識が現れるか? 外部から赤ちゃんを観察するならもう意識はあります。赤ちゃんの目の前でがらがらをならして注意を引くようにすると見てくれますから。それを見て、赤ちゃんは意識を喪失していると思う人も居ません。 他の人の回答でそんなこと書いてる人もいましたが、僕も同意見なのは、存在する完全性には、意識もその一部として含まれる、と思います。存在するものは、すべての可能性の源です。ただの石ころは、意識の発生源でもある、というのは、まあオカルトですが、嘘とも言えないし。 でもそういう質問ではないはずです。 外部観察と、内面の自覚は別だからです。 意識が内包されているか否か? という意味なら、うまれる前からあると見ています。 そしてそれを、がらがらを赤ちゃんの目の前で振るように、ある種の変化を赤ちゃんに与えることで、分離した意識として取り出すことができます。もっと強烈な、意識が主観から分離するような強いショックを与えると赤ちゃんは泣き出します。いきなり犬にほえられるとか。主観と意識の分離は赤ちゃんでも大人でも怖いものです。 でも普段は赤ちゃんの意識は、赤ちゃんの主観と完全な一体化の状況にありますから、単独の意識、という意味では、ないとも言えます。 純粋な意識には個性もなく、レッテルも自分の名前を書いた名札を貼るわけにもいかないからです。 そのイメージについては、物理学の、不可弁別性、という単語を、興味あったら調べてみてください。この個はあるにもかかわらず区別できない、というこの概念は、僕が感じる、純粋意識の性質を説明するのにイメージがぴったりです、今のところは。「違い」と「同じ」は、同時に重なって存在する、とみます。 純粋意識は、普遍的(同じ)で、同時に個別的(違い)だからこそ、あらかじめある、という言い方も間違いでないと思います。もちろん大きくなってから生まれる、とも言えます。切り口の違いです。 意識が意識としてある時を指すのか、意識がループを作って自覚を持つタイミングを聞いているのか? によっても大きく変わります。 後者の場合なら、悟りでも開かないと、本当の意識は生まれないんじゃないかな、と想像。大人はみんなピンぼけしてる、という一面もあります。 質問の意味は、意識があるかどうか?ではなく、意識が、時系列的に完全性から遊離分離するのはいつか? と解釈しますよー。 普通に考えて、こういう質問をするときは、意識が単独で切り離されるときであったり、意識が意識を不完全ながらも自覚するとき、という意味だろうと思うからです。 1.この世の有限性を認識する時ーーー 記憶を形成するような意識の発生の仕方は、環境や性格にもよると思います。 ちなみに記憶とは、それを大事だから維持しようとするある種のループです。 誰かがどんな心の傷も済んでしまったと思えば無いも同然と書いておられたですが同感で、記憶は「在る」のではなく、「維持してる」ものだと思います。あるいは「不安の種だから気にし続けてる」と言えます。つまり自分の無意識と脳に負担を掛けているはずです。 記憶を形成するような、完全性からのずれ、として一時的に観察される意識の発生、という意味なら、相当幼少期ですよね。ずれ、あるいは揺らぎのようなものとしての、意識の一時的存在と捉えます。下の2に書いたような永続的なものではなく。 無限と永遠、という完全性を持って生まれてきても、この世、という有限の時空間と体、と言うこれまた有限性の条件を与えられて、その有限の条件を取り込むときが、意識の発生だと、(言い切れたらいいのだけど)、自信なく言いますが。 個体差はありますが、自分がこの世に生まれてきたんだ、という有限性の自覚をするのは(それによって分離した意識が初めて発生 記憶も発生するのは)、ある種の理不尽を感じたときなので、生体リズムとして24時間の睡眠起床サイクルを獲得したころ、じゃないでしょうか?あれは確か、1ー2才とかかしら。 自分の記憶をたどると、僕が感じた覚えてる理不尽は、この世があること、生きてることの事実でした。生きてるということはいずれ死ぬと言うことで、それが怖くてよく夜泣きしたんですが、ほんとに長い疑問だったんですよー。それはやはり昼と夜を自覚し始めたころだったです。この世って何? ほんとにこんな不完全なものの中で生きないといけないのか? このままじゃ死んじゃうじゃないの??どーしてくれるの? どうしようー、という意味です。 当時そう考えたのではなく、あの当時のもやもやと泣きたくなる恐怖は、あとから分析するとそう言うことだったなーという話です。 物質の存在、世界の存在、おかしいなんでこんなものがあるんだ? という当時の疑問です。 生後しばらくすると、起きたり寝たりの繰り返しをする赤ちゃんが、だんだん24時間睡眠リズムに近づいていきます。 経験があると思いますが、強いメリハリを持った24時間周期で、早寝早起きをしていると、意識は澄んでいます。健康に早起きすると意識は澄みますよね?よりはっきりするといえます。一般論で。 夜の8時に寝て朝の5時にもし起きたら、意識は澄み渡ります、たぶん・・したことないけど。リズムと意識の相関です。 24時間の生体リズムを獲得するのは、有限性の認識により、赤ちゃんがこの世に生まれてきたのを自覚し、自分のボディー、自分を取り巻く時空間を把握し出すころ、それは、24時間のリズムを獲得するころと一致すると思います。24時間の生体周期形成は、太陽の日の出日の入りに自分を合わせよう、という赤ちゃん自身の判断だからです。24時間に合わせようとするのは、赤ちゃんの、生きようと判断した選択です。 (擬人化ならぬ、擬大人化した表現を採っています) 当然それだけメリハリのある自分が生まれるなら、それに伴う意識も明確化するので、これを一つ意識の生まれるとき、とも言えると思います。 