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悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。

 次の二つの理由で あらためて問います。  新しい回答者から別解が得られるかも知れない。そして 究極の悪という現象に関して まだうまく捉え切れていない。  たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。     かつての質問は つぎです。  【Q:究極の悪とは――存在について――】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4708484.html  【Q:悪は 存在しない】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html

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回答No.13

こんばんは。 興味深いトピで見入ってしまいました。 悪は存在しない。 私もそう思いますね。 そもそも何をして悪と呼ぶのか? 人道的な事に反していない限り(※人殺し:盗み)それは悪ではない。 元々悪とは、自分で作るものではなく相手がそう受け取るものであるのだから。 例えば価値観が合わない:自分と違う:噛み合わない=何だか嫌=悪として自分の中から排除してやれという思想が生まれたりもします。 嫌い=悪 でも無いんですがね(笑) 反対に正しさとは何かといえば、結局これもまた誰かに決められたりするものでもないんですよ。 だって今ある自分の正しさは「生きてきた結果」としての価値基準としてあらわれているわけで。 そうすると、時々その人の正しさについて言及したりああだこうだ言おうとする人もいるけれど、それはその人本人の「生」を否定することになる。 だから誰も間違ってはない(悪ではない) 正義も悪も紙一重ですから、結論トピ主様が行きつかれた答えにたどりつくんじゃないのかなと。 きっと性善説性悪説では無しに、物理的な根拠も、哲学的なウンチャラを語らなくたって 当たり前のことだと思います。 人により、 人により、 何が正しくて何が悪なのかなんてわかりませんのですから。 人に人は裁けない。 万能な人もいない。 だからこそ悪だの正義だの言う前に、 まずは「相手を受け入れる」こと。 それが「悪」という存在を潰す唯一の特効薬だと思います。 青二才が失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 おおっ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人に人は裁けない。  万能な人もいない。  だからこそ悪だの正義だの言う前に、  まずは「相手を受け入れる」こと。  それが「悪」という存在を潰す唯一の特効薬だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一歩すすめてもらいましたね。  hamaki1978 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  きっと性善説性悪説では無しに、物理的な根拠も、哲学的なウンチャラを語らなくたって  当たり前のことだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここも いいですね。ひとの《自然本性》なんだから ああたらこうたら講釈をつける前にすでに わたしたちは自由に生きている。  ★ だから誰も間違ってはない(悪ではない)  ☆ ここから出発するのでなくっちゃ。ね。そのあとでなら ただし  ★ その人の正しさについて言及したりああだこうだ言おうとする  ☆ のではなく その人の具体的な考えについて 反対意見を持つなら 大いにこれも自由に批判をもしつつ話し合っていけばよい。相手を受け容れたゆえに 考えの妥当性を互いに問い求め 自由な批判を大いにおこなっていく。ならば互いにさらにいい考えにたどり着けるでしょう。人びとの知恵というのも捨てたものではないでしょう。偉い人だから 正しいとも限らないですし。・・・  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  例えば価値観が合わない:自分と違う:噛み合わない=何だか嫌=悪として自分の中から排除してやれという思想が生まれたりもします。  嫌い=悪 でも無いんですがね(笑)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここんところを 互いにそして広く一般にも 考え合い考えなおして行くとよいでしょうね。  批判しあって 議論がかみ合うと けっこう互いに楽しいものですよ。そこから和を以って貴しと為すが生きてくるのではないですか?  ありがとうございました。これからも自由なご批判をお待ちしております。

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その他の回答 (29)

noname#117439
noname#117439
回答No.20

オコリザルです。 現代的な私の心情では、 死からの生還が悪の定めである。 それはもはや善であろう。 こんな感じです。

bragelonne
質問者

お礼

 前回(No.21)に  ○ 悪は 心の死へと歩をすすめること  ☆ と言いましたが その  ★ 死からの生還  ☆ は 誰もが望むことですし 望ましいことです。つまり  ○ 悪に陥ったなら 善への復帰 つまり 死からの生還が望ましいし 必ずそうなって欲しい。  ☆ ところです。そういう意味でなら   ★ 悪の定めである。   ☆ とも言えるかとも思います。ただし  ★ それはもはや善であろう。  ☆ というのは 生還したなら 《もはや善である》でしょうが ただし生還する前の悪の状態が 《もはや善であろう》ということにはならないと思います。  どうでしょう?

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noname#117439
noname#117439
回答No.19

オコリザルです。 「悪は存在しない」なので、敗北や「死」に代表される虚無への回帰でしょうか。 たたき台のつもりです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  次のようにおぎなって採ってもよろしいでしょうか?  ★ 「悪は存在しない」なので、〔* 悪は〕敗北や「死」に代表される虚無への回帰でしょうか。  ☆ どうでしょう? 飛躍があるように思えるのですが。  まづ 悪が存在しないと見るのは 悪が善の損傷である部分を言うのみだからです。  きのうまで親にほんとうのことを言ってきたが きょうは なぜかほんとうのことで答えたくない。これなら まだ子どもの反抗期の問題です。  ただしそのようなウソが 面白くなり病みつきになったとしたら どうでしょう? 大人になっても 自分の心のほんとうのことは言わない。それが面白い。友だちにも恋人も 教師にも上司にも もうほんとうのことは言わない。つねにウソをついている。そんな場合を考えてみると どういうことが言えるでしょう?    まづ ふつうの心のほんとうの部分が どんどん傷つき消えて行ってしまいます。その消えて行くと言いますか 自分で消していくというその行為 これが 悪ですし 消えてしまった善の部分も悪です。  いわば心にぽっかりと 穴が空いてしまった。つまり善の欠如つまり悪が 出来てしまった。  この悪は  ★ 敗北や「死」に代表される虚無への回帰でしょうか。  ☆ ひとつに おそらくこの悪は 《心の死》であるでしょうね。あるいは 身も心も含めて その死への歩みをたどっているということでしょうね。  虚無かどうか?  どうでしょう? いろいろなのでしょうが この場合 たとえばこの《心の死》へ歩をすすめているというので――どこか薄っすらとは 自分でも自覚しているのでしょうね だから―― かえって陽気になり いつも躁状態にいるかも知れませんね。その反動で鬱も出てくるのかも知れません。    そんなところでしょうか? 《回帰》という言い方は あまりふさわしいと思えないのですけれど。回帰もしくは回復は もとの善への復帰のほうを言うのが いいと思いますから。どうでしょう?

