• ベストアンサー

悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。

karelcapekの回答

回答No.11

#3です。 >( a ) 善悪の判断は 飽くまで 一人ひとりの主観に基礎をおきます。 A一人一人の主観であるということは、ランダムに選んだ、たった一人の人間が持つ意思なのか →それならば善悪の判断はその選んだ人間によって変わってしまうでしょう B一人一人の主観であるということは、質問者さまの持つ意思なのか →それならば善悪の判断は質問者様の意思のみであり、質問の意図するところとは違うでしょう C一人一人の主観であるということは、ランダムに選んだとしても問題がない、誰もが持つ人類全てに共通する普遍的なものなのか Cということでよろしいでしょうか。 >ですから たしかに展開してもらったように 世の中さまざまであり まちまちの善悪にかんする価値観を持つであろうけれどおおよそ(1)から(4)までと上の( a )( b )の条件をまとめたかたちで基準とするなら 案外人びとに共通で普遍的な区分ができるのではないかと思っております。どうでしょう? ちょっと分かりにくいのは、この部分ですね。 >1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。 「悪という現象は、嘘に発します」として考えました。 心のへそ曲がりというのは、「心に嘘をつく」という意味で良いでしょうか。 だとすれば「悪という現象は、心に嘘をつくこと」との意味になりますね。 ここが一つの問題ですね。 「りんごが好き」という自分の心に嘘をつき「りんごが好きと思わないようにする」のは悪でしょうか。 或いは「りんごは赤である」に嘘をつき「りんごは黒だ」とか。 「腹減った」に嘘をつき「腹いっぱい」とか。 ちょっと分かりにくいですよね。 それなら「心」より「道徳」にした方が辻褄が合う気がします。 道徳に反することをすれば、悪いことをしたと思うでしょう。 戦争では「殺してはないけない」という社会道徳と、「殺さなければいけない」という社会道徳をもとに自分の道徳を形成すると思いますが、殺しても殺さなくても、どっちにしても罪悪感を持つことはありえますよね。 ただ、こういった言葉の入れ替えは、突き詰めれば「善の反対は悪である」「悪いことは悪いことである」になってしまいますけどね。 >もうそこまで落ち込んでしまっては立ち直れないだろうという究極の悪とは何か 万人に普遍的な悪でなければならないでしょうが、その共通の悪ですら、見つけることが難しい状況です。 意識、存在の消滅である「自らの死」すら、万人の悪ではないのですから、具体化するのは困難ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 karelcapek さん――あっ ちなみに チェコにお詳しいのですか?―― ご回答をありがとうございます。  そうですね。karelcapek さんは 結論をきちんとまとめておくという習慣をお持ちですかね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  C 一人一人の主観であるということは、ランダムに選んだとしても問題がない、誰もが持つ人類全てに共通する普遍的なものなのか  Cということでよろしいでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように落ち着くのだと思うのですが この場合は むしろ出発点のほうが大事なような気がします。  ☆☆ (趣旨説明) 2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。   ☆ 従って 飽くまで《わたし》が《心でウソでないと思うこと》と《心でウソだと思うこと》の二つがあり――右側通行か左側かの選択のように どちらもウソだともウソでないとも思わない場合を除けば―― この二つのいづれかにつねに区分されます。誰が知っている知らないと言って 《わたし》が知っているからです。  そうしてたとえば《人をころす・ぬすむ・むさぼる》ことは およそ誰にでも《やましさを覚える》ことであり それらが善の損傷であり悪だということは じんるいに共通で普遍的だという結論が得られます。そういう成り立ちだと思います。  ★ 「りんごが好き」という自分の心に嘘をつき「りんごが好きと思わないようにする」のは悪でしょうか。  ☆ これはどうでしょう? たぶんリンゴか柿かの選択は 善悪にかかわらないと思います。ですから《好きだという事実を曲げたとしても それはただ 何か実験でもやっている》と採ればどうでしょう? 後ろめたさを感じることはないと思うのです。  ★ 或いは「りんごは赤である」に嘘をつき「りんごは黒だ」とか。  ☆ これはどうでしょう? このウソは やばいですかね? やばくても敢えてそうする場合もあるのでしょうが ウソであり心を曲げているという意味で 悪だと思います。  ★ 「腹減った」に嘘をつき「腹いっぱい」とか。  ☆ これはたぶん情況によって 偽りになるかどうかが決まるのではないでしょうか? ならない場合もあるでしょうね。でも相手には失礼だから その分ではウソであり悪でしょうか?  ★ それなら「心」より「道徳」にした方が辻褄が合う気がします。 / 道徳に反することをすれば、悪いことをしたと思うでしょう。  ☆ じつはこの考え方は わたしは 大嫌いです。  【Q:道徳規範は 愚の骨頂】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4607794.html  倫理規範は およそ精選された思惟を基礎として成っており 間違いだというものではないでしょうが 問題は その規範としてすでに持たれている文句に あたかも思考停止において 従うようになること ここにあるのではないでしょうか?  ですから もしそうだとすれば やはり《いま・ここにいるひとりの人間としての〈わたし〉》の思惟として ウソでないかウソか この基準においてしっかりと判断することが大切だと思うのです。またそれでこそ 道徳と呼ばれる思想内容も実際に生かされるというものだと思うのです。  もしそうだとすれば   ★ 道徳に反することをすれば、悪いことをしたと思うでしょう。  ☆ という安直な思惟や判断および意志行為の手引きは 人間の生きた生活にとってだらしのない行動様式であると考えます。  結果として合っている・間違っていないという場合はあるし 多くの場合そうなのでしょうが それは 安直です。思考停止でいいぢゃないかという人びとの論理です。  こころは どこへ行ってしまっているのでしょう? 休めているのではなくて 捨ててしまっているということではないでしょうか?  だとしたら この《わたし》たちのこころは   ★ 戦争では「殺してはないけない」という社会道徳と、「殺さなければいけない」という社会道徳をもとに自分の道徳を形成すると思いますが、殺しても殺さなくても、どっちにしても罪悪感を持つことはありえますよね。  ☆ という情況に接してその主題について じゅうぶん考えを煮詰めていくことが出来るでしょう。また 人びとの知恵を寄せ集めるという手もあります。じゅうぶん納得のいくように わたしたちは考えを繰り広げまた深めていけるのではないでしょうか? 一歩一歩すすめていけるのではないでしょうか? こころは捨てたものではないと思うからです。  どうでしょう? すでに考えたことのある範囲でしたので えらそうに語ってしまっています。あしからずお受けとめください。また 批判を自由に寄せてください。  究極の悪は 追って考えます。 