記憶の発生も、有限性を捉えるのと同じ時だと思うので、赤ちゃんによっても違うでしょうが、 でも、おなかから出て生まれてきたときは、やはり意識の生じる、ひとつの境目かなーとは思います。 おなかにいるときも赤ちゃんはいろんな変化にはさらされ、それによって脳は、変化という名の有限性により機能するのですから、単独の意識がないとは思わないのですが。でもその意識の発生するゆらぎの振幅は、生まれた後とはレベルが違うんじゃないかな? 階層を感じます。 まだ分析できてないですが、意識の存在にも、段階があると思います。生まれる前後あたりは、複雑な気がしてます。分析はこれからですが。 でも、おなかの中でぷかぷか浮いてるときは、自分や自分の体の存在を自覚するのはやはり普通に考えて難しそう。胎児は、物質的にも、外部と一体化させられてるみたいです。 アイソレーションタンク、という道具があって、液体の中に浮かんで感覚を遮断するのですが(瞑想の補助として使われます)、胎児はずーっとそういう中にいるみたいなものじゃないかと想像します。そういう中では、意識が明確化したり、単独で出張る確率は低いでしょう。 だから一応、外に出てきたとき、と今は見ます。 それと上に書いた、24時間周期を獲得するにつれて、よりメリハリと変化と有限性ははっきりしてきて、意識もそれに伴い、よりはっきり現れる(アバウトな言い方・・)、と思います。 それと、幼い子供の意識が概念を捉えて、全体性であるこの世を部分に分割して、そのパーツを、概念として把握する、そういう流れの上で言葉を生み出すことしゃべり出すことを考えても、同時期かなと。 生体リズム、感覚的な心と自我とリアリティーの形成、意識の発生などの要素は、密接に関係がある、というかコインの表裏の関係だと思ってるので=完全性の複数の切り口だと思うので、意識がいつ生まれるか、というのを単独で考えるよりは、他の要素と絡めて考えてます。 なんかえらく生体リズムに偏った文になりましたが、頭の中ではそんな偏っては考えてません、文が偏っちゃいました。が全部も書けない・・。 有機的な構造を、文だけで表現すると、無理あります。 なので、意識が生まれるのを、意識が先鋭化する、あるかどうかでなく、存在の輪郭が浮き出る、という意味合いに取ると、現在は、生まれてくるとき、そして24時間周期を獲得するころ、この2つは最低限あるかなーと思います。 2.認識の自己循環が生まれる時ーーーー つまり思春期? 赤ちゃんが、完全であると言いながら完全でないのは、赤ちゃんの持つ完全な意識が完全な自分を見るというループができてないから。 赤ちゃんには、自覚する、というただ一つのポイントだけが欠けていると見ています。周りの人間が引きずり下ろす前に、その完全な自分を自ら自覚すれば、それで十分なはずなのに。 逆に大人になるにつれ、ループの大きさは不完全ながらも、部分的自己を中心とした認識の循環ループができます。~自分を意識する、というやつです。 それは生み出した部分的完全性と現実なので、 意識が生じる、を、意識を伴う、部分的で完全な自分が生まれる、という意味なら、常識的には思春期でしょうし。 本当は全体としてぐるりと循環してるんですが、理解できないことを抱え込んでると、全体でなく理解のできる届く部分だけで循環が起きて、その部分的自分を自分と見なします。 我思う故に我あり的なことを脳がやり出すのは、やっぱり中学生くらい以降ですよねー。他人の言動見てても。僕は20越えてましたが。絶対個人差あります。 でもこの辺りも、あまり深入りすると、論理的にあやしいのでごにょごにょです。 でもやっぱり個体差があるので、何歳、とか言えないですし、なので、このように、そういう脳の機能が発動したとき、という言い回しにしました。大体赤ちゃんの時思春期の時、とかは言えますが、その発生を促す自覚や環境は、偶然に左右されますから。 でも発達心理学や児童心理学での、成長期や反抗期についての記述は、だてにあるものじゃなく、それは認識や意識の、つまり前頭葉の機能的発達を現してると思います。 人格の形成には複雑な階層を感じますし、まだ解けてません。その階層階層に応じてそのレベルに対応した意識が生まれるのは間違いないと思います。 3一生 意識は明確化し続けるーーーー 意識が生まれる、という純粋な意味では、認知が広がることによって、意識はさらに浮き彫りにされると思いますし、迷いのある心や、エゴだけの人格、思いこみの現実を自覚して自分から取り去ることにより、純粋意識は、より明確に自覚されるようになります。 良く人間一生勉強だ、とお年寄りの方が言われますが、つまり一生意識は目覚め続ける、という意味では、僕もあなたもだれもまだ本当の意識は持っていない、とも言えるのではないかと・・ある意味では、まだ本当の意識は生じていない、とも言えるかと。少なくとも純粋意識を実感はしていないはずです。 意識の定義、意識の段階のどれを選ぶかで、全く違う答えになるんじゃないかしら。 意識がいつ生まれるか、というより、意識の質的変化のタイミングを考えるような文になってますが。 悟り、神ぃろいろな宗教的超越概念にたどり着くことで、一段落か・・着いてないのでわからないけど。 以上今現在の、中途の考えです。 ほんともっと解明できたら、もっと短く書けると思うんだけど・・。あと、僕は意識だけを特別扱いして考えたことがないので、関心がいまいち薄い・・ 自信がないのでまた長文になりましたですよー。書き殴り文で悪いですが。

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