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  • yuichi7
  • ベストアンサー率18% (52/286)
回答No.18

これって単純に宗教観の話ですよね? 人間から宗教観を除いたら、世の中に悪はいなくなるって話。 人間以外の動物に純粋な悪はいませんから。殺しても単なる食物連鎖の一言ですんでしまいます。 ちなみに、悪の対義語が善なら、善は悪あってこそ存在の価値を見出せる。善は悪がいないとただの中立であり、悪を食って初めて存在意義を出す。この場合の悪は人間とは限らず、人間が定義した悪だけが悪とみなされる。 よって、この世の人間は全て悪であるともいえるし、善であるともいえる。二つが同時に存在できるのは「宗教観」あってこそである。 究極の悪とは、悪を憎む善の心であると考える。 くだけて言うと、100人しかいない村で99人に嫌われている人がいるとする。それだけで、その1人はどんな善人であろうと「究極の悪」である。 現代社会の法を使えば村人達が「あいつは気にいらない」とすれば、99人が結託して濡れ衣を着せて村から追放する事が可能である。 アメリカで、2人の少年が児童虐殺を起こしたという事件があった。当初二人はドクロをあしらった悪趣味な嗜好品や派手な音楽を好んでいたことから、悪魔崇拝をしていたとし、スピード解決ともいえる早さで実刑が下った。 だが最近になって、この事件が見直されている。雑誌の取材などで警察の証拠はでっちあげと判明。被害者の親の奇行なども発覚して、小さな町で町人と警察が起こした大規模な冤罪事件として物議をかもしている。 その町は敬けんなキリスト教信者が多く、そんな町で少年達はハードロック、ヘビメタを好んでいた。そんな町では音楽もドクロのアクセサリーでさえも受け入れられなかった。二人は町にとって邪魔だったという説が高まってきたのだ。 しかし、警察も町人も全て完璧に証拠隠滅をしていて、外部からの取材にも非協力。元少年達の再審をするすべはない。 こんな事件が現実にあったのだ。 キリスト教を崇拝する善なる者達が、自分達のみなす悪を追放するべく、罪のない子供を殺して少年2人に罪を着せた「かも」しれないという事件。 ちなみに、皮肉なことに少年の名前が「ジェイソン」と「フレディ」だったことも当時、世論はゴシップ的にたたき上げ、この事件を冤罪と疑う者はいなかったという。 宗教上で究極の悪神は「アンラ・マンユ」という説が有力です。 人間だった頃のエピソードが面白いのですが、アンラ・マンユに関するネット文献は意外に少なかったので、興味があるなら図書館などで調べてください。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%A6
bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ★ これって単純に宗教観の話ですよね? / 人間から宗教観を除いたら、世の中に悪はいなくなるって話。  ☆ ではないです。ですが 《宗教観》のところをたとえば《ひとの自由意志》に置きかえれば或る程度 話が成り立つかに思われます。  というのは 《自由意志》を言うのは 少なからずクリスチアニズムにかかわるでしょうから。  もう一つ 《というのは》をつなげますが なぜ焦点が違っているかと言えば 趣旨説明においてたとえば   ☆☆ 1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ☆ というふうに述べて 《宗教観》や宗教の教義とは明らかに距離を置いているからです。  ですから  ★ 宗教上で究極の悪神は「アンラ・マンユ」という説が有力です。  ☆ この情報は いまわたしが考える限りでは 関係ないですね。この善悪二元論を yuichi7 さんが 質問の趣旨を批判する要素として掲げておられるのでない限り 関係ないです。  でも その気がなきにしもあらずのようですね。  ★ よって、この世の人間は全て悪であるともいえるし、善であるともいえる。二つが同時に存在できるのは「宗教観」あってこそである。  ☆ 善も悪もそれぞれが根元として互いに並び立つというのであれば――つまり互いにどちらが力なり価値なりにおいて強いか上かが定まらないのであれば―― ものごとの一方を善と呼び他方を悪と呼ぶことなど 何の意味もありませんから。その心は つねにどちらをも善とも悪とも呼び得るということです。どちらで呼んでも まったく違いはないということになるからです。  ★ 人間から宗教観を除いたら、世の中に悪はいなくなるって話。  ☆ そのときには――つまり ザラトゥーシュトラの宗教は その宗教観を除かなくても 悪も善も共にいなくなるって話になるでしょう。つまり悪も善も共にいても どっちがどっちでも一向に構わないって話になるでしょう。  ★ アメリカで、2人の少年が児童虐殺を起こしたという事件があった。うんぬん。  ☆ この《冤罪》の問題は 宗教もからんでいるでしょうし しかもどの民族のどの宗教がからんでいても 同じような《第三項の排除》現象は 起こることでしょう。  ★ 悪の対義語が善なら、うんぬん  ☆ げんみつには 《対義語》ではないでしょう。《悪は善に従属し その善の損傷のことを悪と呼び この善の損傷よりほかのかたちでは悪はない》 こういう定義を示していますから。また そういう定義なのですから それと絡ませて批評・批判を展開してくださると よいでしょうしありがたいと考えますが いかがでしょう?  ですから  ★ 究極の悪とは、悪を憎む善の心であると考える。  ☆ などの《究極の悪》の定義も 《善悪が互いに対義語である》というところから出発したものであると思われますので なかなか捉え難いようにまづは思われます。

