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悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。

entahu2の回答

  • entahu2
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回答No.14

直接 本文に入ります。 4.の》自然本性と言うべき心としての善《という事の内容如何によって 回答は違ったものとなってしまうと思います。 猿から人間への進化の過程がどのようだったのかについての推理論議は端折りますが、 物事や生活を見つめる脳が宿って人間となったということは、 それ自体がその時 人は本能仲間としてではない存在としての他の人をそこに見たのであり、友としての他の生物をそこに見、 友という言葉を知らない以前から、そばに友がいることを喜ぶ感情は持てたことを意味すると思っています。 物事を見つめることができる脳が見た物事は 比較の対象とその検討吟味を加える脳自体をも含んだものと思うのですが、 がゆえに 精神まで含んだ言葉という記号化が 後の人間の時間に起こることとなったわけですが、 その、言葉以前にも、 人間は 森の中にて、この奇跡の水の星、その大地のあまりにものさまざまな光、 風のそよぎ   青い空、夕焼け雲の流れ、そして一番星、満天の星空を見て、 目と目(心と心)を通わしあうような 感性をも、 本能の制約から逃れたユトリの心とともに、  見つけたのだと思っています。 特に平和のうちにはです。(詳しくは略します) その頃には、人間の本性があったという意味で言われるのが、自然本性ということであるのなら、  こういったことが まず言えるかと思います。 その頃の森の人たちの心には、『何かうれしいことがあったら伝えずには入られない友感』と、 『何か苦しいことがあれば、体をさすっていたわざるを得ない相身互いの友感』の二つの『友意識』は、明確にあったと思います。 深い 大自然(あるいはこの星、この大地)への感動を忘れる時には、その地にても、それなりの友感の薄れはあったと思います。 苦しいことは、みんなに撒き散らしてやろう。とか、 うれしいことは独り占めしてやろうとか、 いわゆる自我の殻の内側に閉じこもった そういう主観内面の世界がそこにすでに生まれてきたかもしれません。 病気が そういう希薄さをそこに生み出したりもしたかもしれません。 であっても、そういう森の社会の中では すぐに その人間本性は、自然に取り戻せたと思います。 bragelonneさんは、そんなふうな状態を 》自然本性《と呼ばれているのでしょうか? もし、そうならば、 確かに 文明が文明を保持しつつ そのもともと神 あるいは存在から与えられた自然の中の私たちの精神状態《自然本性》を快復出来さへすれば、 そこから文明が作り出した罪や悪の存在は その因果の完全に近い因果の理解のもと、神ならずともすべて赦せるでしょうし、  意味をなさなくなるかと思いますが、 それ以前には、 道徳も 私たちが苦しみから逃れるためには必須となってしまうと私は単純に思っています。 その快復こそが重要なのですが そこに登場するのがセックス革命、 “性の喜び、楽しみの世界”と“生殖”との完全切り離しのための革命です。 その革命を可能にするのが、私は東洋医学の発見した気脈の世界にあると考え、それを実践化しようと考えているのですが、 その気脈の世界とは なんと科学的には》電磁波《とかかわりがありそうなのです。   科学的な面は苦手で、これからその面もなんとか学習してゆきたいとは思っていますが、 まずは 私にとっては実践が先となってしまいます。 そちらで問題とされた電磁波のスレが スサノオの眼差しを求めてのことであれば、もしかしたらその気脈の世界こそその眼差しなのかもしれませんね。 でも その論議よりも私には その実践の方が先となってしまうということです。 そこにその実践方法があるかぎりです。 神にとって 原罪などあるはずがなかった。 キリストは原罪について何か言っているのですか? あとからかってに学者が考えただけでしょ。    が、今こそ、私たちも少しは神に近づいてもいい時でしょう。   罪は無い。 悪は幻想から生まれる。 そこにあるのはあってはならない不幸だけ。 苦しみや悲しみの生産状態だけ。  それをもう克服してもいいじゃないですか。 と思います。

bragelonne
質問者

お礼

 自然本性の理解について互いに共通の内容を確めあう必要がまだまだあるようですが いちばんの問題〔だとわたしに思われたところ〕は 次の部分です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それ〔* 自然本性の損傷とその回復の〕以前には、 道徳も 私たちが苦しみから逃れるためには必須となってしまうと私は単純に思っています。  その快復こそが重要なのですが そこに登場するのがセックス革命、 “性の喜び、楽しみの世界”と“生殖”との完全切り離しのための革命です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり《道徳》と《セックス革命》 このふたつの事柄が 善および悪の捉え方とどのようにかかわっているのか これがまるで分かりません。  分かりませんというよりは このような述べ方では 分からせようとしているとはとうてい思えないという物言いです。  もっときちんと言えば 質問に回答を寄せるつもりがあるのか そのことに疑いが生じているというのが ほんとうのところです。  ★ 悪は幻想から生まれる。  ☆ だから 悪は存在すると言うのか それとも 質問趣旨のごとく 善に従属していて初めて現われると言いたいのか 何ら答えようとする気配がない。こう断じざるを得ません。  ありがとうございました。

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