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歎異抄、悪人正機説について
歎異抄の悪人正機説に「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とありますが、「なをもて」はどのように解釈できますか?
- Dogwood
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「なほ」は副詞。yahoo!辞書の「大辞林」には、次のような説明があります。「~でさえも」あるいは「でも」という意味です。 [4]前の語を受けて強調する意を表す。…でさえも。でも。 ・ 昼―暗い杉並木 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%AA%E3%81%8A&dtype=0&stype=0&dname=0ss&pagenum=1&index=114476300000 「もて」は、「もって」と同じで、やはり「大辞林」によると、 〔連語〕《「も(持)ちて」の音変化》 2 語調を強めるのに用いる。「いよいよ―承知できない」「まことに―残念なことだ」 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%82%82%E3%81%A6&dtype=0&stype=0&dname=0na&pagenum=1&index=18275000 ということです。「なほ」の意味を強調しているわけですね。 「歎異抄」の該当の章には、 「善人なほもて……」の次に、 「しかるを、世の人、常に言はく、『悪人なほ往生す。いかに況んや、善人をや」 (ところが、世間の人は常言うことには、「悪人でさえ往生する。まして、善人はいうまでもない。」と。) とありますから、この内容からも「なほ」は「~でさえも」の意味で用いられていると考えられます。 さらに同じ章の最後には、 「よって、『善人だにこそ往生すれ。まして悪人は』と仰せ候ひき。」 (それゆえに、「善人さえも往生するのだ。まして、悪人は(必ず往生できる)。」と(親鸞聖人は)おっしゃいました。」 とあり、「なほもて」にあたるところに、「~でさえ」という意味の副助詞の「だに」と、強調の係助詞「こそ」(「往生すれ」がサ変動詞の已然形で係り結び)との組み合わせが用いられている点から考えても、「なほ」=「~でさえ」と考えられます。
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- kogotokaubewe
- ベストアンサー率56% (236/420)
#2です。 そうですね。原典では確か「なを」になっていたはずで、昨夜、私が見た本にも、そのことに触れてありました。回答でも触れておくべきでしたね。済みません。 しかし、歴史的仮名遣いでは一般的に「なほ」と表記することになっています。 といっても、昔は、現代仮名遣いとは違って、「内閣告示」みたいなきちんとした基準になるものはありませんでしたから、表記のゆれはかなりありました。 (もちろん全く勝手気ままというわけでもなく、それなりのスタンダードはありました。興味がおありならウィキペディアででも「定家仮名遣(ていかかなづか)い」などをお調べください。) だから、「なを」になっていたからといって「唯円にも筆の誤り」と責めるには当たらないと思います。
- NIWAKA_0
- ベストアンサー率28% (508/1790)
「ですら」とか、「でさえも」とか。
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お礼
辞書を調べてもいろいろな解釈が出来るため質問させていただきました。有り難うございました。
補足
今、読んでいる本では「なをもて」となっていましたが、「なほもて」が正しいのですね。