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  • juyjuy
  • ベストアンサー率22% (139/612)
回答No.17

juyjuyです。 うそは泥棒の始まり という古い格言が日本にはあります。 質問者さまは結局このことを言いたいのでしょうか?違いますね? これは質問者さまが嫌いな「道徳」です。善悪というのは道徳の規準の言葉です。 質問者さまのように「道徳」「倫理」以外の観点で善悪を論じておられるので回答者が混乱するのだと思います。 質問者のお礼の内容を含めて考えると  1:人に被害を与えるのが明らかだと自分が思うウソ  2:自分が人に被害を与えたかなと自分が疑うウソ  3:自分が人に被害をあたえないと思うウソ  4:自分がウソでないと思っている事 について論じておられるのではないかと思います。 これは哲学的にも面白い命題だと思いますので、質問者さまがもう一度整理されて質問をだされればもっといい回答が得られるのではないかと拝察します。 善悪という言葉はある種の固定観念(「道徳」や「倫理」)に縛られているので自由な論議にならないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 juyjuy さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  おっしゃっていることは こうだと思います。すでに人びとには 既成の考え方――決まったものとしては 倫理規範ないし道徳――があるので それとのつながり具合い・あるいは切れ具合いについて しっかりと明らかにしていないと なかなか新しい考え方は 頭に入っていかない。こういうことではないでしょうか?  でも意外とそれらの間の関係具合いは 分かりやすいもののようですよ。    わたしは どうしても欲しいと思っていた物を目の前に見てこれを手   に入れたいと思った。ところが それは 他人の物である。ええい ちょ   ろまかしてやれと ふと心に持った。ここで これはやばいことだと    ほんとうは心は知っている。もしその出来ごころを実行するとなると    心にわたしはウソをつくことになる。    ここから 《汝 ぬすむなかれ》という道徳が持たれることになる。  これだけの話なのだと考えますが どうでしょう?  ★ 善悪という言葉はある種の固定観念(「道徳」や「倫理」)に縛られているので自由な論議にならないと思います。  ☆ というところを 悪の起源をさかのぼってたどって行くと 案外かんたんにその成り立ちが分かる。こう思うのです。どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 みなさんへ。  これまでご回答を寄せていただきありがとうございます。  そしてこのあたりから 《究極の悪》について考えていきたいと思うのですが どうでしょうか?  No.3の karelcapek さんのご回答にあった論理で 究極の悪についての趣旨説明(たたき台)を述べたいと思います。  ☆☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ 究極の悪とは、思考当事者にとって、対象が何が一番不利益を被るのかのイメージ次第でしかないと思います。   ☆ これは 損得の極限と言うのでしょうか そういう意味での究極であるように思います。その内容をなかなかうまく定義できないところの《しあわせ》に関してなら どうかといった視点もあるのではないでしょうか。   もうそこまで落ち込んでしまっては立ち直れないだろうという究極の悪とは 何か? こういった観点で考えたいとは思っているのです。これについても どうですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのときは こんなふうに書いてしまったのですが――それは 《第二の死》ということを念頭に置いていたものですから そうなってしまいました。 karelcapek さん 澄みませんでした。ごめんなさい―― この論理で 次のように考えました。どうでしょう?  ○ 究極の悪とは:    自分にも相手にも つねに自分が心でよいと思うこととは違った内容   のことを選択しまた判断し それを実行するその考えとおこない。    したがって 四六時中あらゆる思考と行為について 自分の心に逆ら   うということです。しかも それでよいと開き直り 確信犯となる場合   です。    ということは 自然本性としての心の善をすべて使い尽くしたかのご   とく その善がまったく欠如してしまった状態になっています。善は   すっかりその抜けがらのごとくなって 悪が満ちている状態です。  ☆ これについてわたしの考えるところは こうです。  (あ) 心の全部が悪で埋められているのだけれども 生まれつきの自然本性の蝉の殻じたいはまだ残っている。とすると 善の回復は可能か?  (い) この《悪人》〔と呼びますが〕は こう言い張るかも知れません。   ――世の中には おれのような頭のてっぺんからつま先まですべて悪に    染まった人間が一人か二人はいてもいいんだよ。それでこそ 社会は    うまくやって行けるんだ。な そうだろ?  ☆ どう答えますか?   第二ステージも みなさん よろしくお願いいたします。

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  • entahu2
  • ベストアンサー率23% (4/17)
回答No.16

