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親鸞の悪人正機説とキリスト教の「心貧しい人は幸い」と言うのは同じこと?
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 自分が善人でないと思わないひとは いるか。 自分は心が貧しいと思わないひとは いるか。 と考えるなら ただの言葉のあやではないでしょうか? つき詰めるなら それほどのことを言っているとも思えません。 だからその文句を否定しようと思うという意味ではありませんけれど。 * 悪人やこころの打ちひしがれた人びとが そのころはうぢゃうぢゃいたというようなことではないですか? ステージがあたらしくなっていると考えます。
- entahu2
- ベストアンサー率23% (4/17)
知識の文字通り貧しい者からの回答では、博学な人たちからは、バカにされるのがオチなのかもしれませんが、 bakaAliceさんのハンドルネームのbakaというところを、 謙虚な姿勢という意味にとらえるなら(どんな視点にも学ぶ姿勢ととらえるなら)、 もしかしたら、こんな私とも対話が可能なのかなとも思って回答させていただくことにしました。 まず、正直に言いまして、悪人正機説というのは、高校生の時に何かの小説、倉田なんとかとかいう作家だったと思いますが、それで知っただけです。 あまり憶えてもいません。 ただ、 「善人さへ救われるのだからまして悪人を仏が救わないはずが無い」といった意味合いのことでしたので、 なんでこんな当たり前の事を こんなにひねって言うのかな?と思ったところでした。 あまりいい印象が無かったことを憶えています。 《もし仏が最高に慈悲深い存在ならば、 悪人のような“悪にいたる複雑な過程や 長い苦しみや余裕の無さとも関る因果を持った人を” そのぶん、善人よりも深く関心を持って接し理解してあげるのは当然だろう》という意味なら 素直に受け取れるのですが^^、 むむむ。となってしまって それ以上探索する気がなくなってしまったところでした。 しかし、一方キリストの言葉の中の山上の垂訓での 「心の貧しい人は幸いである」という部分も 同じ高校生の時に聞いたことですが、 これはその時に、間違った訳だとも聞いていて 正しくは「貧しさに安んずる人は幸いである」の誤訳とのこと、 その真偽は確かめませんでしたが、 私は それで納得してしまったことを憶えています。 ネイティブ・アメリカンの思想と似ている感じで、 その人その人の能力に応じて、人は出来る限りのことをすればいいのだ。 という意味合いに受け取ったのです。 出来ることには勇気を、出来ないことには安らかにそれを受け取る静かな心を神よ私たちに与えてください。 というのがネイティブ・アメリカンの思想です。 それと同じ意味合いのことを言っているのだと思ったからです。 キリスト教の神学とかには興味はありませんでしたが、 そんなふうにして私はキリストの言葉を それまでの旧約の神話も物語や道徳への反逆の思想として受け取りました。 その後、後の学者達によって、神に祭り上げられてしまいましたが キリストこそ、たとえば孔子のように、現代でもまだまだ学ぶべきところがたくさんある方(かた)なのだと思っています。 キルケゴールもカントもダンテもニーチェも知らない高校生程度の知識で何をたわごといってるんだと思われてしまうかもしれませんが、 ともかく、まったく別なことと思っていましたので、一応、書いておきました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 悪人正機のほうは、こちらも東洋人なのでなにかすんなり入ってくるところはあるのですが、幸いのほうですね、これはどうも曲者です。おっしゃるように解釈の違いによる捻じ曲げられた観念と言うのが普及している気もします。 教祖と言うものからかけ離れていくのが教義です。人間の恣意と言うもんはいけませんね。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
煩悩即菩提(煩悩≠菩提)に通じるものがあるのではないでしょうか。 大きな違いはないと思います。 自分は“悪人だ”と自覚できる人は当然悔い改める心を持っていると思われます。その心が仏の世界への扉を開く事になります。 心貧しい人もその事を自覚することで、神を求める気持ちとなって、扉のノブに手を掛けることになります。 “煩悩”を自覚する事が神や仏の世界を求めるきっかけになる、ということをどちらも言っているのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 悪人性を自覚できるという事が大事なのでしょうが、中には自覚にいたらないものもあるでしょうし、そのほうが多いけれども、それもすくわれると言うことなのでは?
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お礼
ご回答ありがとうございます。 考えてみると、善人悪人の境界というものはないですから最もだと思います。