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ひとは やわらがしめられうるか?

noname#117439の回答

noname#117439
noname#117439
回答No.17

オコリザルです。 さらに考えが及びました。 私は平均的な日本人であって仏弟子とでも言うような積極的な帰依はありませんが、哲学的に取り扱うのが難問だった「赦し」に説いて信仰を引き合いに出すことで、その面では説明が出来ました。 信仰を表ざたにして扱うのが難しいと言う問題点なり現象を「赦し」になぞらえて、主観内で収まる個人的な心情であるとする解釈から発展させることはできますか? 今日の回答ではスムーズに「我は無し」を信奉する軟弱ものを虐待する非思考を表ざたにできました。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  哲学が 個人の感情を――それは あくまで個人の主観内におさまると見るという前提を立てて―― すべて起こるがままに任せた。このことは もし言ってみれば ひとが和らぎを得る道には 妨げがあってはならないということではないかと考えます。  妨げという言い方をしましたが つまりは 赦せないという感情を抑えないという意味です。だれもこれを止(と)めないという意味です。  これは ならわしの領域での出来事だと考えます。  信仰は ふだんの生活でその歩みとして一歩奥にひっこんだこころのあり方だと思います。仕事と余暇のほうにかかわりきってもいいほどではないでしょうか?  なぐさめや同情には むしろかかわらない。ならわしに任せる。という考え方です。

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