Ano16です。 すみません、 頭がこんがらがっていました。 また、 この質問の仕方では 回答者は頭がこんがらがってしまう可能性が高いとも思いました。  私だけなのでしょうか? よく考えてみてください。 ? 悪という現象は 存在するわけです。 》悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。《 という質問自体が、 現象は存在しない? と言っているようにも読めてしまうわけです。 悪 および、現象はもちろん まず、存在するわけです。 が 悪の因果を考えた時、 それが最初は細かいものであれチリが積もるようにして大きくなったから その悪という行為の引きがねとなったのだから、 深くその因果を大きな目で「みつめた」のならば、 悪は赦されるべき存在でもあり、そう気づいた気づきがある人にとってそれは罪としてのレッテルは貼らないだろうし、張る必要はどこにも感じないだろう というふうに、 私は、そのへんを整理しています。 したがって 神にとって 私たちが普通に認識している罪でもある罰すべきところの悪は存在しないというふうにも それは言えるということです。 ここまでで どこかbragelonneさんのお考えと異なるところはありますでしょうか? 次に、 ここまでを私の考えの前提として 進めていけば、 その悪の因についてなのですが、 それを私は まずは単純に 生活の困窮と 病気による意識の混濁とが、最初の原因であり、 それが もともとの森の中の生活の素朴な人たちの中の善の心《うれしいことがあれば伝えずにはいられない心、分かち合わずにいられない心、 そして苦しいことがあれば 相身たがいの 上下関係無しの助け合わないではいられない心、 あるいは友としての人類意識》を  希薄にさせたり(病気や苦しみや飢え) 生活の困窮からの略奪や 争いが起こっていったというふうに 大筋推理しているのですが、その理解をどう思われますでしょう。 最初の原因は シンプルにそのような状態だったのではないでしょうか? その頃(文字文化以前)は、 嘘という概念があったとは思えません。 ですが、 このようにすでに悪という現象は発生していたと思います。  もっと大きな目で見れば 非生産的で無駄で悲しい出来事がすでに その貧困からは生まれてしまっていると思います。 《嘘》という 《記号(文字)を 自分に有利にするために事実の記述と組み替える作業》を行うようになったのは、 もちろん そういう記号を文化の中で獲得してからだと思います。 が、 むしろ 嘘自体は悪ではないわけです。   それを自己に有利にするために使用することで、 それによってどこかに不幸な人が生まれて始めてそれが悪の現象として生じるわけです。 また、 そうした記号化による脳の複雑化によっても じつは病気と同じように もともとの自然な素朴な時の感性から生まれる人間性(分かち合いや、いたわりあい)の希薄化は いくらでも起こりえます。   頭の混乱から、精神の病も生まれるというカタチでもそれは起こるでしょうが、  おそらく そうした点こそ、むしろ小さく見える因の積み重なりが積もり積もって その因果が 人間の想像力を越えたようなカタチで 悪の現象へとつながっているのだろうと思うのです。 ここは、一足飛びに、人間の能力の小ささを自覚して、直感ですべての罪を赦せる気づきの世界が必要なところと私は思っています。 悪人とは 罰するよりも前に抱きしめてあげるべき そういう心で接すべき存在であり、その上で始めて それってあなた幸せなの?と 泣いてなぐってあげたり 対峙の仕方がきまってくるものなのではないですか? セックスというのは、 歪んだ醜い心(所有欲とか)と絡んでいたりするので、恥ずかしいこととか不浄なこととして嫌われたりもする世界でもあるのですが、  そういう文明の脳の混濁によって起こった不浄現象(心の中の現象ですが)を乗り越えたカタチでの 本来の新鮮な感性の下には、 それは 感性をいきなり 素朴な森の中の感性の世界に戻したり その気づきを与えてくれる大きな力となるものです。 本物の芸術と言えるものも、そうなのですが、私たちをもともとの分かち合いと いたわりあいの人間性を快復させてくれます。  その大きな力の1つが 私の考えている気脈によるセックス革命なのです。 おそらく、 現代人がその心の故郷を心に得たのなら、その感動と知恵の世界からはもう悪へのあともどり(善、あるいはもともとの人間性が減るということ)は 消えていってしまうと思うのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 §1 ☆☆ 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。――これにもとづき    ★ 悪という現象は 存在するわけです。    これを論破します。《存在》ということは まづ――人間がこうして考えるからには―― ヒトについて当てはめます。(人間中心主義だと揶揄されても そういう想定です)。生まれた赤子はものを言わなくてもすでに存在です。  ひとは言葉をしゃべります。聞いて耳に心地よい声や中味のものもあれば 耳ざわりのする声や中味のもあります。  言葉やその発声・発音は ひとから現象します。  たしかに現象も 《起こる》というときそれは《ある》つまり《存在する》というふうにも表現し得ます。  ですが ひとが存在することと 発言という現象が《存在》することとは 同じ次元であつかうことができましょうか?  《ことば》が ヒトという存在や《他の一切のものから独立して存在する》と言えますか?  したがって つぎが帰結されます。  ☆☆ (趣旨説明) 3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 〔ひとという存在としての〕善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。  §2 悪の起源  これについて何ら明らかになっていないと言わざるを得ません。  ★ 悪の因果を考えた時、 それが最初は細かいものであれチリが積もるようにして大きくなったから その悪という行為の引きがねとなったのだから、  ☆ これでは分かりません。《細かい悪》がどのようにして現われたのか? 《細かい悪が重なったとき 悪という行為の引き金となった》というように言っています。《悪》の起こりを説明するのに《悪が積もること》を持ってきています。  ★ まずは単純に 生活の困窮と 病気による意識の混濁とが、最初の原因であり、  ☆ 《生活の困窮》が起こったときその瞬間に  ★ 相身たがいの 上下関係無しの助け合わないではいられない心・・・を希薄にさせた  ☆ のでしょうか? つまり   ★ もともとの森の中の生活の素朴な人たちの中の善の心  ☆ はどうして希薄にされたのですか?  ★ まずは単純に 生活の困窮と 病気による意識の混濁とが、最初の原因であり、〔* ――この原因が善の心を希薄にさせたので(?)――〕 生活の困窮からの略奪や 争いが起こっていった  ☆ ということは どこかの時点で《助けあい》をしなくなったということのようですね。それは どの時点で どういうふうにして起こったのでしょうか?  ★ その頃(文字文化以前)は、 嘘という概念があったとは思えません。   ☆ とのことですが もしご議論に沿って質問するならば 《善の心 その助けあいの心 ここに 或る日或る時 うそが生じた》からではないでしょうか? 善の心を なぜだか曲げたくなった。助けあう善の心そのままに行動したくなくなった。心にはウソをつくことになるが そうした。つまり助けあわなくなった。のではないでしょうか?  ★ が、 むしろ 嘘自体は悪ではないわけです。  ☆ と言えるでしょうか? ウソが起源でないならば どういうふうに悪は発生したでしょうか? 悪から悪が発生したというのでは 困ります。  ★ 悪という現象は・・・貧困からは生まれてしまっていると思います。  ☆ ですから問題は なぜ森の人びとの間で《貧困》という《苦しみを助けあわないではいられない心》が希薄になったか? この問いです。善の心にも生じることになった《うそ》からではないでしょうか? これが悪の起源なのではないでしょうか?  起源があやふやなままで  ★ 現代人がその心の故郷を心に得たのなら  ☆ ということを言えると思うほど その議論についていくことはわたしには出来ません。

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  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.15

No.11です 信託とは神から下されるものですが、これ「善は悪、悪は善」は悟りです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  なるほど。ごもっともです。  神託は 自分とは別のところから得る命題でしょうね。  その上で たぶんそこでわたしが推測で表現した内容じたいは それほど違っていないようにもなお思っています。  というのは  ★ 「善は悪、悪は善」  ☆ は一般には そのままではまだ分かりづらいと思われるからです。それが 悟りだと言われればそうなのでしょうが 回答としては中味が分かったほうがよいと思いますから。

