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親鸞の悪人正機説とキリスト教の「心貧しい人は幸い」と言うのは同じこと?
Y Y(@yy8yy8az)の回答
- Y Y(@yy8yy8az)
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煩悩即菩提(煩悩≠菩提)に通じるものがあるのではないでしょうか。 大きな違いはないと思います。 自分は“悪人だ”と自覚できる人は当然悔い改める心を持っていると思われます。その心が仏の世界への扉を開く事になります。 心貧しい人もその事を自覚することで、神を求める気持ちとなって、扉のノブに手を掛けることになります。 “煩悩”を自覚する事が神や仏の世界を求めるきっかけになる、ということをどちらも言っているのでしょう。
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