関連するQ&A

  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 悪は 存在しない

     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 悪は 善のへそ曲がり・善の損傷行為である。

     悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。  だから 悪は ない。存在しない。  善が傷ついたことを 悪と呼ぶに過ぎない。  またその傷つける行為のことである。  善とは ふつうに日常生活をじみちに生きることである。  これを問います。

  • おなじみ:悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     少し違った角度から 問い求めます。  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義あるいはつまりそれらの互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉鎖する行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始するという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話に対する鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?

  • 神とは「悪」なのか?

    私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。

  • 道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

     ○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう?  ☆ という問いです。    趣旨説明です。  《心が傷つく》ということは 次のようだと考えます。それによると 気持ちを明確に表に出したほうが よいと 一般的に言って 思うのですが いかがでしょう?  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。  * 《悪は 存在しない》――すなわち 内面において おのれの自由意志が へそを曲げることによって 心のゆがみとして 悪は起きるが ならば 悪は 少なくとも 外面には 存在していない――ゆえ。   cf.《Q: 悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html  2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。  3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合がある。それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるというに過ぎない。  4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになる。  5. 存在は 独立存在であると同時に 社会的な関係性よりも成り立っているからである。  こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう?  * この《なぜ》のほうは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html において みなさんから  ご回答をいただき――ありがとうございました―― かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。  * そのつてでは 《〈羞恥心〉現象》――この内容については 上の質問のNo.24&26を参照されたし――が はにかみ屋のおとなしさから 明るい開いたおとなしさへと 世界の窓を開け道を拓いたという見方が出ています。続編としての質問ですから そのあたりについても どうぞ 自由なご見解をご教授ください。