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  • entahu2
  • ベストアンサー率23% (4/17)
回答No.14

直接 本文に入ります。 4.の》自然本性と言うべき心としての善《という事の内容如何によって 回答は違ったものとなってしまうと思います。 猿から人間への進化の過程がどのようだったのかについての推理論議は端折りますが、 物事や生活を見つめる脳が宿って人間となったということは、 それ自体がその時 人は本能仲間としてではない存在としての他の人をそこに見たのであり、友としての他の生物をそこに見、 友という言葉を知らない以前から、そばに友がいることを喜ぶ感情は持てたことを意味すると思っています。 物事を見つめることができる脳が見た物事は 比較の対象とその検討吟味を加える脳自体をも含んだものと思うのですが、 がゆえに 精神まで含んだ言葉という記号化が 後の人間の時間に起こることとなったわけですが、 その、言葉以前にも、 人間は 森の中にて、この奇跡の水の星、その大地のあまりにものさまざまな光、 風のそよぎ   青い空、夕焼け雲の流れ、そして一番星、満天の星空を見て、 目と目(心と心)を通わしあうような 感性をも、 本能の制約から逃れたユトリの心とともに、  見つけたのだと思っています。 特に平和のうちにはです。(詳しくは略します) その頃には、人間の本性があったという意味で言われるのが、自然本性ということであるのなら、  こういったことが まず言えるかと思います。 その頃の森の人たちの心には、『何かうれしいことがあったら伝えずには入られない友感』と、 『何か苦しいことがあれば、体をさすっていたわざるを得ない相身互いの友感』の二つの『友意識』は、明確にあったと思います。 深い 大自然(あるいはこの星、この大地)への感動を忘れる時には、その地にても、それなりの友感の薄れはあったと思います。 苦しいことは、みんなに撒き散らしてやろう。とか、 うれしいことは独り占めしてやろうとか、 いわゆる自我の殻の内側に閉じこもった そういう主観内面の世界がそこにすでに生まれてきたかもしれません。 病気が そういう希薄さをそこに生み出したりもしたかもしれません。 であっても、そういう森の社会の中では すぐに その人間本性は、自然に取り戻せたと思います。 bragelonneさんは、そんなふうな状態を 》自然本性《と呼ばれているのでしょうか? もし、そうならば、 確かに 文明が文明を保持しつつ そのもともと神 あるいは存在から与えられた自然の中の私たちの精神状態《自然本性》を快復出来さへすれば、 そこから文明が作り出した罪や悪の存在は その因果の完全に近い因果の理解のもと、神ならずともすべて赦せるでしょうし、  意味をなさなくなるかと思いますが、 それ以前には、 道徳も 私たちが苦しみから逃れるためには必須となってしまうと私は単純に思っています。 その快復こそが重要なのですが そこに登場するのがセックス革命、 “性の喜び、楽しみの世界”と“生殖”との完全切り離しのための革命です。 その革命を可能にするのが、私は東洋医学の発見した気脈の世界にあると考え、それを実践化しようと考えているのですが、 その気脈の世界とは なんと科学的には》電磁波《とかかわりがありそうなのです。   科学的な面は苦手で、これからその面もなんとか学習してゆきたいとは思っていますが、 まずは 私にとっては実践が先となってしまいます。 そちらで問題とされた電磁波のスレが スサノオの眼差しを求めてのことであれば、もしかしたらその気脈の世界こそその眼差しなのかもしれませんね。 でも その論議よりも私には その実践の方が先となってしまうということです。 そこにその実践方法があるかぎりです。 神にとって 原罪などあるはずがなかった。 キリストは原罪について何か言っているのですか? あとからかってに学者が考えただけでしょ。    が、今こそ、私たちも少しは神に近づいてもいい時でしょう。   罪は無い。 悪は幻想から生まれる。 そこにあるのはあってはならない不幸だけ。 苦しみや悲しみの生産状態だけ。  それをもう克服してもいいじゃないですか。 と思います。

bragelonne
質問者

お礼

 自然本性の理解について互いに共通の内容を確めあう必要がまだまだあるようですが いちばんの問題〔だとわたしに思われたところ〕は 次の部分です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それ〔* 自然本性の損傷とその回復の〕以前には、 道徳も 私たちが苦しみから逃れるためには必須となってしまうと私は単純に思っています。  その快復こそが重要なのですが そこに登場するのがセックス革命、 “性の喜び、楽しみの世界”と“生殖”との完全切り離しのための革命です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり《道徳》と《セックス革命》 このふたつの事柄が 善および悪の捉え方とどのようにかかわっているのか これがまるで分かりません。  分かりませんというよりは このような述べ方では 分からせようとしているとはとうてい思えないという物言いです。  もっときちんと言えば 質問に回答を寄せるつもりがあるのか そのことに疑いが生じているというのが ほんとうのところです。  ★ 悪は幻想から生まれる。  ☆ だから 悪は存在すると言うのか それとも 質問趣旨のごとく 善に従属していて初めて現われると言いたいのか 何ら答えようとする気配がない。こう断じざるを得ません。  ありがとうございました。

