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悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。

hamaki1978の回答

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回答No.13

こんばんは。 興味深いトピで見入ってしまいました。 悪は存在しない。 私もそう思いますね。 そもそも何をして悪と呼ぶのか? 人道的な事に反していない限り(※人殺し:盗み)それは悪ではない。 元々悪とは、自分で作るものではなく相手がそう受け取るものであるのだから。 例えば価値観が合わない:自分と違う:噛み合わない=何だか嫌=悪として自分の中から排除してやれという思想が生まれたりもします。 嫌い=悪 でも無いんですがね(笑) 反対に正しさとは何かといえば、結局これもまた誰かに決められたりするものでもないんですよ。 だって今ある自分の正しさは「生きてきた結果」としての価値基準としてあらわれているわけで。 そうすると、時々その人の正しさについて言及したりああだこうだ言おうとする人もいるけれど、それはその人本人の「生」を否定することになる。 だから誰も間違ってはない(悪ではない) 正義も悪も紙一重ですから、結論トピ主様が行きつかれた答えにたどりつくんじゃないのかなと。 きっと性善説性悪説では無しに、物理的な根拠も、哲学的なウンチャラを語らなくたって 当たり前のことだと思います。 人により、 人により、 何が正しくて何が悪なのかなんてわかりませんのですから。 人に人は裁けない。 万能な人もいない。 だからこそ悪だの正義だの言う前に、 まずは「相手を受け入れる」こと。 それが「悪」という存在を潰す唯一の特効薬だと思います。 青二才が失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 おおっ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人に人は裁けない。  万能な人もいない。  だからこそ悪だの正義だの言う前に、  まずは「相手を受け入れる」こと。  それが「悪」という存在を潰す唯一の特効薬だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一歩すすめてもらいましたね。  hamaki1978 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  きっと性善説性悪説では無しに、物理的な根拠も、哲学的なウンチャラを語らなくたって  当たり前のことだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここも いいですね。ひとの《自然本性》なんだから ああたらこうたら講釈をつける前にすでに わたしたちは自由に生きている。  ★ だから誰も間違ってはない(悪ではない)  ☆ ここから出発するのでなくっちゃ。ね。そのあとでなら ただし  ★ その人の正しさについて言及したりああだこうだ言おうとする  ☆ のではなく その人の具体的な考えについて 反対意見を持つなら 大いにこれも自由に批判をもしつつ話し合っていけばよい。相手を受け容れたゆえに 考えの妥当性を互いに問い求め 自由な批判を大いにおこなっていく。ならば互いにさらにいい考えにたどり着けるでしょう。人びとの知恵というのも捨てたものではないでしょう。偉い人だから 正しいとも限らないですし。・・・  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  例えば価値観が合わない:自分と違う:噛み合わない=何だか嫌=悪として自分の中から排除してやれという思想が生まれたりもします。  嫌い=悪 でも無いんですがね(笑)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここんところを 互いにそして広く一般にも 考え合い考えなおして行くとよいでしょうね。  批判しあって 議論がかみ合うと けっこう互いに楽しいものですよ。そこから和を以って貴しと為すが生きてくるのではないですか?  ありがとうございました。これからも自由なご批判をお待ちしております。

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