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悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。

yuichi7の回答

  • yuichi7
  • ベストアンサー率18% (52/286)
回答No.18

これって単純に宗教観の話ですよね? 人間から宗教観を除いたら、世の中に悪はいなくなるって話。 人間以外の動物に純粋な悪はいませんから。殺しても単なる食物連鎖の一言ですんでしまいます。 ちなみに、悪の対義語が善なら、善は悪あってこそ存在の価値を見出せる。善は悪がいないとただの中立であり、悪を食って初めて存在意義を出す。この場合の悪は人間とは限らず、人間が定義した悪だけが悪とみなされる。 よって、この世の人間は全て悪であるともいえるし、善であるともいえる。二つが同時に存在できるのは「宗教観」あってこそである。 究極の悪とは、悪を憎む善の心であると考える。 くだけて言うと、100人しかいない村で99人に嫌われている人がいるとする。それだけで、その1人はどんな善人であろうと「究極の悪」である。 現代社会の法を使えば村人達が「あいつは気にいらない」とすれば、99人が結託して濡れ衣を着せて村から追放する事が可能である。 アメリカで、2人の少年が児童虐殺を起こしたという事件があった。当初二人はドクロをあしらった悪趣味な嗜好品や派手な音楽を好んでいたことから、悪魔崇拝をしていたとし、スピード解決ともいえる早さで実刑が下った。 だが最近になって、この事件が見直されている。雑誌の取材などで警察の証拠はでっちあげと判明。被害者の親の奇行なども発覚して、小さな町で町人と警察が起こした大規模な冤罪事件として物議をかもしている。 その町は敬けんなキリスト教信者が多く、そんな町で少年達はハードロック、ヘビメタを好んでいた。そんな町では音楽もドクロのアクセサリーでさえも受け入れられなかった。二人は町にとって邪魔だったという説が高まってきたのだ。 しかし、警察も町人も全て完璧に証拠隠滅をしていて、外部からの取材にも非協力。元少年達の再審をするすべはない。 こんな事件が現実にあったのだ。 キリスト教を崇拝する善なる者達が、自分達のみなす悪を追放するべく、罪のない子供を殺して少年2人に罪を着せた「かも」しれないという事件。 ちなみに、皮肉なことに少年の名前が「ジェイソン」と「フレディ」だったことも当時、世論はゴシップ的にたたき上げ、この事件を冤罪と疑う者はいなかったという。 宗教上で究極の悪神は「アンラ・マンユ」という説が有力です。 人間だった頃のエピソードが面白いのですが、アンラ・マンユに関するネット文献は意外に少なかったので、興味があるなら図書館などで調べてください。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%A6
bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ★ これって単純に宗教観の話ですよね? / 人間から宗教観を除いたら、世の中に悪はいなくなるって話。  ☆ ではないです。ですが 《宗教観》のところをたとえば《ひとの自由意志》に置きかえれば或る程度 話が成り立つかに思われます。  というのは 《自由意志》を言うのは 少なからずクリスチアニズムにかかわるでしょうから。  もう一つ 《というのは》をつなげますが なぜ焦点が違っているかと言えば 趣旨説明においてたとえば   ☆☆ 1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ☆ というふうに述べて 《宗教観》や宗教の教義とは明らかに距離を置いているからです。  ですから  ★ 宗教上で究極の悪神は「アンラ・マンユ」という説が有力です。  ☆ この情報は いまわたしが考える限りでは 関係ないですね。この善悪二元論を yuichi7 さんが 質問の趣旨を批判する要素として掲げておられるのでない限り 関係ないです。  でも その気がなきにしもあらずのようですね。  ★ よって、この世の人間は全て悪であるともいえるし、善であるともいえる。二つが同時に存在できるのは「宗教観」あってこそである。  ☆ 善も悪もそれぞれが根元として互いに並び立つというのであれば――つまり互いにどちらが力なり価値なりにおいて強いか上かが定まらないのであれば―― ものごとの一方を善と呼び他方を悪と呼ぶことなど 何の意味もありませんから。その心は つねにどちらをも善とも悪とも呼び得るということです。どちらで呼んでも まったく違いはないということになるからです。  ★ 人間から宗教観を除いたら、世の中に悪はいなくなるって話。  ☆ そのときには――つまり ザラトゥーシュトラの宗教は その宗教観を除かなくても 悪も善も共にいなくなるって話になるでしょう。つまり悪も善も共にいても どっちがどっちでも一向に構わないって話になるでしょう。  ★ アメリカで、2人の少年が児童虐殺を起こしたという事件があった。うんぬん。  ☆ この《冤罪》の問題は 宗教もからんでいるでしょうし しかもどの民族のどの宗教がからんでいても 同じような《第三項の排除》現象は 起こることでしょう。  ★ 悪の対義語が善なら、うんぬん  ☆ げんみつには 《対義語》ではないでしょう。《悪は善に従属し その善の損傷のことを悪と呼び この善の損傷よりほかのかたちでは悪はない》 こういう定義を示していますから。また そういう定義なのですから それと絡ませて批評・批判を展開してくださると よいでしょうしありがたいと考えますが いかがでしょう?  ですから  ★ 究極の悪とは、悪を憎む善の心であると考える。  ☆ などの《究極の悪》の定義も 《善悪が互いに対義語である》というところから出発したものであると思われますので なかなか捉え難いようにまづは思われます。

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