全文を見る
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回答No.12

#3、13です。 >☆ これはどうでしょう? たぶんリンゴか柿かの選択は 善悪にかかわらないと思います。ですから《好きだという事実を曲げたとしても それはただ 何か実験でもやっている》と採ればどうでしょう?  後ろめたさを感じることはないと思うのです そうなのです。ですから、  「1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。」 は、そのままでは適用出来ないということです。 私や他者が理解するには、「1」の説明には、他に補足や、限定条件が必要なんです。 最初の回答で、「ひとりひとりの主観」にまず限定しました。今回は「実験を除く」という限定条件を追加しました。 もう一つ、「情況によって 偽りになるかどうかが決まるのではないでしょうか? ならない場合もあるでしょうね。でも相手には失礼だから その分ではウソであり悪でしょうか」 という補足があります。 これらを条件を含んでいく「1」はこれからも、回答があるとどんどん長くなる可能性があると思うのですが、定義としてはあまりに長くなるのはどうでしょう。 >そうしてたとえば《人をころす・ぬすむ・むさぼる》ことは およそ誰にでも《やましさを覚える》ことであり それらが善の損傷であり悪だということは じんるいに共通で普遍的だという結論が得られます。そういう成り立ちだと思います。 人をころす・ぬすむ・むさぼるにやましさを覚える人間は、それが悪いことであると認識している人間だと思います。 悪いことと認識していなければ、やましさを覚えませんので、共通で普遍ではないと思います。 >倫理規範は およそ精選された思惟を基礎として成っており 間違いだというものではないでしょうが 問題は その規範としてす でに持たれている文句に あたかも思考停止において 従うようになること ここにあるのではないでしょうか? 道徳という言葉に反応されたのでしょうか。 でも質問者さんも間接的に使ってますよ。 「そうしてたとえば《人をころす・ぬすむ・むさぼる》ことは およそ誰にでも《やましさを覚える》ことであり」 これって社会道徳ですよね、 しかし、それは良いとして、私の意図するところとは違います。 私はその後に、2つの相反する社会道徳から自分の道徳を形成する道徳と言いました。 社会道徳そのものとは言ってません。 つまり自ら、選択し、考え至った感情です。 他人の道徳を選択して自分の道徳にするのもしないのも、安直に選択するのも、その人自身の考えです。 普遍的で万人に共通するものを求める場合、おかしな人や特別な環境を除かず、いろんな人、いろんな場面を考えた方が良いと思います。 でも、「道徳」と言わず、「個人の道徳」と言っておいた方が良かったですね。これは間違いでしたね。 実は最初に閃いたのは「良いと思うこと」なんですが、あまりにバカバカしいなと思い、「道徳」に置き換えてみたんです^^ ちなみに質問者さんがこの質問上で使っている「心」とは何ですか? 広辞苑と同じ意味ですか?それなら、そのうちのどの意味になるでしょうか。 すごく批判的な文章になってしまってすみません。 ちなみにチェコは良く知りません^^

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ★ 私や他者が理解するには、「1」の説明には、他に補足や、限定条件が必要なんです。  ☆ ですから 趣旨説明の(1)~(4)に加えて つぎの( a )( b )をおぎないましたよ。  ☆☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ふたつ おぎないつつ仮説を補強します。  ( a ) 善悪の判断は 飽くまで 一人ひとりの主観に基礎をおきます。  ( b ) 善悪から自由な場合がある。たとえば 食べるのに箸でかフォークでか手でかは 一般に――という意味は 手であっても 衛生上まずくなければ―― 善悪の判断から離れています。自由に選択するでしょうし それぞれは等価です。  くるまが右側を走るか左かは 善悪の判断とは別であるようです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって これらの条件と基準にもとづき つぎの三つをつねに区分することができると思います。    I ウソでない心に従うものごと:善    II ウソだと知っているものごと:悪    III ウソとは別段かかわらないこと:善でも悪でもない  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私はその後に、2つの相反する社会道徳から自分の道徳を形成する道徳と言いました。  社会道徳そのものとは言ってません。  つまり自ら、選択し、考え至った感情です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ たしかにわたしは 《自分の》とあっても《道徳》というほうに変に反応してしまったようです。ただ それでもやはり《道徳》と言えば 《考え至った〈感情〉》と言えるのかどうか あやふやだったのだと思います。言えるのでしたら まったくわたしは間違えました。申し訳ありません。  でも未練を残して言えば 《個人の道徳》と言うと紛らわしいので どちらかと言えば《信条》とか《信念》とかと言うといいのではないかとは思うのですが どうでしょう?  ★ 心  ▲ (広辞苑:心) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (禽獣などの臓腑のすがたを見て コル(凝る)またはココルといったのが語源か。転じて 人間の内臓の通称となり 更に精神の意味に進んだ)  1. 人間の精神作用のもとになるもの。また その作用。   (1) 知識・感情・意志の総体。《からだ》に対する。   (2) 思慮。おもわく。   (3) 気持。心持。   (4) 思いやり。なさけ。   (5) 情趣を解する感性。   (6) 望み。こころざし。   (7) 特別な考え。裏切り あるいは晴れない心持。  2. (比喩的に用いる)   (1) おもむき。風情。   (2) 事情。   (3) 趣向。くふう。   (4) 意味。   (5) わけ。    ・・・(以下省略)     (1991.第四版)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 1.の(1)が 基本になると考えます。知解能力および意志行為における判断力が中心となるという意味ですが そう言うときにも実際には 感性ですとか 気持ち・なさけ・思いやり・望みなどが 大いに共にはたらいていると考えます。感性のほうが先だとも 実際には言っていますし。  批判をもらったのは 次でしょうね。  ★ 人をころす・ぬすむ・むさぼるにやましさを覚える人間は、それが悪いことであると認識している人間だと思います。 / 悪いことと認識していなければ、やましさを覚えませんので、共通で普遍ではないと思います。  ☆  微妙にちがうのは 《悪いことと認識する→やましさを覚える》という順序です。つまりわたしの定義では 逆なのです。  でも そのやましさをも覚えない場合があるのではないか? こういう物言いが成り立つようです。思うにこれは はじめは覚えたということではないでしょうか? あとで慣れっこになって行った。その感性が鈍ってしまったのだと。どうでしょう?  全体の風景が少し見えてきたように思うのですが どうでしょう?  * 《ひとの物をぬすむ・ひとをころす》というそのすでに動作に入ろうとするとき 人は心に何らかの胸騒ぎなり乱れなりをおぼえるのではないでしょうか? その気持ちのあり方によって 善とそうでない悪とに分けようという魂胆なのです。きわめて主観的な局面を捉えて しかもその主観の判断は およそ人であれば共通の要素を持つ結果になるのではないか。こうも考えております。

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回答No.11

#3です。 >( a ) 善悪の判断は 飽くまで 一人ひとりの主観に基礎をおきます。 A一人一人の主観であるということは、ランダムに選んだ、たった一人の人間が持つ意思なのか →それならば善悪の判断はその選んだ人間によって変わってしまうでしょう B一人一人の主観であるということは、質問者さまの持つ意思なのか →それならば善悪の判断は質問者様の意思のみであり、質問の意図するところとは違うでしょう C一人一人の主観であるということは、ランダムに選んだとしても問題がない、誰もが持つ人類全てに共通する普遍的なものなのか Cということでよろしいでしょうか。 >ですから たしかに展開してもらったように 世の中さまざまであり まちまちの善悪にかんする価値観を持つであろうけれどおおよそ(1)から(4)までと上の( a )( b )の条件をまとめたかたちで基準とするなら 案外人びとに共通で普遍的な区分ができるのではないかと思っております。どうでしょう? ちょっと分かりにくいのは、この部分ですね。 >1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。 「悪という現象は、嘘に発します」として考えました。 心のへそ曲がりというのは、「心に嘘をつく」という意味で良いでしょうか。 だとすれば「悪という現象は、心に嘘をつくこと」との意味になりますね。 ここが一つの問題ですね。 「りんごが好き」という自分の心に嘘をつき「りんごが好きと思わないようにする」のは悪でしょうか。 或いは「りんごは赤である」に嘘をつき「りんごは黒だ」とか。 「腹減った」に嘘をつき「腹いっぱい」とか。 ちょっと分かりにくいですよね。 それなら「心」より「道徳」にした方が辻褄が合う気がします。 道徳に反することをすれば、悪いことをしたと思うでしょう。 戦争では「殺してはないけない」という社会道徳と、「殺さなければいけない」という社会道徳をもとに自分の道徳を形成すると思いますが、殺しても殺さなくても、どっちにしても罪悪感を持つことはありえますよね。 ただ、こういった言葉の入れ替えは、突き詰めれば「善の反対は悪である」「悪いことは悪いことである」になってしまいますけどね。 >もうそこまで落ち込んでしまっては立ち直れないだろうという究極の悪とは何か 万人に普遍的な悪でなければならないでしょうが、その共通の悪ですら、見つけることが難しい状況です。 意識、存在の消滅である「自らの死」すら、万人の悪ではないのですから、具体化するのは困難ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 karelcapek さん――あっ ちなみに チェコにお詳しいのですか?―― ご回答をありがとうございます。  そうですね。karelcapek さんは 結論をきちんとまとめておくという習慣をお持ちですかね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  C 一人一人の主観であるということは、ランダムに選んだとしても問題がない、誰もが持つ人類全てに共通する普遍的なものなのか  Cということでよろしいでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように落ち着くのだと思うのですが この場合は むしろ出発点のほうが大事なような気がします。  ☆☆ (趣旨説明) 2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。   ☆ 従って 飽くまで《わたし》が《心でウソでないと思うこと》と《心でウソだと思うこと》の二つがあり――右側通行か左側かの選択のように どちらもウソだともウソでないとも思わない場合を除けば―― この二つのいづれかにつねに区分されます。誰が知っている知らないと言って 《わたし》が知っているからです。  そうしてたとえば《人をころす・ぬすむ・むさぼる》ことは およそ誰にでも《やましさを覚える》ことであり それらが善の損傷であり悪だということは じんるいに共通で普遍的だという結論が得られます。そういう成り立ちだと思います。  ★ 「りんごが好き」という自分の心に嘘をつき「りんごが好きと思わないようにする」のは悪でしょうか。  ☆ これはどうでしょう? たぶんリンゴか柿かの選択は 善悪にかかわらないと思います。ですから《好きだという事実を曲げたとしても それはただ 何か実験でもやっている》と採ればどうでしょう? 後ろめたさを感じることはないと思うのです。  ★ 或いは「りんごは赤である」に嘘をつき「りんごは黒だ」とか。  ☆ これはどうでしょう? このウソは やばいですかね? やばくても敢えてそうする場合もあるのでしょうが ウソであり心を曲げているという意味で 悪だと思います。  ★ 「腹減った」に嘘をつき「腹いっぱい」とか。  ☆ これはたぶん情況によって 偽りになるかどうかが決まるのではないでしょうか? ならない場合もあるでしょうね。でも相手には失礼だから その分ではウソであり悪でしょうか?  ★ それなら「心」より「道徳」にした方が辻褄が合う気がします。 / 道徳に反することをすれば、悪いことをしたと思うでしょう。  ☆ じつはこの考え方は わたしは 大嫌いです。  【Q:道徳規範は 愚の骨頂】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4607794.html  倫理規範は およそ精選された思惟を基礎として成っており 間違いだというものではないでしょうが 問題は その規範としてすでに持たれている文句に あたかも思考停止において 従うようになること ここにあるのではないでしょうか?  ですから もしそうだとすれば やはり《いま・ここにいるひとりの人間としての〈わたし〉》の思惟として ウソでないかウソか この基準においてしっかりと判断することが大切だと思うのです。またそれでこそ 道徳と呼ばれる思想内容も実際に生かされるというものだと思うのです。  もしそうだとすれば   ★ 道徳に反することをすれば、悪いことをしたと思うでしょう。  ☆ という安直な思惟や判断および意志行為の手引きは 人間の生きた生活にとってだらしのない行動様式であると考えます。  結果として合っている・間違っていないという場合はあるし 多くの場合そうなのでしょうが それは 安直です。思考停止でいいぢゃないかという人びとの論理です。  こころは どこへ行ってしまっているのでしょう? 休めているのではなくて 捨ててしまっているということではないでしょうか?  だとしたら この《わたし》たちのこころは   ★ 戦争では「殺してはないけない」という社会道徳と、「殺さなければいけない」という社会道徳をもとに自分の道徳を形成すると思いますが、殺しても殺さなくても、どっちにしても罪悪感を持つことはありえますよね。  ☆ という情況に接してその主題について じゅうぶん考えを煮詰めていくことが出来るでしょう。また 人びとの知恵を寄せ集めるという手もあります。じゅうぶん納得のいくように わたしたちは考えを繰り広げまた深めていけるのではないでしょうか? 一歩一歩すすめていけるのではないでしょうか? こころは捨てたものではないと思うからです。  どうでしょう? すでに考えたことのある範囲でしたので えらそうに語ってしまっています。あしからずお受けとめください。また 批判を自由に寄せてください。  究極の悪は 追って考えます。 

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回答No.10

基本的に、「自分(意識)の外に独立した世界(存在)がある」 という日常的感覚(素朴唯物論)をベースにして考えるところに、 絶対化・普遍化の困難があります。 そうした「存在的有限性」が本質的なものではなく、人間の不完全 な認識による(量子的な相補的不確定性を本質的に確定しない) 階層現象の表面的な定性化によって派生しているのです。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に 無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 言い換えれば、全てのものは、あなたが存在するための (物理的根源にまで遡った)補完なのです。 無(=不確定性無限)の潜在としての自我仮説に対して、補完的に 時空仮説が生じる場合、それはある意味では任意です。 ただしその「任意」は、階層現象的表面的な自覚にとっての (自己中心的な)自由ではなく、自己存在の本質的な必要と してのものですが(認識が成立するための必要)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 psytex さん ご回答をありがとうございます。  ですが ここまで理論として突き抜けておられるのでしたら もうついて行けません。これは 神秘思想です。神秘主義に足を踏み入れています。  しかもいわゆる神学でもないと思われます。  その難点を以下にあげつらいます。  1.★ 「自分(意識)の外に独立した世界(存在)がある」 / という日常的感覚(素朴唯物論)  ☆ 誰もこんな考え方をする者はいないはずです。たとえそう言ったとしても そのことは無理です。《独立》という表現は適切ではありません。経験世界はすべて相対的で有限で相互作用しあう場です。《独立》もへちまもありません。  ですからこの素朴唯物論を批判の対象にすること自体が 無意味だと申せましょう。    2. でも そのように言う場合にも  ★ 「存在的有限性」  ☆ は言っていますし 保たれていますよ。はじめに相対世界だと言っているのですから。  ★ 人間の不完全な認識  ☆ これは当たり前のことです。つねにそうです。例外はありません。  ★ 階層現象の表面的な定性化  ☆ これも当たり前のことです。相対世界にはつねに差異は起こります。しかもつねに《表面的》なことです。  3. ★ 認識性を除外した存在  ☆ これは 両義的・多義的な表現です。これまでの説明から行けば 《先験的・超越論的なヒトの自然本性》にかんするほんのわづかな《認識》 これを《除外した存在》ということになると考えますが それはいったい何? と問い返さなければならない表現です。自然本性としての能力がまだ顕在化していない状態にある存在つまりヒトのことかと推しはかりますが どうなんでしょう?  ★ 〔この認識性を除外した存在〕は、無=無限不確定性になります。  ☆ ううーん。これはまだ知性や判断力が潜在しているというほどのことではないですか? わざわざ《無=無限不確定性になります》とまで言わなくてもよいように思うのですが? つまり糸の切れた凧のごとくたとえなくてもよいと思うのですが?  (ただし 最後のほうで同じ《無(=不確定性無限)の潜在としての自我仮説》とあるので そうすると 《わがまま》のことを言っていっるのでしょうか?)  4. でもその宇宙をさまよう凧からこそ 大いなる認識が芽生えるというのでしょうか?  ★ その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に / 無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、 / 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。  ☆ ううーん どうなんでしょう?  ★ 仮定断面 その運動 これを想定する  ☆ ここがうまく行けば ミソになるのでしょうが どうでしょうかねぇ。  いっそのこと この仮定と想定をすべて止めて 能力のいまだに開花しない前の・何もしない能天気をそのまま推し進めるとすれば どうでしょう? そのほうが知性や意志自由の芽生えは 現実的であるように感じますねぇ。(たぶん 言葉という環境の中にいることは必要でしょうが)。  ★ 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです  ☆ 表現に違和感をどこか感じますねぇ。《わたし》も《宇宙》も すでに光や光の奥のなぞをあたかもながめつつ それぞれが時空間の主体およびその時空間として 動態である。と さとる。といったところでしょうか。さとりが問題なのではなく そこでの――動態の場および過程としての――共生ないしおのおのの《仕事と生活》が 大事でしょうね。  その意味で《認識》から一歩先へと踏み出すところまでを――神秘思想にとどまらずに――言い出して欲しい。  5. ですから  ★ 言い換えれば、全てのものは、あなたが存在するための / (物理的根源にまで遡った)補完なのです。  ☆ 《補完》ないし《相互作用にかんする認識の作業》はもういいのです。すでに舞台はととのったのであり それだけではなく その舞台の上にすでにわたしはいるのです。  ★ 無(=不確定性無限)の潜在としての自我仮説  ☆ はもうすでに通り過ぎて来ているのです。要らんものである。    どうでしょう?

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     少し違った角度から 問い求めます。  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義あるいはつまりそれらの互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉鎖する行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始するという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話に対する鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?

  • 神とは「悪」なのか?

    私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。

  • 道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

     ○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう?  ☆ という問いです。    趣旨説明です。  《心が傷つく》ということは 次のようだと考えます。それによると 気持ちを明確に表に出したほうが よいと 一般的に言って 思うのですが いかがでしょう?  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。  * 《悪は 存在しない》――すなわち 内面において おのれの自由意志が へそを曲げることによって 心のゆがみとして 悪は起きるが ならば 悪は 少なくとも 外面には 存在していない――ゆえ。   cf.《Q: 悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html  2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。  3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合がある。それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるというに過ぎない。  4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになる。  5. 存在は 独立存在であると同時に 社会的な関係性よりも成り立っているからである。  こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう?  * この《なぜ》のほうは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html において みなさんから  ご回答をいただき――ありがとうございました―― かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。  * そのつてでは 《〈羞恥心〉現象》――この内容については 上の質問のNo.24&26を参照されたし――が はにかみ屋のおとなしさから 明るい開いたおとなしさへと 世界の窓を開け道を拓いたという見方が出ています。続編としての質問ですから そのあたりについても どうぞ 自由なご見解をご教授ください。